第5話: 上座の視線
暖簾をくぐる直前、康平が一度だけネクタイを締め直した。
瀬名はその指の震えに気づかないふりをした。
棚倉グループの副会長が同席すると聞いたのは、昨夜のことだった。
電話をかけてきたのは棚倉本人だった。
「明日の顔合わせに、伯父も同席します」
用件だけを告げる声だった。
「伯父さん、ですか」
「副会長です。父の名代として」
それだけ言って、通話は切れた。
瀬名はそのまま父に伝えた。康平はしばらく黙り込んだ後「そうか」とだけ言って作業着を脱いだ。
料亭「桐生庵」は、駅から少し離れた住宅街の奥にあった。
黒塀の向こうに手入れの行き届いた庭が見える。踏み石の上を歩くだけで、靴の底が場違いだと知らせてくる気がした。案内の仲居に続いて廊下を進むと、床の間のある個室に通された。
畳の匂いに混じって、香の匂いがかすかにする。工場の応接室にある古いソファとは、何もかもが違った。
先に座っていたのは棚倉ではなかった。
白髪を整え、仕立ての良い着物を着た男が、床の間を背にした上座で茶を飲んでいた。立ち上がる様子はない。
「棚倉総一朗です」
声には抑揚がなく、それでいて場を支配する響きがあった。
「瀬名悠斗です。本日はお招きいただきありがとうございます」
瀬名が頭を下げると、総一朗はゆっくりと視線を上げた。値踏みするような目だった。品定めされている、と瀬名は直感した。
「息子の悠斗です。今日はお世話になります」
康平が続けて頭を下げる。声がいつもより硬い。
「どうぞお座りください」
総一朗が示した席は、上座から見て一番遠い末席だった。康平がそこに座り、瀬名はその隣に腰を下ろす。
少し遅れて棚倉が入ってきた。
「遅くなりました」
総一朗の隣に座ると、棚倉は瀬名にだけ小さく目礼した。表情はいつも通り動かないが、瀬名には詫びているように見えた。
仲居が膳を運び始める。座卓を挟んで、上座に総一朗と棚倉、下座に瀬名と康平。四人の位置関係が、そのまま何かの序列に見えて仕方なかった。
「まずは一献」
総一朗が銚子を手に取った。康平が慌てて盃を差し出す。
「恐れ入ります」
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。今日は縁を結ぶ席です」
言葉は柔らかいが、目は笑っていなかった。
乾杯の後、会話は当たり障りのない話題で進んだ。天候、料亭の庭、季節の献立。先付には向付として鱧の落としが添えられていて、康平がそれを見て「贅沢なものですね」と小さく漏らすと、総一朗は初めて口の端をわずかに緩めた。
「季節のものですよ。気にせず召し上がってください」
その一言だけは、社交辞令の温度を少し超えていた。だがすぐに元の静けさへ戻る。総一朗は聞き役に回りながら、時折短く相槌を打つだけだった。
瀬名はその静けさに、かえって落ち着かなかった。
棚倉と会う時にも似た緊張はあったが、総一朗のそれは種類が違う。棚倉は無表情の奥に何かを隠しているように見えるのに対し、総一朗は最初から手の内を見せないことそのものが目的に見えた。
先付が下がり、椀物が運ばれた頃、総一朗が箸を置いた。
「瀬名工業さんは、現在何社ほどとお取引が」
康平の背筋が伸びた。
「地元を中心に十数社です」
「棚倉グループへの発注依存度は、御社の売上のどの程度に」
その質問に、康平の手が一瞬止まった。
「四割ほどです。二年前に大口の取引先が一社抜けてから」
言いかけて、康平は言葉を選び直した。
「その割合が増えました」
短い沈黙が落ちた。総一朗は表情を変えないまま茶碗を持ち上げた。
「なるほど。その割合は今後もさらに」
「伯父上」
棚倉が言った。声の温度はいつもと変わらないのに、瀬名にはそこに壁のようなものを感じた。
「数字の話は双方の代理人の間で既に済んでいます。今日はその席ではありません」
「そうだったな」
総一朗はあっさりと引いた。潔さがかえって不気味だった。
「失礼した。瀬名くん、悪気があって聞いたわけではないんです。ただ私は数字でしか物を測れない性分でね」
「いえ……」
瀬名は何と返せばいいか分からなかった。棚倉が横から助け船を出してくれたことは分かる。だがその助け船自体が、この席の空気を物語っているようだった。
