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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第六話:旅立ち/第四幕:力よりも強く

 黒い影が、正面からシグに飛びかかった。


 牙を剥いたフォレストハウンドが低い軌道で迫るのを見て、シグは半歩だけ右へずれた。剣を下段から振り上げ、伸びてきた前脚を狙う。


 その動き自体に迷いはなかった。


 今までさんざん繰り返してきた訓練と同じだ。相手の正面に立たず、攻撃の軌道から身体を外しながら斬る。人間より低い位置から飛び込んでくる獣を想定した型も、何度となく身体へ叩き込まれている。


 刃が前脚を浅く裂いた。


 フォレストハウンドが着地し、そのまま勢いを殺さず横へ跳ぶ。


 追う。


 シグが踏み込んだ瞬間、左腕へ留めていた魔力が膨れた。


「っ!」


 予想より強く地面を蹴ってしまう。身体だけが先へ出て、振り下ろした剣はフォレストハウンドの背を掠めた。


 空振りではない。だが、明らかに剣筋が崩れていた。


 シグはたたらを踏みながら体勢を戻す。


「多い」


 背後からエルセリアの声が飛んだ。


「踏み込むたびに魔力を増やさない。今の半分」


「分かってる!」


 返しながら、シグは左腕へ意識を向ける。


 流れ込んだ魔力を絞る。


 昨日と同じように細く。


 そう考えたところで、頭上から枝の軋む音がした。


 二頭目が落ちてくる。


 シグは咄嗟に剣を横へ構えた。爪が刀身を叩き、重い衝撃が腕を抜ける。受け止めきれず、二歩後ろへ押された。


 そこへ地上の一頭が回り込む。


「右!」


 エルセリアの声に反応し、シグは身体を捻った。


 牙が脇腹すれすれを通過する。剣を返し、すれ違ったフォレストハウンドの胴へ斬りつけた。今度は刃が深く入る。


 獣が悲鳴を上げ、地面へ転がった。


「一頭……!」


 追撃しようとしたところで、左腕の魔力が乱れていることに気づく。


 多い。いつの間にか、肩から先へ昨日の訓練とは比較にならない量が流れ込んでいた。


 意識を向け、止める。


 フォレストハウンドから目が離れた一瞬の隙に、背後から衝撃を受けた。


「ぐっ!」


 肩口へ爪が食い込み、身体が前へ投げ出される。地面へ手をつき、辛うじて転倒を避けた。


 振り向くと、三頭目が牙を剥いている。


 その奥では、最初に傷つけた一頭が再び立ち上がっていた。


 残る一頭の姿が見えない。


(どこだ)


