第四話:虚無を統べる紋章/第三幕:世界を喰らうもの
黒い魔獣が低く唸った。
それは怒りではない。獣が初めて天敵を前にした時の、本能そのものだった。
青い二つの目が細く収縮する。額に埋め込まれた青黒い核が、不規則に脈動を始めた。
一度。二度。三度。
脈打つたび、青黒い稲妻が全身の外殻を走る。魔獣はなおも動かない。目の前で揺らめく空間を見据え、その危険性を測るように僅かに首を傾けた。
シグは動かない。右腕からは魔力が溢れ続けていた。景色も空気も削り、世界そのものを侵食し続ける。その中心にありながら、瞳は何も映していなかった。
風が止んだ。炎も煙も消え去っていく。
燃えていた木片が途中から消えた。崩れた壁は、輪郭だけを残して途切れる。ただ、その場所から「あったこと」だけが失われていく。
生き残った騎士たちは息を呑んだ。誰一人として前へ出られない。
「あれは……何だ」
副官は言葉を失う。知っているどの紋章とも違う。
その静寂を破ったのは、魔獣だった。
天地を揺るがす咆哮が、シイバ全域へ轟く。耳を塞いだ村人たちがその場へ膝をついた。
魔獣は四肢へ力を込め、地面を砕きながら跳ぶ。巨体からは想像もつかない速度だった。一直線。迷いはない。黒い揺らぎの中心へ向けて突撃する。
その魔獣は初めて、自分より上位の捕食者へ牙を向けていた。
前脚が振り抜かれ、空気が裂けた。
だが、届かない。
揺らぎへ触れた瞬間、前脚の先端が音もなく欠けた。肉が裂けることも、血が飛ぶこともない。そこにあったはずの部位が、景色ごと切り取られたように消えていく。
黒い魔獣が苦鳴を漏らす。それでも顎を開き、牙を黒い空間へ食い込ませようとした。
次の瞬間、牙の列が途中から消える。
牙は噛み合わない。喰らいつくという行為そのものが、途中で失われていた。
喉の奥から絞り出される咆哮が、崩れたシイバへ反響する。残された脚で地面を抉り、なおも巨体そのものを叩き込んだ。
空間が軋む。
肩から胸部へ、巨体が深々と揺らぎへ滑り込んでいく。胴体の左半分が、崩壊の音もなく静かに消えていく。輪郭そのものがほどけ、景色ごと削られていった。
巨大な顎を開き、最後の力で喰らいつこうとするが、口腔が途中から欠け落ちていく。舌も、喉も、存在そのものが失われていく。
二つの青い目だけが、なお強い光を宿していた。それでも止まらない。残された身体だけで、前へ進む。
生き残った騎士も、村人も、誰一人として声を上げられない。
誰も理解できなかった。
あの怪物が、押し返されている。
その中心で、シグの瞳は依然として虚空を向いたままだった。
後脚が消え、胴体が薄れていく。咆哮も途中で途切れた。残された頭部だけが逃れようとする。青い目が最後に強く輝き、額に埋め込まれた核も眩い光を放った。
やがて頭部は、鼻先から輪郭を失い始め、頬、首が消えていく。最後まで額の核だけは黒い光の中へ隠れ、その行方を誰も見ることはできなかった。
シイバを蹂躙し続けた巨大な災厄は消滅した。だが、シグの腕に宿った「虚無」は、なおも世界そのものを喰らい続けていた。




