第一話:閉ざされた街道/第二幕:旧交易路へ
アルヴィオ側から来た責任者が天幕へ入っていくのを見送るうち、木柵の手前で声が上がった。
「頼むよ。俺の馬車だけでも通してくれないか」
商人らしい男が、西方軍の兵士に食い下がっている。
「明後日までに届けなきゃ、代金を減らされるんだ。運び賃も護衛の金も、もう払っちまってる。ここで引き返したら、何が残るっていうんだ」
兵士は命令書の端を親指でなぞり、顔を上げた。
「事情は分かりました。ですが、許可のない通行は認められません」
「一台だけだぞ。荷を届けたら、すぐ戻る」
「申し訳ありません。私の判断では、通せません」
男は後ろを振り返った。少し離れた場所に停めた馬車で、御者が手綱を握ったままこちらを見ている。
「……じゃあ、誰に頼めばいい」
兵士は言葉を探すように口を閉じ、命令書を畳んだ。
「解除については、上からの指示を待つことになります」
男はしばらく立ち尽くしてから、肩を落として馬車へ戻っていった。
シグは荷馬車の脇から、その背を見送った。兵士はもう次の商人を呼んでいる。声の高さも、書類を畳む手つきも、訓練場で教わった手順とほとんど変わらない。自分があの位置に立っていたとして、別の答えを返せただろうか。
やがて責任者が戻ってきて、五人を寄せて声を落とした。
「この先は規制の対象だそうです。目的地が王国領内であっても関係ない、と。解除の見込みは未定です」
「聖王国とカル=ザ=グラの件か」
エイリクが低く言うと、責任者は首を振った。
「そうだろうとは思いますが、理由までは聞けませんでした」
「規制の範囲を、もう少し確かめたいです」
シグが言うと、エイリクは黙って一歩寄り、シグの左に並んだ。
天幕の前では、担当の兵士が卓に地図を広げていた。胸甲に刻まれた紋章が目に入り、背筋が伸びかけて、途中で肩の力を抜く。
「どうして、ここを通っちゃいけないんですか?」
兵士の視線が、一拍だけシグの顔に留まった。
「命令では、国境付近の情勢を踏まえた警戒強化、とだけ伝えられています。この先で何かあった場合、通行者を安全に退避させられる保証がありません」
「戦になるのか」
エイリクが尋ねた。
「そこまでは聞いておりません。我々に伝えられているのは、規制の範囲と条件だけです」
兵士は地図の上へ指を置き、規制の線をなぞった。
「主要街道のこの区間が対象です。対象外の道もありますが、そちらが安全かどうかまでは、私には保証できません」
シグが礼を言って下がると、兵士は視線を戻し、次の馬車へ声をかけた。
◇
商隊は検問所から離れた空き地へ移された。
責任者が他の商人から聞き集めた話をもとに、古い地図を広げる。主要街道が整う前、丘陵を抜けて交易拠点へ通じていた道があるらしい。
「今も通れるかは分かりませんが、方角は合っています」
シグは地図を覗き込み、気づけば顎に手を当てて細い線を追っていた。線は丘の襞を縫い、途中で一度、川を示す青に触れている。
顔を上げた先に、一台の馬車が停まっていた。車輪の外縁から車体の下まで、乾きかけた泥が厚くこびりつき、荷台の片側には斜めに補強板が打たれている。
昨日、分岐から出てきた馬車だ。
シグは責任者に一声かけ、御者のもとへ向かった。
「少し聞いてもいいですか。その馬車、昨日も街道を走ってましたよね。旧交易路から戻ってきたんですか」
男の手が、手綱の上で止まった。
「……ああ。途中までな」
「道は通れそうでしたか」
「狭いし、荒れてる。橋も傷んでたな。車輪を取られたら厄介だ」
「橋は、渡れなかったんですか」
「渡ってはいない。見て引き返した」
御者は荷台の縄を引き直し、それきりシグと目を合わせなかった。
「ほかを当たった方がいいぞ。俺はもう行く」
軋む音を残して、馬車は街道を引き返していった。
話を聞いた責任者は、地図を前に腕を組んだ。
「橋が傷んでいるとなると、四台とも渡れるかどうか……」
