恋したエルフ
「人間のお客さんをおもてなししたい!」――妖精の少女の無邪気な夢は、コーカサスを焼く残酷な戦争の炎に飲み込まれた。
私はマルヴァ! 北の大地に暮らすクラ。
昔の仲間は、多くが南にとどまり、さらに東へ移動した。けれど、私たちだけはこのコーカサス山脈で定住することを決めた。ここは果物が美味しい。人も穏やかで、歌と踊りを好んでいて、大好きだった。昔から人間と交流して、一緒に暮らしてきた。
村へ招待したし、呼ばれて行くこともあった。お祭りの時は、必ず子供たちで「星巡りの歌」を歌ってあげるならわしだった。私たちの光の魔法を、人間たちは喜んでくれた。どんなに大国が攻め入ろうと、山奥だけはその直接の支配から逃れることができた。
コーカサス山脈が私たちへ寛容なのは、もっと不思議な生き物が存在するからだ。大きな翼、獅子の身体、鷲の頭を持つクルシャという種族だ。そして竜も、雷の神セラとともに現れる。天馬のラシに、ヤギの角を持った自然の神オチョたち。この山岳は多様で豊かだ。一言でクルシャやラシと言っても、いろんな種類がいた。小さいのから大きいのまで。私たちクラは果物しか食べなくて、彼らも私たちを食べないので、人間以上に結びつきが強かった。
アハーティス! 大切な幼馴染。名前を呼ぶと来てくれるし、アハーティスの助けを呼ぶ声が聞こえると、クラたちみんなで駆けつけた。
私たちが動物や精霊たちと親しいとはいっても、アハーティスほど近づくことはできない。私はアハーティスの背にのせてもらって、コーカサスの高い峰々を飛んで、クルハ、ディアウヒ、スヴァンの人々と交流した。その子孫たちと私たちは仲良くした。恐ろしい竜グヴェラシャピには出会わないよう、お昼間だけ。お祭りの日を知らせに山を降りる。一人前の情報伝達のお仕事気分だった。まだ小さいのに偉いねと、人間たちから褒めてもらえて鼻高々である。ただ、仲間のクラはあんまり良く思ってくれていない。神聖な精霊を乗り物にするなんてって。
私とアハーティスは、同じ木のうろで生まれた。クラは光から、クルシャは樹液から生まれる。特殊だけど、きょうだいとして扱われた。
私の夢は、大きな目標ただ一つ。山の裾野にお店を作ること! 名前も決めてあるんだ。瑪瑙の宿。賑わうかな、旅の客を泊めてあげるんだ。傷ついた人たちの宿にしたい。温泉のそばがいい。
私の大きな夢を叶えるために、アハーティスと端材をかき集めた。人間が切った木は、精霊が悲しんでいるのでとても触ることはできない。だから、浜辺へ行って、流れ着いた板を拾う。腐食してるけど使えるものは全部使う。ボロっちいけど、私の隠れ家は完成したんだ!
道具も作り方も分からないので、人間の大工さんを訪ねた。トンカチはおもすぎて、私に扱えなかった。だから、木を組んで建てる方法を教わった。それから、お庭には、魔法のお花をいっぱい咲かせるんだ! これからの話!
なんて、人間の真似事なんかして上手く行くはずないってクラたちは言う。カズベキ山の近くの森が、私の仲間の暮らす場所だ。みんなしずしずと、修道士みたいに、厳かに時を過ごす。私はそんなのゴメンだった。だから、人間の真似をしていた。
「アハーティス、どう思う?」
すると大鷲はグルルと鳴いて、首を傾げた。くちばしを開いて、ぱくっと食らいついてきた。
「あはは、やめてよアハーティス! お腹が空いたの? ハチミツでも食べてきたら?」
バッサバッサと大きな翼をうならせて飛び立った。いいなぁ、あんな鳥のような羽。こう縦に大きくふるのかな? むりむり! いてて。
私はヨダレを洗いに川へ向かった。あれ? なんだかいつもと違う……。
パァン! と耳に痛い音がした。山にこだまする。何? 何?
ドカッドカッと馬の蹄の音がした。私は慌てて茂みに隠れた。
「このあたりにイダがいたぞ! 命中した! 私の腕は確かだからな!」
「本当にそんなのがいたのか? 鷲の間違いじゃないのか?」
鉄砲を持った男が二人、崖の上にいた。
「誇り高い鷲を撃ったとしたら、罰当たりだ。人食い鷲の王イダに違いなかった」
アハーティスが人を食う? そんなばかな。戦闘服を着た若い男が、馬を降りて、崖の先端から遠くを見渡した。
「ロシア人でもいそうだ。帰ろう、アミル」
ブールカというマントを着た、でっかい人が声をかけた。
「……何もいないな……大きな生き物だから、すぐに分かると思ったのに。拠点へ戻るか、ハジ」
服装と言葉から察するに、このへんの人たちだ。北東の人たちかな……あんまり山を超えたことがないから、分かんないや。なんて言ってるんだろう。友達になれる……はずだけれど……。どうしてアハーティスを撃ったの? クルシャに乗って飛び回る私のことを、山の南で知らない村人はいない。北からやって来たんだ。南の人々が常に恐れる、イスラームの人間たち。
「ねえ」
私は崖の上の男に声をかけた。惜しいことに、向こうから私の姿は見えない。見えたらイチコロなのになぁ!
「誰だ……カルトリの言葉だな」
男は驚いたようだった。
「どうした、アミル」
「今、カルトリ人の子供の声がした」
「まさか! こんな断崖絶壁で? ロシア人の罠かもしれない。行くぞ」
「しっ……」
私の言動に耳を澄ます気配。そんなに、珍しいのかな?
「あなたたち、どこから来たの? なぜ、攻撃したの? 今のは、本当にあたったの?」
アミルと呼ばれる男が答えた。
「そうだよ、でも君に危害を加えるつもりはなかったんだ。側で撃ってごめんよ。出てきてごらん」
へんなの、大きな人間がおどおどしてる。私をみたら、きっと腰を抜かすな。精霊をしらないんだ。
「あなたたち、何をしに来たの?」
今は刺激しないように、会話しよう。そう耳打ちする声が聞こえた。聞こえた〜っ。
「私たちは、この地へ偵察に来たんだよ。悪い不信信者が私たちの氏族を脅かしているからね。君も気をつけてお帰り、早く」
悪い人? そんなのいるの? さっき言ってた、ロシア人かな?
