第六話:旅立ち/第三幕:災厄の正体
その夜、二人は森を抜けた小さな沢のそばで野営した。
夕食を終えた後、シグは焚き火の前で母のペンダントを指先に挟んでいた。
向かいではエルセリアが荷物の中から数冊の薄い書物を取り出している。
「エルセリア」
「何?」
「聞きたいことがある」
シグがそう言うと、彼女は書物を閉じた。
「シイバを襲った魔獣のことなんだけど」
エルセリアの表情から僅かに力が抜ける。
「私も聞こうと思っていた」
「知っているのか?」
「まだ分からない。だから、君が見たものを教えて」
シグは焚き火へ目を向けた。
思い出したくない。だが、知らなければならない。
「四本脚だった。建物と同じくらいの大きさだったと思う。全身が真っ黒で、普通の毛って感じじゃなかった」
記憶を辿る。
「背中から尾の方まで棘みたいな突起があった。目は青い。身体には青黒い模様が走ってた」
「模様?」
「ああ。光るっていうか……身体の中を何かが流れるたびに浮かんでた」
エルセリアが何も言わず聞いている。
「額にも何かあった」
シグは自分の眉間の辺りへ触れた。
「紋章みたいな形だった。でも、魔獣だったら紋章ではないはず。人間の紋章とも違う、砕けたような……歪んだ模様だった」
エルセリアの目つきが変わった。
シグは続ける。
「王国騎士団が何度攻撃しても、ほとんど効かない。魔法も……途中からおかしかった。奴が近くにいるだけで、うまく使えなくなってた奴もいた」
「魔法を直接受けた時は?」
「食われた」
「食われた?」
「魔法が身体に当たったと思ったら、そのまま消えた。それで……あいつの身体の模様が強く光った」
エルセリアが小さく息を吐く。
「他には?」
「出てくる前からおかしかった」
「何が?」
「森から動物が逃げてきた。魔獣まで一緒に。普段なら人間を襲う奴まで、シイバなんか見もしないで逃げてた」
シイバが壊れる前。それが最初の兆候だった。
「最後は?」
エルセリアの問いに、シグの右手が止まる。
「……消えた」
右上腕へ視線を落とす。
「俺の紋章が暴走して……身体が少しずつなくなった。最後まで抵抗してたけど、それでも」
それ以上は言わなかった。
エルセリアも求めなかった。
代わりに、先ほど閉じた書物を開く。エルセリアは記憶を確かめるように数枚の頁をめくった。
「シイバへ向かう前、私はある記録を調べていた」
シグが顔を上げる。
「何の?」
「古い災害記録」
「災害?」
「正体が分からないから、そう分類されていた」
エルセリアは炎越しにシグを見る。
「年代も場所も違う。ある記録では山間の集落が消え、別の記録では一個騎士隊が壊滅している。残っている記述も断片的で、同じものを指しているのかさえ分からなかった」
「それが、あいつと?」
「一致する部分がある」
彼女は指を折って数えるようなことはせず、そのまま続けた。
「黒い大型の獣。青い光。紋章や魔法を弱める異常な現象。それに、出現前に周辺の魔獣が一斉に逃げたという記述もある」
シグの表情が硬くなった。
「同じ奴なのか?」
「昔の記録は曖昧だし、誇張されている可能性もある。似た性質を持つ別種ということもあり得る」
「でも、可能性はある?」
「高いと思う」
エルセリアは古い記憶を辿るように少し目を細めた。
「文献の中に、一度だけ名前らしきものが出ていた」
シグは黙って待った。
「――セグラヴァス」
焚き火の中で薪が崩れた。
シグはその名を聞いたまま動かなかった。
「……セグラヴァス」
初めて口にする。
自分が生まれて初めて、明確に殺したいと願った相手。
それに、名前があった。
「どういう魔獣なんだ?」
「分からない」
予想していなかった答えだった。
「エルセリアでも?」
「名前が分かれば全部分かるわけじゃないもの」
彼女は書物を閉じ、表紙を撫でた。
「記録は少なすぎる。どこから来たのか、どうやって生まれたのか、なぜ時代も場所も違うところへ現れるのか。どれも不明」
