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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第六章:「国家の影」

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第四話:境界の綻び/第一幕:片道の足跡

 アルヴィオを出て半日。街道を外れてしばらく歩くと、人の声が途絶えた。


 風が背の低い草を撫で、乾いた音を立てている。馬の嘶きも、車輪の軋みもない。聞こえるのは、丘の向こうで鳴く鳥の声と、五人分の足音だけだった。


 道の端に残る車輪の跡に、シグは目を留めた。二本の轍が緩やかな曲線を描き、丘陵の向こうへ消えている。路面はよく踏み固められ、小石が浮いていたが、荷馬車の通行を妨げるほどの荒れは見当たらない。


「ここなら通れそうだな」


「道幅は十分だ。だが、先がある」


 前を歩くエイリクが、耳を後ろへ傾けたまま言った。


「分かってる。曲がった先も見る」


 腰の剣が岩肌に当たらないよう、シグは半歩だけ道の内側へ寄った。


 ファルム回廊の規制が続く間、商隊は別の経路を探している。この道もその候補の一つだった。


 エルセリアが、商会から預かった経路図を広げる。


「丘を回り込んだところで、道が少し狭くなるそうよ。荷継ぎ場までは、そこを抜けて、もう少し」


「少しって、どのくらいだ?」


「書いてないわ。だから私たちが見に来たのでしょう」


 シグは頷いた。


 すぐ後ろでは、キルミが道端に立つ標柱へ黒杖の先を向けた。


 苔の色が染みた木の柱で、荷車を模した印が彫られている。角は風雨に丸まり、文字はほとんど読めなかった。


「荷継ぎ場の搬入に使う道の印ですね。管理はされていないようですが、折られてもいません」


「放っておかれてるだけか」


「ええ。ただ、荷車の印が彫られている道は、荷継ぎ場の標準的な荷車が通る前提で作られています。車輪の幅が揃っていますから、轍の幅も揃うはずです」


 足元の轍へ目を落とす。幅はおおむね揃っていた。


「覚えておく」


 ナイアが右手の斜面を指した。


「少し先に、道が膨らんでいる場所があります。荷馬車が向きを変えるなら、あそこでしょう」


「見ておこう」


 シグが歩き出すと、エイリクが無言で先頭へ戻った。


 ◇


 丘を回り込むと、道は狭まった。


 片側には岩混じりの斜面が迫り、反対側は草地へ下っている。荷馬車一台なら通れる。路肩も崩れていない。斜面に手をつくと、日に温められた岩肌から、乾いた熱が掌に移った。曲がり角の手前からでは、狭路の終わりが見えない。


