第五話:その力は誰も選ばない/第五幕:故郷を離れる前に
「生きるために、まずここを離れる」
エルセリアはシグの右腕へ視線を落とした。
「それから、その力が何なのかを調べる」
「……あんたなら、分かるのか」
エルセリアは少しだけ考えた。
「分からない」
シグが目を見開く。
「ただし、調べる方法には心当たりがある」
それ以上は語らなかった。
エルセリアは馬のもとへ戻ろうとして、足を止めた。地面に残された一本の剣を拾い上げる。
シグの剣だった。
刃は傷だらけで、ところどころ欠けている。それでも柄には、長く使い込まれた跡が残っていた。エルセリアはそれをシグへ差し出した。
「持てる?」
シグは剣を見る。魔力も紋章もなかった自分が、強くなれると信じて何年も振り続けてきた剣だった。だが、その剣を握ってきた腕には今、望んでもいなかった力が宿っている。
シグは柄へ手を伸ばした。指が触れる。握ろうとしたが、力が入らなかった。剣の重さを支えきれず、エルセリアが柄を持ち直す。
「無理しない方がいいわね」
「……持てる」
「今は、でしょう」
「俺の剣だ」
エルセリアは少しだけシグを見る。
「分かった。これは私が預かる」
「……返せよ」
「ええ」
エルセリアは剣を鞘へ収めた。
シグはそれを見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。緊張が途切れたせいなのか、急に瞼が重くなる。身体の奥には、もうほとんど力が残っていない。それでも眠ることだけは怖かった。
「……帝国兵は」
「すぐには戻ってこない」
「でも……」
「戻ってくるとしても、先に気付く」
エルセリアは周囲へ視線を巡らせた。
「その時は起こすわ」
シグは黙った。
「眠っていいわ」
「……どれくらい寝ていい」
「好きなだけ。ここには留まらないけれど、君は眠っていていい」
「移動するのか?」
「ええ。帝国兵が戻る前にはね。馬には私が乗せる」
「……落とすなよ」
「努力するわ」
エルセリアは馬の鞍から畳んだ外套を取り出し、地面へ敷いた。
シグはすぐには動かなかった。だが、やがて両手を地面について身体を動かした。エルセリアが肩を貸そうとする。今度は拒まなかった。
外套の上へ横になる。身体を地面へ預けた途端、全身の力が抜けていくのが分かった。
「……村に」
シグが呟き、閉じかけた瞼を開く。
「叔父がいる」
エルセリアは黙って続きを待った。
「アルベルトっていうんだ。アルベルト・フリューゲン」
「叔父さん?」
シグは小さく頷いた。
「……会わないと」
「今の状態で村へ戻るのは危険よ」
「分かってる」
「帝国兵が戻っている可能性もある」
「それも分かってる」
シグは右腕を押さえた。黒い紋章は静かなままだった。
「でも、このままいなくなるのは嫌だ」
エルセリアは何も言わなかった。
「帰れるか分からないんだろ」
「少なくとも、しばらくは難しいでしょうね」
「だったら……一度だけでいい」
声が弱くなる。
「……アルベルトに会わないと」
エルセリアはすぐには答えなかった。
帝国兵の生存者から報告が届けば、次は一個分隊では済まない。シイバへ直接戻るのは危険だが、村へ入らずに会う方法ならある。
「分かった」
シグの瞼が僅かに開いた。
「……いいのか」
「村には入らない」
エルセリアは言った。
「アルベルトと連絡が取れる方法を考える。会うとしても村の外よ」
「……ああ」
「それでいい?」
シグは頷いた。その動きさえ、もう重そうだった。
「なら、今は眠りなさい。目を覚ます頃には、シイバの近くまで行けるでしょう」
シグは目を閉じかけて、もう一度開いた。
「エルセリア」
「何?」
「……あんた、寝てる間にどっか行かないよな」
エルセリアは一瞬だけ黙った。
「行かないわ」
「……そうか」
眠るのが怖くないわけではない。昨日から、目を閉じるたびに何かが変わっている。家を失い、家族は死んだ。次に目覚めた時には知らない紋章が身体に現れ、今度は帝国兵まで死んだ。
再び目を閉じた時、次は何を失うのだろう。
それでも今は、起きていることの方が難しかった。
呼吸が少しずつ深くなる。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
エルセリアはシグが眠ったことを確認すると、右上腕へ視線を移した。黒い紋章に見覚えはない。少なくとも、これまで目にしたどの紋章とも一致しなかった。
指先を近づけるが、触れる寸前で止める。
周囲の消失跡も、焼却や破壊、既知の魔法によるものとは思えない。エルセリアは手を引いた。
なぜ帝国の紋章騎士団がリューン王国領内に入り、この少年を拘束しようとしていたのか。シイバで起きた異変と、この黒い紋章にはどんな繋がりがあるのか。
今のエルセリアには、まだ何一つ断定できない。
だが、ここで調べ続ける時間はない。
エルセリアはシグの剣を馬へ固定すると、周囲の地形を確認した。アルベルトとの接触方法は、移動しながら考えればいい。
その後は――。
エルセリアは右腕の黒い紋章へ目を落とした。まだ決めるには早い。
「ずいぶん厄介なものを抱えたわね、シグ」
エルセリアは眠ったシグを抱き起こし、馬の鞍へ預けた。自らも後ろへ跨がり、少年の身体を片腕で支える。
それでもシグは目を覚まさなかった。
手綱を握る前に一度だけシイバの方角を見た。
馬首を巡らせる。向かうのはシイバではない。帝国兵の目を避けながら、村の外れへ回り込む道を選ぶ。
シグは眠ったままだった。
その道の先には、故郷を離れる前に少年がただ一人、会いたいと願った男がいる。




