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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第六章:「国家の影」

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第二話:進めない理由/第四幕:行き先を失って

 エイリクの耳は、まだ立っていた。三人が消えた方角ではなく、それとは別の一点を向いたまま。


「シグ、車列の外を見ていろ。何かあれば呼べ」


「分かった」


 大斧を提げた狼人が、縛り上げた男のもとへ戻っていく。シグは木立を見渡せる窪みの縁に立ち、剣の柄から手を放した。強張った指が開くまでに、一拍かかった。


 草いきれの底に、鉄錆に似た臭いが澱んでいる。昂ぶりの収まらない馬が前脚で土を掻き、宥める御者の声は車輪の軋みに紛れて途切れがちに届いた。背中では汗が冷えはじめ、鎧下の布が肌に貼りついている。


 荷馬車の間では、エルセリアが商人たちを順に指さしていた。


「全員いるわね。怪我人は? 縄の緩みも見ておいて。無事な荷ほど、あとで崩れるのよ」


 ナイアは弓を提げたまま車列を巡り、腕を押さえた商人の前で足を止める。


「見せてください。傷なら塞げます」


「擦っただけだ」商人は袖を引き下ろし、荷箱を持ち直した。「治癒の礼まで払える懐じゃない。借りは作らん主義でね」


 行き場をなくしたナイアの手が、弦に戻るまで少しかかった。


 車列の反対側から戻ったキルミが、黒杖の石突きについた土を払う。


「あちらにも、お怪我をされた方はいませんでしたよ」


 車輪の傷を検めていた商人は、削れた木片を爪で剥がし、軸と輪縁を叩いて音を聞いた。御者へ短く頷くと、今度は荷台の下へ潜り込んでいく。


 ◇


 縛られた男は、草地に尻を落としていた。両手は前で括られ、立ち上がれる程度の余裕だけが残されている。エイリクが近づくと、顔を背けた。


「根城はどこだ」


「……知るかよ」


「逃げた三人は仲間だろう。ほかにもいるのか」


 返事はない。エイリクはしゃがまず、立ったまま待った。男の頭に落ちた影が、風に揺れる草の影と混ざる。


「黙っていて構わん。アルヴィオまで連れていく」


「何だと。お前らに、そんな権利が――」


「荷を奪おうとして、剣まで抜いた。役人に話すには十分だ。それと」


 エイリクは木立のほうへ顎をしゃくった。


「逃げた連中は、お前を待たなかったな」


 男の喉が動く。縛られた拳が膝の上で握られ、ほどけ、また握られた。


「……俺たちは、道案内をしてただけだ」


「断られたら荷を取るのが道案内か」


「最初からそうじゃねえ!」


 声が跳ねた。振り向いた商人たちの視線に、男は口を閉じる。しばらくして、低い声が続いた。


「前は荷運びだった。街道沿いで積んだり降ろしたりな。それがファルム回廊の通行が止まってから、荷が来なくなった。運ぶもんがなきゃ、俺らの仕事もねえ」


「それで、あの連中に加わったのか」


「知り合いに誘われた。古い道を通る商人を案内すりゃ金になるってな」


「その話に、裏は取れん」


 エイリクの声は平らだった。


「役人の前で、同じことを言え。俺は聞いたとおりに伝えるだけだ」


 男は答えない。エイリクが問いを重ねた。


「道の石は、お前らが寄せたのか」


 肩がわずかに動く。


「通れる場所を絞ったほうが、客を見つけやすい」


「客?」


「……通る奴らだ」


「木も倒したのか」


「知らねえ。俺が行ったときには、もう倒れてた。それを使って石を寄せたのは、知ってる」


 シグの脳裏に、倒木の根元へ寄せられた石が浮かんだ。荷馬車の幅に合わせたような隙間。


「森に、人が休んでいた跡があった」


 口を挟むと、男の目がシグへ向く。


「待つ場所くらい、あるだろ。客がいつ来るかなんざ分からねえんだから」


「この草地にも来ていたのか。商隊が待っていた場所に」


「今日は初めてだ。俺はな」


 そこで男は口を結んだ。


「荷を奪ったことは」


 エイリクの問いに、答えは返らない。


「あるんだな」


「……払わねえ奴が悪いんだよ」


 シグの指が、剣帯を握り込んだ。荷台の陰で身動きもできずにいた商人の背中が、まだ目に残っている。事情を聞いた今も、剣を抜いた男の前から退かなかったことまで、間違いだったとは思えなかった。


