第一話:世界が動きはじめた日/第二幕:空白の少年
2026/8/10 改稿(改行の調整)
出発まで、まだ僅かな時間があった。
騎士たちは装備を検め、荷馬車の荷を括りつけていた。その傍らで、シグは黙々と医療品や資材の入った木箱を運んでいた。
準騎士の仕事は剣を振るうことだけではない。兵站を整え、馬を世話し、天幕を張る――騎士の華やかさは名もなき雑事の上に咲くことを、シグは誰よりも知っていた。
十五歳の時、王都アルシオンで受けた騎士団の入団試験。学科も体力も剣術も最良の結果を残したが、最後まで彼に宿らなかったものがあった。
魔力と、紋章。
全身を巡り力へ変わるはずのそれが、シグには欠片ほども存在しなかった。検査記録に記された二つの「なし」という言葉。人々は彼を「空白の少年」と呼んだ。どれほど剣で相手を退けても選考は覆らず、試験には落ちた。
それでもシグは王都へ留まり、門前で頭を下げ続けた末に、トーマスに拾われた。雑用係という、閉ざされた城門に生じた僅かな針の穴を掴むために。
「シグ、その箱はこっちだ」
呼びかけたのは、先ほど広場で手を挙げた若い兵士だった。
「包帯と止血薬だ、上に重い物を載せるなよ」
「分かった」
受け取った木箱を荷台の奥へ慎重に置く。車輪のひび割れを確かめ、縄を締め直し、水袋の数を手際よく帳簿と照合した。
「準騎士になっても変わらんな、お前は」
若い兵士が半ば呆れたように笑った。
「普通は剣を腰に下げた途端、荷物が重く見えるらしいぞ」
「剣を持ったからって、腕が減るわけじゃないよ」
軽口を叩き合うシグの表情は、どこか柔らかい。拒絶に慣れすぎたせいで言葉を呑む癖がついた彼も、信じられる者の前では心が解けた。
だが、離れた場所から彼へ向けられる冷ややかな疑念の視線も確かに存在した。
魔力を持たぬ者に背中を預けられるのか。
それは戦場で十人の死を招きかねない切実な問いであり、だからこそシグは言葉ではなく働きで示すしかなかった。
「シグ」
背後からトーマスが歩み寄ってきた。
「医療品と水は確認済みです、荷車の後輪に浅い亀裂がありますが今日の行程なら問題ありません」
「よく見ている。だが、その判断を下すのは輸送担当の仕事だ」
トーマスは穏やかに、けれど明確に告げた。
「一人で何もかも背負おうとするな、軍はお前一人を英雄にするための場所ではない」
「……英雄になりたいわけではありません」
「分かっている、だから言っているんだ」
その言葉が胸へ浅く刺さる。魔法も紋章もない自分は、人の何倍も働きを積み上げなければならないと思い詰めていた。どれほど剣を振っても生まれなかった魔力と、決して浮かび上がらなかった紋章。埋まらない空白を抱えたまま、ただ必死に手足を動かしてきた。
「雑用係になったばかりの頃、夜中まで素振りをして翌朝水樽をぶち撒けたのを覚えているか?」
「……忘れてください」
「私の寝床が水浸しになったからな、忘れようがない」
傍らの兵士が吹き出し、シグは気まずそうに視線を逸らした。
「才能だけを見れば、お前より優れた者はいくらでもいる」
トーマスの声から笑みが消え、静かな厳しさが戻る。
「魔力も紋章もない欠落は、戦場では決して軽くない、それでもお前は倒されてもまた立つ」
トーマスは腕を組み、力強くシグを見据えた。
「根性だけなら、世界一かもしれないな」
「褒められている気がしません」
「最高級の賛辞だ」
失敗を笑われることと、存在を笑われることは違う。その違いを知ったのも、この部隊に入ってからだった。かつての故郷では、笑われる理由すら選べなかった。
――触るな、近づくと魔力を取られるぞ。
記憶の底から幼い頃の声が蘇る。村の広場で、子どもたちが魔力に反応して光る小さな石で遊んでいた。指先から微かな光を灯して歓声をあげる輪の中へ、幼いシグも手を伸ばした。
しかし、どれほど掌を握り締めても何も起きなかった。火花すら散らない自分の影だけが、掌に残された。
「やっぱり、こいつには何もないんだ」
子どもたちは逃げ出し、広場には何もない手を見つめるシグだけが取り残された。
その小さな手を、背後から大きな手が優しく開かせた。育ての親である、叔父のアルベルトだった。
「自分には何もない」と俯く少年に、アルベルトは同じ目線まで膝をついた。
「怖かったなら、逃げてもいい、泣いてもいい」
「でも、それじゃ弱い奴になる」
「怖くないふりをすることが強さじゃない、勇気とは、怖くてももう一度立つことだ」
アルベルトの手がシグの頭を撫でた。
「何を持っているかだけで、人の価値は決まらない」
この世界で欠落を抱えて生きる厳しさを知りつつも、アルベルトだけは嘘をつかずに少年の手を取ってくれた。
「……どうした、シグ」
トーマスの声で、シグは我に返った。傷だらけになった己の掌を見つめていたことに気づく。
「いえ、少し昔のことを」
広場の端で、手に包帯を巻いた兵士が重い荷に苦戦しているのが見えた。シグはすぐさま駆け寄り、言葉より早くその荷を引き取った。助けられなかった記憶は傷になり、助けられた記憶は道になる。
何もないと蔑まれた両手は、いつしか他者の重荷を背負うために鍛え上げられていた。
出発を告げる角笛が、朝の広場に澄み渡る。列の先頭に立つトーマスの傍らへ、シグは案内役として歩み寄った。
魔力もなく、紋章もない。
人々が空白と呼んだ欠落を抱えたまま、少年は自らの一振りを携え、静まり返った森へと足を踏み出した。




