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環はあの世を駆けめぐる  作者: 春日野霞
終章 プシュケー<生命>
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それからのこと

 あの世をめぐる日々から、三年が経った。


 月曜日の昼下がり、カーテンを閉め切ったアパートのベッドで、環は呆然と天井を見上げていた。


 骨折から全快した後、環は実家を出た。アパレル企業の広報に転職したのだ。


 昨日は、初めて企画の発案から携わったイベントの開催日だった。ここ一週間は毎日終電間際まで残業し、ギリギリまで調整を行っていた。


 だが、当日になって発注ミスや連絡の行き違いが多数発覚したのだ。配布予定のノベルティは午前の内に終わってしまい、モデルが着る予定だった服は一部が届かず、多く印刷しすぎたパンフレットは半分以上が余ってしまった。


 要は大失敗だったのである。


 そして追い打ちをかけるように、彼氏から「別れよう」の電話。仕事ばかりで会えないなら、付き合っている意味がないとの理由だった。環には引き留める言葉がなかった。その通りだと思ったからだ。


 会社の人は慰めてくれたが、上司からは大目玉をくらってしまった。説教の内容は全て的を射ており、反省するほかない。泣きながら始末書を書いた。


 会社をクビになったわけでもないのに、全て失った気分だった。目がさえて眠ることもできないが、起きる気にもなれず、振替休日一日目はあっという間に十五時を迎えていた。


「どうしたらいいんだろ」


 虚空に問うが、答えは返ってこない。


 のどの渇きが限界で、ベッドを出る。水を飲んでトイレに行くと、不思議と何か食べる気になってくる。


 菓子パンをほおばりながらテレビをつけると、午後のワイドショーがやっていた。


『都内では桜が見ごろを迎えており、平日にもかかわらずたくさんの見物客があつまっています』


「桜の時期か」


 今食べているパンも、桜餡のアンパンだ。昨晩打ち上げのヤケ酒で酔っ払い、適当に選んだ朝ごはんだった。


 突然、春が体の中を駆けめぐっていく。


 季節を感じることすらできないほど忙しかったため、春が来たことなんて知らなかったからだろうか。環はアンパンを水で流し込み、立ち上がる。


 近所の公園に、桜が咲いているはずだ。


 手早く着替えて日焼け止めを塗った。化粧は眉をかき、マスカラとリップだけで済ませる。環は三年前の出来事以来、少しの外出でも身なりを整えるようになった。人間、いつどんな目に遭うか分からないのだ。最低限の自信を持てるような格好をしていたい。


 財布とスマホをハンドバックに入れて、スニーカーに足をねじこむ。外へ出ると、暖かな空気が体を包んだ。


 大きく息を吸い込むと、新学期のにおいがする。別れの後の、出会いの季節のにおいだった。


 平日にもかかわらず、公園には花見客が集まっていた。まだ春休みなのか、子供たちが元気に駆け回っている。


 ベビーカーを押す夫婦とすれ違う。環は、さりげなく赤ん坊に手を振った。赤ん坊は大きな瞳で環を見上げ、きょとんとしている。光やシュタインの生まれ変わりではないかと思えて、赤ん坊を見ると手を振るのが習慣になっていた。


 環は、一番大きな桜の下で立ち止まる。空には薄雲がかかり、春らしく霞んでいた。満開に咲き誇った花が、風にさらされちらちらと散る。明るい春の太陽を跳ね返して、ささやかな光を放つ。


 環は、桜にスマホのカメラを向ける。広報の仕事を始めてから、写真撮影の腕も上がった。


 本を読むようにもなった。スマホでなんでも簡単に調べられるが、すぐに答えられるような知識はあった方がいい。


 桜を見上げながら、つい最近見た豆知識を思い出す。桜の花は、夏からひっそり準備をしているらしい。少しだけ休んで、寒さによって目を覚まし、成長を再開する。そして暖かくなったころ、花を咲かせるそうだ。


 この美しい薄紅は、一朝一夕に織られたものではないのだ。


「私も、準備、頑張ったんだけどなあ」


 頬を生ぬるいものが伝っている。いつしか泣いていた。気がつくと、後から後から止まらない。


 涙と共に、後悔が波のようにやってくる。あのときもっと、先輩に質問をしていれば、確認を怠っていなければ、気負いすぎていなければ、テキパキ仕事を終えて睡眠時間を確保していれば。三年間も頑張ってきたのに、全てが無駄だったように思えてならない。


 袖で涙を拭うが、すぐにビショビショになってしまった。


 人の目も気になり、すごすごとベンチへ急ぐ。座ってからハンドバックを漁ると、ポケットティッシュが一枚だけ残っていた。

 無いよりはマシだと、半分に裂いて涙を拭く。もう半分で鼻をかんだ。


 ため息をついて、公園の桜を見渡す。なんということのない地域の公園が、特別な場所のように華やいでいる。


 地元でも、桜まつりをやっているころだろう。


「地元……」


 三年前に家を出てから、一度も帰っていなかった。気まずくなったわけではない。振り返りたくなかったからだった。せっかく新しい人生を始めたのだ。思い出は枷のように思えていた。


 しかし、全て失ったように思える今、過去の足跡を見たくなった。

 幸い、振替休日は明後日まである。


「……よし」


 スマホを取り出し、新幹線のチケットを購入する。環は最寄り駅へと急いだ。


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