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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第五章:「知らない世界へ」

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幕間:法と国境

 シイバの件から、ひと月近くが過ぎた頃。


 西方軍司令部の執務室には、中央を経由して届いたばかりの帝国の外交文書が広げられている。窓の外では秋風が練兵場の砂を巻き上げ、軍旗の端を絶えず鳴らしていた。石壁に染みた朝の冷えは、火の入っていない暖炉のせいで昼を過ぎても抜けず、紙の端が指に冷たかった。


 西方軍を預かる西将、ライナー・フォン・ヴォーゲルは三度目の通読を終え、文書を机に置いた。文面は丁重だった。自国兵の死を悼み、王国の協力への謝意を先に述べている。その礼儀正しさの下に、要求だけが刃物のように揃っていた。事件関係者の氏名、現在の所在、そして引き渡し。


 扉が叩かれ、クリストフ・リンデマンが入ってきた。脇に抱えた革の書類挟みは、朝より厚くなっている。


「読まれましたか」


「読んだ。座れ」


 クリストフはライナーが押しやった椅子に腰を下ろし、書類挟みを机へ置いた。留め紐には、王国議会の封蝋が押されている。銀縁眼鏡の位置を直して文書を取ると、紙をめくる音が数枚分続き、最後の頁で途切れた。


「シグ・フリューゲン。王国騎士団西方軍所属、準騎士。……『元』とは書いていませんね」


「離隊の届は出ていない。フリューゲンの籍は、まだうちにある」


「帝国はそれを承知で、現在形を選んでいる。王国の軍人として扱い、軍の内部で片づけろという含みにも読めます」


 ライナーは調査書の束を手元へ寄せた。生存者の聴取書、現場の検分記録、死傷者の名簿。どの頁にも書き込みがあり、いくつかには赤い線が引かれている。


「帝国兵が死んだのは事実だ。だが、フリューゲンが故意に殺したと言える材料はない。それより先に答えるべきは、帝国の兵がなぜ王国領内にいて、なぜ我が軍の準騎士を縛ろうとしたかだ」


「文書はその点に一行も触れていません」


「触れんだろうな」


 クリストフは文書の端を指で軽く叩いた。


「こちらの問いには答えず、こちらの持つ答えだけを求めている。ただ、自国兵の死因を調べる権利は、帝国にもあります。そこを拒めば、王国が何かを隠していると言われる。確認の取れた事実は出し、未確認のものと所在は留保する。越境の経緯は、こちらから正式に説明を求める。そう組めば、拒絶ではなく手続きの問題になります」


 ライナーは頷いた。


「帝国が欲しいのは、死んだ兵の理由ではあるまい」


「でしょうね」


 返事は早かった。


「聴取書にある、あの紋章です。帝国は、秩序の外にある力を放っておかない国だと、諸国では見られています。法の名で囲い込むのが彼らの流儀だと」


「確証はない」


「ありません。推測のまま回答の根拠にはしません」


 ライナーは聴取書の一枚に目を落とした。証言の端に「紋章」と書き留められた箇所がある。聴取を受けた者は、誰もがその語の手前で言葉を濁していた。


「我々も、あれが何なのかは知りたい」


 口にしてから、その言葉の座りの悪さに気づいたように、彼は眉を寄せた。


「帝国と我々は、どこが違う」


 クリストフの筆が宙で動きを失った。


「問われれば、答えに窮します。違いがあるとすれば、我が国は囲い込むと決めていない、という一点だけでしょう」


「決めていないだけだ」


「ええ。だから、方針を決めるのです」


 ライナーは地図の西の端、シイバから山地を越える街道に指を置いた。エルバ自由都市同盟の方へ向かったらしいという報せは上がっている。だが、その先に印はなかった。


「所在が知れた場合だ。まず無事を確かめる。そのうえで、事情聴取のために帰国を求める」


「軍籍の件は」


「不問にはできん。だが、脱走と決めるのは本人の話を聞いてからだ」


「処分は保留とします。帰国を断られた場合は」


「連れ戻しはせん。だが、帝国が手を伸ばしているなら、こちらが手を放すのも違う。どこにいて、誰が近づいているかは掴んでおく」


 筆先が紙から浮いた。


「本人の側から見れば、保護と監視は同じ手に見えるでしょう」


「そう見えるだろうな」


 ライナーは否定しなかった。窓の外で号令が響き、練兵場の騎士たちが一斉に向きを変える。厚い硝子越しの軍靴の音が、短い沈黙の間を埋めた。


「もう一点」


 クリストフは眼鏡を外し、布で拭いてから掛け直した。


「処分を保留する以上、軍規上の責任はあなたが負うことになります。西方軍の籍にある者を、国外に放置したまま庇っている。帝国がそう言い立てれば、中央は矛先をあなたに向ける。書面は私が整えますが、署名するのはあなたです」


 ライナーは答えず、机の引き出しから印章を取り出した。親指が、印面の縁をなぞる。角の丸くなった溝を、三度、四度と往復した。


「署名なら慣れている」


「慣れた顔で言うことではありませんね」


 クリストフは前の頁へ戻り、すでに書いたはずの一行を、もう一度目で追った。


 ◇


 クリストフが回答案を携えて中央へ戻ると、ライナーは西方軍の参謀を呼んだ。


「シグ・フリューゲンの所在調査は継続する。エルバ方面の街道と関所を洗い直せ。人手は回す」


「はっ」


「見つけたら、まず無事を確かめろ。断られても、連れ出すな。国境の向こうで刃を抜くことも許さん。帝国の兵に先を越されたときは、手を出さずに私へ知らせろ。抗議はこちらでやる」


 参謀は一礼し、足音を揃えて出ていった。


 ライナーは机に戻り、署名を済ませた調査指示を、帝国から届いた文書の横へ並べた。一方は書き込みと訂正で黒ずみ、もう一方は折り目ひとつなく白い。彼は手元に残した回答案の写しを取り上げ、帝国兵の越境について説明を求めた一文を、指でなぞった。


 この問いへの返書は、まだ届いていない。

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