第二話:進めない理由/第四幕:行き先を失って
エイリクの耳は、まだ立っていた。三人が消えた方角ではなく、それとは別の一点を向いたまま。
「シグ、車列の外を見ていろ。何かあれば呼べ」
「分かった」
大斧を提げた狼人が、縛り上げた男のもとへ戻っていく。シグは木立を見渡せる窪みの縁に立ち、剣の柄から手を放した。強張った指が開くまでに、一拍かかった。
草いきれの底に、鉄錆に似た臭いが澱んでいる。昂ぶりの収まらない馬が前脚で土を掻き、宥める御者の声は車輪の軋みに紛れて途切れがちに届いた。背中では汗が冷えはじめ、鎧下の布が肌に貼りついている。
荷馬車の間では、エルセリアが商人たちを順に指さしていた。
「全員いるわね。怪我人は? 縄の緩みも見ておいて。無事な荷ほど、あとで崩れるのよ」
ナイアは弓を提げたまま車列を巡り、腕を押さえた商人の前で足を止める。
「見せてください。傷なら塞げます」
「擦っただけだ」商人は袖を引き下ろし、荷箱を持ち直した。「治癒の礼まで払える懐じゃない。借りは作らん主義でね」
行き場をなくしたナイアの手が、弦に戻るまで少しかかった。
車列の反対側から戻ったキルミが、黒杖の石突きについた土を払う。
「あちらにも、お怪我をされた方はいませんでしたよ」
車輪の傷を検めていた商人は、削れた木片を爪で剥がし、軸と輪縁を叩いて音を聞いた。御者へ短く頷くと、今度は荷台の下へ潜り込んでいく。
◇
縛られた男は、草地に尻を落としていた。両手は前で括られ、立ち上がれる程度の余裕だけが残されている。エイリクが近づくと、顔を背けた。
「根城はどこだ」
「……知るかよ」
「逃げた三人は仲間だろう。ほかにもいるのか」
返事はない。エイリクはしゃがまず、立ったまま待った。男の頭に落ちた影が、風に揺れる草の影と混ざる。
「黙っていて構わん。アルヴィオまで連れていく」
「何だと。お前らに、そんな権利が――」
「荷を奪おうとして、剣まで抜いた。役人に話すには十分だ。それと」
エイリクは木立のほうへ顎をしゃくった。
「逃げた連中は、お前を待たなかったな」
男の喉が動く。縛られた拳が膝の上で握られ、ほどけ、また握られた。
「……俺たちは、道案内をしてただけだ」
「断られたら荷を取るのが道案内か」
「最初からそうじゃねえ!」
声が跳ねた。振り向いた商人たちの視線に、男は口を閉じる。しばらくして、低い声が続いた。
「前は荷運びだった。街道沿いで積んだり降ろしたりな。それがファルム回廊の通行が止まってから、荷が来なくなった。運ぶもんがなきゃ、俺らの仕事もねえ」
「それで、あの連中に加わったのか」
「知り合いに誘われた。古い道を通る商人を案内すりゃ金になるってな」
「その話に、裏は取れん」
エイリクの声は平らだった。
「役人の前で、同じことを言え。俺は聞いたとおりに伝えるだけだ」
男は答えない。エイリクが問いを重ねた。
「道の石は、お前らが寄せたのか」
肩がわずかに動く。
「通れる場所を絞ったほうが、客を見つけやすい」
「客?」
「……通る奴らだ」
「木も倒したのか」
「知らねえ。俺が行ったときには、もう倒れてた。それを使って石を寄せたのは、知ってる」
シグの脳裏に、倒木の根元へ寄せられた石が浮かんだ。荷馬車の幅に合わせたような隙間。
「森に、人が休んでいた跡があった」
口を挟むと、男の目がシグへ向く。
「待つ場所くらい、あるだろ。客がいつ来るかなんざ分からねえんだから」
「この草地にも来ていたのか。商隊が待っていた場所に」
