第五話:その力は誰も選ばない/第三幕:触れてはならぬ力
「全員、下がれ!」
分隊長の号令を受け、帝国兵たちは即座に動いた。シグへ向けていた剣と槍を引き、互いの間隔を広げながら後退する。拘束術式を展開していた二人も魔力を切ろうとしたが、足元に描かれていた白い光はすでに別の変化を始めていた。
術式の一角が消えている。
光が弱まったのではない。地面へ刻まれていた紋様ごと、そこだけ最初から何もなかったように抜け落ちていた。
「術式を解除しろ!」
「やっています! ですが、反応が――」
騎士の言葉が止まる。
シグの右上腕から、黒いものが滲み出していた。
煙ではない。影とも違う。黒い紋章の周囲から色彩だけが薄れ、その境界がゆっくりと外側へ広がっている。
「違う……」
シグは右腕を掴んだ。
昨日と同じだった。
焼けるような熱が皮膚の奥から広がり、鼓動とは異なる脈動が腕を伝って胸へ響く。
「止まれ……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
今は誰も殺したくない。
目の前の帝国兵たちと戦いたいわけでもない。
拘束されたくなかった。ただ、それだけだ。
それなのに。
黒い紋章はシグの意思を待たなかった。
足元で土が消えた。
抉れたのではない。草も落ち葉も、その下にあった土も同じ形のまま失われ、深ささえ判別できない空白が生まれる。
「散開!」
兵たちは左右へ大きく跳んだ。
直後、空白の縁から黒い揺らぎが地面を這う。
一本の槍が巻き込まれた。石突きから柄へ向かって、武器の形が途中で途切れていく。木片も鉄片も残らない。槍を握っていた騎士は反射的に手を放し、後方へ転がった。
「触れるな! 武器も地面も関係ない!」
別の騎士が叫ぶ。
その警告とほぼ同時に、黒い揺らぎが山小屋の壁へ届いた。
板壁の中央へ不自然な空白が開く。木材は折れず、裂けもしない。壁へ絡みついていた蔦まで同じ形に失われ、残された上部が支えをなくして傾いた。
帝国兵たちの表情が変わる。
彼らが知る魔法なら、防ぎようがある。だが、目の前の現象には、そのどれも当てはまらなかった。
一人の騎士が両手を地面へ向けた。
「《アース・ライズ》!」
大地が隆起し、分厚い壁となってシグとの間へ立ち上がる。しかし、黒い揺らぎがその表面へ触れた瞬間、中央部分だけが音もなく失われた。
「なっ――」
亀裂すらなく、穴は瞬く間に広がった。
防壁という意味だけが、そこでは通用していなかった。
「防御するな! 距離を取れ!」
分隊長は即座に命令を変えた。
帝国兵たちは防御を捨て、森へ向かって後退する。傷を負った者を庇いながらも、誰一人としてシグへ攻撃を返そうとはしない。
シグにはその判断を見る余裕がなかった。
「やめてくれ……」
右腕を締め付ける。
爪が皮膚へ食い込み、血が滲む。それでも紋章の熱は消えない。むしろ自分の身体から何かを吸い上げるように、黒い力だけが強くなっていく。
呼吸が苦しい。
脚の感覚も薄れてきた。
なのに、周囲へ広がる虚無だけは勢いを失わない。
「俺は……何も……」
言葉の続きを、悲鳴が遮った。
左側へ退いていた騎士が地面へ倒れる。
黒い揺らぎが彼の足元を横切っていた。
右脚が、膝から下だけ失われている。
血はほとんど流れていなかった。肉が裂けた傷口も、露出した骨もない。人間の身体が、その場所で唐突に終わっている。
騎士自身が一番理解できていなかった。
「……俺の、脚……」
隣にいた兵が腕を掴んだ。
「立て! 運ぶぞ!」
身体を引き起こした瞬間、別の黒い帯が二人の脇を通過する。
救助していた騎士の手甲が欠けた。
続けて右手が手首から先まで消える。
「ぐあああッ!」
絶叫が森へ響いた。
シグの全身が震えた。
「やめろ!」
黒い魔力が大きく膨らむ。
「違う! 俺はやってない!」
否定した瞬間、胸が強く締め付けられた。
違う。
確かに自分は剣を振っていない。魔法を放った覚えもない。だが、右腕から広がっている「それ」だけは否定できなかった。
