第9話: 部署をまたいで
朝食のテーブルで、棚倉が資料を一枚差し出してきた。
「瀬名工業の発注管理を、生産管理部と直接すり合わせられる体制にしたいと思っています」
瀬名は箸を止めて資料に目を通した。用語は硬いが、要するに、瀬名工業側の窓口を瀬名自身にして、週に一度、棚倉グループ本社に顔を出してほしいという話だった。
「俺が、本社に?」
「今は康平さんと私の秘書がFAXと電話でやり取りしていますが、非効率です。あなたが直接、生産管理部と話した方が早い」
筋は通っている。反論しづらいくらい、いつも通り正しい。
「……分かりました」
答えながら、瀬名は紙コップの一件以来、棚倉と目が合うたびにわずかに間が空くようになった自分に気づいていた。あの夜のことを、どちらもまだ口に出していない。
同居を始めてもう三週間になる。最初の頃は数えていた日数を、瀬名はいつの間にか数えなくなっていた。数えなくても平気になった、というのが正しいのかもしれない。
週明け、瀬名は初めて棚倉グループ本社のエレベーターに乗った。
工場の作業着とは違う、慣れないスーツの襟元を何度も直す。三十階を超えるフロア表示を見上げているだけで、自分がとんでもなく場違いな場所に来た気がした。
「瀬名様。お待ちしておりました」
ロビーで声をかけてきたのは、棚倉の秘書だという大原だった。きっちりした佇まいの中に、どこか人を食ったような余裕がある。
「案内は私が。専務からは『粗相のないように』とだけ言われていますが、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。瀬名様は、もう部外者ではありませんから」
「部外者じゃない、って言われても実感ないです。今日が初出社みたいなものなので」
「その言い方、専務が聞いたら喜びそうですね」
軽く流すように言われて、瀬名は返事に困った。大原の言葉には、いつも一枚何かを含んでいる気がする。
生産管理部のフロアに着くと、社員の視線が一斉に集まった。
あからさまではない。だが確かに、瀬名を見て、隣の同僚に目配せする社員が何人かいた。
「あの人が……」という声が、聞こえるか聞こえないかの音量で流れて消えた。
瀬名は工場でも取引先でも、値踏みされる視線には慣れているつもりだった。だが今日の視線は、値踏みとは少し違う。好奇と、わずかな戸惑いが混ざっている。
「専務の……あの、瀬名さんって、七年前にうちの部に——」
若い社員が言いかけて、隣の先輩社員に肘で小突かれ、慌てて言葉を切った。
「いや、なんでもないです。よろしくお願いします」
愛想笑いで頭を下げ、逃げるように自分の席に戻っていく。
瀬名はその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。七年前。今、確かにそう聞こえた。
偶然だろうか。それとも、この部署では自分のことを知っている人間が、思っていたより多いのだろうか。
鼓動が、思っていたより速い。
案内された打ち合わせ席には、生産管理部の課長だという中年の男が待っていた。棚倉と違い、こちらは終始柔らかい物腰だった。
「瀬名工業さんの加工精度には、うちも助けられています。今回、納期の刻みを週次に変えたいんですが、現場的に無理はありませんか」
「今の月次より細かく報告するのは、正直きついです。ただ、機械の稼働状況を共有してもらえれば、うちの段取りも組みやすくなります」
思っていたより、話は具体的に転がった。互いの現場の事情を、遠慮なく突き合わせる。工場の人間として何年も繰り返してきたやり取りと同じ感覚が、この高層ビルの一室にもあることに、瀬名は少し安心した。
「瀬名さんが直接来てくれると、話が早い。専務からもそう聞いていました」
課長のその一言に、瀬名は曖昧に頷くしかなかった。
打ち合わせを終えて廊下に出ると、隣の会議室のドアが半分開いていて、瀬名は初めて仕事中の棚倉を近くで見た。
部下からの報告を、表情ひとつ変えずに聞き、的確な指示を淡々と返していく。声を荒げることも、感情的になることもない。会議室を出た後、若手社員たちが小声で交わす会話が耳に入った。
「今日も温度ゼロだったな、専務」
「機械みたいな専務、健在」
自分の知っている棚倉とは、別人のようだった。傘を置く棚倉。眠り込んだ自分にブランケットをかける棚倉。敬語を忘れて「根を詰めるな」と言った、あの一瞬の棚倉。
どちらも本物なのだろう。分かっているのに、この会社の中で誰も知らない棚倉を自分だけが知っているという事実に、瀬名は落ち着かない気分になった。
優越感なのか、それとも——
そこまで考えて、瀬名は自分の思考を慌てて打ち切った。今はまだ、そんなことを考えていい立場じゃない。
昼休み、社員食堂で一人分の定食を持て余していると、大原がトレーを持って向かいの席に座った。
