アフリカの赤い薔薇
永遠を求めて死を恐れた兄と、今を生きるために死を受け入れた弟。――1万年を生きる妖精たちの、悲しくも美しい原点。
現在のケニア北部での物語。
トゥルカナ湖は世界遺産に指定されている。有史以前からホモ属が生活する彼らにとって、重要な拠点だった。ワニ、ライオン、キリン、ティラピアなども棲み、生態系豊かな土地だった。今も現地語で「アナム・カアラコル(多くの魚)」と呼ばれている。21世紀の現在、消滅の危機にあるそこには、かつて妖精が暮らしていた。
カアラコルの平原で、子供が夕陽を眺めていた。子供の容姿はその土地に似合わなかった。金の髪を長く垂らし、日に焼けていない白い肌をしていた。さらに背中には、澄んだ緑色の翅を背負っていた。子供はそんな自分たち一族が、土地の人に妖精と呼ばれていることを知っていた。そばにはカアラコルが、翅と同じ緑色をして、のどかにたゆたっていた。巨大な湖だというのに、人影も動物の姿もなかった。ただ子供一人だけが、夕陽が刻一刻と沈んでゆくのを食い入るように眺めていた。
そこへ突然、リー・リーという音がして、子供が振り仰いだ。
藍色に染まってゆく美しい空だった。星ではない何かがきらりと光った。その何かはまるで木の葉が落ちるように、はらり、はらりと舞い降りてきた。
「レス! レス! どこへ行っていたの!?」
子供は儚い光のもとへ駆け寄った。
レスと呼ばれた光は、かれよりも幼い妖精だった。一層白い肌をして、髪は真っ白で、なんの色もない透明な翅を持っていた。
「無理に遠出しすぎたみたい。ごめんねナングェ。
だけど、人の村はおもしろかったよ。新しい習慣ができていた。食べると目の覚める果物があって、とっても苦いんだ。それからみんな肌をわざと傷つけて模様をつけるんだ。人は濃い色の肌でしょう。白い泥や、野菜で不思議な模様を描くんだ。いいなぁ」
ナングェと呼ばれた年上の子供は、ちょっと怒った顔をした。
「泥を塗るくらい簡単だよ! ほら、そこの湖で採ってつけたらいいじゃない。人の村の何がいいんだよ。それより君は翅に光がないんだから、身体が弱いだろう。遠くへ行ったら心配するじゃないか」
二人は兄弟だったが、緑の翅の兄だけが夜闇に光っており、弟は消え入りそうなほどの光しか持っていなかった。
「どうして人を忌み嫌うのかな、分からないよ、ナングェ。 昔はよく一緒に遊びに行ったじゃない。 五十年前、人に名前を付けてもらった。今も産まれた時の名前より大事にしてる。君はナングェ(星)、僕はレス(光)」
ナングェはむすっとしたまま、うつむいた。
「人は死ぬから嫌いだ……」
「人は老いるし、死ぬものね……。村もすっかり変わってしまっていた」
五十年前の思い出を噛み締めて、ナングェは苦い思いを味わった。 二人の名前を付けてくれた人はもういない。そして、かれには義務があった。つい今朝、また大事なひとを失ったことを、弟へ告げなくてはならなかった。
「ねえ……祭祀長が……死んだよ」
「えっ」
レスは突然の事実を受け止めきれなかった。ぐらりとその場へ膝をついた。
ナングェは躊躇してから、手を差し伸べ、立ち上がることが無理だとわかると肩にかつぎあげた。レスの頬に涙がぽろぽろとつたっていた。
「僕が出かけている間に、なにがあったの? 妖精が簡単に死ぬわけがないもの。掟を破って首を落とされたの? 僕……もう光を失うほど悲しい」
「長老にゆずってもらった光を粗末にしないで」
きつく言われて、レスはぐっと押し黙った。
ナングェが毅然と言った。
「不思議なのは人じゃない。僕らだよ。妖精には寿命がない。死ぬことに妙な条件がある。どうして……ほかの生き物と違うんだろう。首を落とされるか、翅の光を失うことでしか、死ぬことがないなんて」
