第10話: あの頃の断片
約束の夜は、思っていたよりあっさりとやってきた。
あれから四日、瀬名は暇さえあれば七年前の記憶を手繰ろうとした。スマホに保存した集合写真を何度も見返し、あの部署の内装、廊下の匂い、エレベーターの停止音——思い出せそうで思い出せないものばかりが、頭の中で空回りした。棚倉から連絡はなく、瀬名は焦れったさを抱えたまま日々の仕事をこなした。
金曜の夜、棚倉は珍しく定時で帰ってきた。夕食の後片付けを終えると、リビングのテーブルにマグカップを二つ並べた。
「話す、と言ったので」
それだけ言って、棚倉はソファに座った。瀬名は向かいに腰を下ろしながら、喉の渇きとは違う緊張で、マグカップの取っ手を意味もなく指でなぞった。
「七年前、私はまだ係長でした。あなたは研修出向で、うちの生産管理部に配属されてきた」
棚倉の声は、いつもと同じ淡々とした調子だった。だがその奥に、慎重に言葉を選んでいる硬さがあった。
「ある夜、あなたは一人で残業していました。前日の入力ミスで、在庫データを一からやり直す羽目になって」
瀬名は記憶を探ったが、具体的な夜のことは何一つ浮かばなかった。ただ、聞いているうちに、体のどこかが勝手に緊張していくのが分かった。
「コピー機だけが動いている、静かなフロアでした。あなたはミスをした自分を責めるように、休憩も取らずに端末に向かっていた」
コピー機の音。瀬名の中で、断片の一つが小さく震えた。
「私は最後の見回りで、たまたまそのフロアを通りました。声をかけるつもりはなかった。ただ、放っておけなかった」
棚倉は一度言葉を切り、マグカップに目を落とした。
「デスクの明かりだけが点いていて、あなたの横顔に、廊下の非常灯の光が斜めに差し込んでいました。今でも、あの角度をよく覚えています」
光の角度、と棚倉は繰り返した。瀬名がこれまで何度も口にしてきた言葉と、寸分違わない表現だった。同じ夜を、二人がそれぞれ別の場所から覚えていたのだと、そのとき初めて実感した。
「自販機で買った緑茶を、紙コップに入れて渡しました。マグカップなど、そこにはなかったので」
紙コップ。この間、疲れて眠り込んだ自分に棚倉が差し出したのと同じ言葉が、七年越しに答え合わせをするように重なった。
「あなたの肩に、根を詰めるな、と言いました」
棚倉の声が、そこだけわずかに低くなった。敬語ではあったが、その一言だけ、他の言葉とは温度が違って聞こえた。
「あの時、係長という立場も忘れて、素の口調が出てしまった自覚があります。年下の出向社員に、あんな言い方をするべきではなかった」
「……それが」
瀬名の声も、掠れていた。
「それが、俺の記憶にずっと引っかかっていた、あの声ですか」
「そうです」
断定だった。迷いのない、はっきりとした肯定。
光の角度。コピー機の音。紙コップの感触。低い声。すべての断片が、今この瞬間、一つの夜に収束していく。七年間、名前も顔も持たなかった記憶が、ようやく輪郭を持って像を結んだ。
瀬名は自分の手が、わずかに震えているのに気づいた。
「なんで、そんな昔のこと、覚えてるんですか」
やっと絞り出した問いに、棚倉は少し困ったような顔をした。彼にしては珍しい表情だった。
「あの夜だけではありません。ミスをやり直した後、あなたは誰にも言わず、二週間かけて再発防止の手順書を自分で作っていました。頼まれてもいないのに」
「そんなの……別に、当たり前のことだと思ってただけで」
「当たり前と思ってやれる人間は、多くありません」
棚倉はまっすぐに瀬名を見た。
「半年の出向期間、私はずっとあなたの仕事ぶりを見ていました。声をかけたのは、あの夜の一度きりでしたが」
「一度きりで、七年も覚えてたって言うんですか」
「一度きりだから、覚えているんだと思います」
その言い方に、瀬名は返す言葉を失った。
「他にも、覚えてることあるんですか」
瀬名が尋ねると、棚倉は少し記憶をたどるような間を置いた。
「あなたは昼休みも、よく資料室で図面を読んでいました。頼まれた仕事以外の範囲まで、自分から手を伸ばしていた。誰かに評価されるためではなく、単に気になるから調べる、という顔をしていました」
「そんなの、ただの物好きです。工場育ちなんで、気になったものを放っておけない性分なだけです」
「その物好きさが、私には眩しく見えました。私は生まれた時から後継者としての役割を背負って育ったので、興味と義務の区別が、あなたほどはっきりしたことがなかった」
棚倉の声は淡々としていたが、その内容は、瀬名がこれまで一度も聞いたことのないものだった。次期社長として完璧に振る舞う棚倉の裏側に、そんな迷いがあったとは想像していなかった。
「じゃあ、俺との結婚話が出た時、棚倉さんは」
瀬名は思い切って踏み込んだ。