「確かめずに進ませるわけにはいかん」
エイリクが言った。
「だが、入口から通れんと決まったわけでもない」
「一度、行けるところまで進みたいと思います。ここで待ち続けるのも、アルヴィオへ戻るのも、荷主への説明がつきません」
「行けるところまでなら、俺も賛成です」
シグが言うと、エイリクはシグを見て、それから責任者へ向き直った。
「無理だと分かったら、すぐ戻るぞ」
「承知しました。日数が延びる分の報酬も、お支払いします」
「金の話は後でいい。まず道だ」
エイリクが地図を畳むと、責任者は御者たちを呼び集めた。
◇
四台の荷馬車が向きを変え、旧交易路へ入った。
入口には低い石柱が立っていた。かつては道標だったのだろう、刻まれた文字は苔に覆われ、行き先の半分が読めない。石畳もところどころ土に埋もれ、残った継ぎ目だけが先へ続いていた。
キルミが石柱の前で足を止めた。苔の下の文字へ指先を伸ばし、触れる寸前で止める。黒杖の石突が、地を一度だけ叩いた。
「……古い書体ですね。実に興味深い」
「キルミ」
エルセリアが名を呼ぶと、老魔導士は指を引っ込め、杖を持ち直した。
「承知していますよ、エルセリアさん。荷馬車を待たせて払う授業料は、高くつきますから」
キルミは聞こえなかったふりで、列の後ろへ歩いていった。
道幅は狭かったが、荷馬車一台なら通れる。土に半ば埋もれた石畳の上には、新しい轍が残っていた。車輪の幅は、今の商隊と大きく変わらない。
先頭の馬が足を取られ、深い轍に車輪が落ちて荷台が傾いだ。
「シグ、荷台の左を支えてください。右は、私が石を見ます」
ナイアの声に、シグは荷台の後ろへ回った。御者と並んで車輪の縁を押すと、木が泥を噛み、掌にざらついた抵抗が残る。靴底が滑り、踏み直した拍子に、車輪がゆっくりと溝を抜けた。
「助かります」
ナイアが胸へ手を添え、小さく頭を下げた。
「この調子じゃ、日暮れまでにどこまで行けるか」
御者が手綱を握り直す。
「待て。先を探る」
エイリクが左手を上げた。手の甲の紋章が淡く光る。狼の耳が前へ傾き、しばらくそのまま動かなかった。
「……進める。だが、速度は落とせ」
道は丘陵の斜面に沿って曲がり、谷側の路肩で石組みが一間ほど崩れていた。積まれていた石は土ごと斜面を滑り落ち、断面から細い根が白く垂れている。残った側の幅なら荷馬車は収まる。ただ、車輪が一つでも外へ寄れば危うい。
シグは縁から二歩下がり、崩れ際の土を靴底で踏んだ。頼りなさが、そのまま足の裏へ返ってくる。
エルセリアが先頭の車輪の位置を目で測り、御者へ手を一度だけ左へ振った。荷馬車は縁から離れ、枝が幌を擦る木立の下へ入っていく。
やがて前方から、短い声が上がった。
「止まれ!」
先頭の馬が足を踏みとどめ、後続も次々に手綱を引いた。馬の鼻息と車輪の軋みが、狭い道に重なる。
シグは前へ駆けた。
道を横切るように、大木が倒れていた。太い幹の周りには岩が幾つも転がり、枝の間に絡んでいる。人なら抜けられる隙間はあるが、荷馬車は通れない。
「こいつを退ければ、何とかなるか」
御者の一人が、斧を取りに荷台へ戻った。
シグは倒木の脇へ回った。根元の土は盛り上がり、湿った地面に深い窪みが残っている。木が倒れたときに抉れたのだろう。その少し先にも、土が大きく乱れた場所があった。
しゃがみ込み、指先で表面を押すと、柔らかかった。石の下には、まだ湿った土が付いている。
「エイリク」
呼ばれた狼人が近づき、倒木の根元から周囲の地面へ視線を滑らせた。シグは土に指を置いたまま、それ以上は何も言わなかった。
エイリクは幹の向こう側へ回り、しばらく地面を見てから戻ってきた。
「……まだ分からん。だが、妙だな」
斧を提げた御者が、倒木に近づく。
「とにかく枝だけでも落とそう。少しでも動かせれば――」
「待て。まだ触るな」
御者の足が止まった。
狼の耳が、ゆっくりと木立の奥へ向いた。
シグも顔を上げた。




