祝福の先へ
この世に戻ってから、一週間が経った。
環は、市立病院の中を松葉杖で歩いていた。エコノミークラス症候群を防ぐために、散歩の時間が必要なのだ。
目を覚ました初日は、起き上がることすらできなかった。魂には体重がないから、体を重く感じて仕方なかった。
看護師に支えてもらいながら、一日かけて身の起こし方を思い出す。が、今度はプラスチックのスプーンが持てない。指がくっついてしまったかのように、どう動かせばいいか分からなくなっていた。
体の感覚を取り戻すことに悪戦苦闘し、五日ほどで今まで通り動けるようになった。今や松葉杖での歩行もお手の物だ。
院内を歩いていた環は、病院の中庭に出た。少し寒いが、冬の空気のにおいを肺いっぱいにかぐのがブームになっていた。お昼過ぎの時間帯は日が当たり、日向ぼっこにもちょうどいい。本当は日焼け止めを塗りたいところだが、基本的に日光から遠い生活が続いていたので、少しくらいは気にしないことにしていた。
ベンチに腰掛け、息をつく。雲一つない冬の青空が広がっている。燦々と降り注ぐ日差しが、温かい。
ほどよく手入れされた花壇には、パンジーとハボタンが並んでいる。あの世の浮世離れした庭と比べると地味ではあるが、その手作り感がなにより好きだった。
あの世へ行く前は、暇さえあればスマホを見ていた。が、今はささいな光景が愛おしくて仕方がなく、散歩のときはベッドに置きっぱなしにしていた。
一気におばあちゃんになったようだ。なんだかおかしくて、環は小さく笑った。
「環!」
聞きなじみのある声に、顔を上げる。
「夏生」
元彼が、泣きそうな顔で歩いてくる。
「よかった。本当に……」
崩れ落ちるようにして、環の横に座った。
「本当は目を覚ました次の日にも来たんだけど、おじさんとおばさんに一週間待ってほしいって言われて……」
「いきなり言い訳かあ」
思わず、他人事のように呟いた。
「ご、ごめん。そういうつもりじゃ」
「あ、私もごめん。別に責めてるんじゃないんだ。なんか言っちゃっただけ」
彼のことはもう、前世で出会った人、というくらい遠い存在になっていた。
ダクティリオスで殴って、怒りも晴れている。
ただ、大切な日々を過ごしてきたこととのお別れが、済んでいなかった。
夏生との、温かな記憶が走馬灯のようにめぐる。彼と決別するということは、この温かさとも縁を切るということだった。
未練を残したくない。だから、最後は、感謝を伝えたい。目を覚ましてから一週間、ずっと考えてきたことだった。
「……夏生が告白してくれたとき、嬉しかった。私も好きだったから。高校卒業してからも、ずっと付き合えて幸せだった。夏生は私が本音を言えるたった一人の相手だった。長い買い物に付き合ってくれたり、旅行で行きたいとこも合わせてくれたり。感謝してる。意思がふらふらしてた私のそばにいてくれて、本当にありがとう」
「え……。急になんだよ」
涙でいっぱいになった目が、戸惑いを浮かべている。
「別れよう。やっぱりあなたのこと、許せないから」
環は晴れやかな表情で言った。
「で、でも、浮気はもうやめたって。前は納得してくれたじゃないか。なんで、なんで今になって。もしかしてまた、頭を打って……」
すがるように、環の腕をつかむ。環はその手をそっと離した。
「クリスマスの夜、秋良君が、私は偽物だって言ってたでしょ。あれ本当なの。あなたには信じられないかもしれないし、信じなくてもいいけど。色々あって体を奪われてたんだけど、ようやっと、取り戻したんだ。だから今ここにいるのは、本当の私」
夏生は瞳をさまよわせている。だが、思いを決めたように立ち上がり、頭を下げた。
「……じゃあ、改めて、俺と付き合ってください」
環は首を横に振った。
「私、あなたの言葉がショックで飛び降りたの。それだけでもう、あなたと付き合いを続ける理由なんて無いでしょ」
「……」
夏生が、深く首を垂れる。目をぎゅっと瞑り、自分に何かを言い聞かせるように何度もうなずいていた。
「ごめん」
涙声で呟く。
「いいよ、もう。怒ってない。それより、秋良君にもちゃんと謝ってね。あんなにいい子を怒らせるなんて、相当だよ」
「……うん」
泣き顔を見られたくないのか、マフラーに顔をうずめていた。
「それじゃあ」
くるりと背を向け、そそくさと去っていく。
見えなくなるまで見送って、環は伸びをする。
「あっけないなあ、終わりって」
寒風が中庭を吹き抜け、すぐに体を縮めた。
環は病院の中に戻る。廊下に、まぶしい光が降り注いでいる。暖房が体を包み、自然とため息がこぼれる。
「環!寒いのに外なんか出て。風邪ひくよ」
母親が小走りでやってきて、カーディガンをかけてくる。
「新しいの、買ってきた」
それは、ピンク色の、裾にフリルがついたカーディガンだった。
「ありがとう」
遥の好きな物を選んだのだろう。自分のために買ってきてくれたから、文句は言えない。
「それと、ミニトマトも買ってきたからね」
「ええー。私トマト嫌いじゃん」
「先週はおいしそうに食べてたじゃないのよ」
「昔は昔、今は今!記憶も戻ったし、トマトが嫌いなことも思い出したんだ」
「……じゃあ、カーディガンもピンクじゃない方が良かった?」
「バレました?」
肩をすくめて笑う。母親は、少し寂しそうな笑みを返した。
もう、遥はこの世にいない。それを、親なりに覚っているのかもしれない。
もし本当にそうならば、環には言わなければならないことがあった。
「お母さん、変なこと言うかもしれないけどね。遥は、新しい人生を始めることにしたって。だから、いつかきっとまた会えると思う」
「ど、どうして急に、そんなこと」
目をぱちくりさせる母に向かって続ける。
「で、私も、お姉ちゃんにならって、新しい人生を始めていこうって決めたんだ。まだ少し迷惑かけると思うけど、よろしくね」
母親が、まばたきをやめ、環を真っ直ぐ見つめる。
「……遥と、会ったの?」
「姉妹同士の秘密!」
環はいたずらっぽく笑った。




