第四話:境界の綻び/第三幕:灰色の一矢
三日続いた北風は、この朝になって川面に細かな白波を立てていた。
丘に立つイレーネ・ヴァイスハルトは、風に浮いた羽先を指で押さえ込み、背の翼を軍装へ沿わせ直した。望遠鏡の向こう、対岸の街道では荷車の列が泥に轍を刻んだまま動かない。護衛の兵は昨日より増え、槍の穂先こそ下げているものの、渡し場から二百歩という警備線の内側へ踏み込んでいた。
「今朝で三十二名です」
副官のオスカーが、手袋の継ぎ目を引っ張りながら言った。
「商隊は三日の足止めです。こちらの検査のせいで」
「承知しています」
「通行予告は十一台でした。私の目には、十二に見えますが」
返事の代わりに翼を開く。風が羽の間へ潜り込み、足が地を離れた。昇ってくる冷気には、家畜の脂と濡れた藁の匂いが混じっている。荷車は、数え直しても十二。降り立った膝で衝撃を殺し、旗手を呼んだ。
「標石の線まで下がるよう伝えなさい。護衛だけで構いません」
◇
「標石まで、護衛だけ下がれ、だそうだ」
ダリウス・ヴァルガは旗の動きを読み終え、長槍の石突きで泥を一度打った。背後では輓獣が白い息を吐き、車輪は軸まで沈んでいる。傍らでは古参のガルドが、無言のまま兵の矢筒を一本ずつ叩いて回っていた。商人のヘルマが荷台の陰から顔を出す。
「護衛が引いた途端に襲われたんですよ、先月のラウムの隊は。ここで丸裸にされたら二の舞です」
「聞いている」
対岸の丘では、白い翼の指揮官がこちらを見ていた。向こうの言い分は分かる。武装兵が渡し場へ寄れば、自分でも同じ旗を振るだろう。分かったうえで、退く理由にはならなかった。
「ボルク、応答旗だ。停止は呑む、後退はできん。護衛は荷車の脇に残す」
若い兵が旗竿を掴んで駆けていく。ダリウスはヘルマへ向き直り、声を落とした。
「荷は予告どおり十一台か」
「ええ」
「俺の目には十二台だ」
ヘルマの喉が上下した。「最後の村で、組合の書記が一台足したんです。急ぎの荷だと。中身は見ていません」
問い詰める暇は、なかった。
◇
応答旗は、停止は了承、後退は拒否と読めた。
「読み違いではありませんね」
「理解したうえで断ってきています」
オスカーは望遠鏡を下げ、しばらく対岸から目を離さなかった。
予想していた返事だった。それでも肩に乗った重みを、盾の内側へ羽先を畳むことで誤魔化す。対岸ではドワーフの紋章兵が手袋を外していた。こちらの紋章兵リーゼは、すでに風の紋章を掌に灯している。
「威嚇射撃を行います。護衛の足元、三十歩手前。人にも荷にも当てないこと」
弓兵のロベールが弦を引き絞る。イレーネは挙げた手を一拍だけ宙に留めた。相手が下がれば、まだ間に合う。対岸は動かない。手を下ろした。
矢は川を渡る途中で風に押され、狙いより右へ逸れた。泥に刺さるはずだったものが、先頭の荷車の輓獣の首へ深く食い込む。
獣が膝から崩れ、荷車が傾いた。ヘルマの悲鳴が風にちぎれる。対岸ではダリウスが腕を突き上げていたが、何を叫んでいるのかは聞き取れなかった。
「風です、隊長、風が――」
ロベールの声が上ずる。
「分かっています。次は番えないで。リーゼ、障壁を」
風壁が薄い膜となって兵の頭上に広がった、その直後だった。低く飛来した矢が膜の継ぎ目を抜け、リーゼの首の付け根を貫いた。
膝をついた彼女の傷口を、掌で押さえる。指の間から、温かいものが溢れてきた。
「……すみません、隊長」
リーゼはそう言うと、掌の紋章の光が消えるのを不思議そうに眺めている。
オスカーが矢羽を見て、何も言わずに視線を上げた。灰色だった。聖王国軍の白ではない。カル=ザ=グラ軍の黒とも違う。
指の下で、脈が止まった。
「隊長」
「分かっています」
イレーネは立ち上がり、掌の血を軍装で拭った。
「それでも、あの岸から来ました。弓兵、盾の列を狙って撃ち返しなさい」
撃たせたのは自分だ。その事実が、奥歯の間に砂利のように残っていた。
◇
「撃つな!」
ダリウスは腕を突き上げたまま叫んだ。背後の弓兵たちは、弦を張ってすらいない。輓獣が倒れた混乱のなか、下流の葦のほうで弦が鳴った気がした。自分の背よりも、ずっと遠い場所だった。
次の瞬間、対岸から白羽の矢が雨のように降ってきた。
ガルドの怒鳴り声に振り向くと、ボルクが土嚢の根元に仰向けで倒れている。胸に矢が立っていた。
膝をつき、若い兵の肩を抱えた。
「旗は……出しました」
「ああ。お前は役目を果たした」
「商隊は」
「無事だ」
袖を掴んでいた指が、ほどける。言葉の代わりに、その指を一本ずつ外した。立ち上がると、膝の泥が冷たく脛に張り付く。
「撃ち返せ。狙いは盾だ、人じゃない。下がる時間を稼ぐ」
「隊長、いいのですか」
「いいも悪いもない。撃たれている」
そこへ伝令が泥を跳ね上げて駆け込んできた。上官からの、交戦停止と後退の命令だった。
「撃つな。盾は下ろすな。下がりながら見張れ」
◇
聖王国側の陣にも停止の伝令が届いたが、命じられたのは待機で、後退ではなかった。対岸のドワーフたちは盾を前に、足並みを揃えて退いていく。こちらの弦は、まだ数本鳴っていた。
「撃ち方やめ! 命令です!」
イレーネの声が裏返る。最後の一矢が、川の中へ落ちた。
リーゼの首から矢を抜くと、灰色の羽根が風に震える。布で包み、軍装の内側へ押し込んだ。
「オスカー、これは私が預かります」
「報告には」
「書きます。結論は書きません」
その夜の報告書には、灰色の矢羽が所属不明として記された。誰が放ったのかについては、何も書かれていない。荷車は予告より一台多かった、とも。理由の欄だけが、空白のまま残った。
◇
日が傾く頃、ダリウスはガルドを連れて街道を引き返した。天幕で書き上げた報告には、射撃を禁じた後に聖王国側から射撃を受け、反撃した、と記してある。担架と折れた槍、割れた盾。泥が血を吸って、黒く沈んでいた。
十二台目の荷車は、他の荷車から少し離れた場所に停まっていた。幌をめくると中は空で、藁が敷かれ、荷台の縁には新しい縄の擦れた痕が残っている。
「隊長」
ガルドが顎で示した先に、街道の脇から葦の茂みへ向かう二本の轍がある。水を含んだ泥が、まだ盛り上がっていた。
「追うな。轍を潰すな。位置だけ記録して、本隊へ上げる」
そう命じて対岸を仰いだとき、丘の上の白い翼の指揮官が、同じ湿地のほうへ顔を向けているのが見えた。




