第6話: 数字の向こう側
受話器越しの声は、丁寧だった。丁寧なぶん、数字だけが冷たかった。
「来月の発注分から、単価を一律で八パーセント下げていただけないかと」
瀬名は手元の伝票から顔を上げないまま、ペン先を止めた。
中央製作所の担当者は、いつも通りの落ち着いた調子で続けた。市場全体が値下げ圧力にあること、他社もすでに応じていること、瀬名工業だけ特別扱いを求めるわけにはいかないこと。理屈は正しい。だからこそ断りにくい。
「検討させてください。来週までにお返事します」
精一杯の答えがそれだった。電話を切ると、蛍光灯の唸る音がやけに大きく聞こえた。
顧客リストを開く。中央製作所は全体の受注の一割強を占める古参の取引先だった。ここで応じれば、他の取引先も同じ条件を求めてくるだろう。
電卓を叩く。八パーセントをそのまま飲んだ場合の年間の減収額は、田村の月給のおよそ十二か月分に相当した。
「一人分、消えるのか」
思わず声が出た。誰もいない事務所に、その声だけが残った。
工場の床は油と金属の匂いがした。三十人分の足音と機械音が混ざり合う、瀬名にとって一番落ち着く場所だった。
三号機の前で、田村がしゃがみ込んでいた。
「瀬名さん、また止まりました」
三年目の田村は、油まみれの手のまま振り返った。研磨機の主軸が、また異音を立てて止まったらしい。
瀬名もしゃがんで機械の下を覗き込んだ。ベアリングの摩耗だった。前回の修理から半年しか経っていない。
「部品、注文しないとですね」
「ああ。ただ……」
瀬名は言葉を濁した。この機械はもう十五年選手だ。部品を入れてもすぐ別の箇所が音を上げる。買い替えるべきだと分かっていても、新型の導入には年間利益の何年分もかかる。
「無理しないでくださいね。三号機、瀬名さんの親父さんより年上なんだから」
田村が軽口を叩いた。冗談のつもりだろうが、瀬名は笑いきれなかった。
「お前の給料袋、この機械が作ってるようなもんだからな。壊れたままにはしない」
「頼りにしてます」
田村が笑った。屈託のない声だった。その軽さが、瀬名には少しだけ重かった。
隣の機械では、五十代のベテラン職人が黙々と手を動かしていた。あの人にも、来月支払う給料がある。この工場で働く三十人が、それぞれ家族を抱えて生きている。その全部を支えているのが、今しゃがみ込んで覗いている古い機械と、瀬名自身の判断だった。
「部品、今日中に手配する。それまで四号機に回してくれ」
「了解です」
田村が立ち上がり、隣の機械へ駆けていく。その背中を、瀬名はしばらく見送った。
昼過ぎ、信用金庫の担当者・大野が工場を訪ねてきた。
応接室のソファに康平と並んで座り、瀬名は差し出された書類を受け取った。
「設備投資分の返済ですが、現状の売上推移だと来期の据置は難しいという話になっています」
大野は淡々とした口調で続けた。
「借り換えの条件は、追加の担保をご用意いただくか、返済期間を延長して月々のご負担を軽くするか、どちらかになります」
「担保は、工場の土地しか残ってない」
康平が低い声で言った。
「期間延長でお願いできますか」
「承知しました。ただしその場合、金利が0.3パーセントほど上がります」
瀬名は隣で数字を頭に叩き込んだ。0.3パーセント。額にすれば年間で数十万円。田村の給料袋が、また頭をよぎった。
「棚倉グループさんとのお取引が安定しているのは、審査上もプラス材料です」
大野が付け加えた。何気ない一言だったが、瀬名の胸に小さく刺さった。自分の結婚が、今この書類の一行として数えられている。
「よろしくお願いします」
康平が頭を下げた。瀬名も同じように頭を下げながら、まだ慣れない重みを飲み込んだ。
大野が帰った後、康平はしばらくソファから動かなかった。
「情けない話だな。息子の結婚まで担保みたいに扱われて」
「別にいいよ、それで工場が回るなら」
瀬名は書類を束ねながら答えた。声は思ったより平静だった。
夕方、事務所の奥の応接室で、康平が古いソファに座り電卓を叩いていた。
「父さん、中央製作所から単価交渉の話も来た」
瀬名が伝えると、康平の手が止まった。
「……どのくらいだ」
「八パーセント」
康平は電卓から顔を上げず、しばらく黙っていた。
「今年の夏のボーナス、去年並みは出せそうか」
瀬名が尋ねると、康平はすぐには答えなかった。
「……八割ってところだ。田村たちの若い衆には、正直に言うつもりだ」
康平の声が沈んだ。
「隠したって、いずれ分かることだ」
瀬名はソファの上に腰を下ろした。担保に入れている土地の評価額、今期の売上見込み、そうした数字を、この一年ずっと二人で睨み続けてきた。
「工場が潰れたら田村たちが困る。それだけの話だ。俺は俺で納得してる」
半分は本当で、半分は自分に言い聞かせている言葉だった。棚倉の顔が、ふと頭をよぎる。あの人と暮らす生活の実感は、まだどこにもない。ただこの工場を守るという一点でだけ、瀬名は迷わずにいられた。
「悠斗」
康平が電卓を置いた。
「お前が嫁に行くわけじゃないのに、嫁に行くみたいな顔をするな」
思わず瀬名は噴き出した。
「そういう言い方、やめてくれよ」
「事実だろう」
康平が珍しく笑った。疲れた顔の中で、その笑いだけが少しだけ若く見えた。
康平が伸びをして、奥の休憩室へ向かった。瀬名は一人残り、机の上の帳簿をもう一度開いた。
数字はさっきと変わらない。それでも、さっきより少しだけ受け止め方が変わった気がした。
スマホが震えたのは、伝票を閉じた直後だった。
棚倉、という表示に指が一瞬止まる。
メッセージだった。
「来週の月曜、区役所に行けますか。入籍の日を決めたいので」
事務的な文面だった。いつもの棚倉らしい、飾り気のない言葉だ。
瀬名はその短い文面を、何度も読み返した。
工場の帳簿の数字と、この短いメッセージが、自分の中で同じ重さで並んでいる。おかしな話だと思う。それでも、もうそういうものなのだと、瀬名は静かに理解していた。
返信の文字を打つ指は、いつもより少しだけ遅かった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は政略の舞台裏ではなく、瀬名が実際に手を動かす側の話にしたくて、あえて棚倉を本文に一切登場させませんでした。数字を値踏みする総一朗の視線と、瀬名が伝票の前で向き合う数字は、同じ「数字」でも重みの種類がまるで違います。そのずれを書きたくて、この回だけ舞台を工場に戻しました。
田村というキャラクターは前話で名前だけ出した若手職人ですが、書いているうちに勝手に軽口を叩き始めて、思ったより存在感が出ました。彼の「頼りにしてます」の一言は、瀬名にとって一番プレッシャーのかかる台詞だったはずです。
信用金庫の場面で大野が何気なく口にした「お取引が安定しているのは審査上もプラス材料です」は、書いていて一番嫌な一言でした。悪気のない言葉ほど、当事者には刺さるものだと思います。
ラストのメッセージは事務的な一文ですが、瀬名の中では帳簿の数字と同じ重さで並んでしまう。そのくらい、この結婚はもう彼にとって現実の一部になっています。次話でいよいよ入籍と同居が始まります。よろしければ引き続きお付き合いください。




