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採譜されたままの話

余命半年を宣告された兄に、広い世界を見せたい。――「感情を強く持つと死ぬ」妖精の禁忌が引き起こした、愛と破滅の大爆発。

 ロシア南部、クラスノダールの大学へ冬が訪れた。この学校の教授ゲンナジーは「エルフ博士」と呼ばれ、変わり者として有名だった。考古学者なのだが、エルフは実在したと主張しており、まだロシアの学会では認められていなかった。

 ゲンナジーは学生の帰った研究室で、かじかむ手を息であたためた。今年も厳しい寒さがやって来る。彼は一人、父の遺した手記をレジュメのためにコピーしていた。もうすぐ講義の課程は終わろうとしていた。今度の内容は、父が入院していた時に見た、ある夢についてだった。

 手記によると、あのシンクロドリームが起こる数日前、父の夢にエルフが現れた。金の髪を地面につくほど長く垂らし、鈴の沢山ついた杖を持ち、大きな緑の翅を背負っていた。名前をジェァーグァといった。彼は魔法の花を使って、過去の出来事をありありと見せた。幻なのに手を取ることができそうなほど、現実的だったという。その記録だった。

 なんとも不思議な話だが、重要な文献だったので講義で取り扱うことにした。きっと学生たちにとって、エルフのことをさらに研究したいと思う要素になるだろう。いや、今回はそれどころではない。最後には西側諸国の最新の資料を入れることにした。みんな驚くに違いない。


 時は紀元前四世紀。地理では南コーカサス地方、現在はアルメニアに属する森林にエルフたちは暮していた。ホスロフ自然保護区という場所だったのかもしれない。

 ノアの箱舟伝説で有名なアララト山を遠くに臨み、滝が多く、自然豊かな場所だった。崖が柱状節理を起こし、壮麗な丸い柱が降り注ぐように並ぶ。今でこそ教会があり観光名所となっているが、当時はまだ人間が少なかった。

 エルフたちの大きな特徴として、色とりどりの輝く翅を持ち、空を飛ぶことができる点があった。しかし、およそ百年に一度だけ、翅に色がなく、飛ぶことのできない者が産まれた。「忌み子」とエルフたちは呼んでいた。

 クツピアーはそんな忌み子だった。

 ある夏の終わりのこと。キスゲが咲き始める季節だった。黄色くラッパ型に咲くその花を、エルフたちはオルヴァ・タギク、「その日の花」と呼んでいた。一日のうちに咲き、萎れることから名付けられた。クツピアーは花の中でも特段に好きで、よく茂みからぽつんと生えているそれを掘り起こしては庭に植えていた。おかげでクツピアーの家の周りは一面オルヴァ・タギクで一杯だった。

 昨夜、膨らんでいる蕾を楽しみにして眠った。翌朝こそ咲いているだろう。その時はおかしなことなどなかった。しかし目を覚ました時、何かが妙だった。頭を触ってみると変なものが生えている。いったいこれは何? 恐ろしくてたまらない。

 葉でできた扉をくぐって、外を見まわした。オルヴァ・タギクはまだ咲いていない。月も沈み切っていない。薄明の時刻で、空気はひんやりとしていた。樹の上に点在する家々は寝静まっていた。クツピアーだけ地面に家があった。誰もいない、よし。思い切って、走って村から飛び出した。

 遠く離れた場所に大きな滝があった。どうどうと激しく流れの落ちる側に、顔を映せるほど静かな水たまりがあった。珍しいので「鏡の泉」とエルフたちは呼んでいた。そこへクツピアーはおそるおそる姿を映して理解した。触覚だ! 触覚が生えている! そっと触ってみた。本物だ! ざらざらした長い変なもの!

