第六話:旅立ち/第二幕:空白を埋めるもの
シイバが完全に見えなくなってからも、シグはしばらく口を開かなかった。
森へ入ると、エルセリアは再び馬へ乗るよう促した。身体はまだ長距離を歩ける状態ではなく、徒歩で無理をすれば余計に回復が遅れるという判断だった。
向かう先は、エルバ自由都市同盟東部の都市サヴァール。
本来なら主要街道を西へ進むのが最も早い。しかし、エルセリアはその道を選ばなかった。人の往来が多い宿場や関所を避け、森を抜ける古い道を使っている。
帝国兵の生存者が本隊へ戻っている以上、シグの特徴はすでに報告されている可能性が高い。加えてシイバにはリューン王国側の調査も入る。帝国だけを警戒していればいい状況ではなかった。
馬は歩く程度の速度で進んでいた。
速く走らせればサヴァールへ着く時間は縮められる。それでもエルセリアは急がない。
一刻ほど進めば休みを入れ、水を飲ませる。シグの顔色や呼吸を確認し、痛みが強くなれば予定より早く馬を止めた。
最初のうち、シグにはその理由が分からなかった。
追われているなら、できるだけ早く遠くへ行くべきではないのか。
そう思っていたが、何度目かの休憩でエルセリアに先回りされた。
「急いだ方がいいと思ってるでしょう」
倒木へ腰掛けていたシグは顔を上げた。
「……まあ」
「今の君を無理に運んで途中で動けなくする方が遅くなる。追手から逃げるなら、今日だけじゃなく明日も動ける状態を残しておく必要があるわ」
言われてみれば当然だった。
シグにも西方軍で野外訓練を受けた経験はある。兵を急がせすぎれば隊列が乱れ、疲労した者から判断力も落ちていく。移動速度だけを見て行程を決める指揮官はいない。
それをエルセリアは、二人だけの旅でも同じように考えている。
「……慣れてるんだな」
「何に?」
「こういう移動。道の選び方とか、休む場所とか」
エルセリアは水筒の栓を閉めながら答えた。
「長く旅をしていれば嫌でも覚えるわ」
「それだけじゃないだろ」
シグが言うと、エルセリアの視線が向いた。
「さっきも分かれ道で迷わなかった。地図も見てなかったし」
「地面を見ていたから」
「地面?」
エルセリアは少し先の道を指した。
「右側は轍が新しい。荷車が何台か通ってる。先に集落か街道へ合流する道がある可能性が高い」
シグも見る。
確かに車輪の跡が残っている。
「左は?」
「鹿の足跡がある。まだ新しいし、その先から水の音がする。人が頻繁に通る場所なら、あそこまで警戒せず道へ出てこないでしょうね」
説明されて初めて分かった。
シグ自身も騎士団で足跡の見分け方程度は習っている。それでも、馬上から一度通り過ぎただけでそこまで拾えてはいなかった。
エルセリアは立ち上がると、そのまま道の外側へ視線を向けた。
「ただ、左も真っ直ぐ進まない方がいい」
「何かいるのか?」
「いる、というより……あるわね」
彼女は道端へしゃがんだ。
シグも近づこうとする。
「そこから動かないで」
足が止まった。
エルセリアは地面へ直接触れず、周囲の下草を観察している。
一見すると何の変哲もない茂みだった。シダと低木が密集し、その奥には太い蔓が何本も絡み合っている。
だが、よく見ると妙だった。
蔓には葉がほとんどない。
さらに、その下だけ小動物の骨がいくつも散らばっている。
シグが眉を寄せた。
「……魔獣か?」
「ソーン・クリーパー」
エルセリアは地面へ落ちていた細い枝を拾った。
「植物型の魔獣よ。根を張った場所からほとんど動かず、獲物が射程へ入るまで待っている」
枝を前へ投げる。
何も起きない。
次に彼女は小石を拾い、先ほどより奥へ放った。
石が土へ落ちた瞬間、地面が盛り上がった。
土を突き破って、成人の腕ほどもある茨が伸びる。鋭い棘を並べた蔓が、石の落ちた場所を横殴りに薙いだ。
シグが思わず剣へ手を掛ける。
「待って」
エルセリアは動かなかった。
茨が空振りしたまま地面を探る。
やがて何も捕らえられなかったことを悟ったのか、茂みの奥へゆっくりと引いていった。
「目はない。地面に広げた根で振動と魔力を拾ってる」
「じゃあ、さっき枝には反応しなかったのは……」
「軽すぎたから。石の衝撃でようやく獲物だと判断した」
エルセリアは少し離れた位置へ回り込んだ。
「本体はあそこ」
茂みのさらに奥。
蔓の隙間に、暗緑色の塊が僅かに見えていた。
樹皮に似た外皮で覆われ、周囲の植物に埋もれている。知らずに通れば、大きな根か岩だと思ってしまうだろう。
「気づかなかった……」
「普通はそうよ。擬態しているから、視覚だけで探しても見つけにくい」
シグは周囲を見る。
小動物の骨。
不自然に広がった蔓。
地面からわずかに露出している根。
一つ一つは目に入っていたはずなのに、それらが「危険」を意味するとは考えなかった。
「倒すのか?」
「必要ないわ」
