その感情に名前を その3
エスト・オルヒデーエは手にした水のボトルをあおり、勝負と勝利の余韻を水の冷たさで冷ましながら、格納庫の壁に立てかけられた《アードラー》を見ていた。
――勝った!
おかずが一品増えた今日の夕飯の姿を脳裏に思い浮かべたエストの表情は、遠くから見てもわかるくらい緩んでいた。放っておけば口からよだれが垂れてしまいそうなほどに。
――いや、落ち着け。
エストは再びボトルの水を口に含み、ゆるみかけた表情(かけたではなく実際にゆるんでいたのだが)と気持ちを引き締めなおした。
実際、かけっこには勝った。しかし、それにはアオイは参加していなかったのだ。
もちろん、低空機動の速度で勝っただけで、アオイより優れたパイロットであるという証明にならないことは、エストも承知している。アオイが参加したら訓練の意義がなくなってしまうことも。
しかし、それでも。
なにかしらアオイに勝てる分野が欲しかったのだ。そうでなければ、ただただ無為に時間を過ごしてきたような、そんな気がしてしまうのだ。
エストは、そう思った。
戦争が終わって、5年。
故郷と家族を一度に失ったエストにとって、フーシャはある意味では、世界のすべてだった。
――いや、おそらく、故郷を失う前からだ。
フーシャより一か月遅く生まれたエストは、フーシャのいない世界を知らない。
どこで何をするにも、フーシャはエストのそばにいた。
戦争ですべてを失っても、フーシャだけはエストのそばにいた。生きるために軍人になることを決めた時も、フーシャは付いてきてくれたのだ。
――少しでも、フーシャの力になりたかった。
ずっとフーシャにお姉さん風を吹かされ続けてきて、それがうっとおしく思った時もエストにはあった。
それでも、エストは知っていた。誰もいない場所で、母親の名前を呼んで泣いていた姿も。雷が苦手で、布団の中で震えている姿も。そして、最近、エストから距離を置いている姿を。
――フーシャの力が無くても、私は……。
――違う。
エストは自分の脳裏に浮かんだ言葉を自分で否定した。
――次は私が、フーシャの力になるのだ。
エストはそう思い、2本目のボトルを手にして、格納庫のベンチに座るフーシャの元に足を進めた。
「フーシャ、これ」
エストは手に持ったボトルの底を、切りそろえられたフーシャの髪の毛に隠されたおでこにこつんとぶつけた。
「飲んで。倒れられたら困るから」
エストはぶっきらぼうに、そう言い放った。フーシャは苦笑しながら、ボトルを受け取った。
「ありがとう、すとちゃん」
フーシャはエストに感謝の言葉を送り、ボトルに口を付けた。ごくりとボトルの5分の1ほど飲み込んで、口を開く。
「おめでとう。すとちゃん」
「何の事?」
フーシャの言葉の意味に気づいていながらも、エストはあえてフーシャに聞いた。
「アオイさんが提案した、かけっこのことです。勝ててよかったですね」
「手を抜かれて勝たせてもらったところで、嬉しくないんだけど」
「……トリエラさんが手を抜いたんですか?可哀想に、情けをかけられたんですね」
「手を抜いたのは、そっちでしょう?フーシャ」
一瞬、フーシャの目が見開かれ、周りの時間が止まった……気がした。
「どうして、そう思うんです?すとちゃん」
「だって、狙撃手でしょう?フーシャは」
フーシャがごくりと何かを飲み込む音が、エストの元まで響いた。
砲台や戦車を相手にする狙撃手に求められる能力の中に、低空での移動能力がある。基本的に射程と火力で劣るTDが狙撃ポイントの間を敵に見つからずに移動するためには、撃たれづらい低高度を飛ぶ必要があるからだ。
実際、先日の模擬戦でフーシャは、トリエラが気を引いていたとはいえ、アオイの不意を付ける距離まで気づかれずに接近して見せたのだ。
「私が得意なのは、気づかれないように低い位置をゆっくり飛ぶことですよ、すとちゃん」
「噓つき。手を抜いてたんでしょ?」
「噓なんてついていないし、手も抜いていませんよ」
「噓つき」
「噓ついてませんよ」
――このままでは埒が明かない。
エストはそう思った。こうなったフーシャは頑固なのだということを、エストは良く知っていた。だから、エストは話を変えることにした。
「……仕方ないから、そういうことにしといてあげる」
「いい子ですよ、すとちゃん」
フーシャの態度に少し腹を立てながらも、エストは切り出した。
「……。それで、最近余所余所しくしてるけど、何かあったの?話してほしいんだけど」
「……はて?余所余所しくしているつもりはありませんでしたけど。もしかして、寂しくなってしまいましたか?」
「いつまでごまかしてるつもり?気になるから、話してほしいんだけど」
「今はちょっと、話せそうにないですね」
「……いつになったら、話せるようになるの?」
「そうですね……」
「……この国が平和になった時に、話します」
そう言ったフーシャの瞳の揺らぎを見て、エストは胸の奥を掴まれるような、奇妙な感覚を覚えた。
――なんだろう、この気持ち……。
その奇妙な感覚を言葉にしようとした時にはもう、フーシャは姿を消していた。