 クツピアーは身動きができなくなり、ただぶるぶると震えた。春には手足が曲がった。この間は顔に毛が生えた。人間に似たほかのエルフたちと違って、自分だけどんどん昆虫のような見た目になってゆく。

 太陽が昇り切り、アララト山のある西へ傾くまで、クツピアーは泉でじっとしていた。仲間の元へ何と言って戻ればいいのか。一人ぼっちだ。このまま旅にでも出ようか。

 妹のアギウーカの呼ぶ声が聞こえた。

「クツピアー、クツピアー、どこなのー」

 クツピアーはびくっと弾んだ。どこかでこの声を待っていたのかもしれない。期待と不安でおろおろした。やはり妹にも触覚を見られることが嫌で、急いで近くの藪に飛び込んだ。

「みっけ! 翅が丸見えだよ」

 クツピアーはこわごわと手を差し出した。彼の手は産まれつき骨のようだった。それをアギウーカは優しく包み込むように取った。

「またこの泉で膝抱えてたの? もう戻らないと、みんな心配するよ」

 藪から顔を出したクツピアーの触覚を見ても、アギウーカは「へえ?」と目を丸くはしたが、微笑みを絶やさなかった。

「僕なんか、誰も待っていないよ……」

 クツピアーは沈んだ目でアギウーカを見上げた。彼は四十歳になるのだが、見た目の年齢は七歳ほどだった。妹のほうが膝をついて目線を合わせなければならないほど身長が小さかった。

「私の大事なお兄ちゃん、こうして探しに来たんだから信じて。格好なんか気にしないで」

 クツピアーは触覚をぴこぴこさせて、「うん」と泣きべそをかき、妹に抱きついた。

 その時、はるか遠くから大人たちの声がした。

「おーいアギウーカー、兄は見つかったかー」

 朝からいないクツピアーを村の全員で捜索していたようだった。

 アギウーカが催促した。

「ほらね、行こう」

 声を聞いてもクツピアーは恥ずかしがり、さらに深く藪に潜り込もうとした。

「嫌だよう。子供たちにからかわれちゃう。次は触覚が生えたって」

 強情な兄にアギウーカはふう、とため息をついた。藪をのぞき込むまでもなく、また翅が飛び出していた。アギウーカはそんな様子にくすっと笑った。

 彼女はまだ十三歳だったが、巫女の役割に就くほどのしっかり者だった。産まれた時から骨ばった手に抱かれて育ったので、兄がどんな姿になっても愛情は変わらず、むしろ並々ならないものだった。身に着けていたブドウの葉の冠をクツピアーに被せた。ちょうど触覚を隠す格好になった。

「今日は見たことのないお客さんが来るんだって」

「……どんなひと?」

 冠を両手で抑えながら、クツピアーが興味津々に尋ねた。こんな何もない土地に訪ねる者がいるなんて。ほかに仲間の村があると聞いたこともなかった。

 アギウーカは笑顔でクツピアーを藪から連れ出した。

「私も楽しみ! さあ、行こう」

 そして良く通る大きな声を張り上げた。

「みんな! クツピアーはここだよー!」


 村へ戻ると、大人たちはせっせと歓迎の準備をしていた。よほど特別な客人なのだろう。木の実を摘みに行ったり、ハーブを蒸して料理をしたり、楽器の練習をしたり、大忙しだった。捜索で支度が遅れたようだった。申し訳なさでクツピアーは立ち止まり、縮こまった。それをアギウーカが促した。

 帰ってきたクツピアーを認めて、わっと子供たちが宙を飛んで来た。まだ幼い五歳くらいのやんちゃ盛りが三人もいた。

「あれぇ? 四十歳のクツピアー、顔見せてよー」

「いつものヘンな顔、見せて!」

「しましま模様、しましま模様!」

 クツピアーはこの間できた顔の毛と縞模様のことを言われると、猛烈に気が滅入ってしまった。

 ブドウの冠を深く被って押し黙ることしかできなかった。

 弱気な兄を見かねて、アギウーカが代わりに怒った。

「こら! クソガキ、叩き落とすよ!」

 アギウーカは兄のこととなると口が悪くなる。きゃーと子供たちがはやし立て、ますます騒動になりかけた時、低く落ち着いた声が割って入った。

「やめなさい」

 シャン、と鈴の揺れる音が響き、あたりを厳かな雰囲気に変えた。金の髪を長く垂らし、ローブをまとい、樹木のように大きな杖を持つ、この村の長だった。大人たちは作業の手を止めてこうべを垂れ、子供たちも「しまった」と口をつぐんだ。