ナントカ人って、ここの土地の人間はなんでも区別したがる。意味わかんない。もう多すぎて、人間はみんな一緒に見えるもん。
それより、この人たちは私のお店の最初のお客さんにならないかな。遠いところから来たようだし。
そうだ、さっきクルシャを撃ってたんだ。アハーティスが急に心配になってきた。
怪我してないといいけど。もうこんな人間にかまってらんないや。それっ
ガサッと下の森へ、小さな生き物の落ちる気配がした。アミルは疑問符だらけだった。
子供にしては、運動能力が高すぎる。人間じゃない? もしかして? お伽噺じゃあるまいし……まさか……。イダだって、ただの野獣さ。悪魔も天馬も、ましてや竜なんて存在するもんか、この帝国主義と戦争の時代に。
「帰ろう、ハジ。なんだったのかな……」
きらり、と森の中に光を見てアミルは思わず、目の前の大男ハジをおし倒した。
「ふせろ!」
「なんだなんだ」
しばらく沈黙が続いた。
「……望遠鏡に見えた……やはり、敵の罠だったか。卑怯者め……子供をつかうとは」
ちらちらとまだ光る何かがいる。そろりと伏せたまま崖から身を乗り出し、鉄砲を構えた。動きを止めた、しめたぞ。そのとき、バッサバッサと大きな羽音がして、大きな影で視界が暗くなった。
「アミル! 危ない!」
信じられないほど巨大な鷲の頭だった。
「うわっ! イダだ! 本当にいたのか!? わぁーっ」
怪物は男をくわえて、森の奥へと飛んで行った。
「アミルー! 増援よこすから無事でいろよー!」
遠くでハジが叫ぶ声がした。なんてこった、怪物にくわえられて空を飛んでいるぞ。木にぶつかり、枝に引っかかれる。服はよだれだらけになっている。くそっ民族の誇りなのに。
腰元に刺していた短剣を引き抜いた。そして目を狙って刺そうとした。しかし、アミルの意図はかなわず、大きなくちばしでぽいっと落とされた。天地が反転する。
「うわーっ」
ドボンと湖にはまってしまった。
「つめたい! この川つめたい!」
男はざばざばと泳いで川岸にすがりついた。クスクスと笑う声がした。
なんだろう、こんな山奥に子供? 頭がおかしくなったらしい。翅が生えているように見える……。それか、異界にでもまぎれこんだのか? 小さく美しい精霊が岸辺にいるぞ。
「ジニム……? 私はクラ。あなたはどこから来たの? 全然このへんの人と、似てるようで違う。ねえ、私の家へ来ない? おもてなし、してあげたい! そんな刃物すてて」
おしゃべりな精霊だ。
「まてまて、君は、このへんの子かい? 道を知らないか。北の山を超える道だ」
精霊はせわしなく男の周りを飛び回った。目に鱗粉が目に入って痛かった。
「帰らないで、帰らないで! お願い! あなた北から山を超えて来たの? だから変な言葉を話すのね! 私あなたをおもてなしする!」
やめてくれ、君のおかげで目が開けられないよ、男は振り払おうとして、刃物を持ったままの手をあげた。
「ひえっ」
精霊がびっくりして、林まで飛んで隠れてしまった。
男はキンジャールをしまい、素手で水をすくい顔を洗った。
「怖がらせてすまない。君は良いジニムなんだね。
あの大きな鷲はもしかして友達? 君を助けようとしていたんだね」
精霊は光る紫の羽を震わせて、そっと木の影から男を覗いた。
「もう傷つけたりしない?」
男は肩をすくめた。
「人間に危害を加えないなら、無駄な殺生はしないさ。あんな思いはもうごめんだ。人間同士でさえ敵対してるっていうのに。これ以上敵を増やしてどうする」
精霊はよく分からないという風に首を傾げて、少しだけ近づいてきた。
「誰と誰が戦ってるの? 何のため?」
男は胸を張って答えた。
「キリスト教徒とさ。これはジハードなんだ」
精霊はまだ分からない風だった。
「人間って同じ人間同士なのに、考え方が違うだけで殺し合うの? 昔っから不思議だった」
「問題はもっと簡単さ。ただの、領土争いさ。つまり、暮らしていくための場所とお金を奪われるから、抵抗しているんだ」
精霊はまた質問した。
「それってそんなに大事なこと?」
当たり前のことばかり聞くので、男は腹を立てた。
「君たちだって、今大鷲がしたように、身を守るために抵抗するじゃないか!」
しゅん……と落ち込んだのか、精霊は翅を下げた。
「友達になれないのね……残念」
男は立ち上がった。
「もういい、自分で道を探すさ」
ざぶざぶと川を出る男に、精霊の視線がまだ注がれている。後ろ髪引かれる思いがした。
「その……今私たちがしている戦争は、君たちと関係ないんだ。それだけは……分かってくれ」
精霊の翅がぴょこんと上がった。
「じゃあ、うちへ来てくれる!?」
もう夜の帳が降りようとしていた。ここは敵地。鉄砲無しでは辛い。胸元のポケットに入っている弾丸も役に立ちそうにない。
「仕方ない、私もノフチの男だ。助けてもらう代わりに、君ときょうだいになろうじゃないか。おもてなしされよう」
精霊は目を大きく開いた。夕闇にはえる虹色の瞳をきらきらとさせた。
「人間ときょうだいになれるなんて、クラではきっと私が初めてだ! 嬉しい! ようこそアルフヘイムへ! みんなに紹介してあげる! 私のきょうだいが増えたの!」
精霊の家はとても小さかった。苔むした板がはられただけの、ほったて小屋。貝殻や海藻がくっついている。海に打ち捨てられた難破船のようだ。船長が小さな角杯と、蒸した香草をお盆に載せて持ってきた。
「いいこと教えてあげる。オレガノはね、身体にこすりつけると、怪我が膿んだりしないんだよ」
「へえ、ありがとう。足を捻挫してるんだけど、それに効く薬草ってある?」
精霊は嬉しそうにクスクス笑った。
「痛くならない薬は分かんない。でも、ノコギリソウなら効くんじゃない? ほら、あっためてあるの」
小屋の中は香草の匂いでいっぱいだった。この山で採れるものの他にも、町で手に入るチャルハリ(ビーツ)や レハニ(バジル)、アジカ(トウガラシ入りトマトソース)まである。この土地の精霊は社交的らしい。
人間の習慣にならって、精霊がカンツィを乾杯させようと腕を伸ばした。
男も腕を組ませて、「ガウマルジョス!(勝利へ乾杯)」と言った。
「私が言いたかった! ガギマルジョス!(乾杯のお返しの言葉)」
カンツィの中の飲み物はワインではなかった。不思議な味がした。
「これは何?」
「赤色のアンゼリカと、クルミと、アルフヘイムで採れるキノコの飲み物」
変なものを飲んでしまった……。急に眠気に誘われて、男は今が夜更けであることを思い出した。
「迷惑でなければ、ここで眠らせてもらってもいいかな、精霊さん」
