第10話 公爵令嬢は確認される
カランと氷の音が響いた。
テーブルの上に置かれた、ふたつのグラス。
どちらにも水が入っている。
「公爵夫人は、なんて言ってるんだ?」
アリステアの問い掛けに、彼女が何度か瞬きをした。
「わたくし、ちゃんと確認しましたわ。すべて許可しますって」
「……すべて?」
口づけの位置全てに許可を貰ったというのか?
ついつい、壁際の侍女を見てしまう。
アリステアの視線を受けた侍女は、ゆっくりと頭を左右に振った。
(……全てではない、ということだな)
アリステアは納得したのだが。
「アリスさん」
なぜか目の前の彼女から、今まで聞いたこともない低い声がした。
* * *
(……アリスさん、イーディスを見すぎじゃないかしら?)
イーディスは立ち姿も美しい。
クラリッサは昨夜、メイドと貴族子息の甘く過激な恋物語を読んだばかりだ。
妄想が要らぬ方向へと進み、むぅと頬を膨らませる。
「どうして、イーディスを見ますの? わたくしと話しているのに」
「え? ああ……」
しかも言葉を濁した。
「わたくしよりもイーディスの方が良いのですか? 確かにイーディスの方が色気があるかもしれませんが」
「え?」
「アリスさんの婚約者は、わたくしですわ」
「……」
* * *
(……可愛すぎる)
予想外の反応にアリステアは、口元がだらしなく緩むのを感じた。
侍女に目線で確認したのが許せないらしい。
それだけで、そんな可愛い反応をされるとは思わなかった。
「先ほどの話だが、公爵夫人の許可内容を……」
「わたくしが今問題としていますのは、誰がアリスさんの婚約者かですわ?」
(……まだ終わってなかったのか。いや、確かにちゃんと答えていなかったな)
「俺の婚約者は、君だ」
「そうですわ。……それならどうして、わたくしではなくイーディスを見るのです?」
彼女の唇がむぅっと尖っている。
「確認したいことがあったから」
「……わたくしに確認すればいいのでは?」
「君に確認して納得がいかなかった」
「え?」
彼女は目を丸くした。
「君は、公爵夫人は『全て』許したと言った」
「え……ええ」
「君の話の内容には……」
そこでアリステアは言葉を切る。
言いづらい。
非常に言いづらいが、言わないと彼女は納得しない。
アリステアが納得できなかったのと同じだ。
「随分と過激な部分があった」
「……」
押し黙った彼女の頬が赤く染まっている。
アリステアを見られなくなったらしく、顔が下を向いた。
(……つむじ)
アリステアは、一瞬にして彼女の言葉を思い出す。
口づけの位置。
つむじは……許可されているのだろうか。つい、そんなことを考えてしまう。
触れあいたいのはアリステアだって一緒だ。
いや、一方的に触れたいとさえ思っている。
彼女の頭がそっと上がり、アリステアと目が合う。
「……過激な部分に関しましては、お母様と話した後に、知りまして」
「知った?」
「その……お母様が貸してくださった小説に」
アリステアは公爵夫人の思惑が分からない。
何故、今、そんなものを彼女に渡すのか。
「でも、それ以外の部分は、ちゃんと許可を貰っていますわ」
得意げに胸を張っているが、本当に分かっているのだろうか。
アリステアにしてみれば『それ以外』の『それ』が何を示すのかさっぱり分からない。
「とりあえず、俺からも公爵夫人に確認したい」
「え……」
「来週伺うのだから、そんなに待たせない話だと思う」
「あ、あの」
「ん?」
「アリスさんの目を見るのは、良いですよね?」
彼女の手が胸元でぎゅっと組まれた。
「……サロンに来る時は、前髪をあげた方がいいか?」
「いいえ。いつも通りで。……長い時間アリスさんの目を見るのはちょっと……まだ……無理ですわ」
恥ずかしそうに話す様子に、アリステアは今すぐにでも公爵家に行きたくなった。
公爵夫人から触れ合いとやらの許可をもぎ取りたい。いますぐ彼女に触れてほしい。
「君から、俺の前髪に触れるぐらいなら、いいのではないか?」
ちらりと侍女を見れば、逡巡の後、大きく頷かれた。
「良いのです?」
彼女も侍女を見た。もう一度、侍女が首を縦に振った。
許可を得た彼女が、アリステアの隣の椅子へと移動する。
「し……失礼、いたしますわ」
おそるおそる伸びる手。
この間はすごい勢いだったのに。
震える指が、愛おしすぎる。
(あ~……これは結構キツイ)
彼女に触れないよう、ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。
わしゃわしゃとアリステアの前髪をいじっていた彼女が。
「うまく、上げられませんわ」
と声を上げた。
この間は、上げてあった髪を下ろしただけだ。
上げる方が難しいのかもしれない。
アリステアは彼女を助ける名目のもと、小さな手にそっと自身の手を重ねた。
びくりと震える目の前の体。
それでも、嫌がる素振りはない。
彼女の手を軽く押し上げていく。
座っていた彼女の体が椅子から少し浮き、アリステアの頭を見下ろす形になった。
「髪は上げられても……アリスさんの顔が見えませんわ」
「ふっ……」
アリステアは、つい声を漏らしてしまう。
「アリスさん!!」
笑われたと気づいた彼女は、ぷいっと顔を逸らす。
彼女の手は、アリステアの髪からすでに離れていた。
アリステアは彼女へと、そっと声を掛ける。
「俺が髪を上げるから、戻すのは君がしたらいい」
前髪を掻き上げる。
遮るものがなくなった視界に、彼女の綺麗なローズピンクの瞳が現れた。
まっすぐに見つめられ、こちらの心臓が早鐘を打つ。
息を止めてしまいそうになり、小さく呼吸を繰り返した。
「……きれい」
彼女が小さく呟いた。
「そうだな」
見惚れるほどの美しさに、吸い込まれそうになる。
「んんん!!」
侍女から『やめ』の合図が来た。
「終わりだ」
「……はい」
彼女は大人しく従い、アリステアの髪を下ろす。
小さな手で、一生懸命整えてくれた。
「イーディス」
席に戻った彼女は、侍女を呼んだ。
「はい」
「完璧なタイミングでしたわ。あれ以上長かったら、わたくしの心臓が止まっているところでした」
大真面目に侍女を褒める彼女が、本当に可愛くて堪らない。
侍女は彼女に頷き返しながら、水を追加するのを忘れていない。
「これからも、お願いしますね」
侍女の動きが一瞬止まったのを、アリステアは見逃さなかった。




