第4話: 見覚えのある会議室
受付で名前を告げただけで、指先が冷えた。
初めて来るビルのはずなのに、エレベーターの扉が開く前から、喉の奥がざわついていた。
瀬名は自分のその反応に戸惑いながら、案内板の前に立っていた。
秘書課から電話があったのは、前日の夕方だった。
「対外発表用の資料に工場の写真データを追加したいので、原本を直接お持ちいただけますか」
電話の声は棚倉本人ではなく、事務的な女性のものだった。「原本」というのは、要するに紙焼きの古い写真だった。工場の創業当時を写した一枚だけは、まだデータ化していない。祖父が写っている、父より前の代の写真だった。
「俺が持っていく」
父に告げると、父は少し驚いた顔をしてから頷いた。
「……気をつけて行ってこい」
「何だよ急に。取って食われるわけじゃあるまいし」
「いや……別に、そういう意味じゃない」
父はそれ以上続けず、写真の入った封筒を渡してきた。何を気をつけろというのか、瀬名にはよく分からなかった。父に頼んでもよかったが、棚倉グループの本社がどんな場所か、一度は自分の目で見ておきたい気持ちもあった。
来客用のカードを首から下げるのは、初めてのことだった。
「瀬名様でいらっしゃいますね。専務の秘書課より伺っております」
受付の女性は名簿も見ずに言った。すでに来訪者リストに名前が載っているらしい。
「はい。書類をお届けに」
「担当の者がお迎えに上がります。少々お待ちくださいませ」
その丁寧さが、逆に落ち着かなかった。工場の来客対応とは、丁寧さの種類が違う。
エレベーターは静かに上昇した。
磨き上げられた壁に、自分の姿がぼんやり映っている。三十階建てのビルは瀬名工業の本社より遥かに高く、廊下の絨毯は工場の応接室のソファよりよほど値が張りそうだった。
「本社にいらっしゃるのは、初めてですか」
案内してくれた女性社員が尋ねた。
「はい、初めてです」
瀬名は答えながら、内心で言い直した。初めてのはずだ、と。
「エレベーターは全部で八基あって、専務のフロアは最上階になります」
説明が続いたが、半分も頭に入ってこなかった。靴音だけが、やけにはっきり耳に残っていた。
「こちらでお待ちください。担当の者がすぐに参ります」
通されたのは、廊下の突き当たりにある小さな会議室だった。
扉を開けた瞬間、瀬名の足が止まった。
長方形のテーブルに、四脚の椅子。窓際のブラインドは中途半端な角度で開いていて、午後の光が斜めに床を切っている。
瀬名はその光の筋から、なぜか目を離せなかった。
——あの角度に、覚えがある。
——あれは、七年前のことだ。
同じような角度で、光が机を切っていた。夕方に近い時間で、コピー機がずっと唸っていた。瀬名は書類の束を抱えたまま、長く突っ立っていた。足の裏が痺れていたのを覚えている。
誰かが、隣に立った。
「——根を詰めるな」
低い声だった。抑揚は少なく、それでいて冷たくはなかった。顔は思い出せない。輪郭さえ曖昧で、耳の奥に残っているのは声のトーンだけだ。
紙コップが、冷えた手に押しつけられた。
「休んでから、続きをやれ」
それだけ言って、足音は離れていった。振り返る前に、姿は見えなくなっていた。
——斜めに差す光が、今、目の前の床の上に戻ってくる。
瀬名は椅子の背もたれに手をついた。膝の力が、一瞬抜けそうになる。
紙コップの味も、低い声も、はっきりとは思い出せない。なのに体の奥には、確かな手触りだけが残っていた。
——今のは、何だ。
いや、来たことなんてないはずだ。頭では分かっている。
うまく言葉にできないまま、瀬名は資料ファイルをテーブルに置いた。指先が、まだ微かに震えている。
扉が開いたのは、その直後だった。
「お待たせしました」
入ってきたのは、秘書ではなく棚倉本人だった。
「……棚倉さん」
驚いて顔を上げると、棚倉は資料を受け取る手を止め、瀬名の顔をじっと見た。
「顔色が良くない。座っていてください」
いつもと同じ、抑揚の薄い声だった。だが瀬名には、その一拍だけ間があったように聞こえた。
「大丈夫です。少し、変な感じがしただけで」
