第五話:その力は誰も選ばない/第二幕:包囲
意識が浮かび上がった時、最初に感じたのは全身の痛みだった。
背中、肩、胸、脚。わずかに身体を動かしただけで、昨夜受けた傷が一斉に存在を主張する。シグは薄く目を開いた。崩れかけた天井の隙間から白い光が差し込み、舞い上がった埃がその中をゆっくり漂っている。湿った木と土の匂いが鼻をついた。
どこだ。
朽ちた壁と割れた窓を見て、ようやく記憶が繋がる。村外れの山小屋。自分でここまで歩いてきた。そこまでは分かる。
起き上がろうと左肘を床についた瞬間、胸の奥へ鋭い痛みが走った。
「……ぐっ」
力が抜け、背中が再び壁へ落ちる。身体が重い。単なる疲労ではなかった。血を失った時とも、何日も眠らず動き続けた時とも違う。自分の内側から、本来あるべき何かが根こそぎ失われ、大きな空洞だけが残っているような感覚だった。
呼吸を整えながら、シグは右腕へ視線を落とした。
破れた袖。煤と乾いた血。その下に、見覚えのない黒い紋様が刻まれている。
「……」
右上腕を覆う紋章は、意識を失う前と変わらず残っていた。指先で触れようとしたが、皮膚へ届く寸前で手が止まる。
触れることさえ怖かった。
脳裏を、黒い光景が走った。
景色の一部が抜け落ちる。石畳が形を失う。炎が途中から消える。巨大な黒い影。青い目。
アンナ。
ヨハン。
「……っ」
息が詰まった。伸ばした手、届かなかった指先、動かなくなった二人、アルベルトの絶叫。断片だった記憶が、傷口へ異物を押し込むように次々と蘇ってくる。
そして、自分は願った。
あの怪物を殺したいと。
何が何でも殺せる力が欲しいと、確かに願った。
直後に襲ってきた、身体を内側から引き裂かれるような痛み。世界から音と色が消え、右腕へ黒い紋章が浮かび上がった。そこから溢れ出した得体の知れない力。その先になると、記憶はところどころ抜け落ちている。
「俺が……やったのか」
声が小屋の中へ落ちた。
黒い怪物がどうなったのかも、はっきりとは思い出せない。ただ、消えた。その光景だけが焼き付いている。
自分が殺したのか。あの力は何だったのか。どうして自分に紋章が現れたのか。何一つ答えは出なかった。
シグは忌々しげに右腕を睨んだ。十七年間、存在しなかったもの。どれだけ望んでも手に入らなかったもの。
昨日までなら、紋章が宿ったと知れば信じられないほど喜んでいたかもしれない。
今は違う。
見ているだけで、胃の奥が冷たくなる。
これが再び動き出したら、小屋が消える。森が消える。そして近くに人がいれば、その人まで。
シグが右腕を胸元へ引き寄せた、その時だった。
外で枯葉を踏む音がした。
顔を上げる。
一人ではない。右、左、さらに背後。複数の足音が一定の間隔を保ちながら、小屋を囲むように動いている。
獣ではない。人間だ。しかも足取りが揃っていた。
不用意に近づいてこない。互いの位置を確かめながら、少しずつ包囲を狭めている。
騎士。
そう判断した瞬間、扉の外から声が飛んだ。
「中にいる者へ告げる! 我々はゼルヴェナ帝国第七紋章騎士団だ!」
シグの目が見開かれた。
「……帝国?」
なぜ。
ここはリューン王国だ。
ゼルヴェナ帝国の騎士がいる理由が分からない。まして、この小屋を囲んでいる理由など想像もつかなかった。
「こちらに敵対の意思はない! 姿を見せろ! 話を聞きたい!」
シグは動けなかった。
帝国。昨夜の怪物。黒い紋章。村。
頭の中で何一つ繋がらない。
自分を追ってきたのか。なぜ。何を知っている。アルベルトや村の人たちはどうなった。
答えを探そうとしても、痛みと疲労が思考を鈍らせる。
外から別の声が聞こえた。
「分隊長、反応ありません」
「焦るな。負傷している可能性がある」
声は抑えられていた。襲撃を始める気配はない。
