正体
「もしかして、環さん……?」
瞠目する彼は、夏生の弟、秋良だった。
「え」
環は口をおさえる。
「私が見えるの?あ、そうか、秋良くん、霊感あるのか。そうか、そうか!」
声を聞いてもらえるだけで、こんなに嬉しいなんて。環の目に涙がにじんだ。
「はい!あなたが、本物の環さんですよね」
秋良は夏生にはあまり似ていなかった。明るくハキハキとして、運動神経抜群だ。屈託のない性格をしており、それが表情にもよく出ている。三歳年下で、夏生の友人は秋良に会うと、もれなく可愛がりたくなるような弟タイプだった。
「もしかして、私の体が乗っ取られたことも知ってる……?」
「あれ、乗っ取られてたんですね。俺はただ、環さんの中に変なのが入ってるなって思ってて」
「そう!そうなの!私の体、月の魔物に追い出されて」
「ちょっと待ってください」
秋良が歩道の端に寄り、スマホを耳に当てる。
「これで、ひとりごとを言いまくる不審者とは思われませんから」
と人懐っこい笑顔を浮かべる。
「環さんの体には、月の魔物がいるんですね。あと、もう一人は誰なんですか?」
「もう一人?」
「あれ、俺が見たところ二人いるんですけどね。それこそ、なんか人間じゃないやつと、幽霊が一体入ってるなって思ってたんですよ」
「……幽霊?」
――遥が、また私たちのところに来てくれたみたいで
母親の言葉を思い出す。
これが、母親の勘違いではないとしたら。
第四の町で聞いた、魔物のたちの会話が脳裏をよぎった。
――人間からものすごい剣幕で『あいつの体を奪ってくれ!』って頼まれたんですって
遥が月の魔物に頼んで、環の体を奪い、好きなように暮らしている。
全ての辻褄が合う。
「どうしたんすか?」
硬直する環に、秋良が首をかしげる。
「分かったの。私の体に入ってる幽霊が」
「え、誰なんですか」
「私の、死んだお姉ちゃん。秋良くんも、知ってたよね」
「一瞬だけ環さんが子供に見えたことがあったんですけど、そういうことだったんですね……」
「あの、私ね、今、あの世で体を取り戻すために武器を集めてるんだ。月の魔物は、人間を食べるらしいの。早く追い出さないと、夏生も危ないし……」
「兄貴なんて、別に食われたらいいんじゃないですか?」
珍しく、吐き捨てるように言った。
「浮気は最低でしょ」
「でも……」
「心を入れ替えたとか言って偽物の環さんにデレデレしてて。俺は偽物だって何回も言ってるのに、聞かないんすよ。二重に環さんのこと裏切ることになるのに。今、家に来てるんですよニセ環さんが。俺耐えられなくて出てきました」
「でも、食べられたらいいなんていったら、ダメだよ」
環はキッパリと言った。
「秋良くんには、冗談みたいに聞こえてるかもしれない。でもね、私は魔物を実際に見てきたし、戦った。人間のことを騙そうとする怖い存在なんだよ。月の魔物はこのまま放っておいたら、本当に夏生を食べてしまう。夏生だけじゃなくて、きっと秋良くんも」
「……そうなんですか」
とうなだれる。
「でもなんで、あんな兄貴のことかばうんですか。環さんにひどいことしたのに」
「……分からない。もう他人だと思っていいはずなのにね」
環も一緒にうなだれた。
そのときだった。
「秋良、ごめんな。家帰れ。寒いだろ」
懐かしい声に、環は弾かれたように顔を上げる。
夏生と自分の体が、並んで立っていた。
「どこ行くんだよ」
秋良が険のある声で尋ねる。
「環を送ってくだけだよ」
ニセ環……実質遥は、ニヤニヤと環の方を見ている。
夏生は秋良と話をするのが気まずいのか、そそくさと歩き出す。
「おい待てよ!」
秋良に呼び止められると、振り返った。
「ここに今、本物の環さんがいるんだ。そいつは偽物だよ。謝れ!」
「お前、まだそんなこと言ってるのか」
「そっちの偽物には、魔物と遥さんが入ってる。本物の環さんは追い出されたんだ。兄貴だって言ってたじゃねえか、環さんは変わったって。橋から落ちたからじゃなくて、乗っ取られたからなんだよ」
「いや、現実感なさすぎだろ」
半笑いで言う。
「そうだよ。ありえなーい」
遥がバカにするように笑った。
「あなたの勝手な妄想じゃないの?それに、私がたとえ偽物だとしても、何か問題が? 誰も悲しむ人なんていないし、夏生は浮気をやめられたし、お母さんもお父さんも前より楽しそうだし、良いことしかないじゃない」
「やめてよ!」
悲痛な叫びに、秋良がハッと環を見る。
「もう嫌!」
環は、逃げるように目を覚ました。
『みなさま、おはようございます。第五の町に到着しました』
あの世の汽車で、アナウンスが流れる。
乗客たちが伸びをする。ぞろぞろと降りていく死者たちから、環は取り残される。立つことができなかった。
「おや、どうしたんだい」
通りがかった女性に声をかけられる。
目の横に笑い皺がある。二十代に見えるのに、老人のような雰囲気をまとっていた。小顔に黒髪のベリーショートがよく似合っている。目元の涙ぼくろがチャーミングだった。
「さっきの町は辛かったよねえ。私も苦労したよ」
環の浮かない表情を見てか、隣に座って背中をさすってくれる。
その優しさに、環の目から涙があふれた。