とぼとぼと帰路につく二人の間を、さあっと風が駆け抜けた。夕闇特有の水の臭いが鼻をくすぐった。もう太陽は沈みきり、地平線まで星が輝いていた。
しばらく黙って歩いて、レスが口火を切った。飛ぶ力を失った翅をこすらせて、リー・リーと強く音色を立てた。
「教えて、どうして長老は死なないといけなかったの」
ナングェは青ざめて、いやいやと頭を振った。しかし村を留守にしていた弟は、罪悪感で一杯だった。必死の形相でナングェの腰布をつかんで離さなかった。ナングェは仕方ないので、一言だけ口にした。
「老衰だよ」
レスは心底驚いた。
「そんな、老いるなんて! 妖精は人みたい皺々にならない!」
ナングェは立ち止まって、視線を匂いのする湖に向けた。
「流行り病だ」
レスは理解できなかった。
「流行り病……? 老いることが?」
ナングェは説明した。これまで数百年間も生きた妖精たちが、急激に年老いて、灰になり死んでいったことを。
「灰になった……どうして」
ナングェはただわからない、と言って震えた。そしてやっと、弟が戻ってきたことに安心して、どっと涙があふれた。
「怖い……老いるのが怖いよ。どうして醜い姿になってゆくの? 妖精にはそれがなくて、僕らの自慢だったのに。死ぬのが怖いよ。僕も、レスも、みんな、いつか一気に年老いて、身体が不自由になって、死ぬんだろうか」
レスは気丈な兄が怖気づいていることに気が付いて、励まさずにいられなかった。
「僕、老いて死ぬこと、怖くない。人も動物もみんなそうだもの。老いた生き物はみんな素敵だ。死に瀕した人は、みんな素晴らしく美しい目をしている」
ナングェは嗚咽しながら、胸に詰まった思いを吐露した。
「うそだよ! 死ぬのは怖いに決まってる! 老いたくない! 醜くなりたくない! 死にたくない……。
昨日までしっかりしていたひとが、すっかり食べることができなくなるなんて。祭祀長は僕のことさえわからなくなっていた。そして干からびて消えたんだ。みんな、どこへ行ってしまったの? どうして死んでしまったの……?」
レスは途方もなく悲しい顔をして、空を仰いだ。ナングェも見上げた。天の川がまっすぐに流れていた。
兄弟は同じ妖精の一族なのに違っていた。レスはいつでも死を間近に感じてきた。生まれつき翅に光が乏しかったためだった。五十年間、祭祀長から光をもらって生き延びてきた。死が怖いなど言い飽きてしまった。
死んだ者はどこへいくのか、誰にも分からない。死んだ後は、ここにいないという事実だけが残る。時間は儚いものだ。だから、今を大切にすることしかできない。
草原にレスの歌が響いた。
さだめ……さだめ……そればかり。
生きてゆくにはそればかり。
しかし我らにはたった一つ許された自由がある。
この脳と知恵である。
今を生きよう。
その日の花を摘もう。
ナングェは首を傾げた。
「今歌なんか……それに、意味がわからない」
レスはおかしそうに微笑んだ。
「今だから作った」
そしてレスは、村の死者たちへたむけるために、塊根に咲く赤い薔薇のような花を折った。歌を歌いながら、緑に光る翅をたよりにしながら。ナングェが、毒があるからいけないと言っても、レスはかまわずに摘んだ。トゥルカナ湖一帯で、最も美しい植物だった。
妖精には、遺体を生まれた場所へ葬る習わしがあった。まだ歩くことのできる者たちで、集めることのできる灰をいそいで集めた。そして湖の周辺をぐるりと巡った。大木のうろや、動物の巣穴、水の湧くところ……つまり死者がもと生まれた場所へ灰をまきに行った。レスはそっと一輪ずつ赤い花を供えた。
妖精たちは葬儀の歌を歌い続けた。決まった句が終わった頃、ナングェが節をつけて今の思いを紡いだ。祭祀長の杖をシャン、シャンとつきながら。
