第五話:その力は誰も選ばない/第四幕:生きたいか
森の奥へ消えていく足音を、シグはただ聞いていた。
追う者はいない。剣を向けてくる者も、拘束の術式を展開する者もいない。つい先ほどまで周囲を取り囲んでいた帝国兵たちは、生き残った者だけで負傷者を支えながら撤退していった。
辺りは静けさを取り戻した。それなのに、耳の奥ではまだ悲鳴がこびり付いている。
シグは右腕を押さえたまま、その場に立ち尽くしていた。黒い紋章の周囲から溢れていた異様な力は弱まり、色を失っていた景色もそれ以上は広がっていない。足元にまとわりついていた拘束術式は跡形もなく消え、その代わりに地面の一部が不自然に欠けていた。
そこにあったものが、なくなっている。
視線を動かす。
山小屋の壁が半分ほど消えていた。そして、帝国兵が立っていた場所にも、何も残っていなかった。
何人いたのか、もう分からない。誰が逃げ、誰が消えたのかも曖昧だった。ただ、自分へ剣を向けていた兵士たちが、確かにそこにいたことだけは覚えている。
黒い怪物が消えた時も、自分には何が起きたのか分からなかった。ただ殺したいと願い、力を求め、その後の記憶は途切れている。
だが、今度は違う。帝国兵を殺したいなど、一度も思っていない。
「俺は……こんなこと……」
紋章を左手で覆い隠そうとしても、皮膚の下へ刻み込まれたものは消えない。逃げられないという事実に、帝国兵に囲まれていた時とは別の恐怖が芽生え始める。
不意に膝から力が抜けた。
「っ……!」
地面へ手をつく。腕で身体を支えようとしても、肘が震えて力が入らない。呼吸をするたびに胸が痛み、視界の端が暗くなっていく。
身体の内側が空っぽだった。
昨夜よりもひどい。
ほんの少し前まで、確かに何かが身体の奥を駆け巡っていた。生まれてから一度も感じたことのない、途方もない力。それが今は急速に失われ、身体そのものまで一緒に削られていくようだった。
それでも意識を失うわけにはいかなかった。
帝国兵は逃げただけだ。次はもっと大勢で戻ってくるかもしれない。
「……動けよ」
自分の脚へ吐き捨てる。
その時だった。
遠くから、蹄の音が聞こえた。森を縫うように、こちらへ近づいてくる。
帝国兵が戻ってきた。
そう思った瞬間、身体が反射的に動いた。剣を持ち上げようとする。だが、切っ先が地面から僅かに離れただけで腕が震えた。
右腕へ視線を落とす。
「駄目だ……」
もし、またこれが動いたら。次に来る人間まで。
蹄の音が近づき、木々の向こうから一頭の黒馬が姿を現す。騎手は周囲の惨状を認めると速度を落とし、荒れた地面を避けながら小屋へ近づいてきた。
白を基調とした帝国の軍装ではない。外套の下には軽鎧。胸元まで伸びたダークシルバーの髪が、走ってきた風を受けて揺れている。
女だった。
シグより年上に見える。
女はすぐに馬を近づけなかった。手綱を引き、少し離れた場所で止まる。
その視線が最初に向いたのは、シグではなく、その周囲だった。
欠落した地面。半ば消失した山小屋。途中から失われた木々。散乱した帝国兵の装備。
女の灰色の瞳が現場を辿り、やがて消失した地面の境界で止まった。
「……これは」
馬から降りると、森へ続く足跡を確認する。それから、ようやくシグを見た。
シグは地面へ膝をついたまま、その女を見返した。
「……誰だ」
女は答えず、シグの全身を確認した。傷。破れた衣服。煤。乾いた血。地面へ落ちた剣。
最後に、右上腕。
灰色の瞳が僅かに細められた。
「なるほど」
女が小さく呟く。
シグには、その言葉の意味が分からなかった。
「何が……なるほどなんだ」
「説明は後」
女はそう答えると、シグとの距離を少しずつ縮めてきた。
「来るな」
シグが掠れた声を出す。
女の足が止まった。
「……来ないでくれ」
右腕を押さえる。
「俺に近づくな」
女は何も言わなかった。
シグは自分の周囲へ視線を落とした。
「俺が……やった」
言葉にした途端、喉が詰まる。
「何もしてない。するつもりもなかった。なのに、こいつが勝手に……」
右腕を掴む指へ力が入る。
「兵士が……消えた」
女の視線が、周囲に残された装備へ向いた。
「何人?」
「分からない」
「帝国兵は全員死んだ?」
「分からない……何人か逃げた。たぶん……」
「そう」
女は短く答えた。
責める声ではなかった。慰める声でもない。ただ、事実を確認している。
その落ち着きが、今のシグにはかえって理解できなかった。