「対向の馬車が入ってきたら、すれ違えないな」


「さっきの膨らみまで、どちらかが戻ることになるわね」


 エルセリアが経路図の余白に何かを書き付ける。


 ナイアは草地へ数歩下り、踵で土を押した。湿った土の匂いが、足元から立ち上る。


「こちらは水を含んでいます。荷馬車を寄せる場所にはなりません」


「入る前に、向こうを確かめる人が要るってことか」


「見張りを一人、角に立てるだけでも違います」


 シグは頷いた。立ち往生するほどではないが、行き違いが起きれば長引く。報告する価値はある。


 先へ進もうとして、足が止まった。


 道の中央に、轍が二本。


 荷馬車の通る道に轍があるのは当たり前だ。ただ、先ほどまで見てきたものより、縁が鋭い。底に土の粉が溜まっておらず、削られたばかりの小石が脇に転がっている。


 しゃがんで、指で縁をなぞった。崩れない。


「エイリク」


 呼ぶと、狼人は数歩で戻ってきた。


「どうした」


「これ、新しくないか」


 エイリクは轍を一瞥し、鼻先を地面へ近づけた。


「……古くはない。ここ数日のうちだろう」


「商会の話じゃ、この道を使う荷馬車は少ないはずだよな」


 エルセリアが経路図から顔を上げる。


「利用の記録は、ほとんど無いと聞いているわ」


 轍を辿って、シグは数歩先まで歩いた。途中で、別の車輪の跡が重なっている。幅が違う。片方は地面を深く削っていた。


 キルミが覗き込む。


「荷継ぎ場の標準の荷車なら、この幅はおおむね揃うはずです。これは揃っていませんね」


「別の種類の荷馬車が通った、ということか」


「あるいは、同じ荷馬車が積荷の重さを変えて通ったか。断定はできません」


「そこまでにしておけ」


 エイリクが言った。声は低く、咎める調子ではなかった。


「商会に属さない運び手はいくらでもいる。近くの村の者かもしれん。何台通ったのかも、これでは分からん」


「……そうだな」


 言い返す材料はなかった。


 立ち上がり、轍の先へ目をやる。見つかったのは、最近ここを荷馬車が通ったことだけだ。誰が、何のために通ったのかは、この土のどこにも書かれていない。


 予定どおりに進めば、日の高いうちに荷継ぎ場へ着く。


 それでも、足は轍の上を離れなかった。


 ◇


 狭路を抜けて少し行くと、道が二つに分かれた。


 正面の道は緩やかに下り、木立の間へ消えている。左の道は、背の高い草に挟まれて森へ入っていた。


 エルセリアが経路図を確かめる。


「荷継ぎ場へ向かうのは正面。左の道も図には載っているけれど、今回の経路には入っていないわ」


「その先は」


「図では途中で切れているの。道が終わっているのか、描き落としなのかは分からない」


 分岐の手前に膝をつく。


 轍の片方が、左へ曲がっていた。車輪が土を押し出したのだろう、外側に低い盛り上がりができ、倒れた草がその上に被さっている。折れ口は、まだ緑だった。


「こっちにも入ってる」


「地元の運び手が使っているのかしら」


 ナイアは森の入口から数歩離れ、枝の間へ目を凝らしていた。


「人の通りは多くないですね。道の真ん中まで草が伸びています。毎日使う道なら、こうはなりません」


「荷馬車は通ってるのに?」


「数えるほどしか通っていないのでしょう」


 シグは立ち上がった。


「なら、調べる価値があるんじゃないか」


「逆です」


 ナイアは首を振った。


「数えるほどなら、追っても分かることは少ないでしょう。一度きりの運び手なら、奥には何も残っていないかもしれません」


「どこまで追うつもりだ」


 エイリクが腕を組む。


「奥までは行かない。荷馬車が通れる道なのか、道幅と轍を見るだけだ」


「戻る時刻は」


「……一刻」


 空を見上げた。木々の上に、日はまだ高く残っている。


「梢の、あの高さまで日が落ちたら引き返す。それまでに何も分からなくても戻る。危ないものを見つけたら、そこで止まる」


「その一刻の分、荷継ぎ場での聞き取りが削られるわ」


 エルセリアが言った。


「担当者が倉庫を閉める前に着けなければ、話を聞けるのは明日。宿代も、報告の期日も動く。この分岐は報告して、今日は荷継ぎ場へ行くべきよ。轍が新しいなら、明日も残っているでしょう」


「残ってるかどうか、分からない。雨が降れば消えるし、荷馬車がもう一度通れば、新旧の区別がつかなくなる。今日なら、どれが最近のものか分かる」


「それは、あなたの推測でしょう」


「そうだ」


 認めると、エルセリアの眉がわずかに動いた。


「だから一刻にする。遅れた分は、荷継ぎ場で道の状態だけ先に報告して、聞き取りはできるところまでに絞る。続きは明日でいい」


 エルセリアは経路図を見下ろし、しばらく黙っていた。


「……遅れた理由は、報告書にあなたの名前で書くわよ」


「それでいい」


「なら、いいわ」


 地図が畳まれる。


 エイリクは何も言わず、梢の高さを目で測った。それから、左の道へ足を向ける。ナイアは弓の位置を直して続き、キルミは黒杖で草を分けながら後に付いた。


 最後に、シグは正面の道を振り返った。


 荷継ぎ場へ向かうなら、あちらを進めばいい。ここまでの道に、荷馬車を止めるものは何もなかった。


 その分、左へ曲がった車輪の跡が、ひどく目についた。


 ◇


 森へ入ると、枝が頭上で重なった。


 足元の光が落ち、空気が冷える。湿った落ち葉の匂いが鼻をつき、草が靴を擦る音だけが、やけに大きく響いた。


 轍は木々の間を縫っている。道幅は荷馬車がぎりぎり通る程度で、車輪の通った幅だけ、草が倒れて土が露出していた。


 轍を踏まないよう、シグは道の端を歩いた。


 しばらく進んでも、人の気配はない。作業小屋も、積み荷の山も、輸送業者の姿もなかった。風が止み、枝の揺れる音さえ遠のいていく。


「ここまでは、荷馬車が通れる道だな」


「今のところはな」


 先頭のエイリクが短く答えた。耳は前を向いたまま、動かない。


 梢の向こうに見える光は、まだ高かった。


 轍が緩く右へ曲がる。そこで、シグは足を止めた。


 轍の縁、土が盛り上がったところに、靴跡があった。


 踵の深い跡。荷馬車の車輪が通ったあとに、その上から踏み込んだものだ。縁の土が崩れて、輪郭が潰れている。ひとつではなく、少し離れて、もうひとつ。


「……エイリク」


「見た」


 エイリクはしゃがみ込み、靴跡の向きを辿った。


 跡はすべて、森の奥を向いていた。


 シグは来た道を振り返る。入口から、ここまで。戻る向きの跡は、ひとつも見つからなかった。


「道の端を歩いて、見落としたのかもしれん」


「そうかもな」


「決めつけるなよ」


「分かってる」


 エイリクが立ち上がり、轍の先を見据える。


 ナイアが矢筒に触れた手を、静かに下ろした。


 シグは剣帯に指を掛け、梢の上の日を、もう一度だけ見上げた。


 一刻には、まだ早い。

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