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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第五話:その力は誰も選ばない/第四幕:生きたいか

 森の奥へ消えていく足音を、シグはただ聞いていた。


 追う者はいない。剣を向けてくる者も、拘束の術式を展開する者もいない。つい先ほどまで周囲を取り囲んでいた帝国兵たちは、生き残った者だけで負傷者を支えながら撤退していった。


 辺りは静けさを取り戻した。それなのに、耳の奥ではまだ悲鳴がこびり付いている。


 シグは右腕を押さえたまま、その場に立ち尽くしていた。黒い紋章の周囲から溢れていた異様な力は弱まり、色を失っていた景色もそれ以上は広がっていない。足元にまとわりついていた拘束術式は跡形もなく消え、その代わりに地面の一部が不自然に欠けていた。


 そこにあったものが、なくなっている。


 視線を動かす。


 山小屋の壁が半分ほど消えていた。そして、帝国兵が立っていた場所にも、何も残っていなかった。


 何人いたのか、もう分からない。誰が逃げ、誰が消えたのかも曖昧だった。ただ、自分へ剣を向けていた兵士たちが、確かにそこにいたことだけは覚えている。


 黒い怪物が消えた時も、自分には何が起きたのか分からなかった。ただ殺したいと願い、力を求め、その後の記憶は途切れている。


 だが、今度は違う。帝国兵を殺したいなど、一度も思っていない。


「俺は……こんなこと……」


 紋章を左手で覆い隠そうとしても、皮膚の下へ刻み込まれたものは消えない。逃げられないという事実に、帝国兵に囲まれていた時とは別の恐怖が芽生え始める。


 不意に膝から力が抜けた。


「っ……!」


 地面へ手をつく。腕で身体を支えようとしても、肘が震えて力が入らない。呼吸をするたびに胸が痛み、視界の端が暗くなっていく。


 身体の内側が空っぽだった。


 昨夜よりもひどい。


 ほんの少し前まで、確かに何かが身体の奥を駆け巡っていた。生まれてから一度も感じたことのない、途方もない力。それが今は急速に失われ、身体そのものまで一緒に削られていくようだった。