「もちろん! 瑪瑙の宿、宿泊客、第一号だよ! ほら、この干し草が寝る場所! ふだんはアハーティスが寝てる小屋だから、人間にはくさいかも」
確かに獣くさかった。でも、ないより良い。この無邪気で安全な、少なくとも天蓋のある場所で眠れるならどこでも良い。普段の行軍よりも豊かな気持ちだった。その小屋には、久し振りに家へ帰ったような安心感があった。
「眠れるように魔法の歌を歌ってあげる! 秋の星の、天馬の伝説を歌ったものなの。エウレシウスが世界を作った時、くじらを従えてた……」
その夜の月は遅くに昇った。月の側には天馬と、黄金の羊が煌めいていた。精霊の歌は、リーリーと鈴虫のように静かで、美しい声だった。
寝台で人間が眠ると、私はまじまじと観察してみた。高い鼻、彫りの深い、このへんの人たちらしい顔。でも言葉が違う。チョハもちょっと違う。どこから来たんだろう? 北の山の向こうには、恐ろしい人間がいるから行ってはいけないと祭祀たちが仰ってた。こんなに私のおもてなしを受けてくれた人間なのに、恐ろしいとは思えない。アハーティスにもてあそばれちゃってたの、おかしかったな。
そうだ、今の間にアルフヘイムへ戻ってみよ! いい人間だから許してって。
そっと離れようとすると、声をかけられた。びっくりして天井を壊すところだった。人間が目を覚ましていた。
「どこへ行くのかな、精霊さん」
「あっマルヴァ! 遅かったね、みんな心配してたんだよ」
友達が集まって、星の魔法で踊りながら質問した。
「ザフォラ、ごめんね! 今日はどうしても紹介したい人間がいるの!」
「人間だって!? 今日は交流の日でもないし、祭祀様の許可はまだでしょ? なのに、アルフヘイムへ連れてきて大丈夫なの?」
男が姿を現すと、精霊たちはざわめいた。男の耳には虫の羽音と、囁きに似た声しか聞こえなかった。ただ、魔法の光に目を奪われていた。光の点と点が、細い光の糸で結ばれて、図形になっている。またたきながら落ちて散る。見慣れた図形もあった。北斗七星、ふたご座、これは星座だ。さわさわと話をしていた精霊たちが、魔法をやめて、こちらをじっと見ていることに気がついた。
「やあ……えっと、カルトリの言葉なら通じるのかな? ガウマルジョバット(こんにちは)!」
目の前の精霊たちは一様に子供で、神話の時代のような服装をしていた。そして色とりどりの輝く翅をパタつかせていた。鱗粉が舞って幻想的だ。お伽噺の中へ入ってしまったかのようだ。
ここまで連れてきてくれた紫の翅の子が、通訳をしてくれた。子供たちが一斉に笑った。何を話してるんだ。そして質問攻めが待っていた。
「あなた、どこの人間?」
「北から来た、ほんと?」
「山、どうやって超えた? どうして?」
精霊が何か話しているのは分かるが、小さすぎて聞き取れなかった。何と答えたものか考えあぐねていると、紫の翅の子が、ぴりりぴりりと翅をこすれさせて、代わりに答えてくれた様子だった。身振りから察するに、湖で溺れていたところ助けたことになっているのと、食事をふるまったことへの自慢と、喜んでもらえたことへの自慢と、大鷲に襲われて慌てていた間抜けな人間、といったところか。
「なあ、君。誇張してないか?」
「ほんとのことだもん! 私の名前は君じゃないよ! マルヴァ。こっちは友だちのザフォラ、イァセミー、そのお姉さんのミルティア、ガキ大将のガイドゥラガソ、魔法が一番上手いアネモーニ、それから……」
男は次々と紹介する精霊に困惑した。本当に元気な子だ。精霊がこんなに社交的だったとは。もっと閉鎖的なのかと思っていた。
マルヴァの指し示す方向にいる精霊が、次々と精霊のならわしで挨拶をした。右手を額に当てて、翅を下に下げる動作だ。それが挨拶だと分かるまで、何人か過ぎてしまった。
「精霊の言葉でよろしくってなんて言えばいいんだ?」
カサカサカサ、とマルヴァは翅を擦らせるだけで言葉を口にしなかった。だめだ。男は腰の刀を抜き、足元へ水平に置いた。これより先には進まないという意思表示だ。刃物を出したためか、精霊たちが少し緊張した風なので、悪い気がした。片手を額に当てて、カルトヴェリ語で挨拶することにした。
「ヅァリアン サスィアモヴノア(お会いできて嬉しいです)」
同じ返答が大勢から返ってきた。良かった、通じた。精霊の土地とはいえ、山の向こうでは一応、カルトリ語が公用語らしい。
「ねえ、私たちの魔法を見てくんない? せっかくの夜だもの! ほら!」
マルヴァは剣を飛び超えて、男の腕を引っ張った。そして柳の木の下に座らせた。
「魔法の歌? さっきの君の歌じゃなくて?」
「ちょっと違う。ていうか、全部の星の歌なの。とにかく聞いてみて!」
マルヴァは子供たちの元へ飛んでゆき、それから光を指先に灯した。光をぱあっと降らせて、その下で踊った。精霊たちは陽気な性格のようだった。マルヴァに続いて一人、また一人、光の下で舞い始めた。やがて全員が星を生み出し、宙に浮かばせて、回転させた。それは大きな天体図だった。踊りとともに変化する天球儀だ。そして、東から昇る星に沿った歌を歌った。ひゅーと風が吹くような静謐な音。マルヴァが側に来て、通訳してくれた。
男もまた、感謝をこめて一緒に踊ることにした。足の親指だけで器用に立ち、胸に手を当てて、四方へお辞儀をした。マルヴァも飛び上がって、天球儀のてっぺんで宙返りした。星が散って、地に落ちて輝く。マルヴァが両手をとろうとした時、すっと男は離れた。
「私の国では、女性は月、男性は太陽を模して踊る。決して触れ合ってはいけないんだ」
「そうなの? 性別で違いがあるなんて不思議! カルトリもメグレリも、スヴァンもそう。人間って変なの。あなたの踊りは微妙に違うのね! 南の人はそんなふうに、腕を前と後ろ、交互に動かさないもん」
「それから、アッサーとも言う。我が誇りをあなたに、という意味だ」
「アッサー?」
「そう、アッサー!」
星巡りの歌が、男の見たことのない南方の物語を紡ぎ始めた。北天の回転は徐々に見えなくなり、オリオンが逆さになり、さそりと天秤の下から新しい星が生み出された。
「あれはケンタウロス。知ってる? この山にもいるんだよ。昔っから私たちの友達」
男は新たな星図に心を奪われた。精霊たちは、この世界の南の彼方まで行ったことがあるのか。
遠くスペインやイングランドが、新大陸へゆき、さらに地球を何周も航海しているとは聞いていた。しかし、精霊たちの星図はそれと違う。もっと、人智を超えた記憶がなせる何かの結晶だ。
「……すごい」