「相席、よろしいですか。専務が瀬名様を放置していないか、見張るのも私の仕事のうちなので」
「放置も何も、俺は仕事しに来てるだけです」
「分かっています。ただ、専務が今朝から二回もスケジュールを確認してきたので、少し様子を見ておこうかと」
大原は表情を変えずにそう言って、味噌汁を一口すすった。冗談なのか本気なのか、瀬名にはまだ判別がつかない。
「大原さんは、いつから棚倉さんの秘書を」
「係長でいらした頃からです。もう長いですね」
「じゃあ、七年前も」
瀬名が何気なく口にした瞬間、大原の箸が一瞬だけ止まった。だがそれもすぐに動き出し、何事もなかったように食事は続く。
「さあ、どうでしたか。昔のことは、あまり覚えていません」
覚えていないと言った人間の目が、はっきりと何かを覚えている目だった。瀬名はそれ以上聞けなかった。
午後、大原に頼まれて資料室に古い取引記録を返しに行った。
棚が並ぶ薄暗い部屋の奥、埃をかぶった段ボール箱の上に、フォトフレームが一つ置かれていた。何気なく手に取る。
部署の集合写真だった。日付は七年前。前列中央に、まだ係長らしき肩書の名札をつけた棚倉が立っている。今より少し若く、表情もわずかに柔らかい。
そしてその隣、少し照れたような顔で立っている若い男に、瀬名は見覚えがあった。
自分だった。
「……ここに、いたのか」
声が掠れた。記憶にはまるでない光景だった。だが写真の中の自分は、確かにこの部署の一員として、棚倉の隣に立っている。
光の角度に、見覚えがある気がした。コピー機の音が、今にも聞こえてきそうな気がした。
瀬名はフォトフレームを両手で持ったまま、しばらくその場から動けなかった。
写真の中の自分は、笑っているというより、照れて視線を逸らしかけている。隣に立つ棚倉の視線が、わずかにこちらへ向いているのが分かる。そんな些細な角度の違いが、これほど雄弁に何かを語るとは思わなかった。
持って帰りたい、と一瞬思った。だがそれは自分のものではないし、勝手に持ち出す理由もない。瀬名はフォトフレームをそっと元の場所へ戻し、代わりにスマホで一枚だけ写真を撮った。証拠を残しておきたい、というより、この既視感を今ここで手放したくなかった。
その夜、家に帰ってからも、瀬名は写真の中の自分の顔が頭から離れなかった。
棚倉はリビングでノートパソコンを開いていたが、瀬名が入ってくると手を止めた。
「今日は、どうでしたか」
「資料室で……七年前の、部署の集合写真を見ました」
棚倉の指が、キーボードの上でぴたりと止まった。
「あなたが写っている写真です。俺、あの部署にいたんですね。全然、覚えてなかった」
棚倉はしばらく黙っていた。何かを言おうとして、やめる。その繰り返しが、いつもより長く続いた。
「……そうです。半年ほど、同じ部署にいました」
「それだけ、ですか」
「今日はもう遅い。続きは、また今度話します」
いつもの丁寧な拒絶だった。だが今夜のそれには、これまでとは違う手触りがあった。逃げているのではなく、覚悟を決めきれずにいる——そんな間の悪さが、声の端に滲んでいた。
瀬名は追及しなかった。代わりに、はっきりと言葉にした。
「棚倉さん。俺、ちゃんと聞きたいです。近いうちに、時間作ってもらえますか」
棚倉は瀬名を見た。逃げるでも、はぐらかすでもなく、まっすぐに。
「……分かりました」
短い返事だった。だがその一言に、これまでとは違う重みがあるのを、瀬名は確かに感じ取った。
ノートパソコンの画面はまだ開いたままだったが、棚倉がキーボードに指を戻すことはなかった。二人の間に、これまでとは種類の違う沈黙が降りている。息苦しさではなく、何かが動き出す直前の張り詰めた静けさだった。
瀬名はスマホの中の写真をもう一度だけ見返し、それから画面を閉じた。答えは、もうすぐそこまで来ている。そんな気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アークの一話目です。今回は「日常」パートとして、瀬名が棚倉グループ本社に顔を出すようになる導入と、資料室の集合写真という視覚的な証拠を置きました。第4話・第8話で断片的だった記憶が、ついに客観的な証拠(写真)として本人の前に現れる話にしています。
社内の若手社員が言いかけてやめる場面や、「機械みたいな専務」という陰口は、瀬名がまだ知らない棚倉の社会的な顔を見せるためのものです。プライベートの棚倉としか接してこなかった瀬名にとって、会社の中で誰も知らない一面を自分だけが知っているという感覚は、優越感と落ち着かなさが同居する、ちょっと危うい感情として書きたかったです。
ラストで瀬名が「ちゃんと聞きたい」とはっきり言葉にできたのは、彼にとって小さな前進です。次話でついに、七年前の記憶の断片がどこまで明らかになるのか、よろしければ引き続きお付き合いください。




