第11話: 結婚を利用する人たち
週に一度の本社訪問も、四回目になると勝手が分かってくる。
生産管理部の課長との打ち合わせを終え、瀬名はエレベーターホールで腕時計を見た。予定より二十分早い。この分なら、夕方までに工場に戻って田村の作業を見られる。
そう考えていたところに、背後から声がかかった。
「瀬名くん。少し、時間をもらえますか」
振り返ると、総一朗が立っていた。秘書もつけず、一人だった。
「……副会長」
「昼はまだでしょう。付き合ってください」
断れる声色ではなかった。エレベーターは、瀬名が来た方向とは逆——役員フロアへ向かうボタンを、総一朗がすでに押していた。
通された個室は、社員食堂とは別棟にある役員用の食事処だった。物腰の柔らかい仲居が膳を運び、下がっていく。二人きりになると、総一朗は箸を取る前に、静かに切り出した。
「玲司には、まだ話していません。今日はあなた一人に、聞いてほしいことがあった」
瀬名の箸を持つ手が、わずかに止まった。棚倉を通さずに自分だけを呼び出す——その一点だけで、嫌な予感が音を立てて形になっていく。
「両家の顔合わせの席で申し上げたことを覚えていますか。玲司のことをよろしく頼みます、と」
「覚えてます。あの後、副会長は棚倉さんに、後で少し話があるって」
「あれから何度か、玲司とは話しました。だが、あれの意思は変わらない」
総一朗は湯呑みに口をつけ、まっすぐに瀬名を見た。
「なので、あなたに直接話すことにしました」
「瀬名工業に、うちの資本を入れたい」
箸を止めたまま、瀬名は総一朗の言葉を頭の中で反芻した。資本。入れる。意味は分かるのに、自分の工場の名前と結びつかない。
「株式の一部を、棚倉グループが引き受ける形にする。取締役の枠も一つ、こちらから送らせてもらう。無論、経営に土足で踏み込むつもりはない。ただ、資本関係として結びついていれば、対外的に説明がつく」
「対外的に、って」
「株主の中には、こう考える者もいる。専務が、取引先の息子と結婚した。都合が良すぎる、と」
総一朗は淡々と続けた。
「情実人事、という言葉を、私は好みません。だが株主にとっては、耳当たりのいい懸念材料になる。玲司の結婚が単なる私情ではなく、株主にも利益のある資本戦略の一部だと示せれば、その声は静まる」
瀬名は、自分の顔から表情が抜け落ちていくのを感じた。
「つまり、俺との結婚を、そのための証拠にするってことですか」
「証拠、というと語弊がありますが」
総一朗は箸を置いた。
「もう結婚は成立している。今さら覆る話ではない。ならば、それを会社にとって最も有効な形にするのが、私の仕事だと思っています」
「棚倉さんは、それでいいって言ってるんですか」
「言うわけがない。あれは昔から、瀬名くんを『使う』という発想自体を嫌う」
総一朗の口元に、初めて小さな笑みが浮かんだ。
「だからこそ、あなたに直接話しました。玲司を通せば、話す前に潰される」
その言い方に、瀬名は喉の奥が冷たくなるのを感じた。棚倉を飛び越えて、自分だけを丸め込もうとしている——そう気づいた瞬間、体の芯にこれまでにない怒りが灯った。
「父の工場は、うちの家族と、そこで働いてる三十人のものです。俺の結婚を理由に、勝手に線を引かないでください」
「勝手にとは思っていません。瀬名工業にとっても、資本が入れば安定する。今の依存度のままでは、いずれ立場が弱くなる一方だ」
その指摘は、正しかった。正しいから、余計に苛立った。
食事処を出た瞬間、廊下の窓から差し込む光がやけに白く見えた。エレベーターを待つ間、瀬名はスマホを取り出し、康平に電話をかけた。
「悠斗か。どうした、こんな時間に」
工場の稼働音が、電話の向こうで低く唸っている。瀬名は声を落として、総一朗から聞いた話をかいつまんで伝えた。
しばらく、康平は黙っていた。
「……資本、な」
「父さん、どう思う」
「正直に言えば、悪い話じゃない。取締役に一人送られるくらい、うちみたいな小さい会社にはよくある条件だ。それで安定するなら、山口や田中の生活は守れる」
康平の声には、迷いがにじんでいた。
「けど、悠斗との結婚を理由にされるのは……お前を、材料にされてるみたいで、俺は嫌だ」
「父さんのせいじゃないよ」
「いや、俺がお前に結婚を頼んだから、こういう話が出てくるんだ。分かってる」
康平の声が、少し掠れた。瀬名は何か言おうとしたが、うまい言葉が出てこなかった。
「今日はもう遅い。ゆっくり考えよう。棚倉さんには、ちゃんと話すんだぞ」
「うん」
電話を切った後も、瀬名はしばらくエレベーターホールに立ち尽くしていた。父の声の掠れ方が、耳の奥に残っていた。
その夜、棚倉が帰宅したのは、いつもより一時間早かった。玄関で靴を脱ぐ音を聞いた瞬間、瀬名はリビングのソファから立ち上がっていた。
「棚倉さん。話したいことがあります」
「……何かありましたか」