いつの間にか踊るのをやめていた。不意に、星図がパンッと光を散らして消えてしまった。霧の向こうから、大きな精霊がぞろぞろと姿を表した。大人たちだ。子供達はお互いにざわめいている。大人たちのうちの一人が、険しい表情をしていた。
マルヴァは急いでその、鈴のついた杖を持った精霊の元へ飛んで行った。訳を説明しているようだった。杖をついて、大人の代表らしき精霊が男へ声をかけた。驚いたことに、ノフチの言葉だった。抑揚のない低い声が、静まった一同に響いた。
「隣人よ、あなた方は今戦争をしている。我々を巻き込むのは止めてほしい。今すぐ出てゆきなさい」
そして、ローズマリーの枝を水に浸し、男へ向けた。マルヴァが飛び降りて、振りかけられるのを防いだ。ピイピイと翅のこすれる音。説得している。それでも、大人たちの代表は枝を降ろさなかった。男は急に手を引かれて、つんのめった。マルヴァが逃げようと引っ張っていた。
「きて! きて! はやく!」
ピィーッと大人たちの翅の鳴る音。耳がキンキンした。男は音から離れるように、その場から逃げ出した。マルヴァも一緒だった。霧のたちこめた森をひた走る。抜けたと思えばまた、精霊たちの元へかえってきた。これは魔法の霧なんだ。
「人間よ、あなたはその子へ呪いをかけた。忘れさせなければ、その子は死ぬ。お前がアルフヘイムを覚えて北へ帰れば、我々にも危害が及ぶ」
精霊の長が静かに、凛とした口調で言った。
「この子が死ぬ? 私が呪いをかけた? まさか! 魔法なんて、今日初めて見たのに。この子とは、さっき会ったばかりなのに」
「我々クラは弱いのだ。ノフチの人間よ。あなたがたが今窮地に立たされているように、我々もまた一万年間、住む場所を失う危機を何度も経験した」
精霊の長は、あくまでも厳かなたたずまいだった。
「経験による憶測か。そんなので他人の記憶を奪っていいもんかね」
男は挑発するように言ったが、効果がなかった。
「あなたはその子を殺す。みんなも殺す」
「どうしてそんなに極端なんだ。この子とは今日限りで別れる。それで充分だろ?」
マルヴァは目を瞬かせていた。霧の魔法が腕となって、マルヴァの翅を掴んだ。嫌がるマルヴァの抵抗も虚しく、精霊の集団の中へ連れて行かれる。
「星の子よ、忘れねばならない。我々も、寛容すぎたことを悔いて、住む場所を移そう」
祭祀長がローズマリーに光を灯した時だった。バッサバッサと頭上で音がした。鷲よりもはるかに大きく、獅子よりも立派な身体が、光の元へ下降してきた。アハーティスだ。
大鷲はマルヴァをくちばしでつまんで、空高く飛び立った。男がその尾に飛びついた。あとには崩れた光のかけらたちが、ぽろぽろと残された。
上空から、精霊たちが翅を隠すように森の奥へと移動してゆくのが見えた。霧もまた深くなり、何も見えなくなった……。それを遠目で見送って、男とマルヴァは宙を飛んだ。夜の山岳はとても寒かった。
「ねえ、あなたの元いた場所ってどこなの? そこへ行こうよ!」
よじよじとアハーティスの背に移動したマルヴァが、尾に必死でしがみついている男へ声をかけた。
「なんだって? 精霊の君と大鷲を連れて行くだって? 危険すぎる! ハックション」
「どうして? 私、山の向こうを見てみたい! 行こう、アハーティス! エルブルス山を超えるの! ずっと山の向こうに何があるのか知りたかった!」
男はぎょっとした。北西は今最前線だ。しかし好奇心にかられたマルヴァは聞く耳を持たず、止めることができなかった。
「見て! ほら、こんなに高くのぼったことない!」
男は峻険な雪山を見下ろすことなど、今を除いて他に無いだろうと思った。万年雪をのせた稜線が、ずらりと目前に並んでいた。夜明けの太陽に照らされている部分と、影になっている部分のコントラストが非常に美しかった。
男は仲間とともに、カルトリの軍道を挟撃する任務に就いていた。ロシア帝国軍が南のカルトリと手を結び、さらには各地へ要塞を築いたこの数十年。ついに補給路を断ってやるのだ。しかし今は仲間とはぐれて、軍道よりずっと西へ行こうとしている。アディゲ十二氏族の土地だ。ロシア帝国の基地よりはましだ。男の民族と同じように、ロシア帝国と戦っているのだから。しかし危険なことには変わりなかった。
太陽が高く昇る頃、私はアハーティスをなだめながら、人間の村へ降り立った。そこはジュブガというらしい。アディゲ十二種族のひとつ……種族じゃないや、氏族。地元のシャプスグっていう人たちが教えてくれた。ジュブガは土地の言葉で「風の谷」を意味するんだって。
私たちを迎えてくれたのは、特にウビフと、カバルダっていう民族だった。ウビフは本当はもっと南の、ソチっていう所に住んでた。そしてカバルダはもっと遠く、エルブルス山近くに住んでるけど、戦うためにここまでやって来たんだって。そしてアディゲ十二種族……種族じゃない、氏族の集会へ、アミルも参加することになった。
「待って! 私も行きたい! これから住むことになる場所だもん。お話したい」
アミルは断固として許してくれなかった。
「だめだ、これから行う会議は、東のヴァイナフとの軍事協定なんだ。関係のない君が座ってると、みんな話しにくい。それに、その、眠くなるぞ?」
ぶーっと私は頬を膨らませた。アミルが笑って小突いた。仕方がないので、アハーティスの体を洗ってあげることにした。長い旅で疲れただろうから、綺麗な川へゆき、オレガノとミントで吹いてあげるんだ。
すると、ウビフの大人の女性が私に声をかけた。人間は服装で性別がはっきり分かる。そんなに区別しなきゃいけないのかな。しかも、女性は民族ごとに服装や模様が全然違う。どれも凄く綺麗! 彼女たち自身も、それを誇りに思っているようだった。
「トゥハウウェギァプセァウ(神の恵みあれ)、精霊さん。私はセテナイ。あなたは男の子? それとも女の子?」
私はなんと言っているのか分からなかったので、翅をぱたぱたさせた。
「まあいいわ。まだ子供だものね。いらっしゃい、運のいい精霊さん。今日は結婚式があるのよ」
何かよく分からないけど、私を案内してくれるようだ。アハーティスへ、そのまま水浴びしてるように言って、私一人だけセテナイについて行った。ウビフの人たちは、南の人とも、アミルとも、他の氏族とも違う、複雑な言葉を操っていた。
石造りの部屋へ入ると、カバルダの人たちも、シャプスグの人たちもアブサフの人たちも、色んな種族……ちがうや、氏族のみんなが集まってた。その中に一人だけ、白くてとびっきり綺麗な人がいた。不思議そうに棒立ちになってる私を見かねて、セテナイが紙に絵を描いてくれた。これからどんな儀式をするのか、順番に描かれていた。魔法かな、こんなにすらすら形が描けるんだ。これは、炭の塊?