「動揺した、と言えば正確でしょうか。あなたの名前を見た瞬間、忘れていたはずの声や光景が、一気に戻ってきました。縁談の書類を前に、しばらく指一本動かせませんでした」
瀬名は、初めて聞くその話に言葉を失った。写真の中の自分を見つけて動けなかったのと同じことを、あの日、棚倉もどこかでしていたのかもしれない。二人の時間の流れ方は違っても、驚きの質だけは似ていたのだと思うと、不思議と気持ちが軽くなった。
次期社長として、常に完璧に振る舞ってきたはずの棚倉が、たった一枚の書類に指を止めていた。その姿を想像するだけで、瀬名は妙にくすぐったい気持ちになった。
「それだけ、ですか」
棚倉は一瞬、視線を落とした。マグカップの湯気を見つめる横顔に、何か言い淀む気配があった。
「……いいえ」
短い否定だった。
「出向の最後の頃に、もう一つ、あなたの知らない出来事があります。ですが、それはまだ話せません」
「なんで」
「話せば、あなたはこれまでとは違う目で、私を見るかもしれない。それが、良い方に転ぶのか悪い方に転ぶのか、私にはまだ判断がつかない」
棚倉らしい、慎重すぎる言い方だった。
「はぐらかされてる気分です」
「はぐらかしているんだと思います。正直に言うと」
珍しく、棚倉が自分から非を認めた。その素直さに、瀬名はかえって毒気を抜かれた。
「じゃあ、いつなら話せるんですか」
「分かりません。あなたが、私をもう少し信じられるようになった時か。あるいは、私自身がもう少し覚悟を決められた時か」
曖昧な返事だったが、そこに嘘の匂いはしなかった。瀬名は苛立ちよりも、その慎重さの奥にある何か——恐れのようなもの——に気づいて、それ以上は聞かなかった。
「分かりました。今日は、ここまでで十分です」
瀬名がそう言うと、棚倉はわずかに肩の力を抜いたように見えた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないです。ただ……」
瀬名はマグカップを両手で包んだ。中身はもうすっかりぬるくなっていたが、それでも手放す気にはなれなかった。手のひらに残るわずかな温もりが、七年分の時間の重さを、今さらのように教えてくる。
「七年前、名前も知らない誰かに助けられた気がしてたのが、ずっと棚倉さんだったって分かって。それだけで、今は十分です」
棚倉は何か言おうとして、結局何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、瀬名を見ていた。
自室に戻ってからも、瀬名はしばらくベッドに座ったまま動けなかった。
七年間、誰のものか分からなかった声に、ようやく持ち主の名前がついた。それだけで、胸のどこかが軽くなった気がする。だが同時に、棚倉が言い淀んだ「まだ話せないこと」の重さが、新しい不安として胸の底に残った。
良い話とは限らない。棚倉があれほど慎重になるということは、それだけ扱いに困る何かなのだろう。分かっていても、聞かずにはいられない自分がいる。知ることが怖いのに、知らないままでいることの方がもっと怖い——そんな矛盾した気持ちを、瀬名は持て余していた。
契約結婚のはずだった、という言葉を、瀬名はもう自分に言い聞かせなくなっていた。いつからそうなったのか、はっきりとした境目は思い出せない。ただ、七年前の声に名前がついた今、後戻りできる場所はもうどこにもない気がした。
スマホを開き、康平に電話をかけようとして、指を止めた。今はまだ、誰にも話せる形をしていない。自分の中で、もう少し言葉にできるようになってから話そう。そう決めて、瀬名は画面を閉じた。
翌朝、リビングのテーブルには、昨夜のまま誰も手をつけていないマグカップが二つ、並んで残されていた。片付けることさえ忘れるほど、あの夜の会話は二人の頭を占めていたのだろう。七年前は紙コップ一つだったものが、今は二つのマグカップになっている。その変化だけが、二人の間に確かに積み重なった時間を、静かに語っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アーク二話目です。第4話・第8話・第9話と積み重ねてきた記憶の断片(光の角度、コピー機の音、紙コップ、低い声の「根を詰めるな」)を、ついに棚倉自身の口から答え合わせする回にしました。断片が像を結ぶカタルシスと同時に、「まだ話せないことがある」という新しい謎を置くことで、7年前の全体像そのものはまだ先(第16話予定)に取っておく構成です。
ラストのマグカップ二つは、7年前の紙コップ一つとの対比として置きました。使い捨ての紙コップから、二人分揃った定住のマグカップへ——関係が育った時間の長さを、物の変化だけで語れないかという試みです。
棚倉が「話せない」と言った出向終盤の出来事が何なのか、よろしければ引き続きお付き合いください。




