2 こりゃ、だめだ
「ねえ、カル、服はどうしたの?」
「ふく?」
「そう」
答えはなく、見上げる視線が空をさまよう。
しょうがない。カレンの手を掴み引っ張って歩く。彼女の部屋の少しだけ開いていた掃き出し窓から中に入る。部屋を見回したが、彼女の服が見当たらない。履き物もない。どこにやったんだ?
まあ、いいか。アリッサに新しい内服を用意してもらおう。そうだ、先に湯浴みをしちゃおう。昨日はいきなり寝てしまったから。あんなところで眠ってしまうとは、きっと長旅で疲れたに違いない。
振り返って話しかける。
「服を着る前に、湯浴みにしよう」
「ゆあみ?」
「入浴。髪と体をきれいにするの。わかった?」
反応はない。再び彼女の手を引き廊下に出て、本棟に向かう。
この城の造りは迷路のような複雑怪奇のへんてこりんだ。しかも、こちらの棟に浴室はない。その代わりに本棟にはだだっ広い湯処がいくつもある。この時間ならもう準備できているはず。ピタピタと石畳を歩む彼女を従えて、ずんずん歩いて行く。
ホールを横断中に、抑えた悲鳴が耳に届いた。横を向くとひとりの家事が口を押さえてこちらを凝視している。談話室から急ぎ足で出てきたダンが立ち止まるなり硬直する。ビクッとしたあと慌てたように後ろを向いた。
いやはや、えらいことになった。そこに助け船がやってきた。
「ああ、フェリ、助かったよ。うん、ちょうどよかった。アリッサを見なかった?」
「おはようございます、シャーリンさま。アリッサなら向こうにいましたけど……って、カ、カレンさんはいったいどうされたのですか!?」
素っ頓狂な声が響き渡った。手が引っ張られると思ったら、カレンが別のほうに行こうとしていた。腕に力を入れて引き戻しながら説明する。
「ああ、服と履き物をなくしたらしい……」
「ご、ご自分の部屋でですか?」
あきれ顔のフェリシアに向かって肩をすくめた。今になって考えれば、前庭のどこかに落ちているような気がする。あとで探さないと。服に手掛かりがあるかもしれない。
「仕方ないから、着替えついでに湯浴みにしようかと。そうだ、内服と内履きが必要なの。わたしのでいいから……」
「あたしが探してきます。とにかく、シャーリンさまはカレンさんを早く湯処に……」
見回せば、向こうでは、さらに人が増えて皆こちらをポカンと見ている。これはまずい。自分がカレンの服を剥いで引き回している変態に思えてきた。
「わ、わかった。お願い」
結局、カレンはただボーッとしているだけなので、アリッサとふたりがかりで髪と体を洗うことになる。どういうわけか、自分まで一緒に湯浴みをするはめになった。たっぷりの湯が張られた大きな浴槽に体を沈め、そっとため息をつく。
となりでぼんやりしたままのカレンをちらちらと見る。早く彼女の素姓を知りたいところだが、今までの経緯からして、まともに会話が成立しそうもないな。
いつまででもお湯につかっていそうなので、浴槽から引っ張り出すことにする。
突然、もの悲しげな鳴き声が長々と響き渡った。カレンが不思議そうな顔をして辺りを見回す。
あのう、あなたのおなかですけれど……。
アリッサに体を拭いてもらっているカレンを眺めながら、庭での様子を思い起こす。こんなだったっけ?
昨日は、痩せ細って羽のように軽い彼女のことを子どもだと思ったが間違いだった。
自分の体を見下ろした。あらためて服を着せてもらっているカレンに視線を向ける。何かおかしい……。
歳はわたしとそれほど変わらないような気がしてきた。十分に食事を摂っていなくて、ガリガリに痩せ細っているだけかも。
「食事のご用意ができています」
アリッサの声で我に返った。急いで身支度をする。
カレンを食卓の前に座らせたものの、目の前に並べられた朝食を不思議そうに見ているだけ。まさか、食べるという行為を知らないってことはないよね?
いきなり彼女の手が伸ばされ、指がスープに突っ込まれる。
いったい何をしているの?
