第8話: 積み重なる気遣い
朝、目を覚ますとコーヒーの匂いがしていた。
瀬名がリビングに出ると、マグカップが一つ、テーブルの上に置かれていた。まだ湯気が立っている。棚倉は既に出勤の支度を終えていて、瀬名の顔を見るなり時計を確認した。
「先に出ます。カップ、シンクに置いておいてもらえれば」
それだけ言って、玄関へ向かう。
瀬名は湯気の立つカップを見下ろした。自分がいつ起きるかなど分からないはずなのに、温度はちょうど飲み頃だった。
同居が始まって、もう二週間が経つ。
マグカップを洗いながら、瀬名はふと思いついて、翌朝は自分が先に起きてみた。棚倉のぶんまでコーヒーを淹れ、テーブルに置いておく。
出勤前の棚倉はカップを見て、一瞬だけ動きを止めた。
「……どうも」
それだけしか言わなかったが、いつもより少しだけ、飲み干すまでの時間が長かった。空になったカップをシンクに運ぶ後ろ姿を、瀬名はなんとなく見送った。
もらうばかりでは落ち着かない。多分そういう単純な理由だったはずなのに、カップを片付けながら、瀬名は自分の胸のどこかが少し軽くなっているのに気づいて、慌てて考えるのをやめた。
その二週間で、数え切れないほどの小さなことが積み重なった。
雨の予報が出ていた朝、玄関に折り畳み傘が一本、瀬名の靴の隣にだけ置かれていたこと。工場から電話が長引いた夜、いつの間にか夕食が保温になっていて、湯気の代わりに付箋が一枚貼られていたこと。「田村さん、体調を崩されたと伺いました」と、瀬名が話してもいないはずの現場の様子を棚倉が知っていたこと——それは康平から聞いたのだと後で分かったが、聞いた上でわざわざ気にかけていたという事実は変わらなかった。
どれも小さい。取るに足らないと言ってしまえる程度のことばかりだ。だが積もれば、無視できない重さになる。
契約結婚のはずだった。
瀬名はその言葉を、二週間の間に何度も自分に言い聞かせてきた。棚倉グループが瀬名工業を守るための取引。感情はあとから付け足された建前に過ぎない——そのはずだった。
なのに、傘の位置一つに、こんなにも心が動く自分がいる。
週末、珍しく二人とも予定のない夜があった。
テーブルを挟んでの夕食は、もうすっかり日課になっていた。棚倉が炒め物を取り分けながら、ふと箸を止めた。
「実家の工場、田村さんの機械は直りましたか」
「ああ……部品、先週入りました。もう動いてます」
「それはよかった」
短いやり取りのあと、また静かな時間が流れた。この静けさに、もう息苦しさを感じなくなっている自分に、瀬名は遅れて気づいた。
「棚倉さんは」
思わず口をついて出た。
「休みの日、何してるんですか。俺と会う前は」
「特には。仕事の資料を読んでいるか、走っているか」
「味気ないですね」
「否定はしません」
棚倉の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑ったというほどでもない、その手前の表情だった。瀬名はその一瞬を見逃さなかった自分に、少しだけ驚いた。
「なんで、そこまでしてくれるんですか。俺に」
言った瞬間、後悔した。踏み込みすぎた質問だと分かっていた。
棚倉は箸を置き、少しの間、答えを探すように黙っていた。
「……仕事です」
やがて返ってきたのは、そんな短い一言だった。瀬名が今まで散々聞かされてきた言葉のはずなのに、今夜はどうしてか、その響きが少しだけ痛かった。
棚倉自身も、その一言が正解ではないと分かっているような顔をしていた。
「今日、少し遅くなります」
夜、棚倉からのメッセージにはそれだけ書かれていた。瀬名はキッチンで簡単な炒め物を作りながら、その一文を何度か読み返した。
遅くなる、とだけ告げてくる律儀さも、契約上の同居人への配慮としては丁寧すぎる気がした。
夕食を一人で済ませたあと、瀬名は窓際の仕事机に向かった。棚倉が用意した複合機の前で、瀬名工業の来月分の発注書を整理する。田村から送られてきた在庫リストと、康平が電話で読み上げた数字を突き合わせる作業だった。
単純な照合のはずが、なかなか終わらなかった。今日一日、工場のことと新しい生活のことを同時に頭で回し続けていて、瀬名は自分でも気づかないうちに疲れ切っていた。
伝票の数字が、少しずつぼやけていく。
「……あと少しだけ」
誰にともなく呟いて、瀬名は椅子に座ったまま目を閉じた。ほんの数分のつもりだった。
物音で目を覚ました。
目の前に、白い紙コップが置かれていた。中身は温かいお茶らしい。湯気が、デスクランプの光をゆっくり揺らしていた。
「……棚倉さん」
声をかけると、隣に立つ人影が動いた。棚倉だった。ネクタイはまだ緩めていない。帰ってきたばかりらしい。
「マグカップ、まだ荷解きの箱の中でした。それしかなかったので」
弁解するような一言のあと、棚倉は瀬名の肩に、薄手のブランケットをかけた。