 長は抑揚のない声で続けた。

「アギウーカ、子供たち、口を慎みなさい。クツピアー、客人が来る。顔を見せなさい」

 少しためらってから、おとなしくクツピアーはブドウの冠を取った。すると、群衆からさざ波のような声が沸き起こった。

「うわぁ、前よりも昆虫みたい……」

「触覚が生えてる……」

「ぴこぴこ動いてる、気持ち悪い……」

 真っ赤になって俯いてしまったクツピアーを見て、アギウーカがまた声を上げた。

「ひどい、もうやめてよ! 私のお兄ちゃんを悲しませないで! 私たちクラは大勢が支えあって暮らすんじゃなかったの!?」

 エルフたちの自称は「クラ」といった。これは古代コーカサス諸語で麦という意味の「ケリ」が訛ったものだった。

 呼び名の通り、神々が麦を編んで創造したという神話がエルフたちにはあった。麦の人形は翅と魔法の力を得るが、それを心配した神が埃を吹きかけた。埃を受けたものが人間で、免れたものがクラという。だから人間とクラは祖先が同じで、よく似ている。そんな昔話だった。

 アギウーカの兄を悲しませないで、という訴えは叶わなかった。それどころか、長は彼女に忠告を出した。

「巫女が声を荒げてはいけない。今のままでは神は降りてこない」

 とうとうアギウーカは癇癪を起した。クツピアーは彼女の半分しか背丈がないので、自分のために怒っていると分かっていても、止めることができなかった。

「みこみこなんなのよ! まだ十三歳だもん!」

 きりきりとした大声にびっくりして、みんなさっと顔色を変えた。巫女は魔法の力を豊富に持っている。自制心を失っては、何が起こるか分からない。

 どしどし地団太を踏むアギウーカだったが、すかっと足場を無くして一回転した。たまりかねた先輩の巫女が、彼女を宙に浮かべていた。アギウーカはひっくりかえりながら周りを見て、やっと落ち着いた。長の前でこれはいけない、という理性はまだあったようだった。

 長がシャン、とまた杖についた鈴を鳴らして場を鎮めた。何事もなかったかのように表情一つ変えず、声音も沈んだままだった。

「さあ夜だ。じきに冷気が吹き込む。子供は家の中へ。大人は広場へ」

 やや間を置いて、クツピアーをまっすぐに見た。

「クツピアーは一緒に来なさい」

 意外な誘いにクツピアーは驚きを隠せなかった。今まで大人の集まりへ参加することを許されなかった自分が、一体なぜ? どんな客が来るのだろう? とにかく何か贈り物を用意しなければならないので、すっかり蕾を開かせたオルヴァ・タギクを数本摘んだ。

 アギウーカはおしおきのため、まだしばらく宙に浮かべられたままだった。地面に下ろされたのは太陽が沈みきってからだった。

「アギウーカ、大丈夫?」

「うん……私、恥ずかしい」

 うずくまった彼女の頭を、クツピアーは背伸びしてぽんぽん撫でた。


 二人が広場へ通されて間もなく、客人が丘を登ってきた。それは謎めいた人物だった。

 顔を覆うほどの布が付いた帽子を被り、マントを着て身体を隠していた。木の杖でかつん、かつんと、やっとのことで歩いているようだった。翅が見えるのでクラであることは間違いなかった。

 しかしその人物が帽子を外し、マントがなびいた時、長を除くその場の全員が凍り付いた。頭には房のついた二本の触覚が生えていた。口はハチのようなくちばしで、目は大きな複眼だった。ふさふさの毛に包まれた全身には縞模様が入っていた。まるで巨大な蛾が二本足で歩いているようだ! クツピアーの大きくなった姿のようだ! あまりのおぞましい姿に、歓迎のために集ったクラたちへ戦慄が走った。