エルセリアは即答した。
「向こうは追ってこられない。位置が分かったなら射程を迂回すれば済む」
「魔獣なのに?」
「目にした魔獣を全部殺す必要はないでしょう」
シグは黙った。
西方軍で魔獣討伐の訓練を受けていると、遭遇した魔獣へどう攻撃するかを先に考えてしまう。
エルセリアは違う。
戦う必要があるかどうかから判断している。
「剣を抜く前に周りを見ることね。強い攻撃ができても、相手がどこにいるのか分からなければ意味がない」
「……覚えておく」
エルセリアはそれ以上何も言わず、迂回路を進んだ。
昼を過ぎた頃、二人は沢の近くで休息を取った。
馬へ水を飲ませている間、シグは木陰へ腰を下ろした。
エルセリアは周囲を一周してから戻ってくる。足跡を確認し、風下を見て、近くの木の幹へ残った爪痕まで調べていた。
「ここは大丈夫?」
シグが聞く。
「今のところは」
「今のところ?」
「森で『絶対に安全』なんて言葉は使わない方がいい」
なるほど、と答えかけて、シグはふと思い出した。
「そういえば……一つ聞いていいか?」
「何?」
「俺、あなたのことを何て呼べばいい?」
エルセリアが瞬きをする。
思いがけない質問だったらしい。
「昨日はそんなこと気にする余裕なかったから。ヴァーレンティアさん……でいいのか?」
「長い」
即答だった。
「じゃあ、エルセリアさん?」
「エルセリアでいいわ」
シグは少し迷った。
「年上を呼び捨てって、なんか失礼じゃないか?」
「私がいいと言っているんだから問題ないでしょう」
「……本当に?」
「そこを何度確認するの?」
わずかに呆れた声だった。
シグは小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ……エルセリア」
実際に口にすると、まだ妙な感じがする。
彼女は特に気にした様子もなく荷物を整理している。
「それでいい」
「じゃあ、俺のこともシグでいいから」
「もうそう呼んでるわよ」
言われて初めて気づいた。
「……そうだった」
エルセリアの口元が僅かに緩んだ。
初めて会った時から、掴みどころのない人物だと思っていた。
冷たいわけではない。
かといって、必要以上に優しい言葉を掛けてくるわけでもない。
アンナやヨハンのことを根掘り葉掘り聞くこともなければ、「元気を出せ」と励ますこともない。
それでも、シグが夜中に傷の痛みで目を覚ませば水が手の届く位置に置かれていた。歩けると言っても顔色が悪ければ休ませ、食欲がなければ無理に食べさせず、少量ずつ口にできるものを選んだ。
何も聞かないのは、関心がないからではない。
必要以上に踏み込まないだけなのだと、少しずつ分かってきた。
「エルセリア」
「何?」
今度は先ほどより自然に名前が出た。
「俺の身体のこと、調べてもらえないか?」
彼女の手が止まった。
「具体的には?」
「あの紋章が出てからずっと変なんだ」
シグは胸へ手を置いた。
「傷とは違う。身体の中に、前までなかったものがある気がする。それなのに、暴走した後は何も残ってないみたいに身体が重くなる」
エルセリアは少し考えた後、シグの正面へ座った。
「左手を出して」
シグが差し出す。
エルセリアは手首を取り、目を閉じた。
「何をするんだ?」
「私の魔力を少しだけ流す。抵抗しないで」
シグは頷いた。
ほどなく手首から温かさが入り込んできた。
前腕を通り、肩へ近づく。
そこまでは問題なかった。
次の瞬間、シグの身体の奥で何かが反応した。
「……っ」
エルセリアが目を開く。
送られてきた魔力が消えていく。
外へ漏れたわけではない。
自分の中へ入り込み、その奥にあった何かと混ざった。
エルセリアは手を離さず、今度はさらに細く魔力を送る。
表情が変わった。
「何か分かった?」
すぐには答えない。
エルセリアの集中が続く。やがて手を離すと、シグを見つめた。
「先に確認するけど、本当に今まで魔力がなかったのね?」
「ああ」
「測定したことは?」
「何度もある。子供の頃も、騎士団でも。ずっと同じだった」
「完全に?」
「何も反応しなかった」
エルセリアは黙り込んだ。
その表情を見て、シグの胸に嫌なものが生まれる。
「何なんだよ。そんなにおかしいのか?」
「おかしい」
はっきり言われた。
「今の君には魔力があるもの」
「……え?」
聞き間違えたと思った。
エルセリアは続ける。
「しかも、少しじゃない」
シグは何も言えない。
「まだ二度の暴走による消耗から戻り切っていない。それでも、残っている量だけで普通の人間とは明らかに違う」
「待ってくれ」
ようやく声が出た。
「俺には魔力がないんだ」
「過去形なら、そうだったのかもしれない」
「でも……」
右腕を見るが、黒い紋章は沈黙したままだった。
「これが出たから?」
「分からない」
エルセリアは迷わず答えた。