「じゃあ、なんでシイバに……」
「それこそ分からない」
シグは俯いた。
「俺を狙っていたようにも見えた」
エルセリアの視線が止まる。
「どういう意味?」
「村を壊している時も、途中からずっと俺を見てた。俺がアルベルトたちのところへ行こうとすると、道を塞いできた」
「偶然とは思えない?」
「ああ」
エルセリアはしばらく考えていた。
「その情報は重要ね」
「何か分かる?」
「今のところは何も」
シグが僅かに肩を落とす。
「でも、『分からない』と分かっただけでも前進よ」
「そういうもんかな」
「分からないところを勝手な答えで埋めるよりはね」
シグはエルセリアを見る。
知識があるだけじゃない。見たものを分ける。
分かっていることと、分かっていないことを混ぜない。
それでも、何も知らない場所から古い記録とシグの証言を結びつけ、「セグラヴァス」という名前まで辿り着いた。
この人と一緒に居れば、右腕の紋章についても、少しずつ答えに近づけるかもしれない。
「エルセリア」
「何?」
「明日も、魔力の練習を教えてくれるか?」
彼女は少しだけ目を細めた。
「勿論。そのために始めたんでしょう」
「ただし、私が止めたら止めること。勝手に量を増やさない。《ヴォイド・コード》は使わない」
「分かってる」
返事をしたシグに、エルセリアは一度だけ頷いた。
その夜、二人は交代で眠った。
◇
翌朝。森の中を進み始めてから半刻ほど経った頃、エルセリアが突然馬を止めた。
シグは前を見る。
道は静かだった。
昨日までと変わらない森が続いている。
「どうした?」
エルセリアは答えず、馬上から周囲を見ていた。
左。
前方。
頭上。
そして地面。
「シグ。何か気づかない?」
言われて耳を澄ます。
風の音。
葉擦れ。
遠くの水音。
特におかしいものはない。
「……何も」
「鳥」
シグは頭上を見た。
その時になって気づく。
鳴いていない。
先ほどまで聞こえていた小鳥の声が消えている。
「それから、あそこ」
エルセリアが木の幹を示す。
地面から人の胸ほどの高さに、真新しい傷が何本も走っていた。
爪痕。
シグは馬から周囲を見渡した。
少し先の泥に、四足獣の足跡がある。
一つではない。
「何匹いる?」
エルセリアが尋ねる。
シグは目を凝らした。
騎士団で教わったことを思い出す。
同じ跡が重なっている。
大きさも僅かに違う。
「……三」
エルセリアは何も言わない。
シグはもう一度見る。
奥にもう一列ある。
「いや、四匹」
「正解」
シグは思わず彼女を見る。
その瞬間、頭上で枝が揺れた。
顔を上げる。
黒い影が木の幹を駆け上がっていた。
狼に似ている。
だが、野生の狼より明らかに大きい。
発達した爪が樹皮へ食い込み、そのまま幹を蹴って隣の木へ飛び移る。
地上にも二つの影。
牙を剥き、低い唸り声を上げている。
「フォレストハウンド」
エルセリアが馬から降りた。
シグも続こうとする。
「四頭とも魔獣としては大したやつじゃない。ただし群れで狩る。森の中では地面だけ見ていたら死ぬわよ」
シグは剣へ手を伸ばした。
エルセリアは止めない。
代わりに告げた。
「右腕の紋章は使わない」
シグの手が止まる。
「分かってる」
「昨日やったことを忘れないで」
木の上の一頭が、二人の背後へ回ろうとしている。
別の一頭は低い姿勢で正面から距離を詰めていた。
シグの心臓が速くなる。
魔獣との戦い。
シイバ以来、初めてだった。
黒い怪物の姿が一瞬だけ脳裏に浮かぶ。
恐怖が腹の底へ広がった。
「シグ」
エルセリアの声が届く。
「相手じゃなく、自分の魔力を見失わない」
シグは息を吐いた。
左手へ意識を向ける。
胸の奥にある魔力を探す。
昨日より早く見つかった。
流す。
量を絞る。
腕へ運ぶ。
そこで留める。
剣を抜いた。
フォレストハウンドが地面を蹴る。
エルセリアはまだ武器を抜かなかった。
「やってみなさい」
黒い影が、シグへ飛びかかった。