「怖くないのか」
女の眉が僅かに上がる。
「何が?」
「俺が」
シグは右腕を見せた。
「これがまた動くかもしれない」
女は黒い紋章へ目を向けた。
「その可能性はあるでしょうね」
あまりにも簡単に認められ、シグは言葉を失った。
「だったら――」
「だから、君の状態を確認する必要がある」
女は再び歩き出した。
「来るなって言ってるだろ……!」
声を荒げた瞬間、胸へ痛みが走った。シグは咳き込み、地面へ手をつく。
女が足を速める。
「来るな……!」
「安心しなさい」
低く、落ち着いた声だった。
「今の君には、私と争うだけの力は残っていない」
シグが顔を上げる。
「それに、その紋章が再び動いたとしても、君をここへ置いていく理由にはならない」
理解できなかった。
村人には呪われていると言われ、帝国兵には拘束されかけ、今度は自分が人を殺したかもしれない。それでも、この女は逃げようとしない。
「……何なんだよ、あんた」
女は少しだけ表情を緩めた。
「エルセリア」
「……え?」
「エルセリア・ヴァーレンティア。それが私の名前」
エルセリアはシグの前へしゃがみ込んだ。
「君は?」
一瞬迷ったが、隠す意味もない。
「……シグ」
「シグ?」
「シグ・フリューゲン」
その名を聞いた瞬間、エルセリアの目が僅かに変わった。
「フリューゲン……」
シグは顔を上げた。
「俺の名前を知ってるのか?」
「いいえ。君のことは知らない」
一拍置いて、エルセリアは続ける。
「少なくとも、今まではね」
意味を尋ねようとしたが、その前にエルセリアの手が伸びた。
シグは反射的に身体を引く。
「触るわよ。傷を見るだけ」
「……」
「嫌なら自分で立ってみなさい」
シグは地面へ手をつき、力を込めた。腕が震え、身体は持ち上がらない。
「……無理みたいね」
「分かってる……」
エルセリアはシグの首筋へ指を当て、呼吸と脈を確かめた。続いて傷の状態を見ながら、手早く全身へ視線を走らせた。
「外傷だけじゃない」
「……何が」
「身体の中がほとんど空になってる」
シグの表情が変わる。
「分かるのか?」
「魔力よ」
その言葉に、シグは眉を寄せた。
「俺には……魔力なんてない」
エルセリアの手が止まった。
「ない?」
「生まれた時から。ずっとそうだった」
灰色の瞳がシグを見る。
先ほどまでとは違う。明確な疑問が宿っていた。
「……そう」
エルセリアの視線が、再び右上腕の紋章へ落ちた。
生まれつき魔力を持たなかったという少年の身体に、今は枯渇した痕跡がある。見覚えのない黒い紋章も、周囲に残された異常な消失跡も、彼女の知る理屈では説明がつかない。
だが、今ある情報だけで答えを出すのは早い。
「今ここで話しても、君には最後まで聞く体力がないわ」
「……」
「私にも、まだ分からないことが多すぎる」
エルセリアは立ち上がった。そのまま帝国兵が撤退した方向を見る。
木々の向こうに人影はない。だが、生存者がいる限り、報告は必ず届く。次に来るのは、先ほどと同じ人数では済まない。
「シグ。ここを離れるわよ」
「……どこへ」
「まず帝国兵がすぐには追ってこられない場所まで」
「待ってくれ」
シグは顔を上げた。
「村は……」
エルセリアの表情が僅かに変わる。
「シイバへ戻る」
「今は駄目」
即答だった。
「何でだよ」
「帝国兵が君を探している。しかも、さっきの生存者は君が仲間を殺したと報告するでしょうね」
シグの呼吸が止まった。
「俺は……」
「分かっている」
エルセリアの声は静かだった。
「君が何をしたかったのかと、彼らが何を見たのかは別の話よ」
シグは何も言えなかった。
自分は殺したくなかった。それでも、彼らは消えた。
「それに、ここはリューン王国領内よ」
エルセリアが続ける。
「帝国兵が多数死んだ以上、帝国だけの問題では終わらない。遅かれ早かれ、王国側も動く」
「騎士団なら……話せば」
「何を話すの?」
シグは言葉に詰まった。
「自分でも分からない力が勝手に動いて、帝国兵を消した。そう説明する?」
「……」
「嘘だとは言っていない。でも、それで君の疑いが晴れるとも思わない」
反論できなかった。
エルセリアはしばらくシグを見つめていた。
「シグ」
先ほどまでとは違う声だった。
「君は、生きたい?」
シグは顔を上げた。
質問の意味が、すぐには理解できなかった。
「……何だよ、それ」
「そのままの意味よ」