 長だけは気に留める様子がなく、その人物へゆっくりと近づいた。杖を差し向けて、祈りの歌を歌った。


 月の神よ 実りを与えたまえ

 どうか光を我が弟へ

 豊かな麦の穂を

 摘ませて下さいますように


 歌とともに、空から光が降り注いだ。光は点々とその人物に張り付き、輝きを増した。次の瞬間には誰もが目を疑った。白金の髪を三つ編みに結った、美しいクラの青年がそこにいた。彼は優しいまなざしで群衆を見回した。クツピアーに視線が留まり、少しのあいだ離れなかった。

 劇的な光景を前に、一同はすっかり固まっていた。

 長が「ふう……」と珍しく汗をぬぐってよろけた。従者に支えられて倒木に腰掛けた。そんな姿を見るのはクツピアーにとって初めてだった。いつも威厳のある姿なのに、そんなに体力を使う魔法だったのか。客人はただ静かにその様子を眺めていた。

 しばらく経ってから、杖を手に取って長は立ち上がった。客人の側へ寄って紹介をした。

「百歳に満たない者は知らないだろう。私の弟、デルフィーニオだ。今夜ここで休ませて欲しいそうだ」

 どういう事情かうまく呑み込めないまま、クツピアーはアギウーカとオルヴァ・タギクの束を贈りに立ち上がった。

「は……初めまして。歓迎の宴をどうぞお楽しみ下さい」

 高く澄んだ男性の声が返ってきた。

「忌み子がいると聞いたが、君のことかな? ジェァーグァ……私の兄はよほど会わせたかったんだろうね。つんけんしているが、あれで仲間思いなんだよ」

 クツピアーはぎくりとしたが、アギウーカに背を押されて、さらに前へ進んだ。

「あの……これ、オルヴァ・タギクです。僕の家で摘みました」

 デルフィーニオは興味深げに花を眺めて言った。

「オルヴァ・タギク。オルヴァは一日、タギクは花だね。ハイクという民族からの借用語だろうか。人間の言葉でもこれを一日の花と呼ぶ。後でゆっくり話そう。夜明けにでも」

 人間の言葉と同じ意味だなんて、クツピアーは初めて知った。このひとは何だろう。外の世界をよく知っているのか。

 木の杖でやっと歩いていたデルフィーニオは、花束を軽々と持ち上げ、すたすたと宴の会場へ行ってしまった。


 宴は一部の大人だけで執り行われた。ハープを鳴らし、ラッパを吹き、神々への賛歌を歌った。

 デルフィーニオは珍しい物を小さな精霊に運ばせていた。大きな木箱と金属でできた、この村には無いからくり仕掛けの楽器だった。精霊がポンプを動かし、デルフィーニオが鍵盤を弾くと、並び立つパイプからえも言われない音色が流れた。クラたちは驚き、少し眉根をひそめた。

