第六話:旅立ち/第一幕:故郷をあとに
2026/8/27 改稿
湿った土を噛む馬の蹄音が、重く響いていた。
シグはエルセリアの前で鞍に揺られながら、流れていく森をぼんやりと眺めていた。
身体はまだまともに動かない。背中や胸を打った痛みは残り、深く息を吸うだけでもあばらの辺りが軋む。二度にわたって未知の紋章が暴走した影響か、手足には鉛でも詰め込まれたような重さがあった。
それでも、山小屋で力尽きた時よりはいくらか楽になっている。
裂けた傷には包帯が巻かれ、出血も止まっていた。目を覚ました後、エルセリアから治癒用の紋章魔具で応急処置を施したと聞かされた。傷を完全に治すほどの力はなく、あくまで出血と悪化を防ぐためのものらしい。
ただ、右上腕だけは手をつけられていない。紋章に触れることさえ危険かもしれないと、エルセリアが判断したためだった。
眠りにつく前、シグは一つだけエルセリアへ頼んでいた。
――アルベルトに会いたい。
村へ戻ることが危険なのは理解していた。それでも、何も告げずに遠くへ行くことだけはできなかった。
エルセリアはその希望を拒まなかったが、村の外で会うことを条件として加えた。帝国兵の生存者が本隊へ報告を持ち帰った以上、再び追手が来る可能性は高い。王国側もシイバの異変を放置はしないだろう。
そのためエルセリアは街道を避けながら周辺の情報を集め、避難してきた住民を通じてアルベルトへ短い伝言だけを届けた。
――シグは生きている。
――村へは戻れない。
――日没前、西の旧道へ。
待ち合わせに選んだのは、シイバから少し離れた森の外れだった。周囲を林に囲まれ、街道からも見通せない。短時間なら人目を避けられる場所だった。
「そろそろね」
エルセリアが手綱を引いた。馬の歩みが止まる。
シグは顔を上げた。目の前には静かな森が広がっている。まだ人影はない。
本当に来てくれるのだろうか。アルベルト自身も傷を負っている。妻子を失ったばかりの男に、自分のためだけにここまで来てもらっていいのか。
考えているうちに、木々の奥で枝を踏む音がした。
エルセリアの表情が変わる。
やがて林の間から、一人の男が姿を現した。
肩には血の滲んだ布が巻かれ、衣服は煤と泥で汚れている。いつもなら真っ直ぐ伸びていた背中も、今は僅かに丸まっていた。
シグは息を呑んだ。
「……アルベルト」
男も足を止める。目が合う。
ほんの一瞬、安堵のようなものが顔をよぎった。それでも、「無事でよかった」という言葉は出なかった。妻と息子を同時に失った直後なのだ。シグも、それを求めることはできなかった。
「シグ」
呼ばれた名前だけが、静かな森へ落ちた。
シグは、エルセリアの制止よりも早く、馬から降りようとし、地面へ足をついた瞬間に膝から力が抜けた。
「っ……!」
駆け寄ったアルベルトが、倒れかけた身体を支える。
「無茶をするな」
「アルベルト……」
近くで顔を見る。
生きている。
それを確かめた途端、胸の奥へ押し込めていたものが込み上げてきた。
「……ごめん」
最初に出たのは、それだった。アルベルトの顔が僅かに歪む。
「俺がもっと早ければ……あと少し届いてたら、アンナもヨハンも――」
「シグ」
「俺が弱かったから」
「もういい」
強い声ではなかった。シグを叱る余裕すら、今のアルベルトには残っていない。
「よくない」
シグは俯いた。
「守るって決めたのに、何もできなかった」
アルベルトは黙っていた。風が木々を揺らす。やがて、掠れた声が返ってきた。
「私もだ」
シグが顔を上げる。
「私もあの場にいた。私はアンナの夫で、ヨハンの父親だった。それでも助けられなかったんだ」
アルベルトは一度目を伏せる。
「だから、お前だけの責任にするな」
それ以上の慰めはなかった。同じものを失った者同士、その重さを片方だけに押しつけることはしたくなかった。
「……村は?」
「生き残った者はいる。怪我人も多いが、周辺へ移し始めている」
「トーマス隊長は?」
「まだ意識は戻っていない。ただ、生きてる」
シグは小さく息を吐いた。喜ぶにはあまりにも多くを失っていたが、それでもトーマスは生きている。その事実だけは胸に残った。
「アルベルトは、これからどうするんだ?」
「戻る」
迷いのない返事だった。
「シイバに?」
「ああ」
アルベルトの目が、森の向こうへ向く。
「生き残った者がいる。負傷者もいる。死んだ人間を弔うことだって必要だ。私は村の役人だからな」
「だったら俺も――」