それでも、シグの心臓は速くなる。
逃げなければ。
一瞬だけ浮かんだ考えに従い、窓へ視線を向ける。割れた窓枠の向こうには、白を基調とした軍装の男が立っていた。胸元には帝国章。そのさらに向こうにも一人。裏口にも気配がある。
完全に囲まれていた。
シグは壁へ手をつき、どうにか立ち上がろうとする。脚が震え、膝が落ちかけた。歯を食いしばって壁へ肩を預ける。
この身体では走れない。戦うなど考えるまでもなかった。
そもそも戦う理由がない。
帝国兵が何をしに来たのかも分からない。話せば済むのかもしれない。自分が知っていることを伝えれば。
そう考えた時、右腕の紋章が視界へ入った。
『呪いだ』
『呪われてるんだ……』
村人たちの声が蘇る。
呼吸が浅くなった。
帝国はこれを知っているのか。
だから来たのか。
捕まったら、どうなる。
何一つ分からないことが、恐怖だけを膨らませていく。
「中の者! ゆっくり出てこい! 武器には触れるな!」
その言葉で、シグは腰へ視線を落とした。傷だらけの剣が残っている。抜くつもりなどない。
左手を壁から離し、ゆっくりと扉へ向かった。三歩も進まないうちに足元がふらつく。それでも板戸まで辿り着き、手を掛けた。
開けるべきか、一瞬だけ迷った。
ここに籠もっていても何も変わらない。
重い扉を押す。
朝の光が目へ刺さった。眩しさに顔をしかめながら外へ出る。
視界が慣れた時、周囲にはすでに複数の帝国兵が展開していた。まだ抜剣してはいない。すぐに武器へ手を掛けられる距離を保ちながら、前方に一人、左右に二人ずつ。少し離れた木々の間にも人影がある。
逃げ道だけが正確に塞がれていた。
シグは足を止めた。
先頭の男が、頭から足元まで順に観察する。破れた服。全身の傷。腰の剣。そして露出した右上腕。
そこで視線が止まった。
ほんの僅かな変化だったが、シグは見逃さなかった。
「その紋章」
低い声。
シグは無意識に右腕を身体の後ろへ隠した。
周囲の兵たちの手が、一斉に武器へ動く。
「待て」
分隊長が片手を上げた。それだけで部下たちの動きが止まる。
男はシグへ視線を戻した。
「名前を聞く」
「……シグ」
「姓は」
「フリューゲン」
分隊長の目が僅かに細くなる。
シグには理由が分からない。
「シグ・フリューゲン。村で発生した異常現象について話を聞きたい」
「異常現象……?」
「黒い魔力だ」
シグの指先が震えた。
やはり。
自分を追ってきた。
「まず、武器を置け」
シグは反射的に腰の剣へ目を落とす。
「……俺は、何も」
「敵対者として扱うつもりはない」
分隊長の口調は変わらなかった。
「安全を確認するためだ。剣を地面へ置き、こちらへ来い」
「俺は……何も分からない」
「話はその後に聞く」
「何で俺を……」
「まず武器を置け」
声は荒げていない。
ただ、命令として揺るがなかった。
シグは一歩だけ後ろへ退いた。
逃げようとしたわけではない。ただ、距離が欲しかった。自分へ向けられる視線から。帝国兵から。そして、右腕に刻まれた得体の知れない紋章から。
その一歩が、状況を変えた。
「動くな!」
左側の騎士が剣を抜いた。鋭い金属音が森へ走り、別の二人も槍先を持ち上げる。
シグは息を呑んだ。
「待ってくれ……!」
「その場で止まれ!」
「違う、俺は――」
もう一歩、足が下がった。踵が小屋の敷居へ当たり、それ以上は退けない。
右側の騎士が分隊長へ声を掛ける。
「逃走の可能性があります」
分隊長はすぐには答えなかった。
その間に別の二人が前へ出る。剣ではない。左腕を差し出すと、手甲の隙間から刻まれた紋章が淡く輝き始めた。
地面へ細い光が走り、シグを中心に幾何学模様が描かれていく。
攻撃ではない。
拘束するための術式だった。