テーブルの下で、瀬名は膝の上の手をきつく握った。数字で測られているのは工場だけではない。自分自身も、同じ天秤に乗せられている気がした。
ふと顔を上げると、棚倉と目が合った。何も言わず、ただ一瞬だけ視線が重なる。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
場を繋ぐように、棚倉が話題を変えた。
「瀬名工業さんの加工技術について、伯父上にも一度お話ししておきたいと思っていました」
「ほう」
総一朗の視線が康平に向いた。
「うちは……精密加工が専門です。数字で言えば大きな会社ではありませんが」
康平はそこで一度言葉を切った。腕を組む、いつもの癖が出る。
「〇・〇一ミリ単位の公差を、うちの職人は手作業の仕上げで詰めます。若い工員の田村なんかはまだ三年目ですが、機械の癖を読む勘だけは職人歴二十年のベテランに引けを取りません」
康平の声から、緊張の硬さが少しずつ抜けていった。
「機械が出した数値をそのまま信じない。最後は人間の目と手で確かめる。それがうちの工場のやり方です」
瀬名はその横顔を見た。工場の話をする時だけ、父は別人のように背筋が伸びる。恐縮しきっていた肩の力が、いつの間にか抜けていた。
総一朗は、しばらく黙って康平を見ていた。
「……いい話を聞きました」
それから視線を瀬名に移した。
「瀬名くんは、工場では何を」
「生産管理と、取引先対応をしています」
「なるほど。数字を扱う立場ですね」
「現場の数字です。伝票の数字とは違います」
言ってから、少し言い過ぎたかと思った。総一朗は表情を変えず、それでも僅かに目を細めた。
「威勢がいい。悪くありません」
それだけ言うと、総一朗は箸を取り、次の料理に手をつけた。
瀬名は小さく息をついた。父の誇りが、この場で少しだけ守られた気がした。
会食がお開きになったのは、二時間ほど経った頃だった。
仲居に見送られ、玄関先で総一朗が先に草履を履いた。
「今日はありがとうございました」
康平が深く頭を下げる。総一朗は軽く頷き返しただけだった。
瀬名が頭を下げると、総一朗はふと足を止めた。
「瀬名くん」
「はい」
「玲司のことを、よろしく頼みます」
言葉だけを聞けば、ただの挨拶だった。だが総一朗の目には値踏みの色がまだ残っていた。試されている、と瀬名は思った。何を試されているのかは分からないままだった。
総一朗は迎えの車に乗り込む前、棚倉を振り返った。
「玲司。後で少し話がある」
それだけ言って、車は走り去った。
残された棚倉の横顔から、一瞬だけ表情が消えた。瀬名がそれに気づいた時にはもう、いつもの無表情に戻っていた。
「……何の話ですか」
尋ねると、棚倉は少し間を置いてから答えた。
「大したことじゃない」
その声には、いつもより硬さがあった。
瀬名は、その硬さの理由を聞けないまま康平と共に駅までの道を歩いた。夜風が、盃の熱をゆっくり冷ましていく。
振り返ったが、迎えの車のテールランプはもう見えなかった。
「怖い人だったな」
康平がぽつりと言った。
「けど、悪い人には見えなかった」
「うん」
瀬名も、それ以上うまく言葉にできなかった。総一朗の値踏みの目も、棚倉の一瞬の表情も、まだ意味が繋がらないまま胸の中に残っている。
繋がらないまま、それでも確かに重みだけが増えていく。もう見えないはずのテールランプの赤だけが、瀬名の目の奥にまだ小さく点っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
総一朗は書いていて一番気を遣った人物です。声を荒げず、皮肉も言わず、ただ数字を並べるだけで場の空気を変えてしまう人にしたかったので、台詞を削る作業のほうが足す作業より多い回でした。
康平が工場の話で急に生き生きする場面は、プロットの早い段階から決めていたシーンです。数字で値踏みされる空気の中に、数字では測れないものを一つだけ置いておきたくて、田村という名前を出しました。名前で従業員を語る癖は、この人の一番良いところだと思っています。
総一朗が最後に棚倉へ残した一言は、今の瀬名にはまだ何のことか分かりません。書いている側は知っていますが、しばらくは黙っておきます。よろしければ引き続きお付き合いください。