 ジェァーグァが亀の甲羅でできた古い楽器を持って、デルフィーニオの隣に腰かけた。

「ずいぶん手の込んだ代物を持ってきたな」

 デルフィーニオはその場にはそぐわない音を奏でながら答えた。

「カルタゴの人間からもらったんだ。水オルガンという。最近の発明だよ」

 馴染みのない音でも、クラたちは上手に調和させて演奏をした。

 音楽が佳境に入ると、自然とジェァーグァが歌を歌い始めた。低い声色で、表情は夢見るようだった。


 歌は鳥のもの

 鳥から生きとし生けるものは学ぶ

 人は罪深く 弓を作った

 弓で鳥を射った 

 我々は弓から楽器を作った

 人は争い 我々は神を讃える生き方をする

 鳥はただ歌うのみ


 デルフィーニオは顎に手を当てて感心したように言った。

「うーん、ますます詩が上手くなったなぁ。では私も聞かせよう。外の世界の情勢について」

 今度はデルフィーニオが高い声音で歌った。水オルガンで伴奏を鳴らしながら、楽しそうな調子だった。


 今 世界はローマが足を延ばし

 偉大なるアレクサンドロスは若くして死去した

 ヒッタイトもアッシリアも

 かなり昔に滅んだというのに

 クラはまだその歌を歌う


「我々の勝手だ」と、ジェァーグァは剣呑な反応を示した。


 跡継ぎ争いの中

 私は歩いてきた

 戦はもう うんざりだよ


「人間の愚かさはお前が一番よく分かっているはずだ」とまた。


 しかし自然科学は面白い

 アリストテレスは良い友人

 彼は大物になるぞ


「そうか、禁忌にしよう」

 ぶつくさ言うジェァーグァにデルフィーニオは声をあげて笑った。

「ははは、ばかだなぁ」

 月がようやく顔を出し、夜はますます更けていった。


 クツピアーはアギウーカと一緒に、丘の上で大人たちの演奏を聴いていた。二人の表情はさえなかった。

 黙って祭りの光景を眺めていたが、不意にアギウーカが口火を切った。

「あのひと……デルフィーニオさんも忌み子なんだって。噂には聞いていたけど、まさかクツピアーが大人になったような姿だなんて」

 クツピアーは膝を抱いて顔をうずめた。

「ぞわっとした……。僕もいつかあんな姿になるのかな……」

 アギウーカはかぶりを振った。

「でも祭祀長のジェァーグァ様、凄い魔法だった。普通のクラの姿に変えることができた。心配ないよ」

 それでもクツピアーの心は晴れなかった。うなじが見えるほど頭を垂れたまま、うめくように呟いた。

「どうしてあのひとは独りで旅しているんだろう……」

 歌合戦が始まり、演奏が盛り上がった。アギウーカは歌声に負けないように、はっきりと通る声で話した。

「私、知ってる。巫女だもん。七千年前まで、忌み子は産まれる前に殺していたんだって。でもジェァーグァ様が止めさせた。百年も生きられない身体だから、みんな本能で嫌がるの。デルフィーニオさんは、百年経つ前に一回、ジェァーグァ様から光をもらって生き永らえてるんだって」

「光をもらう……そしてクラに変化する……」

 クツピアーはふと思い至った。クラは翅に光がなければ生きてゆけない。自分はどんどん光が減ってゆく。同時にどんどん昆虫のような見た目になってゆく。

「もしかして……あれがクラの本当の姿なんじゃ……? 光を取ったらみんな、デルフィーニオさんみたいな姿なんじゃないの?」

 アギウーカは目を大きく見開いた。その発想は無かった。人間とクラは祖先が同じだという神話を、耳にたこができるほど教わってきた。だから人間に翅が生えただけのクラの姿について、疑問に思ったことが無かった。しかしクツピアーと、デルフィーニオという異色の存在が繋がった今、どうだろう? その神話こそおかしいのかもしれない。

 兄はかわいそうだと思っていた。みんなから嫌厭されて、いつもしょんぼりしていて、自分がしっかりしなければいけないと思っていた。しかし、アギウーカに触れる骨ばった手は強く、とてもほどくことのできないほどの力が入っていた。認めなくてはいけない。真実が曇ってしまう。

「そっか……私もみんなと同じ、クラのことを見ないふりしてた……。ごめん。忌み子なんて言葉も、人間と祖先は同じっていう神話も……怖いから作られたんだ。これからまっすぐあなたと向き合いたい」

 アギウーカはクツピアーの手を両手で覆い、正面に座りなおした。

「ねえ聞いて。この村にいれば、死なないからね? ジェァーグァ様に生かしてもらえるんだよ! 翅の色とか、男とか女とか、祭祀とか巫女とか、普通とか忌み子とか、誰が決めたんよ。気にしないで!」

 クツピアーはうるんだ瞳で妹を見上げて、黙って聞いていた。十三年前、木のうろで拾った時から自分は兄になった。その時の赤ん坊は、すっかり大きくなって、立派な巫女になって、自分の助けなんか必要としなくなっていた。恥ずかしい兄で嫌だろう、アギウーカの言葉は全部哀れみだけだと思っていた。しかし、今はどこか感じが違う。やっと心が通じ合った気がして嬉しかった。