瀬名の声の硬さに、棚倉はネクタイを緩める手を止めた。瀬名は、今日あったことを順に話した。総一朗に呼び出されたこと。資本参加の提案。株主の懸念。棚倉には話していないと総一朗自身が言ったこと。
話し終えるまでの間、棚倉は一言も挟まなかった。ただ、話が進むにつれて、その顔から表情が抜け落ちていくのが分かった。
「……伯父が、あなたに直接」
棚倉の声が、初めて低く沈んだ。
「私を通さずに」
「はい」
「いつ、その話を」
「今日の、昼です」
棚倉はしばらく黙ったまま、拳を握った。指の関節が白くなるのを、瀬名は見た。
「申し訳ありません」
「棚倉さんが謝ることじゃないです」
「いや、謝る話です。伯父が、あなたを一人で呼び出すような真似をすると分かっていながら、対策を怠っていた」
棚倉の声が、そこでわずかに揺れた。
「あなたを、資本の話の材料にするなど、絶対に許さない」
敬語のまま、語尾だけが少し崩れていた。瀬名はその声の変化に、思わず息を止めた。
「俺、正直……最初、疑いました。棚倉さんが知ってて、黙ってたんじゃないかって」
「疑われて当然だと思います」
棚倉はまっすぐに瀬名を見た。
「私は、あなたとの結婚を、会社の道具にしたことは一度もない。これからもするつもりはない。それだけは、信じてほしい」
「……信じてます」
瀬名は自分でも驚くほど、迷いなくそう言えた。総一朗の話を聞いた直後は不安でいっぱいだったのに、棚倉の拳の白さを見た瞬間、その不安の大半は消えていた。
「伯父には、私から話します。父の工場の株のことも、あなたの意思のことも、伯父の思う通りにはさせません」
「でも、資本が入れば安定するのも、本当なんですよね」
「安定と引き換えに、あなたやお父様の意思を無視するような形は取らせません。もし本当に資本提携が必要になる時が来るとしても、それはあなた方が選ぶことです。伯父が勝手に決めることではない」
棚倉の口調は、いつもの丁寧さを取り戻していたが、その奥に、これまで見たことのない強さが残っていた。
「父さんが言ってました。俺を材料にされてるみたいで嫌だ、って」
「康平さんの気持ちは、よく分かります」
棚倉はソファに座り直し、少しだけ肩の力を抜いた。
「私も、同じ気持ちです」
その一言だけで、瀬名は胸のどこかが軽くなるのを感じた。総一朗の言葉が正しいかどうかより、棚倉が自分と同じ側に立っているという事実の方が、今はずっと大きかった。
「明日、伯父に会いに行きます。あなたは工場のことに集中してください」
「一人で行かせて、大丈夫なんですか」
「大丈夫です。これは、私の役目なので」
棚倉はそう言って、初めてわずかに口元を緩めた。いつもの無表情とは違う、疲れの滲んだ笑い方だった。
その夜、瀬名は自室のベッドに座ったまま、康平の掠れた声と、棚倉の白くなった拳を、交互に思い出していた。
総一朗の提案は、間違ってはいない。会社にとって、正しい選択かもしれない。だが正しさだけでは測れないものが、自分にも父にも棚倉にもあることを、今日初めて実感として理解した気がした。
結婚を、経営の道具として使おうとする人間がいる。そのことに傷つく自分がいるということは——もう自分の中で、この結婚は道具でも契約でもなくなっているのだと、瀬名は今さらのように思い知った。
総一朗が退けば、この話は終わるのだろうか。そうは思えなかった。株主の懸念も、瀬名工業の依存度も、消えてなくなるわけではない。棚倉が伯父を止めても、根にある問題は、まだそこに残ったままだ。
スマホの画面には、康平からの短いメッセージが一件届いていた。
——明日は無理するな。工場のことは、俺が見ておく。
その短い言葉に、瀬名はしばらく画面を見つめたまま、返信の言葉を探し続けた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アーク三話目です。第5話で総一朗が玲司に残した「後で少し話がある」という台詞を、六話越しに、今度は瀬名本人へのアプローチという形で回収しました。総一朗は私利私欲ではなく経営者としての大義で動くタイプの悪役として設計しているので、今回も「間違ってはいない」提案をぶつけてくることを意識しました。正しさだけでは測れないものがある、というのが今回のテーマです。
棚倉が拳を白くするほど怒る場面は、これまで「崩れ=感情の証拠」をあまり多用しないよう抑えてきた分、ここぞという場面で使いたかった一箇所です。敬語を保ったまま語尾だけ崩れる、という抑制の効いた怒り方に、彼らしさを込めました。
康平の「材料にされてるみたいで嫌だ」という台詞は、書いていて一番苦しかった箇所です。息子に結婚を頼み込んだ罪悪感を抱え続けている康平にとって、この提案がどれほど重いものか、短い電話の中に込めたつもりです。
瀬名工業の資本問題は、この先も静かに尾を引きます。よろしければ引き続きお付き合いください。