男性の家へ女性が入る日なんだって。それから、二人は愛し合う。あいって何? 私が首をかしげると、セテナイは「まだ分からないわね」と笑った。
多分、ここまで来たクラは私が初めてなんだ。すると、クラとして初めての招待客になる。うーん、もっとしっかりしなきゃ。
とびっきり綺麗な人はどうして綺麗なの? と私が指をさすと、その人が振り向いた。彫りの深い顔立ちに、祭祀様のようなベール、それから、宝石のあしらわれた円筒形の帽子。さらに宝石の一杯ついた耳飾り。シャラリと揺れて、きらきら光った。胸元や、袖、裾の模様にも、きらきらとした宝石! これは、光を布にとどめた魔法なの?
私が見惚れていると、その人が自己紹介してくれた。ダ、ダナ。ダナイさん。
私はこの土地の言葉が分からないけど、名前ぐらいは人間の発音で言える。カルトヴェリ語を発するのと同じだ。
「マァールゥーヴァーー!」
「マルヴァ、可愛い名前ね」
ダナイはにっこり、赤い唇をほころばせた。綺麗だなぁ。
部屋の中には女性しかいなかった。クラがいない、話せる人が少ない。私は急に不安にかられて、アハーティスのところへ戻りたくなった。でも、儀式が始まったみたいだった。
外からパンパン! これ、アミルがアハーティスを撃った時と同じ音。
鉄砲だ! ひい!
思わず身をかがめた私を、ダナイが笑って、そっとなでてくれた。
馬の蹄が地を鳴らす音と、賑やかな歌声が聞こえた。部屋の中の女性たちが、出番がきたというように、花嫁を立たせて、扉まで招いた。ダナイは高い下駄を履いていて、とても歩きづらそうだった。私は不安で、「ダナイ、ダナイ」と呼んだ。すると、振り向いて頭をなでてくれた。
ウビフの男の人たちが、家の前にいつの間にか集結していて、円上に取り囲んでいた。馬に乗った人、走ってくる人、ひと、ひと! こんなにいっぺんに人間が密集したの、初めて見た! 南は山奥しか知らない。お祭でも多くて十人と少なかった。でも、ここは大きな集団だった! アディゲの全氏族が集ったみたい!
アミルも入ってきて、私は思わず飛びついた。それから、アミルは笑顔で説明してくれた。ウビフの族長の息子さんが、カバルダの人とけっこんするんだって。だから、戦いの間でも、お祭りを催している。戦いの中だからこそ、盛大に盛り上げてるって。
その族長の息子さんが、おじさんたちに押されて部屋に入ってきた。ダナイも化粧部屋から出てきた。同時に人だかりが一斉に口笛をならしたり、歓声をあげたりした。
すごいや! 人間の声、声、声!
それから、部屋の中の人が、プシンというアコーディオンと、シチェプシンという弦楽器を鳴らして、独特な音楽を奏でた。私にはそれがとっても、高貴な旋律に聞こえた。クラのものよりリズムが早くて、うきうきしちゃう。
一人の男の人が、輪の真ん中で歌い始めた。祭祀様みたいに、木の実が沢山ついた棒を鳴らして、この宴会の指揮をとっているようだった。
まずお婿さんのお父さんが、指揮の人に誘われて、ダナイと踊った。ダナイはあんなに高い下駄を履いているのに、すーっと地面に沿うように滑らかに舞った。それから、お父さんがお婿さんと交代して、新郎新婦の踊りになった。お祭りはこれが佳境らしい。指揮棒を持った人は「アッサー!」を繰り返しながら、早口で歌った。なんて言ってるか分かんないけど楽しい! アミルに聞いてみたけど、やっぱり分かんないんだって。ウビフの言葉はチンプンカンプンらしい。顔が似てるけど違うなんて、人間って不思議!
アミルがアルフヘイムで踊ってくれたように、花婿さんもまた、足の親指だけで爪先立ちした。そして器用に、ゆったりとダナイの周りをめぐった。足が痛そうなのに、全然そんな顔をしない。つかず、離れず、ダナイヘ敬意のこもった瞳で見つめ続けている。なんて素敵なんだろう。
周りの人も踊り始めて、大盛り上がりになった! 子供まで爪先立ちして踊った。私も楽しい気持ちで一杯になって、くるくる飛び回った。魔法の光で花を描いて、花嫁さんと、花婿さんをお祝いしてあげた。
ダナイがお婿さんの腕を借りて、下駄を降りて、私に履かせてくれた。重くて歩くこともできなかった。みんな笑うので、ぷーっと頬を膨らませて怒ったふりをした。飛ぶ方が楽ちんだもん。
「ロシア帝国を打ち倒すぞ! 皆で勝利を願って乾杯しよう!」
ある男の人が大声で角杯をあげた。
「ヴァイナフとの友好に乾杯!」
アミルも角杯を持ってその人と腕を合わせた。いいなー。
「アディゲ十二氏族に栄えあれ!」
かつーんと景気の良い音がした。
「私も飲んでみたい!」
「こりゃお酒だよ、マルヴァ」
「おさけって何?」
まあいいじゃないかと勧められて、アミルの心配をよそに、私も一口飲んでみた。
なんだかふわふわ、いい気持ち。
「マルヴァ!」
私はひっくりかえってしまった……。
目を覚ますと、アハーティスが側にいた。冷たい布が額にかけてある。宴会はまだ続いているようで、石造りの建物から歌が聞こえてきた。私のいる場所は塀の外。人間が食べ物を栽培する、畑という場所だった。夜風が気持ちいい。カーペットの上でずっと寝てたみたい。何が起こったんだろう。まだフラフラする。
アハーティスが心配そうに、ベロリとなめてくれた。うへへっと笑ってじゃれ合った。それを聞いて、誰かが駆けつけてきた。
「大丈夫か?」
アミルだった。
「どうしたのかなぁ。へんなきぶん」
「お酒は精霊さんにとって良くなかったんだな」
そっか、おさけのせいかぁ。ブドウの匂いがしたのに、この世界で飲めない物があったなんて……。そういえば、南の人間が宴会でよく飲んでるものは、触れちゃいけないって祭祀様が仰ってたな。
「でも、ここの人、みんな親切だねえ」
「ああ、誰も精霊に危害を加えない」
グルル、とアハーティスがアミルもベロリとなめた。人間にはあんまり懐かないのに、珍しいや。
「うん、君のことは、怖いから誰も近づかないのかもしれないな。よしよし、わかった、わかった」
「本当に戦争なんてしてるの? 信じられないなあ」
