第五話:不可視の戦線/第四幕:鍵の行方
焦げた紙の臭いが、事務区画の戸口から流れてきた。
剣を鞘へ収めかけたシグの鼻先を、湿った灰の甘さがかすめる。粉塵とも木屑とも違う、紙だけが焼ける臭いだった。
「待て! そこの男、止まれ!」
怒声に続いて、胸に帳面を抱えた男が通路から転がり出た。荷車の轅に肩をぶつけ、体勢を崩しながらも足は止まらない。警備兵が二人、革鎧を鳴らして追っていた。
「搬出控えを火にくべていた! 呼び止めたら走りやがった!」
男は積まれた木箱を蹴り、保管庫の裏手へ抜ける細い通路へ身を捻じ込もうとする。その先には、梁の傾いた一角がある。
シグは走った。右手にまだ力が戻らず、柄が掌の中で滑る。抜き直す手間を捨て、鞘ごと握り込んで男の進路へ回った。
荷車の脇からエルセリアが出て、崩れかけた通路の口を肩で塞ぐ。反対の角には弓を下ろしたナイアが立っていた。踵を返した男の背で、靴底が石畳を擦る。
「帳面の下の手を見せてください。何を握っているのですか」
ナイアの声は平らだった。男は答えず、帳面を胸骨へ押しつける。痩せた頬を汗が伝い、唇だけが小刻みに動いていた。
エイリクは吊った左腕を庇いながら、半歩だけ後ろへ下がっている。
「話を聞かせてくれ」
シグは鞘を握ったまま、一歩だけ詰めた。
「保管庫で何をしてた。誰に頼まれた。今なら、まだ――」
言い終える前に、男の顎が動いた。
何かを噛み砕く、湿った音がした。
「おい!」
反射で腕を掴んだ。指の腹の下で脈が跳ねている。力強く、速い。その跳ね方が一度だけ乱れて、ふっと細くなった。男の膝が折れ、帳面が落ち、綴じ糸の切れた紙が石畳へ散る。
「ナイア!」
呼ぶより先に、彼女は膝をついていた。男の胸へ掌を当てるが、応える気配はない。
「……間に合いません」
唇はすでに紫がかり、喉から糸のような息が漏れるだけだった。背が一度大きく反り、それきり動かなくなる。
ナイアは手を当てたまま、しばらく動かなかった。エルセリアが男の指の間を確かめ、口元へ触れようとした警備兵を片手で制す。
「毒の可能性があるわ。素手で触らないで」
エイリクが右手だけで紙を拾い上げ、焦げた縁を親指で確かめた。
シグは、まだ男の腕を握っていた。さっきまで走っていた。息もしていた。剣を抜く必要さえないと思った。
指を開くと、腕は石畳へ落ちた。
「……何でだよ」
誰も答えなかった。
◇
翌朝、搬入口には太い縄が張られていた。
仮支えを組む職人たちの槌音が、梁の下で乾いて響く。脇ではキルミが寸法を読み上げ、管理者が荷札と帳面を突き合わせていた。使えなくなった荷役設備のそばに、行き場のない木箱が幾段も積まれている。
「この棚は、荷を出し切るまで使えません」
管理者は図面の一角を指で押さえた。
「搬入口も片側だけでは、予定の半分も捌けない。外の荷車を何台か戻すしかないでしょう」
「魔石は?」
エルセリアが問う。
「割れた分は避けてあります。ただ、数の合わない荷が出ました」
管理者が開いた別の帳面には、例の二台分の搬入記録が載っていた。一部は空欄のままだ。
「昨日の火で焼けたのは一部だけです。控えは残っていますが、どこへ運んだかまでは。そもそもここへ届いたのかも、これから洗います」
閉じた帳面を抱えて、管理者は職員を呼び止めた。使える保管場所へ荷を移せと告げる声に、疲れが沈んでいる。
縄の向こうでは、仮支えの脇に立つ職人が、人が通るたびに手を止めて梁を見上げていた。昨日あの下で立ち尽くしていた人夫たちが、今日は荷を担いで列をなしている。
「腕は」
「動く」
エイリクは短く答えた。
「それ、動くって言わないのよ」
エルセリアの眉が上がる。エイリクは返事をせず、警備兵の差し出した見取り図を右手だけで受け取った。
聞き取りは昼前に始まった。エイリクは壁際で腕を組み、口を挟まない。
シグは、柱を削っていた男と戦槌の男、裏手へ消えた人物の順に、覚えている限りを話した。逃げた男の顔は見ていない。荷役人夫に似た服だったことと、ナイアの示した荷置き場の先に出入口がなかったことを足すだけで済んだ。
「事務区画で死んだ男のことも伺います」
「捕まえるつもりだったんだ」
担当者の筆が止まった。
「剣は抜いてない。口に手をやって、それから急に」
「何を口にしたか、見えましたか」
「……いや」
担当者は頷き、紙をめくった。
◇
数日後、担当者は再び五人を訪ねてきた。荷継ぎ場に隣接する商会の一室で、窓の外を修繕用の木材を積んだ荷車が行き来している。
「先日の件で、裏が取れた分をお伝えします」
担当者は机に紙を並べた。
「情報を外へ流していた作業員は、依頼者の一人が《カギ》と呼ばれていたと話しました。ほかにも道具の名で呼び合っていたそうです」
「道具の名前……」
エルセリアが小さく繰り返す。
「連絡は荷札の裏の印で、報酬は同じ両替商を経由していました。この二点は記録と一致しています。当局は今回を、単独犯ではなく組織的な破壊工作として扱います」
担当者は指先で紙の端を揃えた。
「もう一つ。作業員は、依頼者たちが仲間の死について話すとき、『落とした』と言っていたと証言しました。逃げた者や捕まった者には、使わなかったそうです」
エイリクの視線が上がる。
「だが、この言葉だけで、どこの誰かは絞れません」
シグは机の下で、右手を握り込んだ。
担当者は別の記録を示した。
「過去に、同じ印と呼び名が確認された未解決の工作事件があります。捜査資料に、関与の疑われる集団の名が残っていました。《フィニス》」
「あいつらの組織か」
エイリクが低く問う。
「有力な線として扱います。ただ、立証には至っていません。同じ集団の犯行と断定する根拠も、今はありません」
「どこの国の連中だ」
「分かっていません」
担当者は紙を揃えて端へ寄せた。
「思い出したことがあれば、些細なことでも知らせてください」
商会を出ると、保管庫の前には新しい木材が積まれ、荷車が縄の間を一台ずつ通っていた。
「ファルム回廊は、まだ開かないのか」
御者の一人が、隣の男に尋ねる。
「国境でまた揉めてるらしい」
「聖王国か?」
「カル=ザ=グラだと聞いたぞ。いや、帝国が何かやったって奴もいる」
声を横目に、シグは荷車の列を見た。荷を積んだまま動けない車が、広場の奥まで続いている。先頭の御者は手綱を握ったまま、開く気配のない搬入口を眺めていた。その後ろで、また一台、最後尾へ加わる。
視線を外した先に、あの荷置き場の裏があった。出入口はないと、ナイアが言った場所だ。
隣で、ナイアも同じ方角を見ていた。