「変な感じ」
棚倉が繰り返した。声のトーンが、ほんの少しだけ硬くなった気がした。
「この部屋、前にも来たことがある気がして」
言いながら、瀬名は自分の言葉に戸惑った。うまく説明できない。光の角度と、低い声と、指先に残る温かさの記憶。それが誰のものだったのか、なぜ今ここで蘇ったのか、何ひとつ繋がらなかった。
棚倉は、何も言わなかった。
わずかな沈黙が落ちた。
「棚倉さんは、この部屋に来たことないですよね」
軽く聞いたつもりだった。だが返ってきた声は、思ったより一拍遅れていた。
「……よく使う会議室のひとつです。特別なことは何も」
「そうですよね。すみません、変なこと聞いて」
「気にしなくていい」
窓の外の光が、また斜めに床を切っている。棚倉の視線が一瞬、その光の筋を追うように動いた。それから、何事もなかったように資料ファイルへ視線を戻した。
封筒から古い写真が覗いていた。棚倉の指が、その端に少しだけ長く触れてから離れた。
「これは」
「祖父の代の、創業当時の写真です。データが残ってなくて」
「……大事にしてください。二度と撮れないものだ」
その一言だけ、いつもより温度があった。
「気のせいでしょう。似たような会議室は、どこにでもあります」
続けて出た言葉は、心なしか早口だった。ひとつ前の台詞と、温度が違いすぎる。
ノックの音がした。
「専務、そろそろお時間です」
秘書の声だった。棚倉は資料ファイルを手に、いつもよりわずかに速い動きで立ち上がった。
「今日はありがとうございました。父上によろしく」
そう言って、棚倉は瀬名の顔を見ないまま部屋を出ていった。
扉が閉まる音を、瀬名はしばらく聞いていた。
いつもなら、最後にもう一度だけこちらを見てから出ていく人だった。
瀬名は一人残された会議室で、光の筋をもう一度見つめた。
膝から抜けかけた力は、もう戻っている。だが胸の奥に、小さな石でも落ちたような重さが残っていた。
案内の女性社員に連れられてロビーまで戻る間、瀬名は誰にも聞けない質問を何度も飲み込んだ。
あなたたちの専務は、七年前ここで係長をしていましたか。
馬鹿げた質問だった。仮に答えを聞いたところで、あの声が誰のものだったかなんて、証明のしようがない。
「本日はご足労いただき、ありがとうございました」
受付の女性に頭を下げられ、瀬名も慌てて頭を下げ返した。
「いえ、こちらこそ」
ロビーの自動ドアを抜けると、外の熱気が肌に触れた。振り返ったビルの窓は、上の方まで等間隔に光っていて、どの階のどの部屋だったのか、もう見分けがつかなかった。
スマホが震えたのは、駅に向かって歩き出してすぐだった。父からの電話だった。
「渡せたか」
「ああ、渡した。ちゃんと受け取ってもらえた」
「そうか。何もなかったか」
「別に。何もないよ」
嘘ではなかった。何も起きてはいない。ただ説明できないものが、体の奥に残っているだけだ。
「なら、いい」
通話が切れた後も、瀬名はしばらくスマホを握ったまま歩道に立っていた。
あの声も、この部屋の空気も、俺はどこかで知っている。
思い出せそうで、思い出せない何かが、指先にまだ引っかかっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、瀬名の記憶をどこまで見せてどこで止めるかにいちばん時間を使いました。紙コップの温度や声のトーンだけ書いて、顔や名前には触れない。書いている側は答えを知っているので、つい説明したくなる誘惑と何度も戦いました。
斜めに差す光を回想の出入り口にしたのは、後から思いつきました。最初は匂いを使うつもりだったのですが、会議室という無機質な場所には、光の筋の方が似合う気がして差し替えました。
棚倉が最後に瀬名の顔を見ずに出ていく場面は、彼にしては珍しい行動です。本人はきっと、自分が動揺したことにさえ気づいていないと思います。次話では両家の顔合わせが控えていて、今回芽生えた違和感が、また少し違う形で顔を出すはずです。よろしければ引き続きお付き合いください。