その手つきに、迷いがなかった。何度もやったことがあるような、慣れた動きだった。
「根を詰めるな」
低い声だった。
いつもの丁寧な言葉遣いではなかった。敬語が、その一瞬だけ抜け落ちていた。
瀬名は紙コップを両手で包んだ。指先に伝わる温度と、耳に残る声の低さが、ゆっくりと重なっていく感覚があった。
どこかで、同じことを言われたことがある。
同じ温度の、同じ低さの声で。
「今の……」
瀬名が顔を上げたときには、棚倉はもう背を向けていた。
「疲れているなら、今日はもう休んでください。おやすみなさい」
言い終える前に、部屋のドアが閉まる音がした。振り返ってももう遅い。逃げるような足音の速さに、瀬名は思わず立ち上がりかけて、また椅子に座り直した。
手の中の紙コップは、まだ温かかった。
瀬名は目を閉じた。四年前でも五年前でもない。もっと昔——七年前の記憶が、今度こそ像を結ぼうとしていた。
光の角度。コピー機の音。紙コップを渡された感触。そして、低い声で言われた「根を詰めるな」という一言。
あのときの声が、誰のものだったか。
顔は、まだはっきりしない。だが声だけは、もう疑いようがなかった。
今しがた聞いたばかりの声と、記憶の底に沈んでいた声が、寸分違わず同じ形をしていた。
瀬名はしばらく動けなかった。
棚倉が七年前の自分を知っている。それだけなら、これまでの違和感の延長線上にある話だと思えた。だがもし——あの声の主が棚倉自身だったのだとしたら。
辛味を控える指示も。空調の温度調整も。契約書にない仕事机も。傘も。付箋の一言も。
全部、七年前から続いていたものだとしたら。
棚倉という人間が、この二週間だけでなく、もっとずっと長い時間をかけて自分を見てきたのだとしたら。
考えるほど、息がうまく吸えなくなる。怖いのか嬉しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、これまでのように「契約だから」の一言で片付けられる話ではもうないことだけは、はっきりと分かった。
紙コップの中身は、いつの間にかぬるくなっていた。
瀬名はそれを両手で持ったまま、閉まったドアの向こうに、まだ立っているかもしれない気配を探した。
翌朝、リビングに出ると、テーブルにマグカップが一つ置かれていた。
昨夜のことなど何もなかったような、いつも通りの光景だった。棚倉はソファで新聞を読んでおり、瀬名に気づくと軽く会釈しただけだった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
声に、昨夜の名残りは欠片も感じられなかった。完璧な仮面だ、と瀬名は思う。あるいは、あれ自体が仮面の外側で漏れた本物だったのか。
瀬名は空になった紙コップを、まだ捨てられずに机の隅に置いたままにしていた。証拠品のように、そこだけ生活感から浮いている。
棚倉が出勤した後、瀬名はしばらくその紙コップを見つめていた。
確かめる方法は、いくつか思いつく。七年前の出向先の部署に誰がいたか、記録をたどればいい。康平に聞いてもいい。あるいは、棚倉本人に正面から尋ねてもいい。
どれも今はまだできそうになかった。答えを知るのが怖いのではない。答えを知ってしまったら、この二週間の全部の意味が、もう後戻りできない形で書き換わってしまう気がしたからだ。
それでも、と瀬名は思う。
いつまでも紙コップを机の隅に置いたままにはできない。
瀬名は紙コップをそっと握り直した。近いうちに、自分から確かめに行く。まだ漠然としたその決意だけが、今の瀬名の中でいちばん確かな輪郭を持っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第1アークの最終話です。今回は事件らしい事件を起こさず、日常の中の小さな気遣いをひたすら積み重ねる構成にしました。傘、保温スイッチ、付箋の一言——どれも単体ではドラマになりませんが、瀬名の中で少しずつ質量を持っていく過程を書きたかったです。
クライマックスの紙コップと「根を詰めるな」は、第4話で瀬名が会議室で思い出しかけていた記憶の断片(光の角度、コピー機の音、紙コップ、低い声)を、そのままの形で今の場面に呼び戻す作りにしています。棚倉が敬語を忘れて素の口調で言ってしまう瞬間は、これまでの「崩れ」とは違う種類の綻びとして書いたつもりです。感情が溢れて崩れるのではなく、七年前の自分がうっかり顔を出してしまう、という綻び方です。
瀬名がまだ棚倉の名前を出さずに「あの声の主が棚倉自身だったのだとしたら」と留保しているのは、確信と願望の境目にまだ本人も立っているからです。次のアークでは、この輪郭がどう像を結んでいくのか、二人の距離がどう変わっていくのか、よろしければ引き続きお付き合いください。




