第7話: 入籍、そして同居
目が覚めてすぐ、瀬名は天井を見た。見慣れた実家の天井だった。
今日でこの天井を見るのも最後になる。分かっているのに、実感はどこにも湧かなかった。枕元のスマホには、昨夜自分で入れた予定がそのまま残っている。
「十時、区役所」
たったそれだけの予定が、人生で一番大きな出来事の見出しにしては、あまりに素っ気なかった。
段ボールはもう三つにまとめてある。工場の作業着一式、着替え、洗面道具。それだけで足りるのが自分でもおかしかった。二十九年生きて、持っていく荷物がこれだけしかない。
台所から康平の声がした。
「悠斗、飯できてるぞ」
いつもと同じ味噌汁の匂いがした。いつもと同じはずなのに、今日だけは喉の奥がわずかに強張った。
食卓には二人分の茶碗と、いつもより一品多いおかずが並んでいた。康平は何も言わずに卵焼きを瀬名の皿に寄せた。母親がいた頃の習慣を、康平は今でもたまに真似る。
「向こうで何かあったら、すぐ言えよ」
「そんな子供じゃないんだけど」
「工場のことは、俺がやる。お前は身一つで行けばいい」
その一言に、瀬名は箸を止めた。工場を背負わせている負い目を、康平はいつまでも消せないままでいる。分かっているのに、うまく応える言葉が見つからなかった。
「……行ってくる」
玄関先で、康平は珍しく何も茶化さなかった。ただ肩を一度だけ、ぎこちない力加減で叩いた。その手のひらの硬さに、瀬名は思わず泣きそうになって、慌てて靴紐に視線を落とした。
区役所のロビーは、平日の午前にしては人が多かった。転入届、住民票の窓口の間に挟まれた婚姻届の受付は、拍子抜けするほど小さな一角だった。
棚倉は先に来ていた。仕立てのいいスーツではなく、珍しく普段より柔らかい色のジャケットを着ている。それだけで、いつもの「機械みたいな専務」の輪郭が少しだけ崩れて見えた。
「早いですね」
瀬名が言うと、棚倉は軽く頷いた。
「待たせるわけにはいかないので」
当たり前のことのように言う。その一言の裏に何があるのか、瀬名にはまだ読み切れなかった。
窓口で書類を差し出すと、職員は淡々とした手つきで受け取り、内容を確認していく。証人の欄には既に二つの署名が並んでいた。康平の字と、瀬名の知らない筆跡。棚倉側の証人なのだろう。誰なのかは聞いていない。
「不備はございません。受理いたしました」
その一言で、すべてが終わった。
拍子抜けするほど、あっけなかった。指輪の交換も、誓いの言葉もない。事務手続きが一つ完了しただけの顔で、職員は次の番号を呼んだ。
窓口を離れてから、瀬名はしばらく黙っていた。何か言うべき気がしたが、言葉が見つからなかった。
「実感、ないですよね」
棚倉のほうから言った。珍しく先に本音めいたことを口にする。
「……分かるんですか、そういうの」
「顔に出ています」
瀬名は思わず自分の頬に触れた。棚倉の口の端が、ほんのわずかに動いた気がした。笑ったのかどうか、確かめる前に元の無表情に戻っていた。
「行きましょう。荷物、業者が先に運んでいるはずです」
歩き出す背中を、瀬名は少し遅れて追った。
午後は慌ただしく過ぎた。
搬入業者との立ち会い、荷解き、役所から持ち帰った書類の整理。瀬名の段ボール三つはあっという間に片付いたが、棚倉の荷物は元からほとんど部屋にあったらしく、増えたのは瀬名の分だけだった。それがかえって、この部屋がもともと棚倉一人のためのものだったことを思い知らせた。
夕方近く、荷解きが一段落したところで、瀬名は案内されるまま部屋を見て回った。
リビングは広く、生活感が薄かった。棚倉の几帳面さがそのまま部屋の空気になっている。テレビの角度、本棚の並び、どこを見ても計算されたような整然さがあった。
その中で、一つだけ違和感のある一角があった。
窓際に置かれた小さなデスクだった。ノートパソコン用のスタンド、複合機、書類を仕分けるトレイが二段。トレイの一段には、見覚えのある伝票のフォーマットが数枚、見本として差し込まれていた。瀬名工業の受発注に使っているものと、ほぼ同じ形式だった。
「これ……」
振り返ると、棚倉が少し離れた場所に立っていた。
「工場の書類仕事、こちらでも続けるでしょう。回線は仕事用と分けてあります。プリンターは複合機なので、FAXも使えます」
事務的な口調だった。だが瀬名には、その事務的な口調の裏にあるものが分かってしまった。
誰にも頼まれていない。契約書のどこにも「瀬名の家業の仕事場を用意すること」などという条項はなかった。棚倉が勝手に、自分の判断だけで用意したものだ。
「……聞いてないんですけど、これ」
「言う必要がないと思ったので」
「いや、そういう問題じゃなくて」
言葉に詰まった。工場の帳簿、部品の発注、田村たちの給料。あの重みを、この人はどこまで正確に理解しているのか。理解した上で、何も言わずに机を一つ用意する。その距離感の詰め方が、瀬名には少し怖かった。