 視線を走らせる。


 右にはいない。正面にもいない。


 頭上で、枝の間に影が動いた。


 シグは反射的に飛び退く。


 直後、フォレストハウンドが先ほどまで立っていた場所へ落ちてくる。


「くそ……!」


 一頭を見れば、別の一頭が死角へ入る。


 地上だけではない。木に登り、枝から枝へ移りながら位置を変えてくる。


 しかも今は、それだけを見ていればいいわけではなかった。


 左腕へ流した魔力の量が増えていないか。留められているか。身体の別の場所へ漏れていないか。


 考えることが多すぎる。


 騎士を目指して訓練していた時には、剣を振るうたびに自分の身体の内側を気にする必要などなかった。自分の肉体と剣技だけで完結していたからだ。


 剣術だけなら戦える。


 だが、魔力を意識した途端、それまで自然にできていたことまで遅れる。


 魔獣の一頭が正面から来るのを捕捉し、シグは剣を構える。


 今度は魔力を増やさない。


 フォレストハウンドが間合いへ入る。


 剣を袈裟斬りで振るう。


 刃が肩口を捉えたが、その直後、左腕に留めていた魔力が膨れた。剣を振った力につられて、無意識に魔力まで押し出していた。


 刃が深く入りすぎる。


 フォレストハウンドの身体を斬り抜いた勢いに引かれ、剣先が地面へ叩きつけられた。


「しまっ――」


 横から別の一頭が迫る。


 剣が戻らない。


 シグは左腕を上げた。


 牙を防ごうとした、その瞬間。


 右上腕が熱を持った。


 シグの身体が硬直する。紋章が白い拘束術式を消し去り、帝国兵たちが虚無へ呑み込まれた光景が脳裏をよぎった。


 ――また。


 また、出る。


「……駄目だ」


 意識が右腕へ引かれた。


 フォレストハウンドが目の前まで迫っている。


 動かなければならない。


 分かっているのに、身体が反応しない。


 もし魔力を動かしたことで、あれまで目覚めたら。


 こいつだけでは済まない。エルセリアにも危険が及ぶ。


「シグ!」


 獣の顎が開いた。


 次の瞬間、シグの視界を銀色の光が横切った。


 フォレストハウンドの身体が宙で弾かれる。


 何が起きたのか理解するより早く、エルセリアがシグの前へ出ていた。


 右手には剣が握られている。


 いつ抜いたのか分からなかった。


 吹き飛ばされた一頭が木の幹へ激突する。残るフォレストハウンドたちが一斉に標的を変え、エルセリアへ低い唸り声を上げた。


「下がって」


「でも――」


「今は邪魔になる」


 シグは言葉を失った。


 冷たい言い方だったが、反論できない。


 エルセリアは剣を下げたまま、三頭の位置を見ている。


 構えらしい構えすら取らない。


 最初に動いたのは、木の上の一頭だった。


 枝を蹴り、エルセリアの死角へ落ちる。


 同時に地上の一頭が正面から走った。


 挟むつもりだ。


 シグにも分かった。


「エルセリア、後ろ!」


 彼女は振り向かなかった。


 半歩だけ横へ動く。


 頭上から落ちてきた爪が空を切った。


 着地するより早く、エルセリアの剣がその首筋を撫でるように通過した。


 血が散る。


 フォレストハウンドが崩れた時には、彼女はもう正面を向いていた。


 地上から迫っていた一頭が跳ぶ。


 エルセリアの左手が僅かに動いた。


 魔力が流れたのが、シグにも分かった。


 ほんの一瞬、空気が揺れる。


 フォレストハウンドの身体が横へずれ、跳躍の軌道を僅かに外された。


 だが、それで十分。


 エルセリアは獣の脇をすり抜け、前脚の付け根へ剣を入れる。着地したフォレストハウンドの脚が崩れた。


 殺していない。


 動けなくしただけだ。


 三頭目が背後から飛びかかる。


 エルセリアは振り返りざまに剣を合わせた。


 爪と刃が触れる。


 次の瞬間、フォレストハウンドの身体が地面へ叩きつけられた。


 力任せに弾いたようには見えなかった。


 接触する直前だけ剣へ魔力を通し、獣の突進する方向をずらした。


 シグには、そう見えた。


 倒れた一頭が起き上がろうとする。


 エルセリアは追わない。


 代わりに一歩前へ出た。


 それだけで、傷を負ったフォレストハウンドが動きを止めた。


 低い唸り声。


 やがて一頭が後ずさる。


 もう一頭も続いた。


 エルセリアは追撃しなかった。


 動ける二頭が木々の奥へ消えていく。最初に深手を負った個体も、脚を引きずりながらその後を追った。


 森に静けさが戻った。


 シグは剣を握ったまま立ち尽くしていた。


 長く戦ったわけではない。


 大きな魔法も使っていない。


