第三話:選ばれなかった道/第四幕:重なりはじめる線
リューン王国西方軍の指揮所には、夜明け前から伝令の靴音が絶えなかった。蝋燭の脂が焦げる臭いに、濡れた革と馬の汗が混じっている。
ライナー・フォン・ヴォーゲルは卓上の国境図に両手をつき、駒の列を端から見下ろしていた。灰青色の眼が、ファルム回廊を離れてセレスティア聖王国の北部国境へ移る。
「聖王国軍の一部が、カル=ザ=グラとの国境沿いで配置を変えております」
参謀が駒をひとつ進めた。
「通常の巡察路から外れています。衝突に備えた動きではないでしょうか」
「交戦の報告は」
「ありません。カル=ザ=グラ側も警戒を強めていますが、双方とも手は出していません」
「動いたのは事実だ。攻めるための動きかどうかは、別に裏を取れ。ゼルヴェナ帝国は」
「国境方面で、情報収集が活発になっているとのことです」
「探っているというだけでは、敵対とは呼べん。目は離すな」
窓の外で点呼が始まり、号令に続いて靴音が揃った。遠ざかる足並みを背に、参謀が次の書類を差し出す。
「ファルム回廊の通行規制について、継続のご判断を。商隊が迂回路へ集中し、アルヴィオ周辺は混乱しております」
ライナーは日付を確かめてから、書類を伏せた。
「規制は維持する。危険が下がったと言える材料が、まだ無い。確かめようのない道へ商隊を押し出すわけにはいかん」
補給担当の士官が帳簿を卓に置いた。紙の端が湿気で波打っている。
「魔石と魔力資材に納入の遅れが出ております。迂回のため、到着日を確約できないと」
「備蓄は」
「当面は支障ありません。ただ、長引けば防衛設備の整備に響きます」
「当面とは何日だ」
士官の指が、帳簿の上で止まった。
「品目ごとに異なりまして、詳細は、まだ」
「ならそれを先に出せ。使用予定と備蓄を突き合わせて、いつ底を突くのか数字で持ってこい。遅れを騒ぎ立てたところで、物資は一俵も増えん」
卓の端から報告書の束を引き寄せる。倒木、塞がれた枝道、武装した者による通行料の要求。場所も時期もまちまちで、同じ手の仕業と読める材料はどこにも無かった。
「確認したのは誰だ」
「商隊の申告が中心です。現地で裏を取れたものは一部でして」
「軍の補給に関わる経路から洗え。輸送の予定と到着見込みを重ねて出せ。護衛の要請は退ける。国境の兵を、商隊ごとに割く余裕は無い」
「武装集団の件は」
「治安当局へ回す。こちらで得た情報も渡して構わん」
親指が、報告書の一行を押さえた。
「ただし、確認したものと商人から聞いた話は、欄を分けろ。聞き話を事実の顔で送れば、受け取った側はそれを根拠に動く。動いた兵が誤りの代金を払うのは、いつも現場だ」
参謀が筆を走らせる。
「規制の理由と並べて、輸送への影響も書き添えろ。解除できぬ事情だけを連ねた報告では、向こうも動きようがない。行政には行政の仕事がある」
回廊に置かれた駒は動かさず、ライナーは次の報告書を手に取った。
◇
数日後、王都。
クリストフ・リンデマンの執務机には、西方軍の報告書と、商会ごとに書式の異なる要望書が積み上がっていた。インクと古紙の匂いのなかで、軍の報告書をめくる彼の手が、一頁目で止まる。
確認済みの事項と伝聞が、別々の欄に分けてあった。この癖は昔から変わらない。
末尾には、規制の理由に続いて「輸送への影響」の項まで立てられている。民間に何が起きているかを承知のうえで、あの男は規制を維持したのだ。それだけに、欠けているものは一つに絞られた。
「再検討の条件が、どこにもありません」
向かいの担当官が顔を上げる。
「解除の時期は、軍にも示せないとのことでして」
