2人だけの時間 その2
「何も、いない……?」
アカネの視界の先には、何もなかった。
曲がり角の向こうには開いた窓から差し込む月光が差し込んでいるだけで、うめき声を上げたであろう人間も、音源となりそうなものすらも、何も。
「そんな訳……」
エストがアオイの背中から離れ、開きっぱなしの窓に向かって歩を進めた。
しばらくすると月光を浴びながら、周囲をくまなく調べていたエストが声を上げた。
「アオイ!何で見つからないの!?」
「わたしに聞かれても……」
——どうせ幽霊なんて見つからないだろうし、さっさと終わらせて帰ろう……
そう思って、アオイはエストの元に向かった。
その瞬間だった。
グォォォォォッ!!
獰猛な肉食獣を思わせる唸り声が、廊下に響き渡った。
エストの肩がびくりと震え、彼女はボス猫に威嚇された子猫のような勢いでアオイの背後に走る。
アオイはその様子を無表情に見つめながら、音のした方向に向けてランタンを掲げる。
「ゆ、ゆ、ゆ、幽霊!?本当にいたの?」
エストのその言葉は、すでに戦闘モードに入っていたアオイの耳には届いていなかった。
ランタンを掲げたまま、アオイはゆっくりと音のなる方に歩を進めた。
唸り声が響くたびに、アオイの背後に張り付くエストが、短い悲鳴をあげる。
「アオイ、帰ろう?絶対いいことないよ……」
——元はと言えばお前が始めたことだろうが!
アオイは内心でそう叫びながら、呻き声が聞こえる部屋の扉の前に立った。
鍵の掛かっていない扉をアオイは軽くノックし、ゆっくりと開こうとした。
瞬間、
「ウウウウオオオオォォォォッ!!」
最大音量のうめき声が、《《背後から》》響いた。
「う、うわあぁぁっ!!」
アオイとエストは大きな悲鳴を上げ、少しでも音から離れようと全速力で前に向かって走った。
――後ろを振り向いたら最後だ!
――わかってる!
今の2人の間に、言葉は必要なかった。迫りくる共通の敵に対する恐怖が、ある種の超能力的な共感現象を起こしていたのである。
アオイとエストは廊下の角に飛び込み、全力疾走で乱れた呼吸を整えながら、10秒前まで自分たちのいた場所を確認した。
――誰もいない。
2人の思考共有はそれが最後だった。
心地よい一体感が薄れていくのを感じながら、アオイとエストは月光が照らす廊下の様子を窺った。
誰もいない廊下に、何者かのうめき声が響いている。
「先に見に行ってきて、いいよ」
「エストが行けば?」
「先行かせてあげるよ、後ろは守ってあげるから」
「ついてきてくれるって、思えないんだけど」
アオイとエストはたっぷり20秒ほど見つめ合った後、アオイは諦めて立ち上がった。
「……ついてきてよ?」
「……私のこと信じられないの?」
――信じられないから聞いてるんじゃないか!
アオイは心の中でそう叫びながらも、ゆっくりと歩を進めた。
再び扉の目の前に立ち、耳を澄ませる。
恐怖をどうにか抑え込んで、うめき声の鳴る方向を確かめてみると、やはりアオイの背後、開きっぱなしになっている窓から鳴っているようだった。
アオイが窓に近づいてみると、窓から強い風が吹き込んできて、うめき声のような音を鳴らした。
つまり、吹き込んで来た風の音が壁に反響して、うめき声のような音を鳴らしていただけだったのだ。
「「……はぁ」」
2人はもはや怖くなくなったうめき声を無表情に聞き流しながら顔を見合わせて、大きなため息をついた。
「怖がって、馬鹿みたい」
「うん……」
アオイは廊下の壁に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
開いたままの窓から差し込む月光が2人の肌をほのかに照らして、破裂してしまいそうなくらい激しく鼓動していた心臓を落ち着かせてくれた。
「……大したこと、なかったね」
「フーシャのやつ、明日とっちめてやる」
アオイがエストと軽く言葉を交わしていると、自分の手足が少しずつ重くなっていくのを感じた。
戦闘モードに入っていたアオイの意識が少しずつ元に戻っていって、身体の緊張が解けたのだ。
糸の切れた人形のように座り込んだまま動けなくなったアオイを尻目に、エストは立ち上がり、開いた窓から外を見ていた。
「見て、アオイ」
「なに……?」
アオイは重い手足と疲れ切った筋肉をどうにか使って立ち上がり、ふらふらとエストの元に向かった。
そのまま窓から顔を出して、外の景色を眺めた。
そうすると、アオイの視界いっぱいに月光を反射してキラキラ光るダム湖の景色が広がった。
「ぉぁ……」
アオイの口から、声にならない音が漏れた。
水そのものが発光しているかのような、そんな景色に、心を奪われていた。
光を映して輝いているアオイの目を見つめたエストは、少し悩んでから、口を開いた。
「綺麗だね」
「うん、すごい綺麗だ……」
アオイは半ば無意識のうちに、そう呟いた。
「何でだろう。昔、似たような景色を見たことがあるような気がする……」
エストは、それにうまく言葉を返すことが出来なかった。
アオイの目が見つめている先が、自分とは違うのではないかと思ったからだ。
何となく、アオイの意識は輝く水面ではなく、その下の水底にあるのではないかと思ったからだ。
「……アオイは、溺れたこと、あるの?」
エストは途切れ途切れになりながら、言葉を放った。
「溺れたことは、ない。けど……沈んだことはある」
溺れたことはないけど、沈んだことはある。どういうことだろう。
そう思ったエストは、アオイにそのことを詳しく聞いてみることにした。
「沈んだことがあるって、どういうこと?」
「シュヴァルベ・ユニットを壊して、海に落っこちたことがある。すごく綺麗な景色だった……。あのまま2人で死んでもいいやって思えるくらい……」
アオイはうっとりとした目をしながら、エストにそう語った。それは、自分の過去に入り込んでしまっている人間の目をしていた。
「2人で……って、どういうこと?TDに2人で乗ってたの?」
TDのコックピットは(グラニは例外)基本的には1人が乗るといっぱいいっぱいになってしまう程度のスペースしかなく、そう2人乗りする機会は無いはずだ。
「……」
アオイはエストの問いに、何も答えなかった。
ずっと窓の向こうの水面を覗いたまま、靄に覆われた誰かの顔と、美しい水底の景色に、思いを馳せていた。