エルセリアの顔から柔らかさが消えていた。
「君が生きたいと思っているのか、それを聞いている」
シグは答えられなかった。
生きたいのか。
昨日までなら、考えるまでもなかった。
騎士になり、強くなりたかった。アルベルトに認められ、ヨハンへ剣を教える約束もした。アンナの料理を食べて、明日になればまたいつもの一日が来ると思っていた。
もう、その明日は来ない。
故郷へ戻れるかも分からず、自分の腕には人を殺すかもしれない力が宿っている。
生きて何をするのか、その答えが見つからなかった。
エルセリアは急かさない。シグが自分で答えるまで、ただ待っていた。
「……分からない」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「生きたいのかなんて……今は、分からない」
エルセリアは黙って聞いている。
シグは俯いた。
「アンナも、ヨハンも死んだ。俺は助けられなかった。村もあんなことになって……今度は帝国兵まで……」
声が掠れる。
「俺が生きてたら、また誰かが死ぬかもしれない」
それを口にした瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
ならば。
自分がいなくなればいいのではないか。
その考えが形になるより早く、エルセリアの声が遮った。
「そう」
静かな声だった。
「もし君が、生きることを望まないのなら」
灰色の瞳が、真っ直ぐにシグを見る。
「この場で君は死ぬべきよ」
シグの瞳が大きく開いた。
「君の身体は限界に近い。帝国兵も戻ってくる。ここへ残れば、そう遠くないうちに死ぬでしょうね」
淡々と事実だけを並べる。
「私が無理に君を生かすことはできない。君自身が生きることを捨てるなら、私がここから連れ出しても意味がない」
シグの喉が鳴った。
死ぬという言葉が、初めて自分自身へ向けられた。
怪物に追い詰められた時とは違う。
あの時は死ぬと思った。だが今は、選べと言われている。
シグの指が土を掴んだ。
アンナの顔、ヨハンの声、アルベルトの姿が脳裏をよぎる。
何をしたいのかも、何のために生きればいいのかも分からない。それでも、死を選ぶことだけは身体のどこかが拒絶した。
「……分からない」
シグは俯いたまま答えた。
「まだ……分からない。でも……死にたくはない」
エルセリアは何も言わなかった。
シグは震える指を握り込む。
「何のために生きるのかも、これからどうすればいいのかも分からない。でも……ここで死ぬのは嫌だ」
ようやく顔を上げる。
「俺は……死にたくない」
エルセリアは、その答えを聞いて僅かに目を細めた。
「それで十分」
それ以上の言葉はなかった。
「だったら生きなさい」
シグが彼女を見る。
「そのために、まずここを離れる」
エルセリアはシグの右腕へ視線を落とした。
「それから、その力が何なのかを調べる」
「……あんたなら、分かるのか」
エルセリアは少しだけ考えた。
「分からない」
シグが目を見開く。
「ただし、調べる方法には心当たりがある」
それ以上は語らなかった。
エルセリアは馬のもとへ戻ろうとして、足を止めた。地面に残された一本の剣を拾い上げる。
シグの剣だった。
刃は傷だらけで、ところどころ欠けている。それでも柄には、長く使い込まれた跡が残っていた。エルセリアはそれをシグへ差し出した。
「持てる?」
シグは剣を見る。魔力も紋章もなかった自分が、強くなれると信じて何年も振り続けてきた剣だった。だが、その剣を握ってきた腕には今、望んでもいなかった力が宿っている。
シグは柄へ手を伸ばした。指が触れる。握ろうとしたが、力が入らなかった。剣の重さを支えきれず、エルセリアが柄を持ち直す。
「無理しない方がいいわね」
「……持てる」
「今は、でしょう」
「俺の剣だ」
エルセリアは少しだけシグを見る。
「分かった。これは私が預かる」
「……返せよ」
「ええ」
エルセリアは剣を鞘へ収めた。
シグはそれを見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。緊張が途切れたせいなのか、急に瞼が重くなる。身体の奥には、もうほとんど力が残っていない。それでも眠ることだけは怖かった。
「……帝国兵は」
「すぐには戻ってこない」
「でも……」
「戻ってくるとしても、先に気付く」
エルセリアは周囲へ視線を巡らせた。
