第一話:世界が動きはじめた日/第三幕:帰る場所
陽は西へ傾き始めていた。
山々の稜線が長い影を落とし、森を包んでいた薄緑は、夕暮れの琥珀色へと染まりつつある。
トーマス中隊は、一日の調査を終えてシイバへの帰路についていた。
先頭を歩くのはトーマス。
その後ろへ騎士たちが続き、荷馬車の車輪が湿った山道を軋ませる。
討伐した魔獣は三体。
いずれも本来なら人里の近くへ姿を現さぬ種だった。
森の奥から追われるように現れ、村へ向かおうとしていたところを、騎士たちが迎え撃ったのである。
戦闘そのものは危なげなかった。
負傷者は軽傷二名。
討伐は滞りなく終わった。
それでも誰一人、安堵の息を吐かなかった。
「……妙だな」
隊列の先で、小さく漏らしたのはトーマスだった。
隣を歩いていたシグが顔を向ける。
「隊長」
「何かを見落としている気がする」
それだけだった。
理由は語らなかった。
いや、語れなかった。
異変は確かにある。
だが、その正体へ届く糸口だけが、霧へ溶けるように消えていた。
森は静かだった。
静かすぎるほどに。
鳥の声は最後まで戻らず、獣道には古い足跡ばかりが残っていた。
大型魔獣とも違う。
それでいて森全体が怯えている。
その確信だけが、騎士たちの胸の奥へ棘のように残った。
「今日はここまでだ」
トーマスが振り返った。
「明日、もう一度北西部を調べる」
誰も異論は口にしなかった。
原因は分からない。
だが、放置してよい異変でもない。
騎士たちはそれぞれ短く頷き、歩調を速めた。
やがて、木々の隙間から煙が見え始める。
夕餉の支度を知らせる細い煙。
シイバだった。
村へ戻ると、騎士たちは広場で装備を解き始めた。
槍を立て掛け、馬へ水を与え、見張りの交代を決める。
今日もまた、一日が終わる。
少なくとも、その時までは誰もそう信じていた。
「シグ」
荷を降ろしていたトーマスが声を掛ける。
「今日は解散だ。明朝、日の出前に集合しろ」
「了解しました」
「今日は家族とゆっくり過ごせ」
その言葉に、シグは一瞬だけ目を細めた。
「……ありがとうございます」
騎士としての敬礼ではない。
一人の少年として返した、小さな礼だった。
トーマスは何も言わず、軽く手を振った。
シグは踵を返し、村外れへの道を歩き始める。
夕暮れの風は冷たかった。
だが、その冷たささえ懐かしい。
見慣れた畑。
薪の匂い。
井戸端で言葉を交わす村人たち。
朝と同じ景色だった。
それでも、夕暮れは朝より幾分柔らかく見えた。
村外れの小さな家が見えてくる。
煙突から立つ煙。
窓から漏れる灯。
扉の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。
「父さん。シグ、まだ帰ってこないのか?」
「そう焦るな。騎士団は仕事中だ」
「分かってるよ。でも、今日は戻るって言ってただろ」
思わず、シグの口元が緩む。
扉を叩こうとした、その時だった。
勢いよく扉が開いた。
「シグ!」
飛び出してきたのは、ヨハナス――家族からヨハンと呼ばれている十一歳の少年だった。
その顔に浮かんだ喜色は隠しようもなかったが、幼子のように抱きついてくることはない。戸口の前で踏み止まり、シグの装備を上から下まで確かめる。
「怪我は?」
「ない。ただいま、ヨハン」
「……ならいい。お帰り、シグ」
安堵を隠すように素っ気なく言ったものの、口元には笑みが浮かんでいた。
「今日は魔獣と戦ったのか?」
「何体か、な」
「何体って、何体だよ」
「三体だ。俺一人で倒したわけじゃない」
「それでも、戦ったんだろ」
「ああ」
ヨハンの瞳が僅かに輝いた。
その様子を見て、家の中からアンナが顔を覗かせた。
「あら、お帰りなさい、シグ」
「ただいま、アンナ」
「立ち話は後にして。夕飯が冷めてしまうわ」
優しい笑みに促され、シグは家へ入った。
暖炉の火が橙色に灯る室内には、鹿肉のシチューと焼きたての黒パンの香ばしい匂いが満ちていた。
「今日は何があった?」
席へ着いたアルベルトが尋ねた。
「魔獣は三体討伐した。でも、活発化している原因までは分からなかった」
「そうか」
アルベルトは深く追及しなかった。
騎士が語れぬこともある。
それを理解している。
「でも、大丈夫なんだろ?」
ヨハンが尋ねた。
先ほどまでの昂揚とは異なり、その声には微かな不安が混じっていた。
「騎士団が来てる。それに、シグもいる」
シグは少し困ったように笑った。
「俺一人で何ができるわけでもない」
「一人じゃないだろ。騎士団のみんながいる」
「そうだな」
「だったら大丈夫だ」
ヨハンは自分へ言い聞かせるように頷いた。
アンナがスープを注ぎながら微笑む。
やがて皿の料理があらかた片付き、食卓を満たしていた湯気も薄くなった頃だった。
アンナが空いた器を重ねながら微笑む。
「ヨハンも、シグのようになりたいのでしょう?」
「なりたいよ」
少年は照れを隠すように答えた。
「おれも騎士になる」
そう言って席を立つと、壁際へ立て掛けられていた木剣を手に取った。
「見てくれ、シグ。前よりは形になったと思う」
