第四話:境界の綻び/第一幕:片道の足跡
アルヴィオを出て半日。街道を外れてしばらく歩くと、人の声が途絶えた。
風が背の低い草を撫で、乾いた音を立てている。馬の嘶きも、車輪の軋みもない。聞こえるのは、丘の向こうで鳴く鳥の声と、五人分の足音だけだった。
道の端に残る車輪の跡に、シグは目を留めた。二本の轍が緩やかな曲線を描き、丘陵の向こうへ消えている。路面はよく踏み固められ、小石が浮いていたが、荷馬車の通行を妨げるほどの荒れは見当たらない。
「ここなら通れそうだな」
「道幅は十分だ。だが、先がある」
前を歩くエイリクが、耳を後ろへ傾けたまま言った。
「分かってる。曲がった先も見る」
腰の剣が岩肌に当たらないよう、シグは半歩だけ道の内側へ寄った。
ファルム回廊の規制が続く間、商隊は別の経路を探している。この道もその候補の一つだった。
エルセリアが、商会から預かった経路図を広げる。
「丘を回り込んだところで、道が少し狭くなるそうよ。荷継ぎ場までは、そこを抜けて、もう少し」
「少しって、どのくらいだ?」
「書いてないわ。だから私たちが見に来たのでしょう」
シグは頷いた。
すぐ後ろでは、キルミが道端に立つ標柱へ黒杖の先を向けた。
苔の色が染みた木の柱で、荷車を模した印が彫られている。角は風雨に丸まり、文字はほとんど読めなかった。
「荷継ぎ場の搬入に使う道の印ですね。管理はされていないようですが、折られてもいません」
「放っておかれてるだけか」
「ええ。ただ、荷車の印が彫られている道は、荷継ぎ場の標準的な荷車が通る前提で作られています。車輪の幅が揃っていますから、轍の幅も揃うはずです」
足元の轍へ目を落とす。幅はおおむね揃っていた。
「覚えておく」
ナイアが右手の斜面を指した。
「少し先に、道が膨らんでいる場所があります。荷馬車が向きを変えるなら、あそこでしょう」
「見ておこう」
シグが歩き出すと、エイリクが無言で先頭へ戻った。
◇
丘を回り込むと、道は狭まった。
片側には岩混じりの斜面が迫り、反対側は草地へ下っている。荷馬車一台なら通れる。路肩も崩れていない。斜面に手をつくと、日に温められた岩肌から、乾いた熱が掌に移った。曲がり角の手前からでは、狭路の終わりが見えない。
「対向の馬車が入ってきたら、すれ違えないな」
「さっきの膨らみまで、どちらかが戻ることになるわね」
エルセリアが経路図の余白に何かを書き付ける。
ナイアは草地へ数歩下り、踵で土を押した。湿った土の匂いが、足元から立ち上る。
「こちらは水を含んでいます。荷馬車を寄せる場所にはなりません」
「入る前に、向こうを確かめる人が要るってことか」
「見張りを一人、角に立てるだけでも違います」
シグは頷いた。立ち往生するほどではないが、行き違いが起きれば長引く。報告する価値はある。
先へ進もうとして、足が止まった。
道の中央に、轍が二本。
荷馬車の通る道に轍があるのは当たり前だ。ただ、先ほどまで見てきたものより、縁が鋭い。底に土の粉が溜まっておらず、削られたばかりの小石が脇に転がっている。
しゃがんで、指で縁をなぞった。崩れない。
「エイリク」
呼ぶと、狼人は数歩で戻ってきた。
「どうした」
「これ、新しくないか」
エイリクは轍を一瞥し、鼻先を地面へ近づけた。
「……古くはない。ここ数日のうちだろう」
「商会の話じゃ、この道を使う荷馬車は少ないはずだよな」
エルセリアが経路図から顔を上げる。
「利用の記録は、ほとんど無いと聞いているわ」
轍を辿って、シグは数歩先まで歩いた。途中で、別の車輪の跡が重なっている。幅が違う。片方は地面を深く削っていた。
キルミが覗き込む。
「荷継ぎ場の標準の荷車なら、この幅はおおむね揃うはずです。これは揃っていませんね」
「別の種類の荷馬車が通った、ということか」
「あるいは、同じ荷馬車が積荷の重さを変えて通ったか。断定はできません」
「そこまでにしておけ」
エイリクが言った。声は低く、咎める調子ではなかった。
「商会に属さない運び手はいくらでもいる。近くの村の者かもしれん。何台通ったのかも、これでは分からん」
「……そうだな」
言い返す材料はなかった。
立ち上がり、轍の先へ目をやる。見つかったのは、最近ここを荷馬車が通ったことだけだ。誰が、何のために通ったのかは、この土のどこにも書かれていない。
予定どおりに進めば、日の高いうちに荷継ぎ場へ着く。
それでも、足は轍の上を離れなかった。