アミルが笑うのをやめて、真剣な眼差しになった。
「近いうちに必ず、奴らは襲ってくるだろう。でも大丈夫、まだ遠くにいることが分かっているからね」
どうして? と私はたずねた。
「アハーティスの上から眺めたんだよ。ぱっと見た限りでは、敵の拠点は遠かった。西の川沿いではあるけれど、城塞の中だった。奴らはいつだって、報復にしか来ない。我々山の人間は、ゲリラ戦で戦うから、平地の人間は手当たり次第にそこらを撃ちまくるしかないのさ」
へえ、と私は感心した。敵がなんなのかよく分かんないことばっかりだけど、少なくとも今日は安全なんだ。
「来てよかったね、アミルがいたから、みんな安心してけっこんしきできたんだ」
「そうだといいな。祖国のために、アディゲとの同盟の助けになれるなら、生きてて良かったってもんだ」
ところが翌日、けたたましく銅鑼が鳴らされた。私は慌てて飛び起きて、何が起こったのか見に行った。塔から平原が見渡せる。ブスッと弾丸が、私の後ろの壁に突き刺さった。見張りの男が伏せながら叫んだ。
「離れるんだ! 早く!」
チョハの胸元から弾丸を取り出し、男たちが銃を鳴らし始めた。私はここが戦場になったことを知り、他の人たちはどうしているのか気になった。昨日、夜遅くまで宴会をしていたために、不意をつかれたジュブガはひとたまりもなかった。
私はダナイやお婿さんが気がかりだった。昨日、あんなに皆で楽しく踊ったのに、あんなに美しかったのに。人間の群れが、巨大な砲撃が、騎馬が、アディゲの民に襲いかかった。目の色まで見えるくらい接近してた。
私はアハーティスを呼んで飛び上がった。こっちに向かっても銃弾が向けられる。
「怪物だ!」と言っているであろう、驚きの声が聞こえた。身構える集団。だけどアハーティスも、私も、兵器が恐ろしくて逃げる他に何もできやしない。
沢山の女性が、避難している小屋ごと焼き殺されるのを見た。窓からダナイが叫んでいた。逃げ出したセテナイが射殺されるのも見た。
アミルは? アミルを探して! いた、あそこ! 短剣で騎馬と戦っている! 危ない!
アハーティスが真上にズシンと降り立ち、馬ごと人間をなぎ倒した。私はその背から飛んで、アミルを渾身の力で引っ張り上げた。
「どうしてこんなことになったんだ!?」
アミルは口惜しそうに泣いていた。
「お前のせいだ、アミル! さては貴様、ロシア帝国の手のものだな!? 我々を騙すために送り込まれたのか!」
族長が銃をこちらに向けて、大声で怒鳴った。その目は怒りで燃えていた。
私は猛烈に悔しくて、絶対に当たるもんかと銃弾の雨をぬってアハーティスの元へ戻った。バッサバッサと土埃を上げて、アハーティスが飛び立とうとする。けれど、剣や槍が何本も突き刺さっていて、上手く翼が動かせない。翼に向けて松明を投げられている。
「行こう!」
私は急いで魔法で目くらましを作った。大きな光を宙にとどまらせて、太陽のように輝かせた。そして私たちは、アディゲの土地をあとにした。シャプスグとウビフの人々が虐殺されるのを見捨てた。
高山のふもとに、綺麗な洞窟と川を見つけて降り立った。何日間も、アハーティスを癒せないか、手持ちの薬草で試してみた。けれど、銃創を治すことなんてできなかった。焼かれた翼はもう動かすことが難しい。アミルもまた憔悴しきっていた。足を撃たれていた。どうしたらいいの?
「あなたを仲間のところへ返してあげる。もうそれしかない」
「だめだ……アハーティスが苦しむ」
私たちクラは、苦しんで死ぬなら、思い切って殺すという決まりがあった。翅か首を落とせばクラは死ぬ。他の精霊も同じ。アハーティスは、私のきょうだい。死ぬ時も一緒だと思っていたのに。私だけ生きろというの? 酷い惨状を目の当たりにして。
「あのアディゲを襲った人たちは、山を越えてくる?」
「いや……山の南の国は、ロシア帝国と同盟しているんだ。だから……そこに住んでいる君たちの村は大丈夫。そうだ、君だけは帰るんだ。何、許してもらえるさ」
「そんなことできない! あなたを送り届けて、アハーティスと私はもう南へ戻らない。だって、私が最初に言い出したんだもの。北を見てみたいって。あなたの村を見てみたいって。だから、ずっと一緒にいる」
アミルは弱々しい手で、私の頬を拭った。
川につかっているアハーティスが、苦しそうにゼエゼエと身体を上下させていた。そのたびに波が岸辺に打ち寄せた。
「泣くなよ。精霊さんが人間ごときに泣くなんて、聞いたことがない」
私はとても、言葉にし難い気持ちだった。
「あなたの村へ行って、私もあの、アディゲの人たちみたいに過ごしたい。綺麗だったから。人間って、平和なら楽しい生き物なのに。けっこんしき、したい」
アミルは首をふった。
「行こう! アハーティス。お腹が空く前に東へ行こう! 死ぬ時は私も一緒だよ!」
私が洞窟を出て川に入った時、パアン! パアン! と銃声がこだました。背中に激痛が走るのを感じた。目の前が真っ暗になった。ザブンと水中にうつ伏せで倒れてしまって、息ができない。苦しい。
続けて何度も装填、銃声、くぐもったアハーティスの吠え声。
ザバッとやっと顔だけ川から出せた。ゲホゲホする。アミルが懸命に立ち上がったのが気配で分かった。
「どうして……この子に何も罪はないのに!」
「お前たちは、私の全てを焼き尽くした」
聞き覚えのある声だった。お嫁さんの笑い声を思い出した。首をひねって、声のした方を向いた。背中が燃えるように熱い。ボロボロになったけっこんしきの服で、血をしたたらせたダナイが岩の陰からアミルを狙っていた。
「見当違いだ、悪いのは北の異教徒だ!」
「うるさい! 許さない!」
パアン、パアン! とまた……。そして、アハーティスとダナイが同時に倒れた。
「大丈夫か、アミル!」
「ハジ…………」
「巨大な鷲が飛んでるのを見つけて、追いかけてきたんだ。この険しい山道をだ。お前のためにだぞ! さあ悪いものはみんな殺した、行こう。お前……被弾したのか」
かわいそうなアハーティス……ダナイも。どうしてこんなことになったの?