 ただ、徐々にクツピアーは他の気がかりなことで胸が一杯になった。アギウーカは知っていた。知っていたんだ。

「僕……本当は百年も生きられないの……? あと倍生きたら……死ぬの……?」

 ゆるんだアギウーカの手からそっと離れた。

「朝に……呼ばれてるんだ。早いから先に寝るね」

 二人の間の溝はなかなか埋まらない。

 その夜のうちにクツピアーの庭で咲いていたオルヴァ・タギクは萎れた。そして夜明けとともに新しい花を咲かせた。


 東の山々から太陽が昇った。アララト山を眠りから覚まし、アルメニア高原の滝を輝かせ、森林に光を与えた。急な木漏れ日を受けて、クツピアーはまぶしい、と額に片手をかざした。骨しかないので透けてしまう。自分は儚い存在だと実感した。

 隣でかつん、と木の杖の鳴る音がした。振り仰ぐと、デルフィーニオがマントをなびかせて、約束通りやって来ていた。萎れたオルヴァ・タギクの入った籠を持っていた。

「おはようございます」とクツピアーは近づき、枯れた花を取って、咲いたばかりのものに入れ替えた。

「ありがとう。やあ、良い天気だ。クラは夜に祭りを行うが、私もこの花と同じ。太陽の出ている時間がとても好きだ」

 デルフィーニオは優しい眼差しで、不思議そうな顔をしているクツピアーを見た。

「君たちの長、ジェァーグァは私の兄。君とアギウーカのように、仲の良いきょうだいというのがうらやましい」

 クツピアーは疑問だったことを知りたかった。膨らんで膨らんで仕方がなかった。

「百年に一度だけジェァーグァ様に会いに来るって聞きました。どうして独りで旅をしているんですか? お兄さんとも離れて、寂しくないんですか?」

 デルフィーニオはにっこり笑った。

「言ったろう、兄と折り合いが悪いと。クラというのは、もともと旅する種族だった。アフリカから事情があって北上した。そして人間の活動に追われる形で、アララト山へ定住した。安住の地を見つけたというわけだ。しかし私と兄は別々の意見を持っている。私はさらに西の海へ行ったんだよ。かれとは逆に、人間の生活に惹かれてね。あのころは沢山仲間が一緒についてきてくれた。しかし今は独り……。一瞬の生をひたむきに生きる人間が私は好きだ。ここでは人間の行いは何でも禁忌だろう?」

 確かにそうだった。村のクラはほとんど、人間をおとぎ話でしか知らない。関わったとしても巫女や祭祀だけだった。もし迷い込む者を助けたことがあっても、人間は行動を束縛されて、そのまま寿命や病気で命が尽きるらしかった。

