第四話:境界の綻び/第四幕:声の届くところまで
指揮所の窓は閉め切られ、羊皮紙と蝋の匂いが澱んでいた。
セレスティア聖王国とカル=ザ=グラの国境で交戦があった。その報告が届いたのは、昼を回ってからだった。ライナー・フォン・ヴォーゲルは報告書を机に広げ、死傷者の欄で指を止めた。
「双方が射撃を行ったのだな。停止の命令は?」
「届いております。現場は射撃をやめ、カル=ザ=グラ側は後退しました。ただ、どちらの部隊も警戒を解いておりません」
「解くものか」
地図の上では、ファルム回廊に打った規制の印が蝋燭の火に揺れている。ライナーはその周辺を指の腹でなぞった。
「西方軍の一部を国境寄りへ回せ。前へ出すのではない、見張りと守りのためだ。住民の退避路も洗い直しておけ。回廊の規制は、解除の条件が揃うまで動かさん」
筆を走らせていた参謀が顔を上げる。
「警戒は、聖王国とカル=ザ=グラのどちらを先に」
「両方だ。先に撃ったのが誰か、こちらにはまだ分からん」
補給表を引き寄せる。魔石と紋章設備用の資材には、到着予定を過ぎて朱線の残ったままの行がいくつかあった。今日明日に底をつく量ではない。ただ、兵を動かせば減る速さが変わる。
「再配置先ごとの備蓄を出せ。遅れている分は、代わりの調達先も当たっておけ」
「エルバも、交易路の警備を増やすそうです。検査所の人員も」
「どちらにも肩入れしておらんのだろう。咎める筋ではない」
「荷が安全になるなら、補給にも好都合では」
「検査待ちで三日止まれば、安全も何もあるまい。経路ごとの所要日数を取り直せ」
参謀が唇を結び、書き付けを改める。窓の外では、伝令馬の蹄が石畳を叩いて遠ざかっていった。
◇
荷継ぎ場の朝は、車軸の悲鳴で始まっていた。革と馬の汗、積み替えた麻袋の埃。検査へ回された荷の前で御者が声を荒らげるのが、窓越しにも聞こえてくる。
「国境で兵が撃ち合ったそうでしてね。同盟も街道の警備を増やすというので、ここの検査も増えます」
年配の担当者は帳簿を閉じ、表紙を指で叩いた。
「例の荷ですが、到着と荷役の記録は確かにあります。搬出先の欄だけが空いていて、記入漏れか積み替え先の変更か、当日の作業員に聞いても判然としない。うちが管理する荷役場所にも搬入経路にも、森の広場を使った記録はありません」
「施設の外の運び手が、勝手に使った可能性はありますか」
キルミの問いに、担当者は頷いた。
「あります。ただ、荷馬車と複数人の痕跡が残っていたとなると、放ってはおけません。ことに今は、魔石や魔力資材を含む荷の扱いが厳しくなっています。もう一度、現地を見ていただけませんか。係員を同行させます」
木立の奥へ背を向けたときの感覚が、掌の汗と一緒に戻ってきた。シグは腿でその汗を拭った。
「行くなら、範囲を決めたい」
エイリクが目だけで先を促す。
「広場と、そこからナイアの声が届く内側だけ。誰かを見つけても追わない。危なくなったら係員を連れて戻る。探すのは荷の行き先だ」
「森は歩いたことがあるか」
エイリクが問うと、若い係員は背筋を伸ばした。
「荷役場の周りなら。奥は、あまり」
「俺たちの間から離れるな。戻れと言ったら、理由は後で聞いてくれ」
エイリクの親指は、話の間ずっと剣の柄頭に掛かっていた。
「また到着が遅れたら、商会への報告に書くことが増えるわね」
「俺が説明する」
「前にも聞いたわ」
そう言いながら、エルセリアは卓の経路図を爪先でシグの方へ滑らせた。
◇
分岐路の先で、森は湿った緑の匂いを吐いていた。腐葉土が靴底を吸い、羊歯の葉裏から冷たい滴が肩へ落ちる。
広場には、荷馬車の停まった跡がまだ残っている。係員は東を指した。
「荷継ぎ場から来るなら、道はあちらです。ここを通る理由が、私には思い当たりません」
荷継ぎ場が普段使う経路ではないことは、これではっきりした。シグは広場の端へ歩き、木立の際を舐めるように見ていった。
下草が、細く途切れている。しゃがんで土を払うと、浅い筋が奥へ延び、崩れた靴跡が幾重にも重なっていた。
「エイリク」
「引きずった跡かもしれん。人が荷を担いで通れる幅だな」
「少し先で曲がっています」
ナイアは弦を撫で、木々の間へ目を凝らした。
「広場からは見えません。先に出ます」
シグが頷くより先に、彼女はもう半歩前にいた。
筋を辿って十数歩、低い枝に薄茶の繊維が掛かっていた。
「縄にも包み布にも使う素材ですね。これだけでは何とも」
キルミが繊維を戻す。その先の倒れた草に、泥へ半ば沈んだ紙片があった。
拾う前に、係員を呼ぶ。
「荷札じゃないか」
係員は膝をつき、息を詰めて覗き込んだ。
「……似ています。うちで使う札と、罫線の引き方が同じです」
「この荷の札なのか」
「番号が欠けていて、そこまでは」
「持ち帰って照合する価値はあるわ」
エルセリアは腕を組んだまま、落ち葉を爪先で弾いた。
顔を上げたとき、ナイアは曲がり角の手前で足を止めていた。弦に指を添え、こちらを振り返っている。声の届く内側は、そこまでだった。
靴底が、曲がり角の方へ出たがっている。あの向こうに何があるのか、知りたい。ナイアはまだ、決めた境界に立っていた。
「ここまでにしよう」
エイリクの親指が、柄頭から離れる。
「理由は?」
「道は見つけた。荷札もある。でも、この先に何があるかは分からない。係員を連れて進む必要はないと思う」
「分かった。戻るぞ」
エイリクが係員の肩を押して向きを変えさせる。ナイアは弓を下ろし、シグの横を抜けて帰路の先頭へ回った。
「報告書の空白が、また一行増えるわね」
エルセリアの声は乾いていた。
「そのまま書いてくれ」
「そのつもりよ」
◇
事務室の卓で、エルセリアは報告の紙を引き寄せた。
「商会には、安全な経路とは書けない。見つけた物と、そこから言えることは分けるわ。札は施設の様式に似ている、までね」
担当者は荷札を布に包み、係員へ渡した。
「内部の控えと照合します。周辺の警備も見直しましょう。正規でない場所が輸送に使われていたなら、放っておけません」
エイリクが経路図を畳み、卓の端へ置く。シグは、報告書の行き先の欄に目を落とした。空白のまま、誰もそこを埋めようとしなかった。
◇
荷継ぎ場の外れ、積み上げた空樽の陰で、男は炭筆を止めた。
朝のうちに門を出た五人の列には、前回なかった顔が一つ混じっていた。帳簿係の上着を着た若い男だ。戻ったのは日の傾く手前で、前より半刻ほど長い。その係員は布に包んだ小さな物を胸に抱え、事務室の戸の向こうへ消えた。包みの中身は、見えなかった。
五人がどこまで進んだのかは、足の汚れ方から測るしかない。膝下まで腐葉土の黒をまとっていた。それで足りた。施設の人間が連れ出され、何かを持ち帰っている。あの連中の足は、思っていたより近くまで来ている。
分岐路の位置と、五人が戻った刻限を紙に写す。包みの件は、一行だけ書き添えた。紙を折って懐へ収め、轍の跡もない裏道へ歩き出す。