「その時は起こすわ」
シグは黙った。
「眠っていいわ」
「……どれくらい寝ていい」
「好きなだけ。ここには留まらないけれど、君は眠っていていい」
「移動するのか?」
「ええ。帝国兵が戻る前にはね。馬には私が乗せる」
「……落とすなよ」
「努力するわ」
エルセリアは馬の鞍から畳んだ外套を取り出し、地面へ敷いた。
シグはすぐには動かなかった。だが、やがて両手を地面について身体を動かした。エルセリアが肩を貸そうとする。今度は拒まなかった。
外套の上へ横になる。身体を地面へ預けた途端、全身の力が抜けていくのが分かった。
「……村に」
シグが呟き、閉じかけた瞼を開く。
「叔父がいる」
エルセリアは黙って続きを待った。
「アルベルトっていうんだ。アルベルト・フリューゲン」
「叔父さん?」
シグは小さく頷いた。
「……会わないと」
「今の状態で村へ戻るのは危険よ」
「分かってる」
「帝国兵が戻っている可能性もある」
「それも分かってる」
シグは右腕を押さえた。黒い紋章は静かなままだった。
「でも、このままいなくなるのは嫌だ」
エルセリアは何も言わなかった。
「帰れるか分からないんだろ」
「少なくとも、しばらくは難しいでしょうね」
「だったら……一度だけでいい」
声が弱くなる。
「……アルベルトに会わないと」
エルセリアはすぐには答えなかった。
帝国兵の生存者から報告が届けば、次は一個分隊では済まない。シイバへ直接戻るのは危険だが、村へ入らずに会う方法ならある。
「分かった」
シグの瞼が僅かに開いた。
「……いいのか」
「村には入らない」
エルセリアは言った。
「アルベルトと連絡が取れる方法を考える。会うとしても村の外よ」
「……ああ」
「それでいい?」
シグは頷いた。その動きさえ、もう重そうだった。
「なら、今は眠りなさい。目を覚ます頃には、シイバの近くまで行けるでしょう」
シグは目を閉じかけて、もう一度開いた。
「エルセリア」
「何?」
「……あんた、寝てる間にどっか行かないよな」
エルセリアは一瞬だけ黙った。
「行かないわ」
「……そうか」
眠るのが怖くないわけではない。昨日から、目を閉じるたびに何かが変わっている。家を失い、家族は死んだ。次に目覚めた時には知らない紋章が身体に現れ、今度は帝国兵まで死んだ。
再び目を閉じた時、次は何を失うのだろう。
それでも今は、起きていることの方が難しかった。
呼吸が少しずつ深くなる。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
エルセリアはシグが眠ったことを確認すると、右上腕へ視線を移した。黒い紋章に見覚えはない。少なくとも、これまで目にしたどの紋章とも一致しなかった。
指先を近づけるが、触れる寸前で止める。
周囲の消失跡も、焼却や破壊、既知の魔法によるものとは思えない。エルセリアは手を引いた。
なぜ帝国の紋章騎士団がリューン王国領内に入り、この少年を拘束しようとしていたのか。シイバで起きた異変と、この黒い紋章にはどんな繋がりがあるのか。
今のエルセリアには、まだ何一つ断定できない。
だが、ここで調べ続ける時間はない。
エルセリアはシグの剣を馬へ固定すると、周囲の地形を確認した。アルベルトとの接触方法は、移動しながら考えればいい。
その後は――。
エルセリアは右腕の黒い紋章へ目を落とした。まだ決めるには早い。
「ずいぶん厄介なものを抱えたわね、シグ」
エルセリアは眠ったシグを抱き起こし、馬の鞍へ預けた。自らも後ろへ跨がり、少年の身体を片腕で支える。
それでもシグは目を覚まさなかった。
手綱を握る前に一度だけシイバの方角を見た。
馬首を巡らせる。向かうのはシイバではない。帝国兵の目を避けながら、村の外れへ回り込む道を選ぶ。
シグは眠ったままだった。
その道の先には、故郷を離れる前に少年がただ一人、会いたいと願った男がいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
投稿を開始してから、第五話 第四幕まであっという間でした。
今回からシグ以外の主要キャラも話の中心に加わってきます。会話シーンが増えたことで執筆も大分苦戦しましたが、楽しんでいただけていれば幸いです。
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次回もぜひご一読ください。