◇
狭路を抜けて少し行くと、道が二つに分かれた。
正面の道は緩やかに下り、木立の間へ消えている。左の道は、背の高い草に挟まれて森へ入っていた。
エルセリアが経路図を確かめる。
「荷継ぎ場へ向かうのは正面。左の道も図には載っているけれど、今回の経路には入っていないわ」
「その先は」
「図では途中で切れているの。道が終わっているのか、描き落としなのかは分からない」
分岐の手前に膝をつく。
轍の片方が、左へ曲がっていた。車輪が土を押し出したのだろう、外側に低い盛り上がりができ、倒れた草がその上に被さっている。折れ口は、まだ緑だった。
「こっちにも入ってる」
「地元の運び手が使っているのかしら」
ナイアは森の入口から数歩離れ、枝の間へ目を凝らしていた。
「人の通りは多くないですね。道の真ん中まで草が伸びています。毎日使う道なら、こうはなりません」
「荷馬車は通ってるのに?」
「数えるほどしか通っていないのでしょう」
シグは立ち上がった。
「なら、調べる価値があるんじゃないか」
「逆です」
ナイアは首を振った。
「数えるほどなら、追っても分かることは少ないでしょう。一度きりの運び手なら、奥には何も残っていないかもしれません」
「どこまで追うつもりだ」
エイリクが腕を組む。
「奥までは行かない。荷馬車が通れる道なのか、道幅と轍を見るだけだ」
「戻る時刻は」
「……一刻」
空を見上げた。木々の上に、日はまだ高く残っている。
「梢の、あの高さまで日が落ちたら引き返す。それまでに何も分からなくても戻る。危ないものを見つけたら、そこで止まる」
「その一刻の分、荷継ぎ場での聞き取りが削られるわ」
エルセリアが言った。
「担当者が倉庫を閉める前に着けなければ、話を聞けるのは明日。宿代も、報告の期日も動く。この分岐は報告して、今日は荷継ぎ場へ行くべきよ。轍が新しいなら、明日も残っているでしょう」
「残ってるかどうか、分からない。雨が降れば消えるし、荷馬車がもう一度通れば、新旧の区別がつかなくなる。今日なら、どれが最近のものか分かる」
「それは、あなたの推測でしょう」
「そうだ」
認めると、エルセリアの眉がわずかに動いた。
「だから一刻にする。遅れた分は、荷継ぎ場で道の状態だけ先に報告して、聞き取りはできるところまでに絞る。続きは明日でいい」
エルセリアは経路図を見下ろし、しばらく黙っていた。
「……遅れた理由は、報告書にあなたの名前で書くわよ」
「それでいい」
「なら、いいわ」
地図が畳まれる。
エイリクは何も言わず、梢の高さを目で測った。それから、左の道へ足を向ける。ナイアは弓の位置を直して続き、キルミは黒杖で草を分けながら後に付いた。
最後に、シグは正面の道を振り返った。
荷継ぎ場へ向かうなら、あちらを進めばいい。ここまでの道に、荷馬車を止めるものは何もなかった。
その分、左へ曲がった車輪の跡が、ひどく目についた。
◇
森へ入ると、枝が頭上で重なった。
足元の光が落ち、空気が冷える。湿った落ち葉の匂いが鼻をつき、草が靴を擦る音だけが、やけに大きく響いた。
轍は木々の間を縫っている。道幅は荷馬車がぎりぎり通る程度で、車輪の通った幅だけ、草が倒れて土が露出していた。
轍を踏まないよう、シグは道の端を歩いた。
しばらく進んでも、人の気配はない。作業小屋も、積み荷の山も、輸送業者の姿もなかった。風が止み、枝の揺れる音さえ遠のいていく。
「ここまでは、荷馬車が通れる道だな」
「今のところはな」
先頭のエイリクが短く答えた。耳は前を向いたまま、動かない。
梢の向こうに見える光は、まだ高かった。
轍が緩く右へ曲がる。そこで、シグは足を止めた。
轍の縁、土が盛り上がったところに、靴跡があった。
踵の深い跡。荷馬車の車輪が通ったあとに、その上から踏み込んだものだ。縁の土が崩れて、輪郭が潰れている。ひとつではなく、少し離れて、もうひとつ。
「……エイリク」
「見た」
エイリクはしゃがみ込み、靴跡の向きを辿った。
跡はすべて、森の奥を向いていた。
シグは来た道を振り返る。入口から、ここまで。戻る向きの跡は、ひとつも見つからなかった。
「道の端を歩いて、見落としたのかもしれん」
「そうかもな」
「決めつけるなよ」
「分かってる」
エイリクが立ち上がり、轍の先を見据える。
ナイアが矢筒に触れた手を、静かに下ろした。
シグは剣帯に指を掛け、梢の上の日を、もう一度だけ見上げた。
一刻には、まだ早い。




