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エルフの終焉

「一緒に死のう。そして宇宙の外へ行こう」――2001年9月11日。一万年を生き、時を遡った最後の妖精が、人間の青年に託した究極の「命の答え」。

 アメリカ合衆国、NASAで勤める人間の残したメモが今回のレジュメだ。

 1998年の初夏から冬までの間、地球上の全てのホモサピエンスが同じ夢を見た。それは、いずれの認識をとってみても、"世界が滅ぶ"というものだった。

 あなたは似たようなSF作品を、いくつかご存知だろう。しかし、その作者の誰もが宇宙の外を見たことも、外からこの宇宙を眺めたこともない。かれをのぞいて……。

 宇宙はいずれ滅びゆくもの、同時に生まれ続けるもの。遥か百三十八億光年先には、まだビッグバンの余韻が残っている。もし光をねじまげて、空間をひずませて、見ることができるなら。

 それのできる可能性を秘めた生き物が、この宇宙には存在した。自らをクラと呼んでいた。

 約四億年前、ある遺伝子がオールトの雲を突き破り、固い金属に混じって、地球という惑星へ堕ちた。遺伝子は新しい宿主を求めた。初めはトンボに、次は恐竜に、そして類人猿に取り込まれ、地球で共生し続けた。ミトコンドリアのように自然に馴染んだ。

 四億年前に墜落した隕石……母星体は岩石の破片を撒き散らした。地球はその中を周期的に通った。流星群だ。

 やがて類人猿が、異星の形式を持って変容するものと、しないものとに分岐した。

 これは、そんな生物の交流の話だ。



 タジキスタンでの取材に、八朔裕也は訪れていた。バブル崩壊のあおりで根無し草になった彼は、テレビカメラマンの叔父に、手伝いをしないかと誘われた。

 旧ソ連の国へ行くなんてめったにない機会だ。ちょっと最近流行りの、自分探しに行ってみようと思った。外国には、ごろごろ自分が転がっているそうだから。

 取材内容は、全人類が見たという夢の話だった。メディアは「全体夢 別名:シンクリドリーム」と名付けた。裕也は大仰に騒ぐメディアについて、こうぼんやり思っていた。

 結局あれだろ? 「ノストラダムスの大予言」だっけ、アンゴルモアだっけ?

 日本では大騒ぎだけど、ヨーロッパに知り合いのいる叔父さんは言っていた。ノストラダムスは、ジャムのレシピを作って、砂糖を広めた人っていう方が、地元では有名なんだって。

 時事にうとい裕也は脳天気な顔で、この騒動を眺めていた。取材でも、大予言と夢との関連について熱弁をふるう研究者と、忙しそうな同時通訳の周りを、ぼーっとうろついているだけだった。

「裕也、お前は例の夢を見なかったのか?」

 休憩時間になって、叔父の八朔秀樹が話しかけた。裕也は岩に腰掛けていた。隕石が何万年か前に落ちて作ったという湖が、きらきらと太陽に照らされて輝いていた。

「見たような気がするけど、てんで子供っぽくって、信じる気にはなれないや。世界中の人が見たからってなんなのさ。予知夢って騒がれてるけど、世界の終わり方は人それぞれ違うんだろ?」

 叔父は、ぼりぼり若白髪をかきながら答えた。

「そうだなぁ。インタビューしてまわっている限りだと、現実問題へうつすには微妙かな。集合的無意識による予知夢、なんてほどじゃないさ。

 ある人はUFOが大都市を破壊する夢、ある人は大地震、ある人はスーパーボルケーノ、またある人は大津波、天使のラッパを聞いたという人もいれば、仏像が街を消して真っ平らにしたという人までいる。自分の身の回りの終末と呼ぶ方が、正しいような気はする。お前は? どんな夢を見た?」

 聞かれて裕也は、そこらの葉っぱを引き抜いて、紙飛行機のように湖へ投げた。

「隕石。ふってきて目が覚めた」

 叔父は苦笑いした。

「まあ、なんでも将来ありえるんだけどな。そうやって一瞬で恐竜は絶滅したんだ。でも、人類が終わったところで、地球にとっては蚊に刺されるようなもんだろ。むしろ自然破壊がなくなってバンザイってか? 世界の終わり、なんて人間のエゴイズムさ」

「そういう叔父さんは、何を見たの?」

 叔父は恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「母さんが怒って、巨大化してビルをぶっ壊すんだ、おかしいだろ」

