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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第四話:虚無を統べる紋章/第一幕:臨界

 黒い魔獣の前脚が、シグの頭上から迫っていた。


 避ける余力は残っていない。右腕は感覚を失い、左脚には体重を支える力すらない。肺へ息を入れるたび、折れた骨で内側を掻き回されるような痛みが走る。 あれを受ければ死ぬ。疑う余地はなかった。


 シグは迫る黒い塊を見上げた。


 不思議なほど、恐怖は湧かなかった。逃げたいとも思わない。助けてほしいとも願わない。 アンナの声も、ヨハンの小さな手も、燃え落ちる故郷も、薄い膜を一枚ずつ隔てるように現実味を失っていく。悲しむことさえ、もうできなかった。胸の奥にあった感情の火種は、綺麗に焼き尽くされていた。


 代わりに残ったものは、ただ一つ。


(殺す)


 黒い魔獣だけを見据える。 守れ。逃がせ。生きろ。 トーマスから教えられ、自分自身も信じてきた言葉が、頭の中から音もなく抜け落ちていく。


 今はもう、どう守るかなどどうでもよかった。騎士としての務めも、救助も、避難もない。目の前の存在を、ただこの世界から消し去らなければならない。


 そのための力が欲しい。


 剣では足りない。技でも届かない。何度立ち向かっても、何人で挑んでも、この怪物には通じなかった。ならば。もっと。こいつを殺せるだけの力を。


 何であろうと構わない。自分がどうなろうと知ったことではない。


(お前だけは――絶対に殺す)


 黒い前脚が目前まで迫る。


 その時だった。


 ――止まった。


 シグは瞬きすらできなかった。


 前脚は頭上にある。砕けた石片も空中に浮いている。風に煽られていた炎まで、形を変えない。燃え上がったまま静止していた。


 時間が止まった。そう思った。


 だが、本当に止まっているのかは分からない。自分だけがおかしくなった可能性もある。


 耳鳴りすら消えていた。アルベルトの声も聞こえない。炎が爆ぜる音もない。遠くの悲鳴も、崩落も、何一つ届かなくなった。


 静かという言葉では足りない。音というものが、この場所に初めから存在しないかのようだった。


「……?」


 自分の声さえ聞こえなかった。


 次に、色が抜けた。


 炎の赤が薄れる。空を覆っていた煙の灰色が白へ近づき、血に染まった地面からも赤みが消えていく。


 黒い魔獣の外殻。青く輝いていた双眸。額の核。そのすべてから色彩だけが剥ぎ取られていった。


 白と黒。濃淡だけで形作られた世界。


 シグは目を見開く。


(何が起きている?)


 だが、思考は白い世界へ溶けていった。


 直後。胸の中心を、何かが貫いた。


「――ッ!」


 声にならない。身体が弓なりに反る。


 痛い、などという言葉では収まらなかった。


 自分という存在そのものを、奥底から無理やり引き千切られていく。血管へ焼き尽くすほどの熱が流し込まれ、直後に骨まで凍てつく冷たさが追い掛けてくる。


 立っていられない。膝が折れかけた。


 なのに倒れない。何かが内側から身体を押し広げ、収まり切らない何かが強引に流れ込んでくる。


 生まれてから一度も満たされたことのない空洞に、破裂するほどの圧力が満ちていく。


「ぐ……ぁ……!」


 今度は自分の呻きが、遠くから聞こえた。


 音が戻ったわけではない。頭蓋の内側だけで響いている。


 得体の知れないものが全身を巡り、右腕へ集中していく。動かなくなっていたはずの右腕が大きく跳ね、上腕部が激しく焼けた。


「ッ……!」


 破れた衣服の下。血と煤に汚れた皮膚へ、黒い線が浮かび上がっていた。


 皮膚の下から滲み出るように一本の線が走り、枝分かれし、複雑に絡み合っていく。


 一度も刻まれることのなかった紋章。


 だが、現れたそれは既知のどれとも違っていた。神聖さも荘厳さもなく、ただ中心の空白だけが世界そのものを呑み込もうとしている。


 シグは息を止めた。


 身体は壊れそうなほど痛む。無彩色の世界で、自分を殺すはずだった黒い魔獣の前脚が今なお動きを止めている。


 理解はできない。なのに、答えだけは最初から知っていた。


 シグは黒い魔獣を見上げる。


 中隊を壊滅させ、シイバを焼き、アンナとヨハンを奪った怪物。


 ――殺せる。


 シグの右上腕で、黒い紋章が完成した。


 《虚無を統べる紋章(ヴォイド・コード)》。


 その瞬間。止まっていた世界に、初めて亀裂が入った。

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