第五話:その力は誰も選ばない/第一幕:残されたもの
黒い魔力は、少しずつ弱まり始めていた。
急に消えたわけではない。シグの右腕を中心に広がっていた黒い揺らぎが、呼吸を失うように縮んでいる。石畳を呑み込んでいた空白の広がる速度も鈍り、崩れかけた壁の輪郭へまとわりついていた粒子は、今や薄い靄のように揺れるだけだった。
代わりに、シグの身体から急速に力が抜けていく。
「……っ」
膝が揺れた。踏み止まろうとしたが、脚へ命令が届かない。胸の奥に満ちていた得体の知れない力が、底の抜けた器から流れ出すように失われていく。浅い呼吸、霞む視界。身体の芯が冷え切っていた。
先ほどまで内側から破裂しそうだった空間には、何も残っていない。
空っぽだった。
以前の「何もない」とは違う。身体中を削り取られ、残されたものまで根こそぎ奪われたような空虚さだけが残る。右上腕の紋章が鈍く脈打つたびに、激しい痛みが走った。
「止まった……?」
離れた場所から誰かが呟いた。
返事をする者はいない。生き残った村人たちは、遠巻きにシグを見つめていた。一歩も近づかない。先ほどまで黒い魔獣へ向けられていた恐怖が、そのまま別の形へ変質している。
シグには分かった。皆が自分を恐れている。
当然だ。自分だって恐ろしい。自分の意志とは無関係に、目の前にあった家も、石畳も、瓦礫も、あの怪物さえも、右腕から溢れた何かに触れて、すべてが消えた。
「……呪いだ」
掠れた声が響く。シグの瞳が僅かに動いた。煤に汚れた男が、青ざめた顔でこちらを見ている。
隣にいた女が男の腕を掴んだ。
「やめなさい」
「でも、あんな紋章……」
男の唇が震える。
「呪われてるんだ……」
周囲がざわめく。否定する声もあり、黙れと制する者もいる。しかし、誰一人としてシグへ近づこうとはしなかった。
シグは右腕を見た。幼い頃から何度確かめても無地だった皮膚に、見たこともない黒い紋章が深く刻まれている。
「……これが」
声が続かない。自分のものなのか、誰かに与えられたものなのか、それすらも分からない。
だが、胸の奥へ浮かんだ疑問は、別の光景に押し流された。
アンナ。
ヨハン。
思考が止まる。振り返る勇気が出なかった。そこに動かない二人がいると分かっているのに、身体が拒絶する。
昨日、同じ食卓に座っていた。ヨハンもアンナも、いつもと変わらず自分を家族として迎えてくれた。たった一日前の記憶なのに、何年も前の出来事のように遠く感じる。
シグの指が震えた。
泣けなかった。涙さえ焼き尽くされてしまったようだった。
感情が現実に追いつかない。自分の中で、アンナとヨハンはまだ死んでいなかった。認めればすべてが終わってしまう気がしたのだ。
「シグ」
その声だけは分かった。顔を上げる。
肩口を布で縛り、血の滲む身体を引きずりながら、アルベルトが立っていた。その顔は昨日までの彼ではない。目元は赤く、頬には煤と血がこびりつき、一晩で何年も老け込んだように見えた。
二人の間へ、言葉にならない沈黙が落ちる。
謝らなければならない。自分が守ると言ったのに、間に合わなかった。助けられなかった。
「アルベルト……」
喉が詰まり、続きが出ない。
アルベルトも答えず、ただ右腕の紋章へ一度だけ視線を落とした。恐怖、驚き、困惑が瞳の奥をよぎり、最後に残ったのは、シグがよく知る感情だった。
心配。
シグは胸の奥を強く掴まれた。
「俺が……もっと早ければ……」
「違う」
「でも――」
「今はいい」
声が震えている。強がっているのが分かった。アルベルト自身も何も整理できていないはずなのに、シグへ向ける言葉だけは必死に選んでいる。
「今は……何も言わなくていい」
その優しさが余計に苦しかった。
シグは視線を落とす。足元では黒い揺らぎが消えかけ、紋章の脈動も弱まっていた。身体から力が完全に抜けていく中で、初めて一つの恐怖が頭をもたげる。
(もし、また起きたら)
右腕を見る。今は静かだが、止め方も発現させた方法も分からない。次にいつ動き出すのかも。