「……ありがとうございます」
結局、それだけしか出てこなかった。
棚倉は小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。触れられたくない話題を避けるように、キッチンのほうへ足を向ける。
「夕飯、簡単なものでよければ用意します。何か食べられないものは」
「特にないです。そっちこそ、辛いのとか大丈夫なんですか」
言ってから、瀬名は自分の質問がおかしいことに気づいた。辛味を控える指示を出していたのは棚倉のほうだった。あれは自分のためだったのか、それとも——考えかけて、やめた。今聞くことでもない気がした。
「大丈夫です」
棚倉は短く答えて、冷蔵庫を開けた。
夕食は、思ったよりまともなものだった。
棚倉が手早く作った野菜と鶏肉の炒め物、味噌汁、白飯。特別な料理ではなかったが、味付けは丁寧だった。
「作れるんですね、こういうの」
「一人暮らしが長いので」
テーブルを挟んで向かい合う。会話は続くようで続かなかった。仕事の話、天気の話、それだけを行き来して、肝心なことには互いに触れなかった。
箸を止めた瀬名の視線に気づいたのか、棚倉が顔を上げた。
「何か」
「いや……別に」
本当は聞きたいことがいくつもあった。なぜここまでしてくれるのか。契約結婚のはずなのに、なぜ書類にない気遣いばかり積み重ねるのか。だが問えば、この静かな夕食の空気が壊れる気がして、瀬名はまた箸を動かした。
半分は本気で気にしていないふりをして、半分は本当に、今はこれ以上踏み込む勇気がなかった。
風呂を終えて出てくると、棚倉がリビングの明かりを落としながら言った。
「部屋、奥の右側を使ってください。左は私の部屋です」
「……別なんですね、部屋」
「同伴義務は生活の場を共にすることで、寝室まで指定されていません。無理に一緒にする必要はないかと」
契約書の文言そのままの言い方だった。正しい。正しいはずなのに、瀬名の中で何かが小さく引っかかった。
「そう、ですね」
同意しながら、自分の声が少しだけ硬くなったのが分かった。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
棚倉は自分の部屋に入り、扉を閉めた。瀬名も割り当てられた部屋に入り、荷解きの済んでいない段ボールの隙間に布団を敷いた。
電気を消すと、隣の部屋との壁越しに、かすかな物音がした。椅子を引く音、しばらくの静けさ、それから紙をめくるような音。
こんな時間まで、まだ何か仕事をしているのだろうか。それとも、ただ眠れずにいるだけなのか。
機械みたいだと言われる人にも、眠れない夜があるのかもしれない。そう思ったら、少しだけおかしかった。
瀬名は天井を見上げた。実家の天井とは違う、真新しいクロスの天井だった。
書類仕事のためだけに用意されたはずの机が、頭の中でずっと消えなかった。契約にない気遣い一つに、こんなにも心が揺れる自分が、瀬名には少しだけ情けなかった。
これが本気なのか、それとも棚倉なりの責任の取り方に過ぎないのか。区別のつけ方が、瀬名にはまだ分からない。分からないまま、期待だけが先に膨らんでいくのが怖かった。
スマホが震えた。康平からの短いメッセージだった。
「ちゃんと着いたか」
それだけの一文に、瀬名は少し笑って、少し泣きそうになった。「着いた。心配すんな」とだけ返す。送信ボタンを押した指先が、実家にいた頃より、ほんの少し遠くにいる自分を実感させた。
壁の向こうの物音が止んだ。
沈黙だけが、薄い壁を挟んで残った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
入籍の場面は、あえて感動的にしすぎないよう心がけました。証人の欄に知らない筆跡があるという一文は、棚倉側の証人が誰なのか瀬名にも読者にも明かさないまま進めていますが、ここは後の話で拾うつもりの小さな伏線です。
今回一番書きたかったのは、指輪でも誓いの言葉でもなく、窓際の仕事机でした。契約書には存在しない気遣いを見せることで、棚倉が瀬名の生活の全部——工場の経営まで含めて——を背負う覚悟を固めていることを、台詞ではなく物で語りたいと思いました。瀬名がそれに「ありがとうございます」としか言えなかったのも、彼なりの精一杯だったと思います。
寝室を分ける場面は、書いていて一番もどかしかったところです。正しい判断のはずなのに、正しさが逆に距離を感じさせてしまう。そのちぐはぐさを、次話でもう少し掘り下げていきたいと思っています。
壁越しの物音で終わる構成にしたのは、二人がまだ言葉で繋がれない代わりに、気配だけは確かに伝わっている、という段階を示したかったからです。次話、積み重なる気遣いが瀬名の中でどう形を変えていくか、よろしければ引き続きお付き合いください。




