第六話:旅立ち/第四幕:力よりも強く
黒い影が、正面からシグに飛びかかった。
牙を剥いたフォレストハウンドが低い軌道で迫るのを見て、シグは半歩だけ右へずれた。剣を下段から振り上げ、伸びてきた前脚を狙う。
その動き自体に迷いはなかった。
今までさんざん繰り返してきた訓練と同じだ。相手の正面に立たず、攻撃の軌道から身体を外しながら斬る。人間より低い位置から飛び込んでくる獣を想定した型も、何度となく身体へ叩き込まれている。
刃が前脚を浅く裂いた。
フォレストハウンドが着地し、そのまま勢いを殺さず横へ跳ぶ。
追う。
シグが踏み込んだ瞬間、左腕へ留めていた魔力が膨れた。
「っ!」
予想より強く地面を蹴ってしまう。身体だけが先へ出て、振り下ろした剣はフォレストハウンドの背を掠めた。
空振りではない。だが、明らかに剣筋が崩れていた。
シグはたたらを踏みながら体勢を戻す。
「多い」
背後からエルセリアの声が飛んだ。
「踏み込むたびに魔力を増やさない。今の半分」
「分かってる!」
返しながら、シグは左腕へ意識を向ける。
流れ込んだ魔力を絞る。
昨日と同じように細く。
そう考えたところで、頭上から枝の軋む音がした。
二頭目が落ちてくる。
シグは咄嗟に剣を横へ構えた。爪が刀身を叩き、重い衝撃が腕を抜ける。受け止めきれず、二歩後ろへ押された。
そこへ地上の一頭が回り込む。
「右!」
エルセリアの声に反応し、シグは身体を捻った。
牙が脇腹すれすれを通過する。剣を返し、すれ違ったフォレストハウンドの胴へ斬りつけた。今度は刃が深く入る。
獣が悲鳴を上げ、地面へ転がった。
「一頭……!」
追撃しようとしたところで、左腕の魔力が乱れていることに気づく。
多い。いつの間にか、肩から先へ昨日の訓練とは比較にならない量が流れ込んでいた。
意識を向け、止める。
フォレストハウンドから目が離れた一瞬の隙に、背後から衝撃を受けた。
「ぐっ!」
肩口へ爪が食い込み、身体が前へ投げ出される。地面へ手をつき、辛うじて転倒を避けた。
振り向くと、三頭目が牙を剥いている。
その奥では、最初に傷つけた一頭が再び立ち上がっていた。
残る一頭の姿が見えない。
(どこだ)
視線を走らせる。
右にはいない。正面にもいない。
頭上で、枝の間に影が動いた。
シグは反射的に飛び退く。
直後、フォレストハウンドが先ほどまで立っていた場所へ落ちてくる。
「くそ……!」
一頭を見れば、別の一頭が死角へ入る。
地上だけではない。木に登り、枝から枝へ移りながら位置を変えてくる。
しかも今は、それだけを見ていればいいわけではなかった。
左腕へ流した魔力の量が増えていないか。留められているか。身体の別の場所へ漏れていないか。
考えることが多すぎる。
騎士を目指して訓練していた時には、剣を振るうたびに自分の身体の内側を気にする必要などなかった。自分の肉体と剣技だけで完結していたからだ。
剣術だけなら戦える。
だが、魔力を意識した途端、それまで自然にできていたことまで遅れる。
魔獣の一頭が正面から来るのを捕捉し、シグは剣を構える。
今度は魔力を増やさない。
フォレストハウンドが間合いへ入る。
剣を袈裟斬りで振るう。
刃が肩口を捉えたが、その直後、左腕に留めていた魔力が膨れた。剣を振った力につられて、無意識に魔力まで押し出していた。
刃が深く入りすぎる。
フォレストハウンドの身体を斬り抜いた勢いに引かれ、剣先が地面へ叩きつけられた。
「しまっ――」
横から別の一頭が迫る。
剣が戻らない。
シグは左腕を上げた。
牙を防ごうとした、その瞬間。
右上腕が熱を持った。