 それでも意識を失うわけにはいかなかった。


 帝国兵は逃げただけだ。次はもっと大勢で戻ってくるかもしれない。


「……動けよ」


 自分の脚へ吐き捨てる。


 その時だった。


 遠くから、蹄の音が聞こえた。森を縫うように、こちらへ近づいてくる。


 帝国兵が戻ってきた。


 そう思った瞬間、身体が反射的に動いた。剣を持ち上げようとする。だが、切っ先が地面から僅かに離れただけで腕が震えた。


 右腕へ視線を落とす。


「駄目だ……」


 もし、またこれが動いたら。次に来る人間まで。


 蹄の音が近づき、木々の向こうから一頭の黒馬が姿を現す。騎手は周囲の惨状を認めると速度を落とし、荒れた地面を避けながら小屋へ近づいてきた。


 白を基調とした帝国の軍装ではない。外套の下には軽鎧。胸元まで伸びたダークシルバーの髪が、走ってきた風を受けて揺れている。


 女だった。


 シグより年上に見える。


 女はすぐに馬を近づけなかった。手綱を引き、少し離れた場所で止まる。


 その視線が最初に向いたのは、シグではなく、その周囲だった。


 欠落した地面。半ば消失した山小屋。途中から失われた木々。散乱した帝国兵の装備。


 女の灰色の瞳が現場を辿り、やがて消失した地面の境界で止まった。


「……これは」


 馬から降りると、森へ続く足跡を確認する。それから、ようやくシグを見た。


 シグは地面へ膝をついたまま、その女を見返した。


「……誰だ」


 女は答えず、シグの全身を確認した。傷。破れた衣服。煤。乾いた血。地面へ落ちた剣。


 最後に、右上腕。


 灰色の瞳が僅かに細められた。


「なるほど」


 女が小さく呟く。


 シグには、その言葉の意味が分からなかった。


「何が……なるほどなんだ」


「説明は後」


 女はそう答えると、シグとの距離を少しずつ縮めてきた。


「来るな」


 シグが掠れた声を出す。


 女の足が止まった。


「……来ないでくれ」


 右腕を押さえる。


「俺に近づくな」


 女は何も言わなかった。


 シグは自分の周囲へ視線を落とした。


「俺が……やった」


 言葉にした途端、喉が詰まる。


「何もしてない。するつもりもなかった。なのに、こいつが勝手に……」


 右腕を掴む指へ力が入る。


「兵士が……消えた」


 女の視線が、周囲に残された装備へ向いた。


「何人?」


「分からない」


「帝国兵は全員死んだ?」


「分からない……何人か逃げた。たぶん……」


「そう」


 女は短く答えた。


 責める声ではなかった。慰める声でもない。ただ、事実を確認している。


 その落ち着きが、今のシグにはかえって理解できなかった。


「怖くないのか」


 女の眉が僅かに上がる。


「何が?」


「俺が」


 シグは右腕を見せた。


「これがまた動くかもしれない」


 女は黒い紋章へ目を向けた。


「その可能性はあるでしょうね」


 あまりにも簡単に認められ、シグは言葉を失った。


「だったら――」


「だから、君の状態を確認する必要がある」


 女は再び歩き出した。


「来るなって言ってるだろ……!」


 声を荒げた瞬間、胸へ痛みが走った。シグは咳き込み、地面へ手をつく。


 女が足を速める。


「来るな……!」


「安心しなさい」


 低く、落ち着いた声だった。


「今の君には、私と争うだけの力は残っていない」


 シグが顔を上げる。


「それに、その紋章が再び動いたとしても、君をここへ置いていく理由にはならない」


 理解できなかった。


 村人には呪われていると言われ、帝国兵には拘束されかけ、今度は自分が人を殺したかもしれない。それでも、この女は逃げようとしない。


「……何なんだよ、あんた」


 女は少しだけ表情を緩めた。


「エルセリア」


「……え?」


「エルセリア・ヴァーレンティア。それが私の名前」


 エルセリアはシグの前へしゃがみ込んだ。


「君は?」


 一瞬迷ったが、隠す意味もない。


「……シグ」


「シグ?」


「シグ・フリューゲン」


 その名を聞いた瞬間、エルセリアの目が僅かに変わった。


「フリューゲン……」


 シグは顔を上げた。


「俺の名前を知ってるのか?」


「いいえ。君のことは知らない」


 一拍置いて、エルセリアは続ける。


「少なくとも、今まではね」


 意味を尋ねようとしたが、その前にエルセリアの手が伸びた。


 シグは反射的に身体を引く。


「触るわよ。傷を見るだけ」


「……」


「嫌なら自分で立ってみなさい」


 シグは地面へ手をつき、力を込めた。腕が震え、身体は持ち上がらない。


「……無理みたいね」


「分かってる……」


 エルセリアはシグの首筋へ指を当て、呼吸と脈を確かめた。続いて傷の状態を見ながら、手早く全身へ視線を走らせた。


「外傷だけじゃない」


「……何が」


「身体の中がほとんど空になってる」


 シグの表情が変わる。


「分かるのか?」


「魔力よ」


 その言葉に、シグは眉を寄せた。


「俺には……魔力なんてない」


 エルセリアの手が止まった。


「ない?」


「生まれた時から。ずっとそうだった」


 灰色の瞳がシグを見る。


 先ほどまでとは違う。明確な疑問が宿っていた。



「……そう」


 エルセリアの視線が、再び右上腕の紋章へ落ちた。


 生まれつき魔力を持たなかったという少年の身体に、今は枯渇した痕跡がある。見覚えのない黒い紋章も、周囲に残された異常な消失跡も、彼女の知る理屈では説明がつかない。


 だが、今ある情報だけで答えを出すのは早い。


「今ここで話しても、君には最後まで聞く体力がないわ」


「……」


「私にも、まだ分からないことが多すぎる」


 エルセリアは立ち上がった。そのまま帝国兵が撤退した方向を見る。


 木々の向こうに人影はない。だが、生存者がいる限り、報告は必ず届く。次に来るのは、先ほどと同じ人数では済まない。