だが、シグにはそんなことは分からなかった。
自分へ向けられる紋章。
迫る魔力。
その光景だけで、身体が凍りついた。
青黒い奔流が脳裏へ蘇る。
ヨハンの手。
アンナの背中。
二人を呑み込んだ光。
世界が消えた瞬間。
視界が急激に狭まった。息が吸えない。鼓動ばかりが耳の奥で大きく響く。
「やめろ……」
兵たちは止まらない。足元の術式が少しずつ形を整えていく。
「シグ・フリューゲン」
分隊長が呼びかけた。
「抵抗するな。我々はお前を殺すために来たのではない」
言葉は聞こえている。意味も理解できる。
それなのに、身体が受け入れなかった。
剣。
槍。
紋章。
魔力。
昨日から自分の目の前で人を殺し続けたものが、今度はすべて自分へ向いている。
「武器を置け。こちらの指示に従えば危害は加えない」
シグは小さく首を振った。
「違う……俺は……戦いたくない……」
分隊長の眉が僅かに動く。
敵意ではない。
怯えている。
男にもそれは分かった。
だからこそ、軽率に近づけない。
シイバで見た惨状が、男の脳裏をよぎる。
「全員、距離を保て。刺激するな」
兵たちが半歩下がった。剣先も僅かに下がる。
しかし、包囲は解かれない。
シグは荒い息を繰り返した。
逃げれば追われる。
留まれば拘束される。
腰の剣へ触れることさえ、恐ろしくなっていた。
それでも、地面へ捨てることはできない。
魔力も紋章もなかった自分が。ずっと拠り所にしていたものだった。
それすら手放せと言われれば、丸裸で知らない場所へ連れていかれるような恐怖しか感じられない。
分隊長は、そんなシグをしばらく見つめていた。
「シグ・フリューゲン」
低い声が森へ落ちる。
「これが最後だ。剣を置け」
答えられない。
喉が固まり、声にならない。
数秒。
どちらも動かなかった。
やがて分隊長が、短く息を吐いた。
「……拘束する」
シグの顔が強張った。
「待って――」
待機していた二人の騎士が同時に紋章へ魔力を流し込む。
地面へ描かれていた幾何学模様が一斉に輝きを増し、白い光が地表を走った。足元へ集まった光は幾筋もの帯となり、シグの両脚へ絡みつく。
「やめろ!」
反射的に脚を引こうとした。
動かない。
光が足首を締め、続いて膝へ這い上がってくる。
「落ち着け! 抵抗しなければ傷つけない!」
分隊長の声が届く。
だが、シグの耳にはほとんど入っていなかった。
動けない。
囲まれている。
逃げられない。
捕まる。
恐怖だけが、理性を押し流していく。
「嫌だ……」
白い拘束光が腰へ届いた。
その瞬間。
右上腕の奥で、鋭い熱が弾けた。
「――ッ!」
シグが息を呑む。
知っている。
昨日。
あの力が目覚める直前にも、同じ場所が焼けた。
右腕を見る。
黒い紋章は動いていない。
そう思った。
一度。
中心部が、微かに脈打った。
シグの顔から血の気が引く。
「駄目だ……」
紋章がもう一度、脈打った。
今度は帝国兵の一人も気付いた。
「分隊長……!」
右腕の黒い線が、ゆっくりと光を失っていく。
光ではない。
その周囲だけが、色を奪われ始めていた。
シグは自分の腕を掴んだ。
「違う……」
止めろ。
出てくるな。
今度こそ。
誰も傷つけるな。
必死に願う。
願っているのに。
黒い紋章は、シグの意思など聞いていなかった。
足元で白く輝いていた拘束術式の一角が、不意に途切れた。
術式を構成していた光が消えたのではない。
そこだけが最初から描かれていなかったように、綺麗に抜け落ちていた。
帝国兵たちの表情が変わる。
「全員、下がれ!」
分隊長の声が飛ぶ。
シグは右腕を押さえたまま、震えていた。
右腕は熱い。
止まらない。
嫌だ。
彼の意思とは無関係に。
《虚無を統べる紋章》は、再び目を覚まそうとしていた。




