第12話: 大口案件のトラブル
生産管理部の打ち合わせ室で、スマホが震えた。
画面に「父さん」の文字を見た瞬間、瀬名は嫌な予感で背筋が冷えた。康平が仕事中にかけてくることは、めったにない。
「すみません、少し外します」
課長に断って廊下に出る。応答するなり、康平の声がいつもより一段低く、早口だった。
「悠斗。東海精工から、さっき連絡があった」
東海精工。二年前の主要取引先撤退以来、康平と瀬名が半年がかりで口説き落とした新規の大口先だった。棚倉グループ以外にも足場を作りたい——その一心で、ようやく先月、初回の量産ロットを納めたばかりだった。
「検品で、二百個のうち三十八個が公差から外れてた。〇・〇一ミリの話だ」
康平の声が、そこで一度詰まった。
「全ロット突き返すと言われた。良品に差し替えられなければ、契約自体を白紙にするとも」
白紙。その一言が、廊下の蛍光灯の下でやけに重く響いた。
「良品の納期は」
「今週いっぱいだ。無理な話だってことは、向こうも分かってる。だから、そう言ってきてる」
瀬名は打ち合わせ室のドアを見た。まだ資料が机の上に広げたままだった。だが今は、そちらに戻る余裕がなかった。
「今日中に戻る。父さん、それまで動かないで」
「悪いな。せっかくの本社の日に」
「工場の方が先だろ」
電話を切ると、廊下の窓から入る光が、いつもより白く見えた。
打ち合わせ室に戻り、資料を手早く片付けていると、廊下の向こうから大原が歩いてきた。瀬名の顔を見て、足を止める。
「瀬名様。顔色が優れないようですが」
「実家の工場で、ちょっと。すみません、今日はもう戻ります」
大原は一瞬だけ瀬名を見つめ、それ以上は聞かなかった。
「専務にお伝えしておきましょうか」
「いえ——まだ、大丈夫です。自分たちで、何とかしてみます」
言い終えてから、瀬名は自分の言葉に小さく引っかかった。まだ、という一言に、迷いがにじんでいる気がした。
「承知しました。ですが、抱え込みすぎないようにしてください。専務は、瀬名様が思っている以上に、目ざとい方なので」
大原はそれだけ言って、軽く頭を下げた。その言葉の意味を考える余裕もないまま、瀬名は本社を後にした。
在来線に揺られながら、瀬名は車窓を流れる景色をぼんやり眺めていた。
東海精工との契約が決まった日のことを思い出す。半年がかりで通った営業、先方の品質管理担当者に何度も頭を下げた康平、初回ロットの見積もりが通った夜に二人で分け合った缶ビール。棚倉グループ以外の足場を作れば、いつか対等な立場でものを言える日が来る——そう信じて積み上げてきた時間が、今この一本の電話でひび割れかけている。
電車が揺れるたびに、〇・〇一ミリという数字が頭の中で膨らんでいく。目には映らないほどの狂いが、三十人の生活を左右する重みに化ける。この仕事に戻ってから何年経っても、その理不尽さにだけは慣れなかった。
工場が近づくにつれ、窓の外に見慣れた煙突と看板が見えてくる。瀬名は鞄の持ち手を握り直し、電車を降りた。
工場に着くと、検品エリアの一角に、返送されたクレートが積み上がっていた。
三号機の前で、田村が肩を落としていた。
「瀬名さん……すみません」
「お前のせいじゃない」
「でも、あの夜のロット、俺が仕上げ担当だったんで」
田村の手には、はじかれた部品が一つ載っていた。指先で挟んで光にかざすと、素人目にはどこも違わないように見える。だがマイクロメーターの針は、確かに公差の外側を指していた。
「先週、棚倉さんとこの分と、東海精工の分、両方いっぺんに三号機で回してましたよね」
「ああ」
「機械、熱持つの早くなってたんです。俺、気づいてはいたんですけど、間に合わせるのに必死で」
瀬名は三号機の側面に手を当てた。まだかすかに温かい。十五年選手のこの機械は、半年前にベアリングを交換したばかりだが、根本的な老朽化までは直っていない。二社分の受注を同時にこなす負荷には、もう耐えられなくなっていた。
「無理させたのは、俺と父さんの判断だ。田村のミスじゃない」
「頼りにしてる、って言ってくれた瀬名さんに、こんな結果しか返せなくて」
田村の声が、初めて掠れた。瀬名は何も言えず、ただ田村の肩を軽く叩いた。
周りの機械の音が、いつもより気になった。隣のラインで作業する五十代のベテラン職人も、こちらをちらちらと窺っている。声には出さなくても、工場全体がこの一件の重さを分かっているのが伝わってきた。
「他のやつらには、俺から話す。田村は、良品作りに集中してくれ」
「……はい」
田村がうなずく。油と金属の匂いに混じって、いつもより機械の唸る音が大きく聞こえた。
事務所の応接室で、康平は古いソファに座り、電卓を睨んでいた。
「良品を作り直すとして、二百個分、三号機だけじゃ間に合わない」