「シグ。ここを離れるわよ」


「……どこへ」


「まず帝国兵がすぐには追ってこられない場所まで」


「待ってくれ」


 シグは顔を上げた。


「村は……」


 エルセリアの表情が僅かに変わる。


「シイバへ戻る」


「今は駄目」


 即答だった。


「何でだよ」


「帝国兵が君を探している。しかも、さっきの生存者は君が仲間を殺したと報告するでしょうね」


 シグの呼吸が止まった。


「俺は……」


「分かっている」


 エルセリアの声は静かだった。


「君が何をしたかったのかと、彼らが何を見たのかは別の話よ」


 シグは何も言えなかった。


 自分は殺したくなかった。それでも、彼らは消えた。


「それに、ここはリューン王国領内よ」


 エルセリアが続ける。


「帝国兵が多数死んだ以上、帝国だけの問題では終わらない。遅かれ早かれ、王国側も動く」


「騎士団なら……話せば」


「何を話すの?」


 シグは言葉に詰まった。


「自分でも分からない力が勝手に動いて、帝国兵を消した。そう説明する?」


「……」


「嘘だとは言っていない。でも、それで君の疑いが晴れるとも思わない」


 反論できなかった。


 エルセリアはしばらくシグを見つめていた。


「シグ」


 先ほどまでとは違う声だった。


「君は、生きたい?」


 シグは顔を上げた。


 質問の意味が、すぐには理解できなかった。


「……何だよ、それ」


「そのままの意味よ」


 エルセリアの顔から柔らかさが消えていた。


「君が生きたいと思っているのか、それを聞いている」


 シグは答えられなかった。


 生きたいのか。


 昨日までなら、考えるまでもなかった。


 騎士になり、強くなりたかった。アルベルトに認められ、ヨハンへ剣を教える約束もした。アンナの料理を食べて、明日になればまたいつもの一日が来ると思っていた。


 もう、その明日は来ない。


 故郷へ戻れるかも分からず、自分の腕には人を殺すかもしれない力が宿っている。


 生きて何をするのか、その答えが見つからなかった。


 エルセリアは急かさない。シグが自分で答えるまで、ただ待っていた。


「……分からない」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


「生きたいのかなんて……今は、分からない」


 エルセリアは黙って聞いている。


 シグは俯いた。


「アンナも、ヨハンも死んだ。俺は助けられなかった。村もあんなことになって……今度は帝国兵まで……」


 声が掠れる。


「俺が生きてたら、また誰かが死ぬかもしれない」


 それを口にした瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。


 ならば。


 自分がいなくなればいいのではないか。


 その考えが形になるより早く、エルセリアの声が遮った。


「そう」


 静かな声だった。


「もし君が、生きることを望まないのなら」


 灰色の瞳が、真っ直ぐにシグを見る。


「この場で君は死ぬべきよ」


 シグの瞳が大きく開いた。


「君の身体は限界に近い。帝国兵も戻ってくる。ここへ残れば、そう遠くないうちに死ぬでしょうね」


 淡々と事実だけを並べる。


「私が無理に君を生かすことはできない。君自身が生きることを捨てるなら、私がここから連れ出しても意味がない」


 シグの喉が鳴った。


 死ぬという言葉が、初めて自分自身へ向けられた。


 怪物に追い詰められた時とは違う。


 あの時は死ぬと思った。だが今は、選べと言われている。


 シグの指が土を掴んだ。


 アンナの顔、ヨハンの声、アルベルトの姿が脳裏をよぎる。


 何をしたいのかも、何のために生きればいいのかも分からない。それでも、死を選ぶことだけは身体のどこかが拒絶した。


「……分からない」


 シグは俯いたまま答えた。


「まだ……分からない。でも……死にたくはない」


 エルセリアは何も言わなかった。


 シグは震える指を握り込む。


「何のために生きるのかも、これからどうすればいいのかも分からない。でも……ここで死ぬのは嫌だ」


 ようやく顔を上げる。


「俺は……死にたくない」


 エルセリアは、その答えを聞いて僅かに目を細めた。


「それで十分」


 それ以上の言葉はなかった。


「だったら生きなさい」


 シグが彼女を見る。


「そのために、まずここを離れる」


 エルセリアはシグの右腕へ視線を落とした。


「それから、その力が何なのかを調べる」


「……あんたなら、分かるのか」


 エルセリアは少しだけ考えた。


「分からない」


 シグが目を見開く。


「ただし、調べる方法には心当たりがある」


 それ以上は語らなかった。


 エルセリアは馬のもとへ戻ろうとして、足を止めた。地面に残された一本の剣を拾い上げる。


 シグの剣だった。


 刃は傷だらけで、ところどころ欠けている。それでも柄には、長く使い込まれた跡が残っていた。エルセリアはそれをシグへ差し出した。


「持てる?」


 シグは剣を見る。魔力も紋章もなかった自分が、強くなれると信じて何年も振り続けてきた剣だった。だが、その剣を握ってきた腕には今、望んでもいなかった力が宿っている。


 シグは柄へ手を伸ばした。指が触れる。握ろうとしたが、力が入らなかった。剣の重さを支えきれず、エルセリアが柄を持ち直す。


「無理しない方がいいわね」


「……持てる」


「今は、でしょう」


「俺の剣だ」


 エルセリアは少しだけシグを見る。


「分かった。これは私が預かる」


「……返せよ」


「ええ」


 エルセリアは剣を鞘へ収めた。


 シグはそれを見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。緊張が途切れたせいなのか、急に瞼が重くなる。身体の奥には、もうほとんど力が残っていない。それでも眠ることだけは怖かった。


