第四話:虚無を統べる紋章/第二幕:虚無の暴走
亀裂が走った。
音はなかった。
シグの足元から伸びた黒い筋が、石畳の上を這っていく。ひび割れではない。石そのものには何の変化も起きていなかった。ただ、黒い線が通過した場所だけ、景色の輪郭が曖昧になる。
最初に消えたのは、小さな石片だった。瓦礫の上に転がっていた拳ほどの石が、端から灰色の粒へほどけていく。風に削られたのではない。粒子となったものは地面へ落ちることすらなく、その場で薄れていった。一瞬後。そこには何も残っていない。
「……?」
シグは自分の足元を見る。何が起きたのか分からない。右上腕に刻まれた黒い紋章が、鈍く脈打っていた。
止め方も。使い方も。そもそも、自分が何かをしているのかさえ分からなかった。
右腕へ意識を向ける。止まれ、そう念じた。変化はない。もう一度、強く命じる。止まれ。黒い筋はシグの意思など無視し、さらに外側へ伸びていった。
「やめろ……」
掠れた声が漏れる。
石畳の一角へ黒が触れた。今度は霧散しない。四角く敷き詰められていた石の中央だけが、不自然な形で抜け落ちる。切断面すらなかった。石材の表面から底まで、拳大の範囲が丸ごと失われている。まるで世界を描いた絵から、そこだけを丁寧に切り取ったようだった。
周囲には欠片一つ飛んでいない。陥没とも違う。下に土が見えるわけでもなかった。失われた部分には、光さえうまく届いていないように見える。黒い空白だけが残されていた。
シグは息を呑む。
「何だ……これ……」
返事をする者はいない。
少し離れた場所では、生き残った村人たちが立ち尽くしていた。泣き叫んでいた子どもさえ声を止めている。誰も近づこうとしない。視線はただ一点、シグへ向けられていた。
そのさらに奥では、トーマスが瓦礫の中に倒れている。動かない。砕けた鎧の隙間から血が滲み、胸が僅かに上下していることだけが、まだ命があると知らせていた。
騎士の一人が助け起こそうとしていたが、その足が止まる。黒いものが近付いていた。
「隊長を……」
声が震える。もう一人の騎士がトーマスの腕へ手を伸ばした。
「早く運べ!」
二人がかりで引き起こそうとする。その時、黒い揺らぎが近くの壊れた盾へ触れた。
金属板の縁が音もなく薄くなる。錆びたのではない。溶けてもいない。鉄そのものが細かな黒い塵へ変わり、空中へ溶け込んだ。半円だった盾は、数秒も経たず奇妙な形へ変わっていく。右半分だけが、最初から作られていなかったかのように欠けていた。革の裏張りも、留め具も、同じ場所だけ揃って存在しない。
騎士の顔から血の気が引いた。
「……あれに触れるな」
近くの騎士たちへ、掠れた声で警告する。
「触れたら……消える」
無理だった。黒い異変はシグを中心に広がり続けている。方向もない。狙いもない。シグの足元から染み出した影が、世界そのものへ浸透していくようだった。
燃えていた家屋へ届く。炎が揺れた。火が消える。水を掛けた時のような白煙は上がらない。酸素を奪われたように小さくなることもなかった。赤い炎の一部だけが、瞬きの間に抜け落ちる。燃えていたはずの場所に、炎の形をした空白が生まれた。残った火がその穴を埋めようと揺らめく。次の瞬間には、その炎も失われた。燃焼そのものが途中から成立しなくなったようだった。
炎が消えた。露わになった柱もまた、黒い揺らぎへ触れた瞬間に輪郭から崩れ、煙とも砂ともつかない粒へほどけて消えた。
表面からゆっくり色が抜けていく。焦げた黒、木肌の茶、内部の淡い色、すべてが灰色へ近づき、輪郭が霞んだ。やがて煙とも砂ともつかない細かなものへ崩れていく。その粒さえ途中で見えなくなった。
支えを失った屋根が傾き、落下する途中で黒い揺らぎへ触れた。そこから先だけが、音もなく消失する。破片もない。破砕音すらしない。壊れたという結果すら残らぬまま、一本の梁が、屋根が、ただ綺麗に削り取られていく。
「嘘だろ……」
村人の男が尻餅をついた。
「何なんだよ……あれ……」
その声を聞いて、シグが顔を上げる。皆が自分を見ている。怯えていた。あの災厄を見ていた時とは違う。恐怖の矛先が、今や自分へ向かっていた。
「違う……こんなの、俺じゃない……」
右腕が焼けるように痛む。黒い紋章の周囲から細い筋が肩へ伸び、脈を打つたび、全身から何かを抜き取られているような感覚がする。同時に、身体の奥からは途方もない量の力が湧き続けていた。空だった器へ、濁流を無理やり流し込まれている感覚。
シグは右腕を左手で押さえ、爪を立てた。皮膚が破れ、血が滲む。
「止まれ……頼むから、止まってくれ……!」
何も変わらない。黒い筋はシグの意思を無視し、さらに外側へ広がっていく。触れたものは、石も、荷車も、区別なく世界から失われていった。
ついに村人たちから悲鳴が上がる。
「逃げろ!」
「シグから離れろ!」
「近づくな!」
声が重なる。シグの胸を、言いようのない絶望が締め付けた。
(違う……俺が欲しかったのは、あいつを殺す力だけだ……!)
守りたかった。そのために力を求めたはずだった。それなのに、この力は区別しない。敵も。味方も。物も。炎も。ただ触れたすべてを、同じように世界から奪っていく。
「止まってくれ……!」
声が震えた。
その時だった。それまで僅かに距離を取っていた黒い魔獣が、低く身体を沈めた。青い二つの瞳がシグへ固定される。額の異形の核が強く明滅する。シイバを蹂躙し、西方軍を壊滅させ、何一つ意に介さず進み続けてきた怪物が。初めて、シグの周囲へ広がる黒い揺らぎを避けるように、一歩後じさったのだ。
騎士の一人が息を呑む。
「魔獣が……恐れているのか?」
その姿を見ても、シグに勝利の感覚などなかった。これほどの怪物が警戒するものが、自分の腕の中から今も止められず溢れ続けている。
右腕の紋章が、再び強く脈打った。
シグの足元から、さらなる広範囲の景色が抜け落ちる。そこには何もない。ただ、世界が存在することをやめた空間の穴だけが、静かに広がっていた。