「私もね、自由が無いんだよ。どこへ行っても異種族扱い。人間にもなれず、クラにもなれない。解るかい」

 クツピアーは頷いた。

「はい……」

 昇ってゆく太陽を眺めて、デルフィーニオは安らかな声で言った。

「七千年も兄に生かされてきた。だがもう潮時だ」

 突然の告白にクツピアーは驚いた。それはつまり、あと百年も経たずに死ぬということだった。

「どうして……? もう、ジェァーグァ様から光をもらわないっていうの……?」

 デルフィーニオはオルヴァ・タギクを籠から取り、陽にかざして微笑んだ。

「長生きすることに飽きたんだ。クラではなく人間に変化できたら、どんなに良いだろうな。一緒に歳を重ね、心から笑い合い、真の友人になれたら……。

 私は徐々にまた昆虫の姿になるだろう。人間に本当の私を認めてもらえたら、それほど嬉しいことはない」

 デルフィーニオは手を差し出した。美しい指先は残酷な気配を醸していた。

「良ければクツピアー、一緒に行かないか? 森の外には未知の世界が広がっている。一度は見たくはないか?」

 デルフィーニオはしゃがんでクツピアーの肩を抱いた。そして歌を歌った。


 生きている間は輝いていなさい

 決して嘆き悲しんでばかりではいけない

 人生は束の間で

 死がその終わりを見つめているから

 死を想い その日の花を摘みなさい


 青い空に溶けてゆくような、高く澄んだ声だった。彼は「正午まで待っている」と言いおいて、その場を去っていった。

 この村を出ると魔法を受けることができなくなり、百年を待たずに死ぬ。閉鎖的な村で疎まれながら生きるか、未知の新しい世界で死ぬか。

 そのような重い選択を迫られて、クツピアーはどうするべきか分からず困惑した。

 アギウーカが茂みから出てきた。

「今のは人間の流行り歌……。ジェァーグァ様も時々口ずさんでいらしたから知ってる。寿命の無いクラにはあまり意味が分からないけれど……」

 クラは一般的に、首を斬られるか、翅をもがれるか、翅の光を失うことでしか死ぬことは無い。翅の光を失うというのも、忌み子のように産まれつき光を失う運命にあるか、感情を強く持ち心を砕くかの二種類あった。アギウーカは今にも心を砕きそうなほどわなないていた。

「どうしてそんな歌をクツピアーに聴かせるの!?」

 アギウーカはぽろぽろと涙を流して、いたいけな兄を抱きしめた。

 妹の胸に抱かれたまま、クツピアーはもごもご答えた。

「大丈夫だよ。僕もここで一人前になりたいし、アギウーカと一緒にいたい」

 ひとしきり泣いて、真っ赤になったアギウーカの目尻をクツピアーは撫でた。ほっと一息ついて、帰ろうかという時だった。聞き慣れた鈴の音があたりに響いた。

 ジェァーグァがいつの間にか崖の淵に立っていた。「なぜ」と口を開こうとする二人を手で制し、厳かに言葉を紡いだ。

「神託が下った。神の名において予言する。クツピアー、お前の命はあと半年」

 突然の死の宣告に、クツピアーは愕然とした。周りが何も見えないほどの衝撃だった。なりふり構わず誰もの手をかいくぐり、一人走り去っていった。どこへ?

「待って! ジェァーグァ様の光をもらえば大丈夫!」

 アギウーカの叫びは届かなかった。後を追おうとする腕をジェァーグァが掴んで引き留めた。

「忌み子に与える光は死に匹敵するほど。二人も同時に支えることはできない」

 もがくアギウーカへさらにジェァーグァは畳みかけた。

「感情を強く持ったクラは長生きできない。すでに半年のところ、今やさらに短い。クツピアーの心はもうかたくなで、変えることはできない」

 アギウーカは翅を震わせて飛び立とうにもかなわず、抗議の声を上げた。

「全部、ジェァーグァ様と弟のせいだ!」

 たけだけしく怒るアギウーカへ、ジェァーグァは囁いた。

「心を鎮めよ。いいか、お前まで死に急ぐな。兄の分まで生きよ」

 アギウーカは即座に鬼のような形相で振り向いた。

「そこまでして生きたくない! 何千年もばかみたい! 心が砕けるなら、砕けてもいい!」

 ジェァーグァの手を振りほどいて、兄を追って羽音を立てながら飛んで行った。

 クツピアーを止めなくてはいけない、いや、この村へはもう用は無い。本願を叶えてあげたい。一緒に行かなければ!

 クツピアーは森を疾走した。足がもつれ、息が上がった。幻聴が聞こえる気がした。デルフィーニオの声だ。

「おいで、足の強い子」

 もし神が本当にいるのなら、広い世界を一度でいいから味合わせて欲しい。そのために生きていたのだと思わせて欲しい。

 ジェァーグァの呪いのような声が頭に反響した。

「クツピアー、お前の命はあと半年」

 神様、自分がほかのクラと違うのに、産まれる前に殺されなかったのは、この時のためだと言って欲しい。何も遺せなくても、ただの羽虫でも、生きてきた価値があったと言って欲しい。