(止めろ)
強く願う。
(頼むから、止まれ)
返事の代わりに、黒い紋章がまた脈打った。
虚無が空中へ広がり、薄い膜のような歪みが木々の間を横切る。一本の大木の幹が途中から消え、支えを失った上半分が傾いた。
「上だ!」
帝国兵たちが散る。
一人が転倒した仲間の肩を抱え、必死に引きずっていた。倒木の影が二人を覆う。
「置いていけ!」
「できるか!」
騎士は負傷者を突き飛ばした。
次の瞬間、落ちてきた幹と黒い揺らぎが重なる。
音が途切れた。倒木の中央部分が失われる。
その下にいた騎士の姿も、一緒に欠けた。
肩から左半身がない。残った身体が地面へ倒れた時には、もう声を上げることもできなかった。
黒い空白がさらに重なる。残された身体まで、輪郭から静かに失われていった。
シグは目を見開いたまま動くことができなかった。
自分の目の前で人が消えた。
名前も知らない人間だった。
だが、その男は仲間を助けようとしていた。
自分を殺そうとしていたわけではない。
「……あ」
喉から掠れた音が漏れる。
昨日、アンナとヨハンが死んだ時とは違う。
この紋章の力が人間へ触れた瞬間を、今度は見ていた。
「違う……」
声が震える。
「違う……俺は、そんなつもりじゃ……」
言い訳のように聞こえた。
誰に弁明しているのかも分からない。
帝国兵たちはもうシグを見ていなかった。生き残るため、仲間を連れて暴走範囲から離れようとしている。
「分隊長! さらに広がります!」
「確保を中止する!」
分隊長は迷わなかった。
「全員撤退! 動ける者は負傷者を連れて森の外へ出ろ! 対象には近づくな!」
「了解!」
返事と同時に隊列が崩れる。
ただし、混乱して逃げ散ったわけではない。二人一組で負傷者を支え、黒い揺らぎの薄い場所を見極めながら後退していく。
それでも全員は救えなかった。
地面に生まれた空白を飛び越えようとした騎士の片足が、その縁へ触れた。
靴先から足首が消える。
勢いのまま身体が前へ倒れ、右腕を地面へついた。
そこにも黒い揺らぎがあった。
「待っ――」
声が途中で切れた。
右腕から肩口までが失われ、身体が大きく傾く。駆け寄ろうとした仲間を、分隊長が腕を掴んで止めた。
「行くな!」
「ですが!」
「二人とも死ぬ!」
騎士は歯を食いしばった。目の前で仲間が呑み込まれていく。
助けられない。
その姿を見ながら、シグも同じことを思っていた。
助けたい。だが、一歩近づけばどうなる。
自分が動くことで虚無まで彼らへ近づくかもしれない。
何もしない方がいい。
今は、自分こそが近づいてはいけない存在だった。
「止まれ……」
声はもうほとんど出なかった。
「お願いだから……」
右腕の脈動は弱まらず、身体だけが急速に冷えていく。
頭の奥が締め付けられ、視界に黒い点が浮かび始める。胃の中には何も残っていないのに吐き気が込み上げた。
自分の内側から、また何かが削られている。
それが何なのか、シグには分からない。
ただ、この力が続くほど身体が空っぽになっていくことだけは感じ取れた。
どれほど経ったのか。
数十秒なのか、数分なのか。シグには判断できなかった。
黒い魔力は山小屋の周囲を無差別に侵食し続けた。地面が欠け、木々が途中から消え、帝国兵たちが残した武器も次々と姿を失う。
やがて森の中から、人の声が遠ざかっていった。
◇
暴走の範囲から離れたところで、分隊長は足を止めた。
「人数を確認しろ」
返事が上がる。
生き残った騎士たちが互いの姿を確かめていく。血に濡れた者。片腕を失った者。仲間に支えられ、辛うじて立っている者。
だが、返事の数が足りない。
「……四名です」
分隊長の顔が硬くなる。
「残りは確認できるか」
「……いえ」
森の奥を見ても、誰も戻ってこない。
先ほどまでそこにいた仲間たちが、今はもういない。
「分隊長……対象を追いますか」
尋ねた兵の声には、隠しきれない恐怖が混じっていた。
分隊長は森を見据えた。
任務は未知の紋章保持者の確保。