もし再びあの力が溢れたら、今度は誰を消してしまうのか。負傷者も、トーマスも、アルベルトも、生き残った村人たちも。その想像だけで胃が強く縮んだ。
「……駄目だ」
顔を上げたアルベルトが問う。
「シグ?」
「俺、ここにいたら……また、あれが出るかもしれない」
右腕を押さえる手が震える。
「止め方が分からない。さっきだって、止めようとしたのに……」
「待て」
「誰かを巻き込む。ここにいちゃ駄目だ」
「シグ」
「もう誰も……」
最後まで言えなかった。アルベルトが一歩踏み出すと、シグは反射的に後ろへ退いた。その動きを見て、アルベルトの足が止まる。
「近づかないで……」
自分でも驚くほど弱い声だった。
アルベルトは何も言わない。その沈黙に耐え切れず、シグは踵を返す。
「シグ!」
呼び止める声が背中へ届く。立ち止まりかけたが、振り返れば二度と動けなくなる。ここに残ってはいけない。
シグは前を向いたまま歩き出した。一歩ごとに脚がふらつき、二歩目で折れそうになる。崩れた壁へ手をついて身体を支えた。
「待て! その身体でどこへ行く!」
答えられない。行き先などない。ただ、人のいない場所へ。
瓦礫の間を進むシグの背後から、名前を呼ぶ声がいくつも聞こえた。しかし、彼は一度も振り返らなかった。
シイバを離れる頃には、空はすっかり明るくなっていた。
朝日は昇っているのに、暖かさは一切感じられない。森へ続く細い道を、シグは右脚を引きずりながら一人で進む。左手で折れかけた枝を拾い、杖代わりに地面へ突き立てた。
一歩進むたび全身の傷が疼く。右腕は上がらず、背中の打撲が呼吸のたびに軋んだ。
何度も立ち止まるたび、木々の隙間から故郷の黒煙が見えた。アンナがいて、ヨハンがいて、アルベルトやトーマスがいた場所。足が戻ろうとする頭と、戻ってはいけないという理性が、胸の中で激しく引き裂き合う。
「……ごめん」
誰に謝ったのかも分からないまま、再び足を動かす。
しばらく進むと、山道の脇に朽ちかけた猟師の小屋が見えてきた。屋根の半分は落ち、壁には蔦が絡みついている。子どもの頃、ヨハンと――。
そこまで考え、シグは強く目を閉じた。
考えるな。
重い板戸を肩で押し開け、中へ入る。土と腐った木の匂い、壊れた椅子、壁際に積もった枯葉。人の気配はない。それでよかった。
シグは壁へ背を預け、崩れるように座り込む。
右腕には、消える気配のない黒い紋章が深く刻まれていた。
「……何なんだよ」
返事はない。力を求めた。あの怪物を殺せる力が欲しいと願い、実際に手に入れた。
結果として怪物は消えたが、勝ったという感覚は微塵もない。アンナは戻らず、ヨハンも、シイバも元のままではない。何一つ取り返せていない。
視界が滲む。
初めて涙が一滴だけ頬を伝ったが、後には続かなかった。泣く力すらも残っていなかった。
床板へ肩を打った感覚を最後に、意識が暗い底へと沈んでいく。
最後に浮かんだのは、暖炉の火を囲んだ昨夜の食卓だった。
『明日も教えてくれる?』
約束した声が脳裏に響く。
シグの指が僅かに震えた。
「……ごめん」
今度は、誰に向けた言葉なのか分かっていた。
そこで意識が完全に途切れた。
◇
シイバへ最初の騎馬が到着したのは、それから間もなくのことだった。
先頭を走っていた騎士が手綱を引き、後続が次々と馬を止める。ゼルヴェナ帝国軍第七紋章騎士団だった。
誰もすぐには馬を降りなかった。目の前の光景を理解するのに時間が必要だったからだ。
家々は焼け落ち、石畳は砕け、倒壊した建物が街道を塞いでいる。そこまでは戦場でも見慣れた光景だった。異質なのは、その中に混じる別の痕跡だった。
「……あれは」
村の中央付近。石畳の一部が、不自然な形で失われている。爆発跡でも、地面が抉れたのでもない。石の途中から先だけが存在しない。壊れた荷車も同様で、片側の車輪と荷台の一部が、鋭利な刃物で空間ごと切り抜かれたように欠落していた。切断面に焦げ跡も刃の痕もない。
分隊長が馬を降り、石畳へ手を近づける。
「魔法か?」
「少なくとも、俺は知りません」
「火属性でも、爆裂系でもない」
別の騎士が壁際を調べる。
「こちらもです。石壁と木材が同じ形で欠けています」