言いかけて、シグは止めた。戻れない。帝国兵は自分を追っている。自分がシイバに残ることで、村へさらなる混乱をもたらすかもしれない。何より、自分自身が右腕の力を制御できていない。
「……俺までいなくなったら」
アルベルトがシグを見る。
「アルベルト、一人になるだろ」
口にした瞬間、胸が痛んだ。アルベルトはしばらく黙っていたが、小さく息を吐き答えた。
「そうだな……」
否定はしなかった。シグの指が強く握られる。
「じゃあ――」
「それでも、お前をシイバへ戻すわけにはいかない」
アルベルトは静かに首を振った。
「今のお前が帰れば、帝国だけじゃなく王国からも調べられる。お前自身が何をしたのか分かっていない以上、何を言ってもすぐには信じてもらえないだろう」
視線がシグの右腕へ落ちる。
「それに、その力を止められないまま戻ってきて、また誰かを巻き込んだら……一番苦しむのはお前だ」
シグは何も言えなかった。
「帰ってこいとは言わない」
シグは黙ってアルベルトを見る。
アルベルトの視線は、もう右腕には向いていなかった。
「ただ、お前はお前のままでいろ」
シグは息を止めた。
「……分かった」
声は掠れていた。
アルベルトは小さく頷くと、懐へ手を入れた。
「渡しておきたいものがある」
取り出したのは、小さな布包みだった。中から一本のペンダントが現れた。
「これは?」
「お前の母親が遺したものだ」
シグの動きが止まる。
「……母さん?」
「エレノア。お前を産んだ母親だ」
シグはペンダントから目を離せなかった。自分を産んだ時に亡くなった、実感の乏しい人。それでも今、目の前にあるものへ、その人が触れていた。シグは恐る恐る手を伸ばした。
「どうして、アルベルトが持ってたんだ?」
「預けられていた」
「誰に?」
「レオルドだ」
聞き慣れた名前なのに、シグの顔が僅かに強張った。
「お前がまだ小さい頃、俺にこれを預けた。エレノアがお前のために遺したものだから、いつか渡してほしい。そう言われていた」
「父さんが……?」
「ああ。俺にも分からん。いつ渡すのが正しかったのか、今でも分からない」
シグは掌の中を見つめた。母が遺したもの。父が託したもの。そして今、アルベルトから自分へ渡された。
「何か特別なものなのか?」
「詳しいことは俺も知らない。ただ、エレノアが遺したものだ」
シグが鎖を首へ掛けると、小さな飾りが胸元へ落ちた。ほとんど重さなどないはずなのに、その存在を不思議とはっきり感じた。
アルベルトがシグを見る。口を開きかけたが、言葉にはならなかった。
「行け」
シグも頷く。
「……行ってくる」
「行ってこい」
それ以上は言わなかった。二人は抱き合わず、別れを惜しむ言葉も重ねない。そんなことをすれば、どちらも動けなくなる気がした。
シグはエルセリアのもとへ戻った。振り返る。アルベルトは同じ場所に立っている。疲れ切った顔で、それでもシグを見送っていた。
シグは胸元のペンダントへ触れた。そして前を向き、歩みを進めた。
アルベルトと別れた後、エルセリアは目的地について語った。エルバ自由都市同盟。リューンと同じく、国教を持たない中立の国だ。シイバから王都側は帝国兵に監視されている可能性があり、危険を避けるためだった。
二人は森を大きく回り込み、高台へ向かう。木々が途切れた場所へ出ると、遠くにシイバが見えた。
シグの足が止まる。焼け落ちた家々。崩れた屋根。まだ細い煙が上がっている。
そこに、自分の十七年があった。アルベルトたちと暮らした家があり、紋章も魔力もない自分が、それでも騎士になれると信じて剣を振り続けた。
今はもう、遠い。
シグは黙って故郷を見つめた。エルセリアも声を掛けない。
大切な人をすべて失ったわけではない。アルベルトもトーマスも生きている。そして、母が遺したものも胸にある。
「……行きます」
長い沈黙の後、シグが言った。
帰りたい。その気持ちは消えていない。けれど今は、帰れない。戻れるかどうかを考える前にやらなければならないことがある。
右上腕へ手を添える。
「これが何なのか、理解しないと」
自分の力で、もう誰かを傷つけないために。
シグは故郷から目を離した。そして、自分から背を向ける。エルセリアも何も言わず歩き始めた。
二人の向かう先には、エルバ自由都市同盟へ続く道がある。
帰ることができないから、今は離れる。
見慣れた風景の輪郭が滲んだ。そこで初めて、シグは泣いた。
陽の沈む故郷の風景を背中に感じながら、シグ・フリューゲンの十七年は、こうして一つの区切りを迎えた。
神暦二五一七年。後に世界を揺るがすことになる彼の旅は、この日、名もなき辺境の村から始まった。