「今日は初めてだ。俺はな」
そこで男は口を結んだ。
「荷を奪ったことは」
エイリクの問いに、答えは返らない。
「あるんだな」
「……払わねえ奴が悪いんだよ」
シグの指が、剣帯を握り込んだ。荷台の陰で身動きもできずにいた商人の背中が、まだ目に残っている。事情を聞いた今も、剣を抜いた男の前から退かなかったことまで、間違いだったとは思えなかった。
「ほかに仕事がなかったんだ」
俯いたまま、男が呟く。シグは指を剣帯にかけたまま、視線だけを男から剥がした。
「エイリク、車列を見てくる」
「ああ」
引き止めも、念押しもない。狼人は男の前に立ったまま、振り向きさえしなかった。
◇
荷台の点検が終わる頃には、陽はかなり傾いていた。
商隊責任者は傷のついた車輪を確かめ、御者の報告を聞き終えると、地図を草の上へ広げる。
「車輪は使えます。積荷にも、大きな損傷はありません」
「馬は?」とエルセリアが問う。
「少し休ませれば動くそうです。ただ、今日はもう無理をさせたくない」
責任者は地図の一点を指で押さえた。
「旧交易路は使いません。二度とです」
エイリクが頷く。
「障害物をどけても、その先を荷馬車で抜けられる保証はない。逃げた三人も森にいる」
その視線が、横に立つシグへ流れた。
「橋を、見ていません。倒木の先にあるのですが、渡れるかどうかは分からないままです。それに、森にいたのがあの四人だけとは限りません。本人も、人数は知らないと」
責任者は黙って聞き、やがて地図の端へ指を滑らせた。
「主要街道の規制解除を待つ手もあります。ですが、いつ解けるのか誰にも分からない。待つあいだ、宿代も飼い葉代も日ごとに嵩みますし、荷も傷む」
言葉を切り、列をなす荷馬車を見渡す。
「アルヴィオへ戻ります。損失は出ます。この決断は、私が負います。皆さんへの支払いは、戻ってから詰めさせてください」
地図を畳む手つきに、迷いはなかった。
「帰りも護衛は要るだろう。引き受ける」
エイリクの答えに、責任者は短く頭を下げ、御者たちのほうへ歩いていった。
◇
御者たちが馬を引き、荷馬車が一台ずつ向きを変えていく。草地の端で車輪が深い轍を刻み、湿った土が盛り上がった。
最後尾の荷台の後ろへ回ったシグは、窪みに落ちかけた車輪へ声を投げる。
「もう少し右です。そこに石が」
手綱が引かれ、馬が首を振った。荷台へ両手を添えて押すと、車輪が石を越えた拍子に、肩の奥へ鈍い痛みが走る。男とぶつかった場所だ。
荷台の上では、商人が届け先の書付を括りつけた木箱の蓋を撫でていた。その手を引くのに、いやに時間がかかる。やがて幌を引き上げ、縄を締め直した。隣の荷では、別の商人が数え終えた帳面を閉じ、また開いて、同じ頁に目を落としている。
エイリクに促された男も歩き出す。すれ違いざまに商人の一人が顔を背け、男も何も言わなかった。
先頭の馬車が動く。車輪が草を噛み、来た道へ、ゆっくりと。
列の脇を歩くシグは振り返った。旧交易路の入口が、木立の間に口を開けている。倒木も橋も、ここからは見えない。
「遅れるな」
列の先から、エイリクの声が飛んだ。
「ああ、今行く」
歩調を速めて最後尾に追いつく。木立が遠のくまでのあいだ、何度か後ろを振り返った。
そのとき、前を行くエイリクの耳が、一度だけ旋回した。旧交易路ではなく、その脇の森へ。狼人は振り向かず、歩幅も変えない。シグは何も言わず、同じ方角へ目を凝らした。
木立は、何も返さなかった。




