第三話:絶望の果てに/第四幕:絶対に、殺す。
世界から音が消えた。
シグは膝をついたまま、動けなかった。
炎は燃えている。家々も崩れている。遠くではまだ戦いが続いているはずだった。
それでも、何も耳に入ってこない。
視線の先に、アンナとヨハンがいる。
二人は折り重なるように倒れたまま動かない。石畳には血が広がり、炎の明かりを鈍く映していた。
「……ヨハン」
返事はない。
「アンナ……?」
それでも二人は動かなかった。
「違う……」
声が震えた。
「違う」
ほんの少し前まで、ヨハンは自分の名を呼んでいた。アンナも叫んでいた。
手を伸ばせば届くところまで来ていた。
「返事をしてくれ……」
掠れた声が聞こえた。
アルベルトだった。
少し離れた場所で膝をつき、二人を見つめている。
その顔を、シグは見ていられなかった。
俯くと、自分の手が目に入った。
ヨハンへ伸ばしていた手。
指先が触れそうなところまで近づいて、それでも掴めなかった。
「……俺が……」
あと少し早く辿り着いていれば。
自分に、あの怪物を止められるだけの力があれば。
考えるほど、胸の奥が締めつけられた。
「俺が……守るって……」
アンナも、ヨハンも、アルベルトも、シグにとってはずっと家族だった。
だから守りたかった。
シグの指が石畳を掻く。
「……何が……騎士だ……」
耳に残っていたトーマスの言葉が蘇る。
――騎士の務めは、敵を倒すことじゃない。
――守るべき者を守り抜くことだ。
守れなかった。
あれだけ必死に手を伸ばしたのに、届かなかった。
シグは俯いたまま拳を握った。爪が掌へ食い込み、鈍い痛みが走る。
胸の奥には、息もできないほどの悲しみがあったはずだった。
胸を締めつけていたはずの悲しみが、いつの間にか遠のいていた。
シグはゆっくりと顔を上げる。
黒い魔獣がいた。
見つめているうちに、空っぽになった胸の奥で、消えずに残っているものに気づいた。
(殺す)
黒い魔獣がこちらを向く。
青い瞳にシグの姿が映る。
シグは立ち上がった。
右腕はまだ痺れている。脇腹も、感電した脚も、まともには動かない。
それでも剣を拾った。
この剣を握って家族のもとへ行こうとしていた。
今は、目の前の怪物しか見えていない。
一歩、踏み出す。
脚に力が入らず、身体が傾いた。
踏みとどまり、もう一歩進む。
(殺す)
黒い魔獣が前脚を持ち上げた。
シグは走った。
狙う場所を探さなかった。
足場も見なかった。
逃げ道も考えなかった。
ただ正面から、魔獣へ向かった。
剣を振り上げる。
「お前だけはぁぁぁッ!!」
刃が黒い外殻へ叩きつけられた。
甲高い音とともに火花が散る。
傷すら残らない。
それでもシグは剣を押しつけた。
「殺す……!」
黒い尾が動いた。
次の瞬間、身体が宙を舞った。
何が起きたのか理解するより早く、シグは石畳へ叩きつけられた。
剣が手を離れ、瓦礫の向こうへ転がっていく。
「……ぐっ……」
身体が動かない。
視界が揺れる。
口の中へ血の味が広がった。
それでも、黒い魔獣から目を逸らさなかった。
アルベルトのことさえ、今は頭に浮かばない。
黒い魔獣が近づいてくる。
一歩ごとに石畳が砕け、その巨体が視界を埋めていく。
逃げなければ死ぬ。
分かっている。
前脚が持ち上がり、巨大な影がシグの身体を覆った。
それでも、恐怖はなかった。
シグは黒い魔獣を睨み上げる。
「絶対に、殺す」