シグの身体が硬直する。紋章が白い拘束術式を消し去り、帝国兵たちが虚無へ呑み込まれた光景が脳裏をよぎった。
――また。
また、出る。
「……駄目だ」
意識が右腕へ引かれた。
フォレストハウンドが目の前まで迫っている。
動かなければならない。
分かっているのに、身体が反応しない。
もし魔力を動かしたことで、あれまで目覚めたら。
こいつだけでは済まない。エルセリアにも危険が及ぶ。
「シグ!」
獣の顎が開いた。
次の瞬間、シグの視界を銀色の光が横切った。
フォレストハウンドの身体が宙で弾かれる。
何が起きたのか理解するより早く、エルセリアがシグの前へ出ていた。
右手には剣が握られている。
いつ抜いたのか分からなかった。
吹き飛ばされた一頭が木の幹へ激突する。残るフォレストハウンドたちが一斉に標的を変え、エルセリアへ低い唸り声を上げた。
「下がって」
「でも――」
「今は邪魔になる」
シグは言葉を失った。
冷たい言い方だったが、反論できない。
エルセリアは剣を下げたまま、三頭の位置を見ている。
構えらしい構えすら取らない。
最初に動いたのは、木の上の一頭だった。
枝を蹴り、エルセリアの死角へ落ちる。
同時に地上の一頭が正面から走った。
挟むつもりだ。
シグにも分かった。
「エルセリア、後ろ!」
彼女は振り向かなかった。
半歩だけ横へ動く。
頭上から落ちてきた爪が空を切った。
着地するより早く、エルセリアの剣がその首筋を撫でるように通過した。
血が散る。
フォレストハウンドが崩れた時には、彼女はもう正面を向いていた。
地上から迫っていた一頭が跳ぶ。
エルセリアの左手が僅かに動いた。
魔力が流れたのが、シグにも分かった。
ほんの一瞬、空気が揺れる。
フォレストハウンドの身体が横へずれ、跳躍の軌道を僅かに外された。
だが、それで十分。
エルセリアは獣の脇をすり抜け、前脚の付け根へ剣を入れる。着地したフォレストハウンドの脚が崩れた。
殺していない。
動けなくしただけだ。
三頭目が背後から飛びかかる。
エルセリアは振り返りざまに剣を合わせた。
爪と刃が触れる。
次の瞬間、フォレストハウンドの身体が地面へ叩きつけられた。
力任せに弾いたようには見えなかった。
接触する直前だけ剣へ魔力を通し、獣の突進する方向をずらした。
シグには、そう見えた。
倒れた一頭が起き上がろうとする。
エルセリアは追わない。
代わりに一歩前へ出た。
それだけで、傷を負ったフォレストハウンドが動きを止めた。
低い唸り声。
やがて一頭が後ずさる。
もう一頭も続いた。
エルセリアは追撃しなかった。
動ける二頭が木々の奥へ消えていく。最初に深手を負った個体も、脚を引きずりながらその後を追った。
森に静けさが戻った。
シグは剣を握ったまま立ち尽くしていた。
長く戦ったわけではない。
大きな魔法も使っていない。
自分が何度も攻撃を受けながら対応していた群れを、エルセリアはほとんど同じ場所から動くことなく退けた。
「……強いんだな」
ようやく出た言葉だった。
エルセリアが振り返る。
「今さら?」
「いや……魔法が得意なんだとは分かっていたけど」
シグは倒れた枝や地面へ残った爪痕を見る。
「剣でもこんなに戦えるとは思っていなかった」
「褒めても何も出ないわよ」
エルセリアは剣についた血を払い、静かに鞘へ戻した。
シグもエルセリアの剣と見比べるように、自分の握る剣へ視線を落とす。
剣も魔力も、使っているものだけなら、大きく違うようには見えない。
それなのに、戦い方はまるで違った。
西方軍にも強い騎士はいた。トーマスをはじめ、自分では到底敵わないと思う相手を何人も知っている。