「ほかに仕事がなかったんだ」


 俯いたまま、男が呟く。シグは指を剣帯にかけたまま、視線だけを男から剥がした。


「エイリク、車列を見てくる」


「ああ」


 引き止めも、念押しもない。狼人は男の前に立ったまま、振り向きさえしなかった。


 ◇


 荷台の点検が終わる頃には、陽はかなり傾いていた。


 商隊責任者は傷のついた車輪を確かめ、御者の報告を聞き終えると、地図を草の上へ広げる。


「車輪は使えます。積荷にも、大きな損傷はありません」


「馬は?」とエルセリアが問う。


「少し休ませれば動くそうです。ただ、今日はもう無理をさせたくない」


 責任者は地図の一点を指で押さえた。


「旧交易路は使いません。二度とです」


 エイリクが頷く。


「障害物をどけても、その先を荷馬車で抜けられる保証はない。逃げた三人も森にいる」


 その視線が、横に立つシグへ流れた。


「橋を、見ていません。倒木の先にあるのですが、渡れるかどうかは分からないままです。それに、森にいたのがあの四人だけとは限りません。本人も、人数は知らないと」


 責任者は黙って聞き、やがて地図の端へ指を滑らせた。


「主要街道の規制解除を待つ手もあります。ですが、いつ解けるのか誰にも分からない。待つあいだ、宿代も飼い葉代も日ごとに嵩みますし、荷も傷む」


 言葉を切り、列をなす荷馬車を見渡す。


「アルヴィオへ戻ります。損失は出ます。この決断は、私が負います。皆さんへの支払いは、戻ってから詰めさせてください」


 地図を畳む手つきに、迷いはなかった。


「帰りも護衛は要るだろう。引き受ける」


 エイリクの答えに、責任者は短く頭を下げ、御者たちのほうへ歩いていった。


 ◇


 御者たちが馬を引き、荷馬車が一台ずつ向きを変えていく。草地の端で車輪が深い轍を刻み、湿った土が盛り上がった。


 最後尾の荷台の後ろへ回ったシグは、窪みに落ちかけた車輪へ声を投げる。


「もう少し右です。そこに石が」


 手綱が引かれ、馬が首を振った。荷台へ両手を添えて押すと、車輪が石を越えた拍子に、肩の奥へ鈍い痛みが走る。男とぶつかった場所だ。


 荷台の上では、商人が届け先の書付を括りつけた木箱の蓋を撫でていた。その手を引くのに、いやに時間がかかる。やがて幌を引き上げ、縄を締め直した。隣の荷では、別の商人が数え終えた帳面を閉じ、また開いて、同じ頁に目を落としている。


 エイリクに促された男も歩き出す。すれ違いざまに商人の一人が顔を背け、男も何も言わなかった。


 先頭の馬車が動く。車輪が草を噛み、来た道へ、ゆっくりと。


 列の脇を歩くシグは振り返った。旧交易路の入口が、木立の間に口を開けている。倒木も橋も、ここからは見えない。


「遅れるな」


 列の先から、エイリクの声が飛んだ。


「ああ、今行く」


 歩調を速めて最後尾に追いつく。木立が遠のくまでのあいだ、何度か後ろを振り返った。


 そのとき、前を行くエイリクの耳が、一度だけ旋回した。旧交易路ではなく、その脇の森へ。狼人は振り向かず、歩幅も変えない。シグは何も言わず、同じ方角へ目を凝らした。


 木立は、何も返さなかった。

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