「日付を決めろとは申しません。危険が下がったと、何をもって判断するのか。それを定めない規制は、いずれ惰性で続きます」
銀縁の眼鏡を押し上げる。
「根拠となる法令と命令系統、適用範囲も確かめてください。西方軍司令部の通達だけでは、根拠として十分とは言えません」
「軍の判断が優先される以上、行政にできることは限られるのでは」
「規制に介入するつもりはありません。軍が止めることと、私たちが商人へ説明を尽くすことは、別の仕事でしょう」
担当官は別の束を机へ置いた。アルヴィオをはじめ西部の商業都市から届いた遅延の報告で、嵩む保管費、延期された納品、引き返した商隊の記録が並んでいる。
「損失は、各商会の申告をそのまま合算しました」
「規制による遅延と、迂回先で起きた障害が混ざっていますね」
クリストフは一枚を抜き、行間に指を走らせた。
「原因の定まらない金額では、補償の判断を誤ります。確認できない分は、未確認と記して分けてください。判っている分からで結構です」
入れ替わりに別の官吏が入り、封書を差し出した。西方軍が公開可能とした範囲の、輸送経路の写しである。商業部署の遅延報告と並べると、迂回路の一帯で、二枚の紙に打たれた印が重なった。
「補給経路と遅延の発生地が重なっておりますが、軍の資料には調達に関わる情報が含まれます。商業部署へそのままというのは」
「渡す必要はありません」
余白へ項目を書き出していく。
「場所と発生日、確認された通行障害。それだけで照合できます。部隊の配置や調達量、商会の取引先や価格は除いてください」
「迂回路で武装集団が通行料を求めた件は、治安当局でも地域ごとに別々の扱いです」
「発生地と時期を突き合わせられる形にまとめてください。関連の有無を言うのは、その後です」
官吏の視線が、一瞬だけ床へ落ちた。
「被害を受けた商会には、ゼルヴェナ帝国と取引のある者も含まれております。帝国も周辺を探っているという話があり……」
筆が止まった。眼鏡の奥で、眼差しが鋭さを帯びる。
「取引先の国と、不正への関与は別です。疑うのなら、それに足る事実を持ってきてください」
「失礼しました」
官吏が退くと、紙を繰る音だけが残った。窓の下を荷馬車の車輪が石畳を鳴らして過ぎ、遠くで鐘がひとつ打たれる。
クリストフは三つの束を並べ直した。軍の報告、商会の要望、治安当局の記録。発生地はいくつか重なっているが、その重なりが何を意味するのかを書く欄は、どこにも無い。照会書の末尾に「関連:未確認」と記し、その一行を消さずに残した。
呼び鈴を鳴らし、揃えた書類を机の端へ寄せて待つ。
◇
同じ日の夕刻、アルヴィオの冒険者ギルドは、依頼を探す者で膨れていた。
掲示板の前で、一人の人物が足を止めている。迂回路の通行状況を調べる依頼は、受注済みの札へ掛け替えられていた。依頼人は地元の商会で、調査先にはリューン王国方面へ伸びる道と、途中の荷継ぎ場が指定されている。
人物は札から目を離し、懐の紙片を開いた。旧交易路で武装集団の一人が捕らえられ、アルヴィオへ連行されたとある。男が何を喋ったのかは、どこにも書かれていない。
カウンターで手続きを終えた一行が、通路へ出てきた。狼人、エルフ、ゴブリン、それに人間が二人。人物は壁際の机へ退き、五人の特徴を紙片の余白に書き留める。続けて広げた略図には、倒木の跡から森へ伸びる細い線が引かれていた。武装集団が逃げた道筋とは、別の線だった。
略図と紙片を畳んで懐へ収めた時、五人がギルドの扉を押し開けた。
人物は一拍だけ置いて席を立ち、人波に紛れて、同じ戸口へ向かった。