としをとること、老いること。醜悪さへの恐れ。
身体がいたみ、うごかなくなる恐怖。
脳が朦朧となる哀しさ。
いたましい死という病から、早く解放されたい。
レスが赤い薔薇を振って、兄の歌をさえぎった。
死ぬべきもの、人間の教えはいいものだ。
歳をとっても楽しげな人間を見なかったか。
死を思うから今を大事にできる。
我々にはできない心がけ。
これは機会だ。
今から何をするか、今まで何をしたかが重要なのだと皆気付く。
ナングェが杖を強くついた。
死が良いものであるはずがない。
一瞬にして無になる。
あの笑顔はどこへ。
なぜみんな灰になる前に涙を流したの。
悲しみしか残らない。
ぼくは胸をかきむしる。
レスがなだめるように歌った。
もういい、もういいんだよ。
疲れた、よくやったよ。
どうしようもない。
行きどころのない不安、怒り。
どうしようもない。
虚しい なんて虚しい。
諦めも肝心。
せめてたった一瞬でも喜びを得よう。
後悔しない毎日を過ごそう。
ナングェが凛然と答えた。
諦めたくない。
そこで終わったら死ぬだけだ。
死の先に何もなく、生が一瞬の価値しかないのなら、
超越する道を探してみせる。
説得できないと悟ったレスは、兄へ花を無言で渡した。最後の一輪だった。
「きみは永遠に生きる術を探すつもりなのかい」
ナングェは手にした花を湖へ放り捨てた。
「もちろんだ」
二人に涙はもうなかった。
流行り病は若い妖精たちへ恐怖を刻み込んだ。原因はその当時、まったく分からなかった。
ずっとあとのこと、21世紀になり、ナングェが実験をして気が付いた。あの現象は、湖の成分によって遺伝子が変異を起こしたものだった。ゲノムを調べれば、妖精もまたホモ属だったのだから、老いはありえることだった。
九千年前の当時、妖精たちは直感で湖を離れることが最適だと感じ取った。ケニアを離れ、北上してエジプトへ向かった。しかし、人の集団が大きくなるにつれて妖精たちは暮らしづらくなった。戦火を逃れ、迫害を逃れて、山奥にひっそりと暮らすようになった。
ナングェはそれでも、故郷のケニアに恋焦がれた。いつまでも湖で暮らした幼い時代を振り返った。カアラコルは生まれ、育ち、敏感な歳を過ごしたところ。そして唯一、妖精が老いて死んだ場所。
レスは単身、妖精の集団を離れた。新しい名前を人からもらいながら、地中海世界を歩いて回った。仲間の元へ戻るのは、百年に一度、光をもらうためにだけ。そして兄弟は互いに懐かしむ。しかし、レスが常にカアラコルの薔薇を持ってきたため、仲違いをした。二人は生涯、死の意味を考え続けた。
ある時のレスの言葉。
「ナングェ、またカアラコルで子供を作り、老いて死なせたのかい。なんて虚しいことをし続けるの。湖が君に呪いをかけた。その杖を早く捨てるべきだ。
炎を作ることを禁じたから、クラは減るばかりだ。
君の所業を皆知らない……。血の涙を流している君を誰も知らない。
どうして今を楽しく暮らすことができない? 沢山死を目の当たりにして、何もかもが怖くなったのか。子供の頃のように笑えなくなったね。君の純粋さは消えてしまった。
生きる意味が欲しいって、なんだ? それは。一体、君は何に満足したいんだ?
目標を追い、達成して、失敗して、食べて、飲んで、笑って、空を見て、風を感じて、歌って……それで何が足りない?
生きることに意味を付けるのは、君だ。時間には今しかないよ。どれも私は人間から学んだ。生きる意味は独りでは見出せないものだ。
君の心は遠く、夢ばかり見つめている。なんて虚しい生き方をするの」
のちにナングェは、出会った人から偶然、カラクルという名前をもらうことになる。
次回は妖精の本当の姿についての物語です。
どうぞよろしくお願いいたします!




