第四話:境界の綻び/第二幕:行き先のない荷
轍に重なる靴跡は、曲がり角の先にも続いていた。
湿った土が靴底に吸いつく。低く張り出した枝は、荷馬車の幌なら擦りそうな高さで道を覆っていた。樹脂と腐葉土の匂いが濃くなるにつれ、街道の喧噪は背後へ遠のき、車輪の跡だけが途切れずに奥へ伸びている。
「この先、開けています」
ナイアが木々の間を指した。言い終えるより早く、先に立って右手の木立へ回り込み、見通しの利く位置を取っている。
木立が左右へ退くと、平らに均された地面が現れた。荷馬車を二台、肩を並べて停められる広さだ。切り株が点々と残り、草の生えない場所が斑に広がっている。二本の轍は広場の中央まで伸び、そこで大きな弧を描いていた。曲がり目だけが深く抉れているのは、同じ場所を車輪が何度も踏んだ証拠だった。
「向きを変えたのか。停めたのか」
「停めたのでしょうね」
エルセリアは経路図から目を上げずに答えた。
「ただ、この場所は図に載っていないわ。分岐の先も、途中で線が切れている」
広場の端で、四角く草が寝ていた。潰れた茎の上に細かな木屑が散り、隣には浅い窪みが等間隔に並ぶ。シグは膝をつき、掌を土へ押し当てた。冷たく、まだ柔らかい。手を離しても、輪郭は崩れずに残った。
「荷を置いた跡か」
「木箱なら、こう残ります」
キルミが黒杖の先で木屑を寄せる。
「降ろしただけか、積み替えたのか。跡だけでは、何とも」
エイリクは地面すれすれまで鼻先を寄せ、すぐに顔を上げた。
「何人いたかまでは読めん。だが、一人でうろついた範囲じゃない」
足跡には、踵の形も底の幅も違うものが混じっている。荷馬車が着き、数人が荷を降ろした。そこまでは筋が通る。通らないのは、荷がひとつも残っていないことだった。
「街道から、まったく見えません」
入口まで戻っていたナイアが、木立越しに振り向いた。
「十歩も離れれば、荷馬車が停まっていても気づかないと思います」
広場の反対側に、草を割る細い切れ目がある。奥にも道が続いているのかと、シグが一歩踏み出したとき、エイリクの左手が上がった。
「待て」
手の甲で、《狩猟王の刻印》が淡く脈を打った。狼人は木立の奥へ顔を向けたまま、耳だけを前へ倒している。
「……何かいる」
ナイアの指が弦に掛かった。
「人ですか」
「分からん。反応はあるが、輪郭が出ない」
「こっちに来てる?」
「それも読めん」
枝の重なる先は暗く、幹と下草のほかに何も見えなかった。遠くで鳥が鳴いている。その声が先刻から同じ調子で続いていることに、シグは今になって気づいた。
あの切れ目の先に轍が続いているなら、荷の行き先が分かる。数歩、いや十数歩でいい。膝の内側が、勝手に前へ傾いていた。
エルセリアの視線が、前へ出かけた足へ落ちる。
「先まで見ないなら、報告には分岐先は未確認と書くことになるわ。商会は査定を下げるでしょうし、別の隊へ再調査を回すかもしれない」
経路図を折り畳む手つきは、帳簿を閉じるのと変わらない。
「それに、日が落ちれば荷継ぎ場の受付が閉まる。使える時間も減るのよ」
エイリクは口を挟まなかった。耳を木立へ向けたまま、ただこちらを待っている。
靴底を、地面へ強く押しつけた。
危ないものを見つけたら、そこで止まる。
剣帯から手を離すと、指の関節が固まっていて、開くのに一拍かかった。
「戻る」
「いいのか」
「追う仕事じゃない。ここで荷が動いたことは分かった。それを持ち帰るほうが先だ」
エイリクは短く鼻を鳴らし、踵を返した。
「踏み跡は崩さずに、来た道をそのまま戻ります」
ナイアが先に立つ。
シグは最後にもう一度だけ、広場を振り返った。四角い跡と、奥の草の切れ目。喉が乾いている。あの先を見ずに背を向けたことは、掌に残った土の冷たさのように、しばらく取れそうになかった。
先頭近くを歩くエイリクが、森を抜けるまでに三度、肩越しに木立を振り返った。
◇
荷継ぎ場に着いたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
荷役場は、馬と人の熱で蒸していた。荷馬車の列は倉庫の前から街道へ溢れ、馬糞と汗と埃の混じった匂いが風に乗って頬を打つ。木箱を引きずる音に嘶きが重なり、荷札を握った商人が作業員へ詰め寄っている。