だが、エルセリアから感じたものは少し違う。
速さや腕力だけではない。
何をするべきかを決めてから動くまでに、ほとんど無駄がなかった。
「それで」
エルセリアがシグの前へ戻ってくる。
「何が悪かったか分かった?」
「……魔力が多すぎた」
「それもある」
「踏み込む時に流しすぎた。剣を振った時も、力につられて魔力まで出した」
「他には?」
シグは少し考える。
「魔力を気にしすぎた」
エルセリアが頷いた。
「そっちの方が大きいわね」
シグは眉を寄せた。
「でも、見失うなって言ったのはエルセリアだろ」
「見失うなとは言った。でも、魔力だけ見て戦えとは言ってない」
返す言葉がない。
エルセリアは先ほどの戦いを思い返すように続けた。
「最初の一撃は悪くなかった。相手の攻撃を外して、前脚を狙った。あれは考えてやった?」
「いや。身体が勝手に」
「それでいいのよ。君は十七年間、魔力を使わずに剣を覚えてきた。身体にはその動きが残っている」
エルセリアはシグの左腕を示した。
「なのに魔力を使い始めた途端、全部を頭でやろうとした。踏み込む。斬る。避ける。そのたびに魔力の量を確認していたら、今までできていたことまで遅くなる」
「じゃあ、どうすればいい?」
「剣術を魔力に合わせないこと」
シグが顔を上げる。
「先に魔力を一定量へ保つ。そこから先は、今まで通り戦う。剣を振るたびに増やさない。強く踏み込みたいからといって足に流さない。今の君に必要なのは、魔力で強くなることじゃない」
エルセリアは一度言葉を切った。
「魔力があっても、今までの自分と同じように動けるようになることよ」
シグは左手を開いた。
魔力を得た以上、それを使わなければならないと思っていた。だが実際には、踏み込みも剣筋も、それで崩している。
エルセリアの言う通りだった。
「さっき、右腕を気にしたでしょう」
シグの指が止まる。
「……分かったのか?」
「急に魔力の流れが乱れたから」
エルセリアの視線が、シグの右上腕へ向いた。
黒い紋章は今も静かだった。
「怖かった?」
シグは少し迷ってから頷いた。
「ああ。また暴走するんじゃないかと思った」
喉が重くなる。
「シイバの時も、俺が何かしようとしたわけじゃない。勝手に出た。だから、魔力を使ったらまたあれが動くんじゃないかって……」
エルセリアは否定しなかった。
「可能性がないとは言えない」
シグが右腕を見る。
「やっぱり、そうなのか」
「分からないものを安全だとは言えないわ」
いつもの答えだった。
分からないことを、分かったようには言わない。
「だから今は、君の紋章そのものには触れない」
エルセリアは黒い紋様へ目を向けたまま続ける。
「君の紋章……呼び方がないと不便だから、便宜的に《ヴォイド・コード》と呼ぶことにするわ」
シグが視線を上げた。
「ヴォイド……コード?」
「単語を組み合わせただけ。『虚無』を意味する語と、紋章体系を表す呼称。正式な名前かどうかは分からない」
「じゃあ、エルセリアが付けたのか?」
「今のところはね。記録にも該当する紋章は見つかっていないから」
シグは右腕の黒い紋様を見る。
《ヴォイド・コード》。
名前がついたところで、正体が分かったわけではない。
それでも、得体の知れない何かだったものに、初めて呼び方が与えられた。
「その《ヴォイド・コード》について、一つだけ勘違いしないで」
エルセリアの声に、シグは顔を上げた。
「セグラヴァスを消し去ったのも、帝国兵を巻き込んだのも――その紋章の力である可能性は高いわ。けれど、今の君は自分の意思でそれを引き出せない。止められもしない。何が起きるかすら分かっていない」