対象は十代の少年で、身体には重傷を負っている。
本来ならば、この人数で失敗するような任務ではなかった。
だが、その判断基準自体が通用しなかった。
「現状の戦力では確保不能と判断する。撤退する」
誰も異論を唱えない。
「本隊へ直接報告する。見た現象、失った装備、負傷者の状態、すべて記録に残せ」
一人の騎士が俯いた。
「死んだ者たちは……」
分隊長は少しだけ目を伏せた。
「全員記録する。名前も、最後に確認した位置もだ」
その声には、先ほどまでとは違う重さがあった。
分隊長は最後に森の奥へ視線を戻す。
シグは追ってこない。
こちらへ攻撃を仕掛けてもこなかった。
最後まで怯え、自分の右腕を押さえていた。
だからといって、起きたことが消えるわけではない。
未知の紋章が発動した結果、帝国騎士が死んだ。
それは報告書に記さなければならない事実だった。
「行くぞ」
生き残った騎士たちは負傷者を支え、森を離れていった。
◇
黒い揺らぎが消え始めたことに、シグが気付いたのはしばらく後だった。
最初に薄れたのは足元だった。色を奪っていた黒い膜が途切れ、続いて右腕の熱も弱まっていく。
止まった。
そう理解するまでに時間がかかった。
身体を起こすことはできず、地面へ膝をついたまま、ただ荒い呼吸を繰り返す。
やがて、シグは顔を上げた。
山小屋は半分以上が失われていた。
壁には不自然な空白が開き、屋根は途中から消えている。周囲の木々も、刃物で切断したような形ではなく、存在そのものを途中で断たれていた。
帝国兵の姿はない。
少し前まで自分を囲んでいた人間たちが、誰一人として残っていなかった。
地面へ視線を落とす。
途中までしかない槍。半分を失った盾。泥の上には、血に濡れた帝国騎士の外套が落ちていた。
「……」
シグの唇が震える。
記憶はある。
目の前で脚を失った男。仲間を逃がそうとして虚無へ呑まれた騎士。助けに戻ろうとした者を、分隊長が止めた声。
今回は、忘れていない。自分は剣を振っておらず、殺そうとも思っていない。それでも、この紋章から出た力が人を殺した。
シグは右上腕を見た。
黒い紋章は、何事もなかったように沈黙している。
「……俺が」
喉が詰まる。
一度息を吸った。
それだけで胸が痛んだ。
「俺が……殺したのか」
言葉にした瞬間、胃の奥から激しい吐き気が込み上げた。身体を折って咳き込むが、吐き出せるものなどほとんど残っていない。
守るための力が欲しかった。力さえあれば、誰かを助けられると思っていた。
今、自分の右腕にあるものは、その願いとはあまりにも遠かった。
人を守るどころか、誰が敵なのかさえ選ばない。
シグの意志すら必要としない。
「こんなの……」
右腕を掴む指へ力が入る。
「俺は……こんなもの……」
最後まで言えなかった。
その時、遠くで枝が揺れた。
シグの肩が跳ねる。
誰かが来たのか。
もし人間だったら。
もし、また紋章が反応したら。
その考えだけで、身体の奥から恐怖が込み上げた。
人が怖いのではない。
今は、自分自身が一番怖かった。
立たなければ。ここから離れなければならない。誰もいない場所へ。
そう考えて左手を地面へついたが、残されていた力が一気に抜ける。
シグはそのまま土の上へ倒れ込んだ。
頬に伝わる冷たさも、急速に遠ざかっていく。
右腕の黒い紋章だけが、閉じていく視界の端に残っていた。
後に残された記録には、この日、ゼルヴェナ帝国第七紋章騎士団の一個分隊が、未知の紋章保持者との接触によって多数の死傷者を出し、確保任務を断念したと記されることになる。
その記録に、少年が一度も彼らの死を望まなかったことは残されていない。
シグの意識は、再び暗闇へ沈んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第五話 第四幕「生きたいか」です。
第一話 第四幕以来、久々のエルセリア登場となります。
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