「……帝国兵は」


「すぐには戻ってこない」


「でも……」


「戻ってくるとしても、先に気付く」


 エルセリアは周囲へ視線を巡らせた。


「その時は起こすわ」


 シグは黙った。


「眠っていいわ」


「……どれくらい寝ていい」


「好きなだけ。ここには留まらないけれど、君は眠っていていい」


「移動するのか?」


「ええ。帝国兵が戻る前にはね。馬には私が乗せる」


「……落とすなよ」


「努力するわ」


 エルセリアは馬の鞍から畳んだ外套を取り出し、地面へ敷いた。


 シグはすぐには動かなかった。だが、やがて両手を地面について身体を動かした。エルセリアが肩を貸そうとする。今度は拒まなかった。


 外套の上へ横になる。身体を地面へ預けた途端、全身の力が抜けていくのが分かった。


「……村に」


 シグが呟き、閉じかけた瞼を開く。


「叔父がいる」


 エルセリアは黙って続きを待った。


「アルベルトっていうんだ。アルベルト・フリューゲン」


「叔父さん?」


 シグは小さく頷いた。


「……会わないと」


「今の状態で村へ戻るのは危険よ」


「分かってる」


「帝国兵が戻っている可能性もある」


「それも分かってる」


 シグは右腕を押さえた。黒い紋章は静かなままだった。


「でも、このままいなくなるのは嫌だ」


 エルセリアは何も言わなかった。


「帰れるか分からないんだろ」


「少なくとも、しばらくは難しいでしょうね」


「だったら……一度だけでいい」


 声が弱くなる。


「……アルベルトに会わないと」


 エルセリアはすぐには答えなかった。


 帝国兵の生存者から報告が届けば、次は一個分隊では済まない。シイバへ直接戻るのは危険だが、村へ入らずに会う方法ならある。


「分かった」


 シグの瞼が僅かに開いた。


「……いいのか」


「村には入らない」


 エルセリアは言った。


「アルベルトと連絡が取れる方法を考える。会うとしても村の外よ」


「……ああ」


「それでいい?」


 シグは頷いた。その動きさえ、もう重そうだった。


「なら、今は眠りなさい。目を覚ます頃には、シイバの近くまで行けるでしょう」


 シグは目を閉じかけて、もう一度開いた。


「エルセリア」


「何?」


「……あんた、寝てる間にどっか行かないよな」


 エルセリアは一瞬だけ黙った。


「行かないわ」


「……そうか」


 眠るのが怖くないわけではない。昨日から、目を閉じるたびに何かが変わっている。家を失い、家族は死んだ。次に目覚めた時には知らない紋章が身体に現れ、今度は帝国兵まで死んだ。


 再び目を閉じた時、次は何を失うのだろう。


 それでも今は、起きていることの方が難しかった。


 呼吸が少しずつ深くなる。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 エルセリアはシグが眠ったことを確認すると、右上腕へ視線を移した。黒い紋章に見覚えはない。少なくとも、これまで目にしたどの紋章とも一致しなかった。


 指先を近づけるが、触れる寸前で止める。


 周囲の消失跡も、焼却や破壊、既知の魔法によるものとは思えない。エルセリアは手を引いた。


 なぜ帝国の紋章騎士団がリューン王国領内に入り、この少年を拘束しようとしていたのか。シイバで起きた異変と、この黒い紋章にはどんな繋がりがあるのか。


 今のエルセリアには、まだ何一つ断定できない。


 だが、ここで調べ続ける時間はない。


 エルセリアはシグの剣を馬へ固定すると、周囲の地形を確認した。アルベルトとの接触方法は、移動しながら考えればいい。


 その後は――。


 エルセリアは右腕の黒い紋章へ目を落とした。まだ決めるには早い。


「ずいぶん厄介なものを抱えたわね、シグ」


 エルセリアは眠ったシグを抱き起こし、馬の鞍へ預けた。自らも後ろへ跨がり、少年の身体を片腕で支える。


 それでもシグは目を覚まさなかった。


 手綱を握る前に一度だけシイバの方角を見た。


 馬首を巡らせる。向かうのはシイバではない。帝国兵の目を避けながら、村の外れへ回り込む道を選ぶ。


 シグは眠ったままだった。


 その道の先には、故郷を離れる前に少年がただ一人、会いたいと願った男がいる。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

投稿を開始してから、第五話 第四幕まであっという間でした。

今回からシグ以外の主要キャラも話の中心に加わってきます。会話シーンが増えたことで執筆も大分苦戦しましたが、楽しんでいただけていれば幸いです。


ブックマーク・評価をいただけたら励みになりますので、ぜひよろしくお願いいたします。


次回もぜひご一読ください。



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