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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第六話:旅立ち/第五幕:新たな街

 森を抜けた先で、シグは思わず馬上から身を乗り出した。


 丘陵の向こうを、灰色の城壁が横切っている。壁上には一定の間隔で塔が立ち、街道へ面した門には武装した衛兵の姿があった。その内側から幾筋もの煙が昇り、建物の屋根が幾重にも重なっている。


「あれがサヴァール?」


「ええ」


 数日の旅で傷はかなり癒えていた。それでも長く馬に揺られていると、脇腹と背中に鈍い痛みが戻ってくる。


 街へ近づくにつれ、人の数が増えた。


 荷車を連ねた商人とすれ違い、後ろから十人ほどの武装集団が追い越していく。装備は揃っていない。槍を担いだ男、傷だらけの鎧を着た女、身の丈ほどの斧を背負ったドワーフ。その後ろには、長い耳を持つ女が弓を携えて歩いている。


「騎士じゃないよな」


「傭兵でしょうね。サヴァールは『傭兵と要塞の都』とも呼ばれているから」


 門前にはさらに多くの武装した者がいた。衛兵は荷車の積荷には目を光らせているものの、腰に剣を下げている程度では気にも留めない。


 門をくぐった途端、いくつもの臭いが鼻を突いた。


 肉を焼く脂。酒。馬糞。革をなめす薬品。それらに、どこか鉄臭いものまで混じっている。


 通りでは店主の呼び声と荷車の音がぶつかり合い、軒先で傭兵らしい男たちが昼間から酒を飲んでいた。路地の入口では頬に古傷のある男が壁にもたれ、通行人を値踏みするように眺めている。


