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環はあの世を駆けめぐる  作者: 春原沙羅
第七章 エウロギア<祝福>

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祝福の先へ

 この世に戻ってから、一週間が経った。


 環は、市立病院の中を松葉杖で歩いていた。エコノミークラス症候群を防ぐために、散歩の時間が必要なのだ。


 目を覚ました初日は、起き上がることすらできなかった。魂には体重がないから、体を重く感じて仕方なかった。


 看護師に支えてもらいながら、一日かけて身の起こし方を思い出す。が、今度はプラスチックのスプーンが持てない。指がくっついてしまったかのように、どう動かせばいいか分からなくなっていた。


 体の感覚を取り戻すことに悪戦苦闘し、五日ほどで今まで通り動けるようになった。今や松葉杖での歩行もお手の物だ。


 院内を歩いていた環は、病院の中庭に出た。少し寒いが、冬の空気のにおいを肺いっぱいにかぐのがブームになっていた。お昼過ぎの時間帯は日が当たり、日向ぼっこにもちょうどいい。本当は日焼け止めを塗りたいところだが、基本的に日光から遠い生活が続いていたので、少しくらいは気にしないことにしていた。


 ベンチに腰掛け、息をつく。雲一つない冬の青空が広がっている。燦々と降り注ぐ日差しが、温かい。


 ほどよく手入れされた花壇には、パンジーとハボタンが並んでいる。あの世の浮世離れした庭と比べると地味ではあるが、その手作り感がなにより好きだった。


 あの世へ行く前は、暇さえあればスマホを見ていた。が、今はささいな光景が愛おしくて仕方がなく、散歩のときはベッドに置きっぱなしにしていた。


 一気におばあちゃんになったようだ。なんだかおかしくて、環は小さく笑った。


「環!」

 聞きなじみのある声に、顔を上げる。


「夏生」

 元彼が、泣きそうな顔で歩いてくる。


「よかった。本当に……」


 崩れ落ちるようにして、環の横に座った。


「本当は目を覚ました次の日にも来たんだけど、おじさんとおばさんに一週間待ってほしいって言われて……」


「いきなり言い訳かあ」

 思わず、他人事のように呟いた。


「ご、ごめん。そういうつもりじゃ」

「あ、私もごめん。別に責めてるんじゃないんだ。なんか言っちゃっただけ」


 彼のことはもう、前世で出会った人、というくらい遠い存在になっていた。


 ダクティリオスで殴って、怒りも晴れている。


 ただ、大切な日々を過ごしてきたこととのお別れが、済んでいなかった。


 夏生との、温かな記憶が走馬灯のようにめぐる。彼と決別するということは、この温かさとも縁を切るということだった。


 未練を残したくない。だから、最後は、感謝を伝えたい。目を覚ましてから一週間、ずっと考えてきたことだった。


「……夏生が告白してくれたとき、嬉しかった。私も好きだったから。高校卒業してからも、ずっと付き合えて幸せだった。夏生は私が本音を言えるたった一人の相手だった。長い買い物に付き合ってくれたり、旅行で行きたいとこも合わせてくれたり。感謝してる。意思がふらふらしてた私のそばにいてくれて、本当にありがとう」


「え……。急になんだよ」

 涙でいっぱいになった目が、戸惑いを浮かべている。


「別れよう。やっぱりあなたのこと、許せないから」


 環は晴れやかな表情で言った。


「で、でも、浮気はもうやめたって。前は納得してくれたじゃないか。なんで、なんで今になって。もしかしてまた、頭を打って……」


 すがるように、環の腕をつかむ。環はその手をそっと離した。


「クリスマスの夜、秋良君が、私は偽物だって言ってたでしょ。あれ本当なの。あなたには信じられないかもしれないし、信じなくてもいいけど。色々あって体を奪われてたんだけど、ようやっと、取り戻したんだ。だから今ここにいるのは、本当の私」


 夏生は瞳をさまよわせている。だが、思いを決めたように立ち上がり、頭を下げた。


「……じゃあ、改めて、俺と付き合ってください」


 環は首を横に振った。


「私、あなたの言葉がショックで飛び降りたの。それだけでもう、あなたと付き合いを続ける理由なんて無いでしょ」


「……」

 夏生が、深く首を垂れる。目をぎゅっと瞑り、自分に何かを言い聞かせるように何度もうなずいていた。


「ごめん」


 涙声で呟く。


「いいよ、もう。怒ってない。それより、秋良君にもちゃんと謝ってね。あんなにいい子を怒らせるなんて、相当だよ」


「……うん」

 泣き顔を見られたくないのか、マフラーに顔をうずめていた。


「それじゃあ」

 くるりと背を向け、そそくさと去っていく。


 見えなくなるまで見送って、環は伸びをする。


「あっけないなあ、終わりって」


 寒風が中庭を吹き抜け、すぐに体を縮めた。


 環は病院の中に戻る。廊下に、まぶしい光が降り注いでいる。暖房が体を包み、自然とため息がこぼれる。


「環!寒いのに外なんか出て。風邪ひくよ」


 母親が小走りでやってきて、カーディガンをかけてくる。


「新しいの、買ってきた」


 それは、ピンク色の、裾にフリルがついたカーディガンだった。


「ありがとう」


 遥の好きな物を選んだのだろう。自分のために買ってきてくれたから、文句は言えない。


「それと、ミニトマトも買ってきたからね」


「ええー。私トマト嫌いじゃん」


「先週はおいしそうに食べてたじゃないのよ」


「昔は昔、今は今!記憶も戻ったし、トマトが嫌いなことも思い出したんだ」


「……じゃあ、カーディガンもピンクじゃない方が良かった?」


「バレました?」


 肩をすくめて笑う。母親は、少し寂しそうな笑みを返した。

 もう、遥はこの世にいない。それを、親なりに覚っているのかもしれない。

 もし本当にそうならば、環には言わなければならないことがあった。


「お母さん、変なこと言うかもしれないけどね。遥は、新しい人生を始めることにしたって。だから、いつかきっとまた会えると思う」


「ど、どうして急に、そんなこと」


 目をぱちくりさせる母に向かって続ける。


「で、私も、お姉ちゃんにならって、新しい人生を始めていこうって決めたんだ。まだ少し迷惑かけると思うけど、よろしくね」


 母親が、まばたきをやめ、環を真っ直ぐ見つめる。


「……遥と、会ったの?」

「姉妹同士の秘密!」


 環はいたずらっぽく笑った。


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