第三話:絶望の果てに/第三幕:届かない手
ゆっくりと重い足音がひとつ落ちるたび、崩れかけた木組みが軋み、悲鳴を上げる。伏した背中はピクリとも動かない。燃え盛る梁が折れ、夜明け前の空へ火の粉が爆ぜた。奥歯を噛み締め、脇を抜ける。
「アルベルト! アンナ!」
炎があげる轟音に声が散る。
「シグ!」
灰色の煙を裂いて届いた声に、胸が跳ねた。
瓦礫の隙間から、必死に手が伸びている。隣では倒れた木材を押さえ、必死に崩落を押し止める姿。さらに奥で肩を上下させ、太い柱を支える姿があった。
「今行く!」
「急げ!」
叫びに応え、泥を蹴る。伸ばした指先が届きかけた瞬間、地を揺らす振動が伝わった。
身を横へ滑らせただけ。ただそれだけの動作で、視界が黒い壁で埋まる。
「どけッ!!」
振るった刃は外殻を滑り、乾いた音を立てて先端が弾け飛んだ。行く手を阻む異形は、声など意に介さない。
傾いた屋根から、赤く焼けた梁が崩れ落ちた。
「ヨハン!」
突き飛ばされた少年のすぐ後ろで、燃える木材が下半身を押し潰す。
「母さん!」
「来ないで! 早く逃げなさい!」
煤に汚れた頬を涙が伝い、瓦礫へ掛けた小さな手が石材を懸命に動かそうとした。
「母さんを置いていかない! すぐ助けてくれる!」
その声に、歯を強く噛み分けた。
外殻と石壁の狭い隙間へ、シグは身体をねじ込んだ。削れた肩から血が滲む。構う暇はない。
「掴まれ!」
突き出した指の先、ヨハンが必死に腕を伸ばす。触れ合う、その刹那――。
「シグ! 後ろだ!」
アルベルトの悲痛な叫びが響いた。周囲の熱気が一瞬で引き、背後の空気が不気味に凍りつく。 逃げろ、そう叫ぼうとした時には遅かった。ヨハンは逃げるどころか、瓦礫の陰で動けない母親へと飛びつき、小さな腕でその背中を必死に覆い隠した。
「ごめんね……守ってあげられなくて……」
「母さんのせいじゃない! 母さんと一緒なら怖くないよ」
声が、喉の奥で圧縮される光の唸りに呑み込まれていく。
「やめろォォォッ!」
シグは剣を捨て、両腕を限界まで前へ突き出した。
「掴まれ!」
指を開く。触れた――そう思わせるほどの近さ。だが空を切った指先が掴んだのは、灼けつく空気だけだった。
わずか指一本の隔たり。直後、青黒い奔流が溢れ出した。
視界が一瞬で真っ白に塗り潰される。抱き合った二人の輪郭が、光の中へと溶けた。
爆風に体が弾き飛ばされる。瓦礫の上を転がり、焼けた地面へ叩き付けられた。
音が消えた。頭の奥で、甲高い耳鳴りだけが響いている。
流れる煙の向こう。抱き合ったまま崩れた石材へ体を預ける姿が見えた。動かない。胸の揺れもない。
瓦礫の中へ膝をつく姿があった。妻と息子を腕に抱き締め、喉を裂いて叫び続けている。応答のない頬を撫で下ろす動きだけが繰り返される。だが、その激しい慟哭すら耳には届かない。
音のない世界で、泣き叫ぶ影と揺らめく炎だけが映っていた。
動けなかった。差し伸ばした右手が、宙に残されている。指先は何も掴んでいない。
昨日、確かに誓った。戻ると約束し、ここまで来た。泥を舐めて剣を振り続ければ、手を伸ばせば救えるのだと信じていた。そのすべてが、静寂の中で打ち砕かれる。
青黒い光が消え、異形は再び沈黙した。ただ、何事もなかったかのようにそこに佇んでいる。
差し伸ばした手を、下ろすことすらできない。その手は、最後まで何も掴めなかった。