 シグと目が合った。


 反射的に見返すと、男は興味を失ったように視線を外した。


「……すごいところだな」


「気を抜かない方がいいわよ」


 エルセリアは前を向いたまま言った。


「武器を持っていることが珍しくない街では、武器を使うことにも慣れている人間が多いから」


 シグはもう一度周囲を見た。


 シイバにも旅人は来た。西方軍へ入ってからは王国の別の土地も見ている。


 それでも、ここは違った。


 シグの知らない者たちが、ここでは当たり前のように同じ通りを歩いている。


 これまで知っていた世界が、急に狭く感じられた。


 ◇


 二人が宿を取ったのは、大通りから外れた古い宿屋だった。


 二階の部屋には寝台が二つと小さな卓があるだけで、床板は歩くたびに軋んだ。開けた窓から夕暮れの光と街の喧騒が入り込み、階下からは煮込み料理の匂いが漂ってくる。


 シグは寝台へ腰を下ろし、靴についた乾いた泥を眺めた。


 ようやく着いた。


 そう思った途端、身体の疲れが重さを増した。


 エルセリアは荷物を下ろすと、窓辺からしばらく通りを見ていた。


「ここなら、しばらく腰を据えられる」


「最初からサヴァールを目指してたのは、追手から逃げるため?」


「それもあるわ。リューンから距離を取れて、ゼルヴェナ帝国の直接支配も受けていない。これだけ人が出入りしていれば、余所者も目立ちにくい」


 窓の下を、笑い声を上げた傭兵たちが通り過ぎていく。


「情報も集めやすい。それと、会う予定の人がいる」


「誰?」


「エイリクという傭兵よ。仕事を受けるためにサヴァールへ来ているはず」


「仲間?」


「そうね」


 エルセリアの返事が、ほんの少し遅れた。


「……どんな人なんだ?」


 エルセリアは荷物から水筒を取り出しながら、少し考えた。


「信頼できる男よ」


「……他には?」


「あとは会ってからのお楽しみ」


「なんでそれしか教えてくれないんだよ」


「先入観を持たない方が面白いもの」


 シグは眉を寄せたが、それ以上の説明はなかった。


 水筒を卓へ置いたエルセリアが、しばらくシグを見た。


 窓から入る橙色の光が、その横顔を照らしていた。


「シグ」


「何?」


「ここから先は、君が決めて」


 シグは顔を上げた。


「……何を?」


「これからどうするか」


 エルセリアは窓辺から離れ、卓の向かいへ座った。


「シイバでは、あの場から離れる必要があった。だから私が連れ出した。でも、ここまで来れば事情が違う」


「俺について来いって言うんじゃないのか?」


「言わない」


 即答だった。


 エルセリアは卓上へ落ちた視線をすぐには上げなかった。


「私がこれから向かう先が、安全だとも言えないから」


 そう言った後、短い沈黙が落ちた。


 シグは黙って待っていた。


「エルセリアは、何をしてるんだ?」


「調べているの。古い記録や紋章、それから神々に関係するものを」


「俺のこれも?」


 右上腕へ手を伸ばしかける。


 指が止まった。


 黒い紋様は服の下に隠れている。それでも意識を向けただけで、皮膚の奥がむず痒くなった。


 帝国兵の身体が消えた光景が蘇る。


 白い拘束術式が消え、叫び声とともに帝国兵の腕が途中から失われていく。最後には、地面に何も残らなかった。


 心臓が一度、強く鳴った。


 シグは無意識に右腕を掴んだ。爪が皮膚へ食い込む。


「《ヴォイド・コード》については、私もほとんど何も知らない」


 エルセリアの声で意識が戻る。


「ただ、私が追っているものと無関係だとも思えない。調べる価値はある」


「ついていけば、分かる?」


「それは約束できない」


 シグは顔を上げた。


「答えが見つからない可能性もある。私と行動することで、別の危険に巻き込むかもしれない」


 エルセリアの指が卓の縁へ触れ、そこで止まっていた。


「だから、私が決めることじゃない」


 その言葉だけを残し、彼女は口を閉ざした。


 階下から笑い声が響いた。誰かが椅子を引きずり、食器の触れ合う音が続く。


 首元へ手をやると、母のペンダントが汗ばんだ肌に張り付いていた。指で引き出すと、金属がひやりと冷たい。


 シイバへ帰りたい。


 考えれば、今でも胸が締めつけられる。


 アルベルトがいる。トーマスもいる。アンナとヨハンが生きていた家も、壊れてしまったとしても、あそこにある。


 帰れない。だからエルセリアについていく――それだけで決めてしまえば、シイバを出た時と何も変わらない。


 シグは右腕を見た。


 黒い紋章を皮膚ごと削り取れたらと、何度思ったか分からない。それで帝国兵の死まで消えるなら、本当にそうしていたかもしれない。


 けれど、何をしても起きたことは消えない。だったらせめて、この紋章が何なのかを知らなければならない。


 数日前まで感じることすらできなかった魔力も、今なら胸の奥に見つけられる。呼吸を整え、流す量を決めれば、腕へ運び、留めることができる。


 そして、自分で止められる。


 できるようになったのは、まだその程度だ。けれど数日前の自分には、それすらできなかった。


「俺は、自分に何が起きたのか知りたい」


 声にすると、右腕を掴んでいた指から少し力が抜けた。


「この紋章のことも、セグラヴァスのことも。それに……この力を、分からないまま放っておくのが一番怖い」


 エルセリアは何も挟まなかった。


「また誰かを巻き込むかもしれないって考えながら、ずっと逃げ続けるのは嫌だ。俺は、自分でこれを止められるようになりたい」


 そこで一度、言葉を探した。


 道中の戦いで見たエルセリアの剣が浮かぶ。


 彼女は必要な時に必要なだけ魔力を使い、それ以上は決して振り回されなかった。今のシグには、それができない。


「もっと教えてほしい」


 シグはエルセリアを見た。


「俺も一緒に行く。答えが見つかる保証がなくても、自分で探したい」


 長い沈黙の後、エルセリアが小さく息を吐いた。


「分かった」


 返ってきたのは、その一言だけだった。シグも、それ以上の言葉を求めなかった。


「明日はエイリクを探す。その後、シイバとセグラヴァスについて情報を集めるわ」


「ああ」


「訓練も続ける」


 シグは頷きかけた。


「ただし、今までより厳しくするから」


「……そこは変わらないんだな」


「君が自分で選んだことでしょう」


 シグは返す言葉を失い、やがて小さく笑った。


 窓の外では、日が城壁の向こうへ沈み始めていた。


 明日になれば、エイリクという傭兵に会う。その先に何が待っているのかは分からない。


 シグはペンダントを服の内側へ戻し、窓の向こうに広がるサヴァールを見た。


「明日、何時に出る?」


 エルセリアが振り返る。


「朝一番よ。寝坊しないで」


「分かった」


 シグは窓から離れ、旅装を解き始めた。


 明日から、自分で選んだ道を歩けばいい。


 いつか帰る場所があることを、この時のシグはまだ疑っていなかった。

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