「昨日から待ってるんだぞ!」
「順番だと言ってるでしょう。置き場が空いてないんです!」
二人掛かりで担がれた木箱が目の前を横切り、避けた肩を荒縄が擦った。倉庫の軒下には魔石を納めた小箱と、鈍く光る金属筒が山と積まれている。筒の一本ごとに荷札が括られ、作業員が指で数えながら帳面へ印を入れていた。
「回廊を通れない荷が、すべてこちらへ流れているのですね」
キルミが荷役場を見渡す。
「魔石まで、これほどとは」
シグは筒の山から目を離せなかった。武具店で見た紋章魔具の部品も、似た金属の筒だった。指先ほどの部品を動かす材料が、ここでは荷車一台分の嵩で積まれている。
建物の中では、二人の男が机を挟んで帳簿を広げていた。一人が荷札を読み上げ、もう一人の羽根筆が紙を走る。
「アルヴィオの商会から、迂回路の調査を請けた者です」
エルセリアが依頼書を差し出すと、年配の担当者は目を通して立ち上がった。
「道は、通れましたか」
「荷馬車は通れます。ただ、一箇所だけ狭い。行き違いには気をつけないと」
シグが答えると、担当者は頷いた。
「そこは以前から問題でして。大きな商隊には、先に知らせています」
「もうひとつ。途中で左へ分かれる道があって、森に荷馬車を停められる広場がありました。あそこは荷役に使っていますか」
経路図の上で、担当者の指が止まった。
「いいえ。こちらで指定した場所ではありません」
「轍がありました。荷を置いた跡も」
「……そうですか」
男が隣の机へ顔を向ける。若い係員のほうが先に首を振った。
「聞いていません。通常の搬入先には入っていないはずです」
「念のためだ。ここ数日の荷役を見よう」
棚から厚い帳簿が引き出された。頁を繰るたび、乾いた紙の音が机に落ちる。窓の外では車輪の軋みが絶えず、その音に紛れて、担当者の指だけが日付の欄を下へ辿っていく。
指が、止まった。
「おかしいな」
「何か」
「この積荷だ。到着も荷役も記録にあるのに、搬出先が空いている」
若い係員が身を乗り出し、別の帳簿を引き寄せて照らし合わせる。
「保管場所の欄も空です。同じ時間の荷は、全部埋まっているのに」
「何の荷ですか」
エルセリアが問う。
「魔石と、紋章設備に使う魔力資材です。ここでは珍しい品じゃありません。この程度なら、よく扱います」
「魔石は武具にも設備にも回りますから、それ自体は不思議ではありません」
キルミは机の荷札へ視線を落としたまま、穏やかに言った。
「問題は、どこへ行ったか、でしょうね」
「記入漏れかもしれません。ここ数日は積み替え先が何度も変わっていて、確認が追いついていないものもあります」
担当者は帳簿を閉じかけ、思い直して開き直した。
シグは開かれた頁を見つめた。ほかの欄には細かな文字がぎっしりと並び、問題の一行だけが、途中から白い。
森の広場には、荷を降ろした跡があった。ここには、行き先の書かれていない荷がある。二つが同じ荷を指しているとは、どこにも書かれていなかった。
「その日の荷役に入った人には、話を聞けますか」
「こちらで確認します」
担当者は頷き、若い係員を呼んだ。
「当日の荷役に入った者と、受け取りに来た業者を洗ってくれ。控えが残っていないかも探して」
「分かりました」
係員が帳簿を抱えたところで、エルセリアが依頼書を畳んだ。
「何か分かったら、商会にも知らせてください。私たちの報告にも載せますので」
「分かり次第、お伝えします」
表紙へ伸びた手が、帳簿を閉じる前に引かれた。
「……待ってくれ。この荷、到着時の記録は別にあるな」
「はい。搬入の帳簿です」
奥へ向かいかけていた係員が引き返し、抱えていた一冊を机へ戻した。頁を繰りながら、担当者が読み上げる荷札の番号を、係員が搬入記録から拾っていく。
シグは口を挟まず、二冊の帳簿が開かれるのを見ていた。
「ありました」
示された一行と、開いたままの荷役記録。その両方へ目を走らせた担当者の眉間に、浅い皺が寄った。
「この量なら、普段は一台で運ぶ荷だ」
「だが、搬入記録は二台になっている」
窓の外では、荷役場の怒号が変わらず続いていた。
シグの掌に、森の土の感触が戻ってきた。




