第四話:虚無を統べる紋章/第四幕:分類不能
◇ ゼルヴェナ帝国 西方方面軍臨時観測所
観測室の空気が冷えている。
人の背丈ほどもある透明な結晶が、ただ一つ、淡い光を吸い込んでいた。周囲の床から天井にかけて刻まれた紋章陣が、幾何学的な網の目を描いている。
帝国が保有する観測網。世界各地の外界魔力の変動や紋章反応を捉え、記録し、照合するための心臓部だった。
「反応を確認」
一人の男が顔を上げずに告げる。
「座標を固定します」
床の術式へ魔力が流れ込んだ。走る光の筋が一つの地点を射抜く。
「リューン王国西方辺境――シイバ村付近」
担当官が顎を引いた。
「照合を開始します」
観測士たちが一斉に手を伸ばし、術式の縁に触れた。結晶の内部で、無数の紋様が渦を巻いてせめぎ合い、帝国中から集められた記録との照合が進む。
静寂。やがて、一人の観測士が小さく首を振った。
「一致しません」
「こちらも該当なしです」
担当官の眉間に皺が寄る。
「もう一度だ」
「はい」
術式が強く眩む。しかし、結果は揺るがない。
「既知紋章との一致率、極めて低い数値です」
「誤認ではありません」
「第二、第三観測所も同一反応」
室内へ重い空気が落ちた。結晶の放つ光が強まり、その透明な内部を、黒い筋が這い始めた。
観測士の一人が息を呑む。
「……何だ、これ」
呟きが消えかかる。その瞬間だった。
結晶が悲鳴のように激しく光を放つ。床に敷設された術式が乱れ、明滅のテンポが狂う。
「紋章陣が――」
声が裏返る。誰も動けない。
「聖級紋章ですら完璧に捉えられる帝国最高位の術式だぞ……」
それが、たった一つの反応に耐え切れず軋んでいる。
やがて、狂ったように脈打っていた光が、嘘のように静まる。
担当官は残された記録の数値を見つめたまま、微かに唇を動かした。
「分類不能」
室内の視線が一斉に集まる。
「既知紋章に該当なし」
男は報告書を引き寄せ、ペンを走らせる。
『未知の超高位紋章反応を確認』
誰もが呼吸を忘れていた。
帝国のいかなる記録にも存在しない反応。その報告だけで帝国を動かすには十分だった。
◇
報告は最優先の極秘情報として、リューン王国内で秘密裏に行動中の部隊へ飛ばされた。
帝国法違反者を追跡する、第七紋章騎士団の隊列。
上空から一羽の伝令鳥が舞い降り、馬上の副官がその足から筒を外す。中の紙片に目を走らせた瞬間、その双眸の色が変わった。
「団長」
差し出された紙を、男は黙って受け取る。
『リューン王国西方』
『未知の超高位紋章反応』
『既知紋章との照合不能』
『至急調査および確保を要請』
男は紙片を折りたたむ。
「……確保、か」
低い声に、副官が頷く。
「討伐命令ではありません。どうやら我々の位置が最も近いようです」
「ああ」
「ですが、ここはリューン王国領です。」
「承知している」
「事件の捜査は王国の権限だ」
「我々は未知の紋章の所在だけを確認する」
未知の紋章。危険である以前に、誰よりも先に帝国が握るべき情報だ。ここで逃せば、二度と手に入らないかもしれない。
男は前方の街道を見据えた。
「一個分隊を向かわせる」
「目的は」
「調査。――だが、対象を発見した場合は生存を最優先として確保せよ」
「抵抗された場合は」
「必要最小限の武力行使を許可する」
「承知しました」
命令は瞬時に下り、数騎の騎馬が隊列を離れる。鉄の蹄が硬い土を打ち鳴らした。
向かう先は一つ。リューン王国西方辺境、シイバ。
◇
同じ頃。
朝靄の街道を、一頭の黒馬が駆けていた。
冷たい風を受けながら、銀髪の女が革の手綱を強く握りしめている。
エルセリア・ヴァーレンティア。
胸元に下げた小さな紋章魔具が、小刻みに震えていた。鼓動のように。あるいは、何かに引き寄せられるように。
「……この反応は」
呟きは風にかき消される。
神々の気配ではない。そのことだけははっきり分かった。
世界の理そのものに小さな綻びが生じたような悪寒だけが、胸の奥で膨らみ続けていた。
こんなものが現実に存在するはずがない。
だからこそ、自分の目で確かめなければならなかった。
エルセリアは白馬の腹を蹴る。馬体が一段と跳ね、速度を上げた。
視線の先。遥か西の空では、黒い雲が今なお静かに渦巻いている。
西の空で、黒い雲は静かに渦を巻いていた。
それは、後に歴史書が一つの転換点として記すことになるが、今はまだシイバという小さな村だけの出来事に過ぎなかった。