びっくりしたように手を振り上げた彼女の顔を見る。こりゃ、だめだ。
急いで立ち上がるとカレンのそばに行き、上げたままの手を引き下げて指を手巾でぬぐう。それから彼女の手にスプーンを握らせて、一緒に動かしながらスープの飲み方を教える。食べ物が彼女の喉を通り抜ける音を聞き、腕の強ばりが緩む。
飲み終わるまでは孤軍奮闘した。
アリッサが食後の飲み物を持って現れた。少し驚いた表情を見せたが、立ち所にどういう状況かを理解したようだ。
「あとは、わたしがお手伝いしますので、シャーリンさまは食事をなさってください」
「いやあ、助かった。悪いね、えらく面倒なことになって」
「いえ、何の問題もありません」
アリッサはロイスの筆頭家事で、フェリシアの母親のお気に入り。とても有能で気が利くアリッサには、城の誰もが全幅の信頼を置いている。
「そのう……カレンさまは……何もかもお忘れになったのでしょうか」
「忘れる?」
「はい。入浴の仕方を知らないようですし、服のことも、食事も。ああ、おそらく言葉もではないかと……記憶喪失でしょうか」
「記憶を失うと、しゃべることもなく、何一つできなくなるの?」
「さあ、わたしにはわかりません。内事さまなら……」
そうだね。こんなときに、ドニが留守だったのは非常に痛い。彼女は今夜には戻ってくるのだっけ。フェリシアの弟ウィルも母親と一緒。まあ、彼がいなくてよかったけれど。
たまに、こちらに向ける髪と同じく濃い瞳には、何とも言いがたい表情が映し出される。そう、何か懐かしいものでも見るような。まあ、確かにものめずらしいよね。こんな田舎の変な古城に住む国子などいないからね。
わたしの身分ならば、ミン・オリエノールの執政館の居住棟で暮らすことはできる。ペトラに何度も誘われているけれど、わたしはこのお城がお気に入りだから、引っ越すつもりはない。
こちらは食べ終わり、カレンの食事がかなり進んだところで、フェリシアとダンが現れた。しばらくじっと眺めていたダンは、やおらこちらに目を向けた。
「後ほど、明日の件でお伺いしたいことが……」
思いだした。夜明けには出発しなければならない。さて、どうしようか。もう一度、アリッサに食べさせてもらっているカレンを見る。
いや、これは無理でしょ。
「ダン、ミンに行くのは中止にする」
「えっ? しかし、認定は……」
「別に今でなくてもいい」
「しかし……」
「成人してから十六までに受けなければならないという決まりはない。至上命令は北の防御だけど、前線の壁も今は問題ない。作用者も足りている。だから、力軍での仕事がすぐあるわけではない」
「それでも……」
手を振ってダンの言葉を遮る。
「ほら、作用の初動が遅ければ、十七になってから認定を受ける人もいるらしいよ。そう考えれば、もう一年はあるしね。カレンをこのままにしてはおけないから」
言葉に出すと、これからやるべきことが頭の中にまとまってくる。ときどきこちらに目を向けるカレンを見ながら続ける。
「この子が何者でどこから来たのか調べないと。きっと心配している人がいるはず。探してあげなければ。もしかすると、そのうち事情を聞き出せるかもしれない」
「しかし、姫さまは国子です。国子が認定を遅らせるなど、ご当主が戻られたら、どう……」
「いつ帰るかわからないでしょ? 父のことだから。これまでだってそうだから……。いい? これはもう決定事項。権威ある者にそう連絡してもらえる? 直前に申し訳ないと、お詫びもしておいてね」
早口でまくし立てたあと、ひと息ついて宣言する。
「今から、わたしがカレンの面倒をみる」
思いのほか声が大きくなった。
カチャンという音に顔を回すと、手を下ろしたカレンがこちらを見つめていた。一瞬、その表情に理解を感じたのは気のせいだろうか。
彼女の隣で顔を上げて、口を開きかけたアリッサを目にし、慌てて言い換える。
「いや、わたしたちが面倒をみる、だね。アリッサとフェリも手伝ってほしい。わたしひとりではとても無理」
「かしこまりました。それでは、朝食が終わったら、まず、お城の中のご案内から始めることにしましょう。迷われると大変ですから」
「あたしもご一緒します。なんか、楽しそうだわ」
真剣な表情を崩さないアリッサと本当にわくわくしているらしいフェリシア。
「ああ、なるほど、それはいい。ものの名前を一つひとつ教えるところから始めないとだめだよね。うん、なんかこっちも楽しくなってきた」
「おふたりとも、これが楽しい……のですか?」
「うん、ほら、ずっと退屈で死にそうだったから……」
「あたしは違うけどね。することがいっぱいあるから」
先ほどからダンが首を何度も振っていた。
「姫さま、あまり変なことをなさらないように、くれぐれも……」
いや、誰が見ても、変なことをするのは、わたしではなく、目の前の女性のほうでしょうに。満足そうな顔でもぐもぐ口を動かしているカレンを見ながら肩をすくめた。それでもここは、おとなしく同意しておく。
「わかってる。カレンは、ああ……妹みたいなもんだよね。うん、そうだ、わたしには母はいないけれど新しい家族ができた。そう考えると、がぜん、やる気が湧いてくる」
「はあ、よくわかりませんが、ほどほどにお願いします。本当に……」
最後のほうは聞き取れなかったが、彼はフェリシアを見て付け加えた。
「姫さまのご負担にならないよう、しっかり手伝うように。カレンさまは人なのだからね。機械ではないことを肝に……」
「あのね、父さん、あたしは子どもじゃないし。もう十八だよ」
「子どもでないのなら、少しは母さんの言うことを……」
カレンの後ろで言い合うフェリシアとダンを見て思う。おそらく、技師であるフェリシアはカレンを研究対象と見なしている。可能なら、彼女を分解して機能不全の原因を調べたいと思っているに違いない。
かいがいしいアリッサに目を向けて、ひとつ頷く。
なんか、すごくいい。なんたって、これが家族というものだよね。どういうわけか、自然と頬が緩むのを感じた。