肩で背負われて、アミルがうめいた。
「待って……」
私は必死に声をかけた。もう沈みそう……傷ついた翅が重くて。
「待って……お願い、アミル……」
ハジはアミルの顔を、何か奇妙なものでも見るような目で見つめた。それから、川へザブザブと入って、私のところへ連れてきてくれた。
アミルが私の髪を梳いた。さようならと言われるのが怖かった。
「もう飛べない……ひどい……ごめんなマルヴァ……。一言では言い尽くせないよ……ごめんな。ハジ、下がっていてくれないか」
「……分かった」
アミルが私を、胸もとまで抱き寄せてくれた。
「私、まだ死なない。クラだもん。あなたをおくりとどける。それから、けっこんしきするの……」
「まだそんなこと言うのか? ……もう無理だよ」
人間には深手でも、精霊は翅を切られるか、首を落とされない限り大丈夫だもの。まだ私の翅と首はくっついてる。でも、自分が光を失いかけていることに気付いていなかった。光を失うとは、魔法を受けられなくなるということだ。これで人間らしくなるのかな。違う……死ぬんだ。
アハーティスも波立たせながら側に来て、悲しそうに鳴いた。
「おもてなししたなら、ちゃんとお見送りまでしなきゃ。私の最初のお客さんだもん。ねえ、アハーティス」
「もう、充分だよ。沢山、沢山、お返しをもらったよ」
その時、不思議と懐かしい歌声が風にのって聞こえてきた。ハジも、アミルも、川辺に倒れて息絶えそうになっているダナイも、アハーティスも耳をそばだてる風にした。クラの葬儀の歌だ、と私は思った。そして、私は激しい光になった。
「アミル危ない!」
ハジが呆然としたアミルを私から突き放した。
アハーティスが悲鳴をあげて、川に倒れた。そしてブクブクと溶けて、巨大な骨だけが残された。
一瞬、アミルのまわりが闇に染まった。何が起きた? 自分の目が怪我でもしたのか? それにしては、痛みがなく、静かだ。耳がキーンとなるほど。マルヴァの光はどこへ?
地面は平で、石のように冷たく、つるつるとしている。苔むした岩はどこへいった? 川は、深い森は?
突然、背後に気配がした。カサカサという翅の音。降り立つ素足の音。
「やはりこうなったな」
「……誰だ?」
闇から姿を現したのは、マルヴァの村の長だった。
「あんた、全部予測してたのか?」
長は顔色一つ変えず、アミルを見つめた。杖だけがシャンと鳴り、どこまでも響いた。
「なんで予測していながら、助けに来てくれなかったんだ? あの子は死んだぞ、アハーティスも!」
精霊の長は、また鈴を鳴らした。そして、ゆっくりとアミルの周りを歩いた。
「お前たちが決めたことだ。私が記憶を消して、元の生活へ戻してやろうとしても、それを拒否して逃げた。挙げ句の果がこれだ」
アミルは絶句した。その通りだ。
「同じような体験をして、死を迎えるクラは大勢いた。
人間もまた、同じような戦争と、憎しみの連鎖を招いて、何度も無駄なことを繰り返す。私は一万年間それを見てきた。愚か者どもめ」
なんと長い年月か。その歳月が、この精霊を凍りつかせたのか。
「お願いします、あなたなら、時間を戻せませんか。魔法を使う精霊だ、今、何か特別な魔法を使っているんだろう? だから、頼みます! お願いします……お願いします!」
男の問は、虚しく闇に響いた。
「私が今かけている魔法は、時間を緩やかにしているだけだ。我々の間だけ、光を遅らせている。外では二人共、固まったように見えているだろう。しかし、時間を戻すことはできない。早めたり、遅らせることはできても、戻すことは不可能だ」
「じゃあ、なぜ今、あなたは私に話しかけているんだ!?」
「戻すことはできないが、予見した悲劇だけは、幻で見せてあげることができる。この花は記憶をたたえる。私が見た全ての夢を、覚えさせた」
男の目には、花などどこにも見えなかった。うそぶいているのかと思った。けれど、精霊が手元の何かへ、息を吹きかける素振りをして、その言葉が真実であることが分かった。
「ああっなんてことだ……」
眼下に広がった世界は、ロシア帝国軍がアディゲの人々を虐殺している光景だった。渓谷でついにウビフが滅ぼされる。強制追放される。沈没する満員の船。溺れる子供。アミルが助けようと腕を伸ばすと、ぼやけて消えてしまった。
「何も止められないのか?」
次に映されたのは、懐かしい、東の山。デビュロスムタをのぞむ故国だった。ロシア帝国軍は平地に城塞を築き、五十年近くも、山の民族と戦いに明け暮れていた。その城塞は、愛する川のさなかに作られた。ロシア語で「恐ろしい」という名前なんか付けられた。隣の国もまた、「コーカサス山脈を征服する」などという町を築かれた。そして今、圧倒的に分が悪い光景が映し出されていた。どんどん殺されてゆく……あれは、英雄ハジムラートではないか? あれが、父の話していた民族の英傑か。そうだ、ヴァイナフの民は最後の一人まで戦うだろう。
そして、戦闘が終わり、北コーカサスはロシア帝国に支配されてしまった。だが、間もなく帝国はほころび始めた。民衆を殺した代わりに、暗殺される皇帝。アミルは胸がすく思いがした。
しかし、次にやってきたのは世界大戦と粛清の嵐だった。見たことのない空飛ぶ乗り物が頭上をゆく。ピューという音をたてて、何かが降り注ぎ、都市が爆破される。毒ガスの脅威。防護マスク無しでは暮らしてゆけない。塹壕で足がただれ、砲撃の恐怖で全身の震えが止まらなくなった兵士たち。
続いて起こったのは第二次世界大戦だった。火炎放射器がマジノ要塞で猛威を振るう。壕ごと人を焼く。耕運機から開発された戦車が、アハーティスほど巨大になってそのあまりに残酷な車輪で塹壕を踏み潰す。東部戦線は拡大し、コーカサスはまた激しい戦場になった。
ソ連の将軍は、勝利のための犠牲など気にかけない。たった一人、二人の為政者のために、大勢の人が殺害された。ヴァイナフとアディゲの民族は「ナチス・ドイツの味方をした」という濡れ衣を着せられて、中央アジアへ強制連行された。沢山の人が理不尽な目にあい、死んでいった。
天高くのぼるキノコ雲が二つ、なんという悲劇だ。
さらに時が立ち、ソ連崩壊を迎えた。独立の気運が高まる時代になった。それいけ、やってやれ、アミルの民族はついに独立を宣言した。しかし、今度もまたロシア連邦と戦争になった。世界中の誰も助けてくれない、泥沼の戦争に。悪魔の箱が伝えるプロパガンダと、情報規制。テロとの戦いという正義を振りかざした欺瞞。軍の末端まで腐敗の蔓延した、理由のない戦争になってゆく。民族の誇りは消え失せ、子供まで打ちひしがれていた。それが二十年も続いた……。