シグは黙って聞いていた。
「それは今のところ、君の強さとは呼べないわ」
シグは反発しなかった。むしろ、妙に納得できた。
あの力でセグラヴァスは消え、帝国兵も死んだ。
だが、自分は何一つ選んでいない。
「……そうだな」
シグは剣を鞘へ戻した。
「俺も、あれを自分の力だとは思いたくない」
「思いたくないかどうかは関係ない。君の中にある以上、いずれ向き合う必要はある」
「厳しいな」
「事実でしょう」
否定できなかった。
エルセリアはシグの肩口を見る。先ほど爪を受けた場所から僅かに血が滲んでいた。
「傷を見せて」
「これくらいなら大丈夫だ」
「その台詞は昨日も聞いた」
「……分かったよ」
シグは素直に上着をずらした。
その日から、訓練の内容が変わった。
止まった状態で左腕へ魔力を流すだけではなく、歩きながら一定量を維持する。次は剣を抜き、素振りをしながら保つ。足場の悪い場所を進み、周囲へ注意を向けても流れを乱さない。
最初は数歩歩いただけで量が変わった。
木の根につまずきかければ魔力が膨れ、突然鳥が飛び立てば流れが途切れる。剣を振れば腕へ余計な力が入り、それにつられて魔力まで増える。
そのたびにエルセリアが止めた。
「増えてる」
「今度は減りすぎ」
「呼吸が止まってる」
「今の量を覚えて。そのまま歩いて」
同じことを何度も繰り返すうちに、シグはほんの少しずつ、感覚を掴んでいった。
魔力を動かし続けるのではない。
最初に必要な量を決め、そこへ留めておく。
身体を動かしても、それ以上触らない。
その方が、剣は以前のように動いた。
数日後、森の中で再び魔獣と遭遇した時、エルセリアは今回もシグを前へ出した。
まだ若い小型のフォレストハウンドだった。
シグは剣を抜く前に左腕へ魔力を少量流し、そこに留める。
魔獣が駆けてくるが、今度は魔力を増やさない。
フォレストハウンドの前脚が沈むのを見て、次に来る方向を読む。
踏み込み、剣を振る。身体が覚えている動きに身を任せた。
刃が魔獣の前脚を捉える。体勢を崩したところへ回り込み、二撃目で追い払った。
フォレストハウンドが森の奥へ逃げていく。
シグはしばらく剣を構えたまま周囲を確認し、それから息を吐いた。
左腕を確かめると、まだ魔力は残っていた。最初に決めた範囲から、大きくは増えていない。
シグは目を閉じ、集中した。
左腕を満たしていた感覚が、ゆっくりと消えた。
今度は、自分の意思で。
「……止められた」
背後にいたエルセリアが答える。
「今回はね」
振り返る。
「今の、どうだった?」
「剣は前よりずっと良かった。魔力量も許容範囲」
「じゃあ合格?」
「何の?」
「いや……」
シグは苦笑した。
「少しくらい褒めてもいいだろ」
「昨日まで自分で崩していた剣術が元に戻っただけでしょう」
「やっぱり厳しいな」
そう言いながらも、不満はなかった。
まだ魔法は使えない。
魔力を身体の一部へ流し、留め、戦いながら維持するだけでも集中が必要になる。
右腕の《ヴォイド・コード》に至っては、何一つ分かっていない。
それでも、シイバを出た直後とは違う。あの時は、自分の中にあるものがただ恐ろしかった。
だが、少なくとも魔力そのものは、僅かずつ自分の意思で扱えるようになっている。
野外での判断、魔力の扱い、戦い方。知れば知るほどエルセリアとの差が見えてくる。
だが、足りないなら学べばいい。
シグは少し歩調を速め、先を行くエルセリアの背中を追った。
この人から、もっと学びたい。
そう思える相手がいることを、シグは少しだけ心強く感じていた。