 自分が何度も攻撃を受けながら対応していた群れを、エルセリアはほとんど同じ場所から動くことなく退けた。


「……強いんだな」


 ようやく出た言葉だった。


 エルセリアが振り返る。


「今さら?」


「いや……魔法が得意なんだとは分かっていたけど」


 シグは倒れた枝や地面へ残った爪痕を見る。


「剣でもこんなに戦えるとは思っていなかった」


「褒めても何も出ないわよ」


 エルセリアは剣についた血を払い、静かに鞘へ戻した。


 シグもエルセリアの剣と見比べるように、自分の握る剣へ視線を落とす。


 剣も魔力も、使っているものだけなら、大きく違うようには見えない。


 それなのに、戦い方はまるで違った。


 西方軍にも強い騎士はいた。トーマスをはじめ、自分では到底敵わないと思う相手を何人も知っている。


 だが、エルセリアから感じたものは少し違う。


 速さや腕力だけではない。


 何をするべきかを決めてから動くまでに、ほとんど無駄がなかった。


「それで」


 エルセリアがシグの前へ戻ってくる。


「何が悪かったか分かった?」


「……魔力が多すぎた」


「それもある」


「踏み込む時に流しすぎた。剣を振った時も、力につられて魔力まで出した」


「他には?」


 シグは少し考える。


「魔力を気にしすぎた」


 エルセリアが頷いた。


「そっちの方が大きいわね」


 シグは眉を寄せた。


「でも、見失うなって言ったのはエルセリアだろ」


「見失うなとは言った。でも、魔力だけ見て戦えとは言ってない」


 返す言葉がない。


 エルセリアは先ほどの戦いを思い返すように続けた。


「最初の一撃は悪くなかった。相手の攻撃を外して、前脚を狙った。あれは考えてやった?」


「いや。身体が勝手に」


「それでいいのよ。君は十七年間、魔力を使わずに剣を覚えてきた。身体にはその動きが残っている」


 エルセリアはシグの左腕を示した。


「なのに魔力を使い始めた途端、全部を頭でやろうとした。踏み込む。斬る。避ける。そのたびに魔力の量を確認していたら、今までできていたことまで遅くなる」


「じゃあ、どうすればいい?」


「剣術を魔力に合わせないこと」


 シグが顔を上げる。


「先に魔力を一定量へ保つ。そこから先は、今まで通り戦う。剣を振るたびに増やさない。強く踏み込みたいからといって足に流さない。今の君に必要なのは、魔力で強くなることじゃない」


 エルセリアは一度言葉を切った。


「魔力があっても、今までの自分と同じように動けるようになることよ」


 シグは左手を開いた。


 魔力を得た以上、それを使わなければならないと思っていた。だが実際には、踏み込みも剣筋も、それで崩している。


 エルセリアの言う通りだった。


「さっき、右腕を気にしたでしょう」


 シグの指が止まる。


「……分かったのか?」


「急に魔力の流れが乱れたから」


 エルセリアの視線が、シグの右上腕へ向いた。


 黒い紋章は今も静かだった。


「怖かった?」


 シグは少し迷ってから頷いた。


「ああ。また暴走するんじゃないかと思った」


 喉が重くなる。


「シイバの時も、俺が何かしようとしたわけじゃない。勝手に出た。だから、魔力を使ったらまたあれが動くんじゃないかって……」


 エルセリアは否定しなかった。


「可能性がないとは言えない」


 シグが右腕を見る。


「やっぱり、そうなのか」


「分からないものを安全だとは言えないわ」


 いつもの答えだった。


 分からないことを、分かったようには言わない。


「だから今は、君の紋章そのものには触れない」


 エルセリアは黒い紋様へ目を向けたまま続ける。


「君の紋章……呼び方がないと不便だから、便宜的に《ヴォイド・コード》と呼ぶことにするわ」


 シグが視線を上げた。


「ヴォイド……コード?」


「単語を組み合わせただけ。『虚無』を意味する語と、紋章体系を表す呼称。正式な名前かどうかは分からない」


「じゃあ、エルセリアが付けたのか?」


「今のところはね。記録にも該当する紋章は見つかっていないから」


 シグは右腕の黒い紋様を見る。


《ヴォイド・コード》。


 名前がついたところで、正体が分かったわけではない。


 それでも、得体の知れない何かだったものに、初めて呼び方が与えられた。


「その《ヴォイド・コード》について、一つだけ勘違いしないで」


 エルセリアの声に、シグは顔を上げた。


「セグラヴァスを消し去ったのも、帝国兵を巻き込んだのも――その紋章の力である可能性は高いわ。けれど、今の君は自分の意思でそれを引き出せない。止められもしない。何が起きるかすら分かっていない」