「四号機は」
「棚倉グループさんの分で、来週まで埋まってる」
瀬名は帳簿を開いた。数字の意味は、以前の中央製作所との値引き交渉で嫌というほど叩き込まれている。東海精工の契約が白紙になれば、今期の売上見込みは大きく崩れる。かといって棚倉グループの発注を遅らせれば、あちらとの信頼にも傷がつく。
「土曜も動かせば、間に合わなくはない」
「田村たちに、土曜出勤を頼むのか」
「頼む。手当は、俺の判断で上乗せする」
康平の声には迷いがなかった。だがその迷いのなさの裏に、これ以上ないほどの焦りがあることを、瀬名は誰よりも分かっていた。
「棚倉グループさんの分、少しだけ納期をずらしてもらえたら、機械に余裕ができるんだが」
康平がぽつりと漏らした一言に、瀬名は答えられなかった。
その選択肢は、ある。棚倉に頼めば、きっと動いてくれる。だが今それをすれば、結婚を使って発注元に便宜を図らせたことになる。総一朗が持ちかけてきた資本の話と、根っこは同じだ。
「それは、最後の手段にしよう」
瀬名は帳簿を閉じた。
「悠斗」
康平が電卓を置いた。
「お前が本社に通うようになってから、正直、少し楽になった気がしてたんだ。棚倉さんのおかげで、うちも助かってる、って」
「父さん」
「それが今度は、こっちの独り立ちのための案件で、こんなことになる。皮肉なもんだな」
康平は自嘲するように笑ったが、その目は笑っていなかった。
「田村たちには、俺から土曜出勤の話をする。お前は、東海精工との窓口を頼む」
「うん」
瀬名は立ち上がり、事務所の窓から工場のフロアを見下ろした。三十人分の生活が、この一週間の作り直し次第で揺れている。棚倉に頼れば早い。分かっていても、その選択肢に手を伸ばす気にはまだなれなかった。
その夜、瀬名は工場に一人残り、返送されたクレートを整理していた。田村も康平も、日付が変わる前には帰らせた。土曜からの作り直しに備えて、今のうちに休める人間は休ませておきたかった。
誰もいない工場は、いつもより広く感じられた。機械の唸りが止まった後の静けさに、換気扇の音だけが規則正しく響いている。はじかれた部品が、蛍光灯の下で無造作に光っていた。〇・〇一ミリの狂い。目には見えないその差が、会社の存続を左右しようとしている。
部品を一つ手に取り、指先で挟んでみる。研磨された表面は、素人目にはどこまでも滑らかで、正しく見えた。正しく見えるものほど、狂いは見抜きにくい。そう思うと、この一週間、自分たちが積み上げてきたものすべてが、急に頼りなく思えてきた。
スマホが震えた。
「今日、本社に来なかったと大原から聞きました。何かありましたか」
棚倉からの短いメッセージだった。瀬名は画面を見つめたまま、しばらく指を動かせなかった。
工場の状況を、そのまま打ち込みかけた。東海精工との契約が白紙になりかねないこと。田村が自分を責めていること。康平と二人で、土曜返上で作り直す計画を立てたこと——打ちかけた文字を、瀬名は一度、すべて消した。
棚倉に頼れば、楽になる。それは分かっている。だが今この瞬間だけは、自分たちの力でどうにかしたかった。総一朗に「勝手に線を引かないでください」と言った自分が、真っ先に棚倉を頼るのでは、筋が通らない気がした。
結局、瀬名が送ったのは短い一文だった。
「大丈夫です。ちょっと工場が忙しくて」
嘘ではない。だが、本当のことでもなかった。
送信済みの表示を見つめたまま、瀬名は蛍光灯の下で山積みになったクレートに視線を戻した。〇・〇一ミリの狂いを抱えたまま、部品はいつまでも光り続けていた。
誰にも頼らずに、この光を正しい形に戻す。それができて初めて、対等な立場に一歩近づける気がした。根拠のない意地だと分かっていても、瀬名は今夜だけは、その意地にすがっていたかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アーク四話目です。第6話で登場した老朽化した三号機と、田村という若手職人が、今回の危機の中心になりました。伏線というほど大げさなものではありませんが、積み重ねてきた設定が形になって返ってくる感覚を大事にしたい回でした。
前話で総一朗から資本参加という形の「利用」を突きつけられた瀬名が、今度は自分の意志で棚倉を頼らないと決める——このねじれを書きたくて、ラストのメッセージのやり取りを一番時間をかけて書きました。誰かに使われることを拒んだ人間が、今度は自分から誰も頼れなくなる。そのしんどさが伝われば嬉しいです。
大原の「専務は、瀬名様が思っている以上に、目ざとい方なので」という一言は、次に何かが起こる予感として置きました。瀬名の隠しごとが、いつまで保つのか。よろしければ引き続きお付き合いください。