 躓いて転び、硬い石で大きく膝を擦りむいた。赤黒い血が流れても、クツピアーは足を引きずりながら岩場にしがみついた。普通のクラなら飛んで数秒で頂上へたどりつけるほどの距離を、一所懸命よじ登らなくてはならない。あっと足が滑って落ちそうになった時、デルフィーニオが手を掴んだ。籠が傾き、中に入っていたオルヴァ・タギクがクツピアーに降りかかり、ばらばらと麓へ落ちた。


 半年が経ち、季節は冬を迎えた。クツピアーとアギウーカ、デルフィーニオは、寒いアルメニア高地に帰ってきた。広い地中海世界を見て回った。アギウーカはクツピアーの輝く笑顔を初めて見た。人間たちとの交流を通して、沢山の経験を得ることができた。すっかり昆虫の見た目になっても、クツピアーには受け入れる二人がずっと一緒にいた。今クツピアーは布に包まれ、冷たくなっていた。ちらつく雪がまぶたに落ちても、溶けることはない。クラは死ぬと光になって燃えて消える。しかし、光の無いクツピアーは人間や動物と同様、朽ちるに任せるしかない。

 アギウーカは巫女に伝わる葬儀の歌を、嗚咽を漏らしながら歌った。クツピアーの好きだった「鏡の泉」のある滝へ遺体を流そうとしていた。しかし途中で喉が詰まって声が出せなくなった。

 デルフィーニオが遺体を今にも水面につけようとしていた。

「アギウーカ、さあ、見送ってあげよう」

 アギウーカは涙を止めることができず、ただ両手で顔を覆った。

「わ……私、クツピアーに幸せになってもらいたかった……なにかできたのかな?」

「十分だよ。この子へ、私たちはできることをしたんだ」

 滝の激しい水音に混ざって、鈴の鳴る音が聞こえた。デルフィーニオが対岸を恨みがましく見た。この音はよく聞こえる。

「ジェァーグァ、君は私がクツピアーを誘うことを予見して、死期を教えたね。おせっかいだよ……。見抜かれているだろうけど、寂しかったんだ……。アギウーカをよろしく頼む」

 アギウーカは身もだえして、デルフィーニオからクツピアーをもぎ取ろうとした。

「そんな……! いや! 村へなんか戻らない! 朽ちるなら朽ちたでいい。流すことなんてない。クツピアーとずっと一緒にいる!」

 デルフィーニオはアギウーカの過激な言葉に驚いた。

「なんてことを……! 死者を辱めてはいけない。そっと眠らせてあげよう」

「いや! 死んだなんて嘘だ!」

 アギウーカがクツピアーに巻かれた布を掴んだ。

 デルフィーニオは急いで露わになった遺体だけを、そのまま渓流へ流した。

 ジェァーグァは静かに事の成り行きを見つめ、ゆっくりと話した。

「私はこの杖で、未来を見通す力を得た。デルフィーニオ、レス、私の弟。未来を変えることのできない私を赦してくれ」

 どういうことなのか、突然懐かしいアフリカでの名前を呼ばれたことに驚いて、デルフィーニオは兄を仰いだ。しかし声を出す間もなく、アギウーカが激しい光に包まれた。彼女から獣の慟哭のような叫びが上がった。赤い光がデルフィーニオと、滝へ流れ落ちてゆくクツピアーを吞み込んだ。


 クラスノダールの大学。ゲンナジーが最後のスライドを学生たちへ見せた。アルメニアの涸れ川で、近年発掘された三体の骨だった。炭素同位体の年代測定によると、紀元前四世紀ごろのものらしい。

「驚いたことに、このうち幼体の方は保存状態が非常に良く、他二点は成体のもの。片方はほぼ焼失し、もう片方は少し焦げている。父の手記と照らし合わせると……幼体はクツピアー、焼失しているものはアギウーカ、やや焦げているものはデルフィーニオではないだろうか。ごらん、光に焼かれず水の中にいたクツピアーを。同じ忌み子で、死の光に巻き込まれたデルフィーニオを。翅の支脈がよく見える。世紀の大発見だ」


 あの時、渓流の対岸で、ジェァーグァが涙を流していたことは誰も知らない。



次回で最終話となります。

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