 シグは黙って聞いていた。


「それは今のところ、君の強さとは呼べないわ」


 シグは反発しなかった。むしろ、妙に納得できた。


 あの力でセグラヴァスは消え、帝国兵も死んだ。


 だが、自分は何一つ選んでいない。


「……そうだな」


 シグは剣を鞘へ戻した。


「俺も、あれを自分の力だとは思いたくない」


「思いたくないかどうかは関係ない。君の中にある以上、いずれ向き合う必要はある」


「厳しいな」


「事実でしょう」


 否定できなかった。


 エルセリアはシグの肩口を見る。先ほど爪を受けた場所から僅かに血が滲んでいた。


「傷を見せて」


「これくらいなら大丈夫だ」


「その台詞は昨日も聞いた」


「……分かったよ」


 シグは素直に上着をずらした。


 その日から、訓練の内容が変わった。


 止まった状態で左腕へ魔力を流すだけではなく、歩きながら一定量を維持する。次は剣を抜き、素振りをしながら保つ。足場の悪い場所を進み、周囲へ注意を向けても流れを乱さない。


 最初は数歩歩いただけで量が変わった。


 木の根につまずきかければ魔力が膨れ、突然鳥が飛び立てば流れが途切れる。剣を振れば腕へ余計な力が入り、それにつられて魔力まで増える。


 そのたびにエルセリアが止めた。


「増えてる」


「今度は減りすぎ」


「呼吸が止まってる」


「今の量を覚えて。そのまま歩いて」


 同じことを何度も繰り返すうちに、シグはほんの少しずつ、感覚を掴んでいった。


 魔力を動かし続けるのではない。


 最初に必要な量を決め、そこへ留めておく。


 身体を動かしても、それ以上触らない。


 その方が、剣は以前のように動いた。


 数日後、森の中で再び魔獣と遭遇した時、エルセリアは今回もシグを前へ出した。


 まだ若い小型のフォレストハウンドだった。


 シグは剣を抜く前に左腕へ魔力を少量流し、そこに留める。


 魔獣が駆けてくるが、今度は魔力を増やさない。


 フォレストハウンドの前脚が沈むのを見て、次に来る方向を読む。


 踏み込み、剣を振る。身体が覚えている動きに身を任せた。


 刃が魔獣の前脚を捉える。体勢を崩したところへ回り込み、二撃目で追い払った。


 フォレストハウンドが森の奥へ逃げていく。


 シグはしばらく剣を構えたまま周囲を確認し、それから息を吐いた。


 左腕を確かめると、まだ魔力は残っていた。最初に決めた範囲から、大きくは増えていない。


 シグは目を閉じ、集中した。


 左腕を満たしていた感覚が、ゆっくりと消えた。


 今度は、自分の意思で。


「……止められた」


 背後にいたエルセリアが答える。


「今回はね」


 振り返る。


「今の、どうだった?」


「剣は前よりずっと良かった。魔力量も許容範囲」


「じゃあ合格?」


「何の?」


「いや……」


 シグは苦笑した。


「少しくらい褒めてもいいだろ」


「昨日まで自分で崩していた剣術が元に戻っただけでしょう」


「やっぱり厳しいな」


 そう言いながらも、不満はなかった。


 まだ魔法は使えない。


 魔力を身体の一部へ流し、留め、戦いながら維持するだけでも集中が必要になる。


 右腕の《ヴォイド・コード》に至っては、何一つ分かっていない。


 それでも、シイバを出た直後とは違う。あの時は、自分の中にあるものがただ恐ろしかった。


 だが、少なくとも魔力そのものは、僅かずつ自分の意思で扱えるようになっている。


 野外での判断、魔力の扱い、戦い方。知れば知るほどエルセリアとの差が見えてくる。


 だが、足りないなら学べばいい。


 シグは少し歩調を速め、先を行くエルセリアの背中を追った。


 この人から、もっと学びたい。


 そう思える相手がいることを、シグは少しだけ心強く感じていた。

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