第一話:世界が動きはじめた日/第一幕:辺境の朝
2026/8/10 改稿(改行の調整)
シグ・フリューゲンは嫌われ者であった。
中身のわからないものを、人は恐れる。
化け物。
疫病神。
呪われた子。
理解できぬものへ名を与えれば、恐怖は形を持ち、やがて不気味な安心へと姿を変える。理解したのではない。ただ、理解したつもりになれるだけだ。
十七歳のシグは、その名を受け入れていた。否定したところで他者の胸中に根を張った恐れは枯れない。風が岩を削るほどの歳月を要する営みを望む理由などなかった。
――東の空が、藍から灰へとほどけ始めていた。
薄靄は谷を満たし、山々は眠る巨獣の背骨のように連なっている。森はまだ息を潜め、葉擦れすら夜の残響を抱いたまま動き出そうとはしない。
エルディア・バース中央部、リューン王国の西部辺境に位置する小村――シイバ。
豊かな土地ではない。あるのは人が生き延びるために切り拓いた僅かな耕地と、長い冬に耐える質実な家々、そして土よりも固い人々の忍耐だけだった。山々は文明を拒み、森は外界との距離を測る壁となる。自然が時に牙を剥くこの土地では、王国騎士団の存在が不可欠だった。
数日前、その森に異変が起きた。普段なら人里へ現れぬ魔獣が、群れをなして山麓へ下り始めたのだ。急報を受けた西方軍中隊長トーマス・フィッシャーは、直ちに部隊を率いてシイバへ向かった。そしてその末席には、故郷を知る者として一人の準騎士――シグが加わっていた。
村外れに建つ小さな木造家屋。寝台の上で閉じられていた瞼が静かに開く。
褐色と緑を曖昧に溶かしたヘーゼルの瞳。上体を起こした少年は乱れた濃紺の髪を無造作に掻き上げると、寝台の脇へ置かれた剣帯を締めた。
革の擦れる音。鞘が腰の定位置へ収まる動作には一切の淀みがない。まるで息を吸うように自然だった。
窓を開けると、幼い頃から目にしてきた風景が広がる。シグは僅かに目を細めた。
彼はこの村を愛している。だが、この村が彼を愛することはなかった。
◇
村が目覚め始めていた。戸板を開く音、井戸の軋み、煙突から立ち昇る朝餉の煙。山に生きる者は知っている。夜明けとは危険が去った刻ではなく、危険を数え始める刻であることを。
シグは湿り気を帯びた土と薪の煙の匂いを胸に吸い込み、歩き始めた。畑へ向かう老人、薪を背負う男、井戸端の女たち。視線は交わるが、次の瞬間には逸らされる。挨拶も笑顔もないが、敵意を剥き出しにする者もいない。そこには触れ合うことの拒絶を意味する、一枚の透明なガラスが存在していた。
シグは歩みを止めない。誰かに赦されるためではない。ただ、自分が騎士を志す以上、人を守るという信念だけは違えてはならなかった。それだけが、自分を証明できる唯一の道だった。
村の中央広場へ近づくにつれ、革鎧の軋む音と馬の鼻息が混じり始める。リューン王国騎士団西方軍。辺境を守護する王国の盾が、ここを臨時の野営地としていた。
広場へ姿を現したシグに、荷馬車の傍にいた若い兵士が軽く手を挙げる。
「おう、シグ。早かったな」
気安い声だった。王都では「魔力なき者」として距離を置く者が多かったが、実功を重んじる西方軍には、彼の働きを見る者もいた。
シグは短く会釈を返し、本隊の天幕へ向かう。
「おはようございます。トーマス隊長」
天幕の前で踵を揃え、右手を胸元へ添える。地図を広げていた男が顔を上げた。
三十歳。撫でつけられた栗色の髪ともみあげから続く髭が、精悍さを添えている。やや垂れた目元は穏やかだが、制式鎧に包まれた長身には長年の鍛錬が刻まれていた。中隊長トーマス・フィッシャー。魔力を持たぬ雑用係にすぎなかったシグを、その努力と剣によって評価した最初の人物である。
「早いな、シグ。実家では眠れなかったか?」
「いえ。久しぶりだったので、むしろよく眠れました」
「それならいい」
トーマスは微かに笑み、再び地図へ視線を落とした。部下へ無用な緊張を強めず、かといって規律を曖昧にもしない。
「昨日の巡回から今朝までに、何か気付いたことはあるか?」
「村の様子は変わりありません。だが……静かすぎます」
シグは山並みへ目を向けた。朝日に照らされた森はどこまでも穏やかで美しかった。だからこそ不気味だった。
「鳥の声が少なく、鹿や兎の痕跡も村の近くではほとんど見られません。森全体が何かを避けているようです」
「私も同じことを考えていた」
トーマスは即座に肯いた。地図の上には、炭筆による赤い印が幾つも刻まれている。家畜の被害、魔獣の目撃地点、不自然な静寂。それらは緩やかにシイバ北西部の深林へ集中していた。
「報告をまとめる限り、異変は北西側へ集中している。だが、追われた獣が流れている可能性もある。今日も北側に入るが、昨日より深く追う」
トーマスは顔を上げた。その瞳に指揮官としての峻厳な光が宿る。
「シグ、お前には先導を任せる。だが地形を知っているからと単独で先行するな。異常を感じたら些細なことでも報告しろ」
「はい」
「無理に手柄を立てる必要はない」
「……顔に出ていましたか?」
「お前は隠し事に向いていない」
トーマスの口元に笑みが戻った。
「努力する者が機会を求めるのは悪くない。だが、生きて戻らなければ次の機会はないぞ。騎士の務めは敵を倒すことではなく、守るべき者を守り抜くことだ」
「はい。全員で戻ります」
「それでいい。頼んだぞ」
トーマスは地図を畳み、傍らの剣を取った。広場では兵士たちが出発準備を整えている。革手袋を締める音、馬具の金属音。その一つひとつが戦いではなく帰還のための音だった。
「出発は予定どおりだ。各小隊、最終確認を急げ」
トーマスの声に、広場の空気が引き締まる。兵士たちが動き出し、シグも自らの剣帯へ手を添えた。
朝日は、等しくすべての者を照らしていた。やがて英雄となる者にも、名もなく朽ちる者にも。
そして、神々の思惑さえ踏み越えてゆく戦記の、最初の一頁にも。