「関係している可能性は高い。でも、『紋章が発現したから魔力が生まれた』と断定できる材料はない」
「じゃあ、何なんだ?」
「それを調べる必要がある」
シグは自分の掌を見つめた。
十七年間、欲しくて仕方がなかったものだった。
魔力があれば。
紋章さえあれば。
何度そう思ったか分からない。
今、自分の身体には両方がある。
なのに、嬉しいとは思えなかった。
「……どれくらいある?」
「今の状態では正確には測れない」
「大体でも」
エルセリアは少し考えた。
「莫大、としか言えないわね」
シグが顔を上げる。
冗談を言っているようには見えなかった。
「そんなものが、俺の中に?」
「ある」
「でも、何も感じない」
「十七年間使った経験がないんでしょう? 突然大量に持ったところで、すぐ扱えるようになるわけがないわ」
エルセリアは立ち上がった。
「原因を探すのは後。先にやることがある」
「何を?」
「制御」
右腕の紋章が意識へ浮かんだ。
シグの表情が硬くなる。
「……あれを使うのか?」
「使わない」
即答だった。
「その紋章。《ヴォイド・コード》――今は便宜上そう呼ぶとして、それには触れさせない」
「じゃあ?」
「魔力だけを動かす」
エルセリアは左手を見せた。
「感じる。流す。留める。止める。必要な量だけ動かす。まずはそれだけ」
あまりにも地味な内容に聞こえた。
「魔法は?」
「論外」
「そこまで?」
「火を起こす以前に、君は薪を一本だけ持てない状態なのよ」
シグは眉を寄せた。
「そんなにひどいのか?」
「試せば分かる」
エルセリアはシグの左手を開かせた。
「さっき私の魔力が入った時の感覚を覚えてる?」
「ああ」
「同じ場所を探して。そこに自分の魔力がある」
シグは目を閉じた。
最初は何も感じない。
呼吸。
傷の疼き。
湿った土の臭い。
沢の水音。
それらを意識から外し、自分の身体だけへ集中する。
しばらくして、胸の奥に違和感を見つけた。
「……これか?」
「私に聞いても分からない。君の魔力でしょう」
もっともだった。
シグは意識を向ける。
何かがある。
少し動かしてみる。
左腕へ。
そう考えた瞬間だった。
大量の魔力が一気に肩から腕へ流れ込んだ。
「止めて!」
エルセリアの声。
シグは慌てる。
止め方が分からない。
左手から白い光が弾け、周囲の草が大きくなびいた。
エルセリアが手首を掴む。
流れが断たれた。
シグは荒く息を吐いた。
「……今の何だ?」
「君の魔力」
「ちょっと動かしただけだぞ」
「あなたの『ちょっと』が多すぎる」
エルセリアはシグの腕を離した。
「もう一度」
「今ので?」
「失敗した理由が分かったから」
シグは左手を見る。
「何が悪かった?」
「動かす量を決めていない。『腕へ流す』ことしか考えなかったでしょう」
図星だった。
「全部通るわよ、それじゃ」
「全部?」
「今ので全部ではないけど、今の君が扱う量じゃない」
再び構える。
「今度は、動かす前に量を決める。さっきの十分の一」
シグは集中した。
失敗した。
今度は少なすぎて途中で消える。
もう一度。
腕へ流れた魔力が肘で止まらず、掌まで一気に走った。
「多い。肩で一度絞って」
「肩で?」
「力を流す道を細くする感覚。腕全体じゃなく、一本の筋だけを通すつもりで」
言われた通り試す。
三度目。
四度目。
五度目。
少しずつ変わった。
まだ多い。
それでも、エルセリアは失敗するたびに指摘を変える。
「今度は力を込めすぎ」
「そこは止めるんじゃなく留める」
「息を止めない。身体まで固めたら魔力も乱れる」
「出した後が雑。戻すんじゃなく、その場で切る」
シグは次第に、自分が何を失敗しているのか理解できるようになった。
同時に、別のことにも気づく。
「……どうして分かるんだ?」
「何が?」
「俺の中でどこまで魔力が行ったのか」
エルセリアは当たり前のように答えた。
「見てるから」
「見えるのか?」
「表面へ出る魔力の揺れと、筋肉の動き、それに呼吸。慣れれば大体分かる」
シグには到底「大体」とは思えなかった。
西方軍にも魔法を教える騎士はいた。
それでも、数回見ただけで他人の魔力の癖をここまで細かく指摘する者を、シグは知らない。
「エルセリアって、魔法が得意なのか?」
「まあ、それなりに」
何でもないことのように返された。
シグは疑わしげに見る。
「それなりって程度には見えないけど」
「今は君の練習でしょう」
話を戻された。
シグは苦笑しながら、もう一度左手へ集中した。
その日の訓練で最後まで完璧にはできなかった。
だが、ほんの僅かな魔力を左手へ流し、数秒だけ留め、自分の意思で止めるところまでは辿り着いた。
何も壊れない。
黒い紋章も反応しない。
それだけのことが、シグには大きかった。
自分の中にある力へ。
初めて、自分の意思が届いた。