材質も位置も違うのに、結果だけが完全に同一だった。分隊長の表情が険しくなる。
「観測報告にあった未知紋章の影響と考えるべきだな」
「保持者は?」
「まずは生存者から聞く」
騎士たちは無駄なく散開した。安全確認、痕跡調査、負傷者の人数確認。誰もが破壊された村を眺めて立ち尽くしたりはしない。
やがて生存者たちが中央へ集められ、その前へアルベルトが進み出た。肩に応急処置の布を巻き、顔色は悪いが、村の役人として背筋だけは真っ直ぐに伸ばしている。
分隊長が一歩前へ出た。
「ゼルヴェナ帝国第七紋章騎士団だ」
村人たちの間に緊張が走る。
分隊長は静かに続けた。
「我々は帝国法違反者を追跡中、この周辺で未知の紋章反応を観測したとの報を受けた。」
「村の内情へ踏み込むつもりはない」
「ただ、未知の紋章は国境を越えて被害を及ぼす危険がある。その反応について、お聞かせ願いたい。」
本来なら応じる必要はない。だが、この場で拒めば無用な疑念を招くだけだった。
アルベルトは静かに歩み出て答えた。
「未知の紋章反応とは?」
「膨大な魔力を伴うものだ。周囲の物体に甚大な影響を与えた可能性がある」
一人の男が息を呑み、別の男が何か言いかけたのを、アルベルトが遮った。
「私はこの村の役人です。事情については、私から話します」
分隊長の鋭い視線が固定される。
「貴方の名前は」
「アルベルト・フリューゲン」
「では、フリューゲン殿。この村で何が起きた」
アルベルトは一度だけ、焼け落ちた村を見渡した。アンナとヨハンの顔が脳裏をよぎり、胸の奥が潰れそうになるが、表情には出さない。
「北西の森から巨大な魔獣が現れました」
「特徴は」
「黒い外殻を持つ大型の魔獣です。王国騎士団が迎撃しましたが止められなかった」
「その魔獣はどうなった」
僅かな間のあと、アルベルトは答えた。
「分かりません」
嘘ではない。あの最後の瞬間に何が起きたのか、彼自身も理解していないのだから。
「突然、黒い何かが村へ広がりました」
「何か、とは」
「それ以上は説明できません。村は混乱していました。火災、倒壊、負傷者。多くの者は逃げるのに精一杯だった」
これも事実だった。
「その黒い現象の中心にいた人物は」
アルベルトの胸が硬くなる。傷だらけの身体で怯え、『ここにいちゃ駄目だ』と去っていったシグの姿が浮かぶ。
「私には確認できませんでした」
今度は意図的に隠した。
分隊長は目を細め、アルベルトの表情の裏を探るように見つめる。
「紋章保持者を見た者は」
「混乱していました」
「黒い魔力を発生させた者の名前は」
「知りません」
「この村の者ではないのか」
「分かりません」
アルベルトは慎重に言葉を選ぶ。ただ核心だけを伏せ続けた。一度でも名前を口にすれば、その記録は確実に残る。
分隊長はしばらく沈黙した後、村人たちへ視線を移した。
「他の者からも個別に話を聞く」
アルベルトの指先が僅かに強張る。村人全員がシグを守るわけではない。『カースだ』と叫んだ者もいる。誰か一人が名前を出せばすべてが崩壊する。
「現場の確認を続けろ。二名は生存者に事情を聞きに行け」
分隊長は黒い現象が始まった地点と、そこから離れた者の動きを重点的に調べるよう、部下に命じた。
アルベルトは黙って耐える。帝国騎士たちは質問だけで結論を出さない。残された痕跡もまた、答えを語る。
村外れ。
崩れた柵の近くの泥地に、騎士の一人が膝をついていた。村人が避難した東の街道とは違い、足跡は北西の森へ続いている。
「こっちだ」
別の騎士が近づく。
「一人か?」
「恐らく」
指先で足跡の深さを確かめる。歩幅は不揃いで、左右の沈み方が違う。
「負傷しているな。かなり重い」
折れた枝、擦れた血痕、木の幹に残された泥の手形。さらに山道へと続く痕跡を観察し、分隊長が顔を上げた。
「いつのものだ」
「時間は経っていません。足跡があるということは、まだ近くにいる」
分隊長は即座に踵を返した。
「追う」
数名の騎士が馬を引き寄せ、村の外へと動き出す。森へ続く足跡だけが、静かに彼らを導いていた。