その戦争をしかけた大統領が任期を継続するところで、幻覚が消えてしまった。
最後に見えたのは、デモ隊だった。ソ連時代に粛清しまくったスターリンを、国の権威向上のために再評価しようと叫んでいた。南コーカサスもまた、虐殺の応酬と戦乱に明け暮れていた……。イスラームは過激派武装勢力の存在のために、差別され、コーカサスの顔立ちというだけで攻撃されていた。
我々の維持しようとした民族の帰結がこれか? 戦争を仕掛けたのは、いつでもロシア帝国とロシア連邦じゃないか。美しい、マルヴァと見たあの途方もなく美しかったコーカサスの山々はなぜ、血で汚されているのか。どうすることもできない両手を、アミルは握りしめた。
「だからって、何ができると言うんだ。これは、百年以上も先の話だ。こんなもの、見たって私には関係ない。名前も知らない人たちの命運なんて、知らない。今、生きてるだけで精一杯だ。きっと、あの虚像で死んでいった人たちも、その人たちなりに精一杯に生きただけなんだ。
誰も……悪くないんだ……。ロシア人だって、犠牲になっているんだ。
誰のせいでもなければ、戦争を止めることなんかできない。
私が気がかりなのは、こんな虚像ではなくてマルヴァのことだ。せめて、今しがた起こった出来事を、元通りにできないのか?」
いつの間にか、アミル目から涙がこぼれていた。戦うことしか能のない人間という生き物が、ただ悲しかった。戦うこと、抵抗することは誇りだと思っていた。人間の尊厳のために、それを踏み潰そうとするものを殺すことは正しいと思っていた。でも、幻を見せられて思った。争うことに意味はあるのか……なんの意味もないのか? では、巨大なキノコ雲をあげて滅ぶしかないのか? 答えを見つけることができない。だから、世界や民族のことよりも、目の前の愛する者について問いかけたかった。
闇に光る精霊が、静かに鈴を鳴らして近づいた。
「間違いない、命短き者よ。たった一瞬の生を、お前たちはひた走る。目先の生ばかりに意識がゆき、悲劇が起こり続ける。そして、だからこそお前のように泣く者もいる。私はもう泣くことができない……空を」
精霊は言葉を切って、天上を指差した。闇の中、満点の星空が広がっていた。そこに彗星があった。
「あれは今、輝いているほうき星だ。お前が血を流して誓うのなら、マルヴァの光を星へ宿そう」
どういうことだ? 星屑となって生き続けるとでも言うのか?
精霊は男の疑問を鈴の音で制した。
「エウレシウスの神が、恩恵を与えて下さっている。私たちは死ぬと光となる。その後は生まれ変わると私自身も思っていた。しかし今日、神託で告げられた。私もあなたも、一粒の物質に過ぎないと。あの子を宇宙へ連れて行ってもらおう。さあ、弔いの儀を行おう」
男は訳が分からなかったが、あの子が何になっても生き続ける道があるなら良いと思った。キンジャールを抜いて、指先を切った。
「誓おう、精霊の長。マルヴァをあなた方の元へ返します」
精霊は鈴を鳴らして、歌を歌った。人間には、はっきりと聞こえないはずの精霊の歌。しかし、この空間では聞き取ることができた。
これが葬儀の歌? マルヴァが教えてくれた、あの星の歌じゃないか。
星の巡り、はるかな教え。北と南、東から西へ。
太陽が沈み、月のない夜にこそ、この魔法はふさわしい。
満点の空から古の光が語りかけてくる。
ああ、なんて雄弁なんだろう。
あなたへ伝えなくては、この言葉を。
天馬が翔け、エウレシウスがクジラを従える。
オリオンはウサギを狩り、アララト山から鳩が飛ぶ。
一角獣が冬の終わりを歌う。
シリウスがナイル川の氾濫を告げて、プロキオンが春の風を吹かせる。
やがて北斗七星と獅子が昇り、蠍とケンタウロスが現れて、夏至が近いことをしらせる。
一年のなんと短いことか。
ここから南、はるかな故郷から見えていた星々。
我らに憐れみをかけたまえ。
英雄たちは皆、アルゴ船に乗って、黄金の羊を探しに旅立った。
目的地はアストロラーベと、雄のハイドラの口元にある。
ケンタウロスの愛した十字架には、ミツバチが舞っている。
我らの祖先はそれを見ていた。南からやってきた。
星の子よ、地に墜ち、死にゆくクラよ。
塵は塵に、光は光に返る。
生きているクラを見守っておくれ。
私はただ鎮魂のために、星巡りの歌を歌おう。
私は遠ざかる意識の中で、祭祀長の歌声を聞いた。光の粒となった私は、天から大地を見下ろすことになった。
アミルがよろけながら立ち上がって、空を見つめた。そして私たちの作法で挨拶をした。本来「こんにちは」なんだけど、きっと「さようなら」という意味だったに違いない。
私はアミルのその後を見守った。彼はヴァイナフの土地へ戻り、最期まで民族のために戦った。ハジもまた。ロシア帝国は、多くの犠牲を出しながら、ついに北コーカサスを手中に収めた。そして次は、中央アジアへ征服に乗り出した。やがて、革命と内乱を経て、ソ連になる。百五十年間で沢山の人が亡くなった。
虐殺の時に北コーカサスから逃れたアディゲの人々は、トルコやシリアなどで暮らした。そして、1992年、最後のウビフ語話者が亡くなった。
私は肉体が死んでも、光の粒として残り続けた。
2001年、私へ歌ってくれた祭祀長が、翅をもがれて亡くなった。
今、ロシアの研究者が、滅亡したクラの歴史を紐解こうとしている。学生たちが、クラのこと興味津々で知ろうとしている。どこまで分かるのかな。
祭祀長が死ぬと、次第に、私は私であることを忘れてゆく気がした。全体に溶け込み、本物の死の時を感じる。私は、私を失う寸前に、エウレシウスの声を聞いた。神ではないと。神を崇めることができないなら、今私が存在する意味は何? 愛する者が死んでゆくのを見なければならないのは、やるせない。粒のくせに、そんなことを思う。エウレシウスは、自分もまた粒なのだと答えた。
最後に歌わせて、この世が刹那であっても、アミルとアハーティスが私を愛してくれて、私は二人が大好きだったことを。どんなに憎まれようと、ウビフのけっこんしきは賑やかで楽しくて、踊りがとても美しかったことを。私の最初のお客さんを迎えた時、すごく嬉しかったことを。あの感情は無駄ではないと、声を大にして伝えたい。もう届かない、もはや存在しない私の声で歌った。
さようなら…さようなら。
クラのいない地球。
愛する者のいなくなった地球。
これから生まれてくる、
全ての生き物のためにある世界。
せめて、誰もが幸せでありますように。
私は二度目の死を迎える……。
次回は現代が舞台の楽しい物語です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。