ヨハンは足を開き、木剣を正眼に構えた。
腰が僅かに浮いている。
握りも強すぎた。
それでも、以前のように腕だけで振ってはいない。
「いくぞ」
木剣が風を切った。
拙さは残る。
だが、日々振り続けてきたことは分かった。
「どうだ?」
「前よりいい」
「本当か?」
「ああ。ただ、肩に力が入りすぎている」
シグは立ち上がり、ヨハンの手から木剣を受け取った。
「剣は腕だけで振るものじゃない。足で地面を押して、その力を腰から肩へ通す」
一歩。
短い踏み込みとともに、木剣が音もなく振り下ろされた。
速さを誇示する動きではない。
それでも剣先は微塵も揺れず、狙った一点で静止していた。
「やっぱりすごいな……何年やれば追いつける?」
「さあな」
「そこは、すぐできるって言うところだろ」
「嘘を教えてどうする」
尖らせたヨハンの口元を見て、シグの手の中で木剣の重みが遠い日の記憶を呼び覚ました。
幼い頃、一人で枝を振っていたシグに、巡回で訪れたトーマスが一本の木剣を手渡してくれたことを。
あの日も、夕暮れだった。
◇
まだ幼かった頃。
村外れで、一人黙々と枝を振っていた。
剣のつもりだった。
何も持たぬ自分でも、振ることだけはできると思ったからだ。
「それでは軽すぎる」
声がした。
振り返ると、トーマスが立っていた。
西方軍の巡回任務で、シイバを訪れていた時のことだった。
トーマスは腰へ差していた一本の木剣を外し、シグへ差し出した。
「これを使え」
シグは戸惑った。
「でも……」
「枝は剣ではない」
短い言葉だった。
「剣を振るなら、剣を振れ」
木剣を受け取った瞬間。
掌へ伝わった重みが、不思議と心地よかった。
「ありがとうございます」
嬉しかった。
その日、生まれて初めて。
誰かに「剣を振ってもいい」と認められた気がした。
その夜。
眠りへ落ちる前に、シグは一人、小さく呟いた。
――騎士になりたい。
その願いだけは、誰にも聞かれなかった。
気付けば、ヨハンが目の前で手を振っていた。
「シグ」
「悪い、昔のことを思い出していたんだ」
木剣をヨハンへ返し、シグは穏やかに告げた。
「もう少し肩の力を抜け、握るのは剣を逃がさないためじゃなく、動かすためだ」
「明日も教えてくれる?」
「ああ、任務が終わったらな」
「約束だぞ」
「約束する」
暖炉の火が、ゆらゆらと揺れていた。
食卓には笑い声が絶えない。
何気ない一日。
何気ない夕暮れ。
帰る場所とは、きっとこういうものなのだろう。
守りたいと思う理由は、大義ではない。
温かな食卓であり。
家族の笑顔であり。
「お帰り」と迎えてくれる声だった。
シグは、そのすべてを胸へ刻み込むように見つめていた。
その後も他愛のない話は続き、笑い声は食卓から途切れることがなかった。
夕食が終わると、アンナが食器を片付け、アルベルトは暖炉へ薪をくべる。
ぱちり、と火の爆ぜる音が小さく響いた。
ヨハンは眠気を隠そうともせず欠伸を漏らし、それを見たアンナが苦笑する。
ヨハンが寝床へ向かうと、アンナも食器を抱えて台所へ姿を消した。
暖炉の前には、アルベルトとシグだけが残る。
薪が爆ぜる音だけが、室内へ響いていた。
「シグ」
「何だ」
アルベルトは炎を見つめたまま、小さく言った。
「少し痩せたな」
シグは苦笑する。
「気のせいだ」
アルベルトは炎を見つめたまま頷いた。
「そういうことにしておこう」
それ以上は聞かなかった。
それ以上は答えなかった。
互いに無理をしていることくらい、言葉にしなくても分かっていた。
やがて灯りが落とされ、それぞれが寝床へ入った。
木造家屋は静まり返り、暖炉に残った熾火だけが赤く明滅している。
眠りへ落ちかけた、その時だった。
――。
シグはゆっくりと瞼を開いた。
何かに起こされた気がした。
夢だったのか。
物音だったのか。
自分でも分からない。
寝台から静かに身を起こし、音を立てぬよう窓際へ歩く。
窓を細く開けると、夜気が頬を撫でた。
冷たい。
昼間よりも幾分冷え込んでいる。
見上げれば、雲一つない星空が広がっていた。
村も眠っている。
家々の灯は消え、聞こえるのは風が屋根を撫でる微かな音だけ。
その静けさに、シグはふと違和感を覚えた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
梟の鳴き声も。
虫の音も。
夜の森ならば、必ずどこかで聞こえるはずの生命の気配が、まるで世界から切り落とされたように消えていた。
昼間も感じた違和感だった。
シグは北西の山並みへ目を向けた。
夜の闇は深く、そこに何があるのかは見えない。
ただ、黒々とした森だけが、巨大な何かを抱き込むように村を見下ろしていた。
「……気のせい、か」
誰へともなく呟き、窓を閉める。
疲れているだけだ。
そう自分へ言い聞かせ、再び寝台へ横になった。
ほどなくして、規則正しい寝息が部屋へ戻る。
――その夜。
誰一人として知らなかった。
静まり返った森の奥で。
やがて世界の均衡へ幾重もの波紋を広げる、その最初の揺らぎが生まれようとしていたことを。