「うん、サイコー」

 二人でへらへら笑っていると、先程テレビカメラに向かって真剣に語っていた人が、怒った顔をしてこちらを見ていた。

「まずいなぁ。戻ろう。裕也、飽きて一人でどっかへ行くなよ。ここは知らない土地なんだからな」

「分かってるよ」

 ぶっきらぼうに答えたので、叔父に髪をくしゃくしゃされた。叔父はとても血が繋がってるとは思えない、足は早いし力持ちだし、東京外大で主席だし、何でもできるスーパーマンだ。ただ口うるさいや。

 ふと湖に目をやると、キラリと何かが光った気がした。後ろを振り返って、叔父を呼ぼうと思った。しかしもう撮影が始まってしまっていた。一人で行ってみよう! 隕石のかけらかもしれない。大発見だ! ここは確か……五百万年前にできた湖だったかな? 人類がチンパンジーと分かれた時代だ。

 裕也が浅瀬にざぶざぶ入ると、光っているものの正体が分かった。

 赤ん坊だ! 女の子かな? いや男の子かな? ちびっこは分からん。なんで、あんな湖の真ん中にいるんだ? 光っている気がする。仮装でもしてるのか? ハロウィンは遠いのに、妖精の翅なんかしょっちゃってまあ。

 光は浮いていた。そして急にポシャンと落ちた。もしかして……溺れてる?

 ちょっと迷ってから、上着を脱いで、クロールで赤ん坊を助けに行った。夏でもパミール高原の水は冷たかった。光が目の前になったので、平泳ぎでゆっくり近づいた。

 赤ん坊は弱々しい、まるで脱皮したてのような翅と、短い手をばたばたさせて、水に抗っていた。

 裕也は、付け焼き刃のロシア語で話しかけてみた。

「チクショウ、クソガキめ! 助けてやる!」

 無駄にスラングばかり覚えたので、とっさだと汚い言葉しか出てこなかった。

 子供は必死で、裕也の存在に気付かない。それをむりやり片手で抱いて、背中にのせた。

 湖を平泳ぎしているうちに、自分は人命救助をしているんだと実感して、つくづく水泳部で良かったと思った。

 へへっ 学校を出て、不況のあおりをくらったけれど、僕は捨てたもんじゃないんだ。

 浜辺で叔父が大声で呼びかけていた。

 テレビにうつっちゃったりして。《外国で日本人の少年が、湖に溺れた赤ん坊を助けた!》 なーんて。

 裕也がそうして余裕をこいていると、背中の子供が落っこちそうになった。慌てて仰向けになって抱えなおした。

「裕也、どうしたんだ! 大丈夫か!?」

「うん、僕よりこの子が……早く病院へ連れて行かないと」

 叔父はびっくりして、湖からあがった甥の腕の中を見た。サングラスごしに狼狽が伺えた。

「ありえない……こんなことって! 新種の巨大な昆虫か?」

 そこまで驚かなくても……人の形をしてるのに。でも、確かに赤ん坊はほんのりと光っていた。しかも、むきだしの背中から翅が生えていた。そして伝説めいた、古代ギリシアかローマ時代みたいな服をまとっていた。大人用を着せられていて、ぶかぶかだった。

 裕也がもう一度声をかけるまで、叔父は棒立ちになっていた。

「……病院で対処できるといいけれど」

 くるりとカメラクルーへ向き直り、ロシア語を早口で話した。多分、子供だから映さないでほしいって言ってるのか。なーんだ。

 移動車の中で、赤ん坊を裕也の膝の上に寝かせた。しばらく揺られていると、その子が目を開けた。虹色の瞳だった。どう反応したらいいのか困っていると、また目を閉じて眠り始めた。

 妖精……? まさか本当に!? 目の錯覚だろ、なんかの環境汚染での突然変異だろ。

 その子はぎゅっと裕也の手を握った。

 病院でも先生は驚いて、レントゲンを撮りたい、いやもっと精密な検査を、大病院へ連絡しよう、と大慌てだった。まるでその子が実験体にされているかのようだった。裕也は叔父の制止をきかず、先生から赤ん坊をむしりとって、病院からずかずかと出ていった。

「おい裕也! これからどうするんだよ! まさか、その虫……いや、違う、なんだ、宇宙人?

 育てるとか言うんじゃないだろうな」

 追いかける大きな声に引き止められて、病院の玄関の階段で立ち止まった。放心状態の赤ん坊を揺らし、前を向いたまま答えた。

「……他の人には任せられない」

 叔父は裕也の肩を掴んで振り向かせた。

「何言ってるんだ、犬や猫だって大変なんだぞ。お前の目にはどう映ってるか知らんが、虫の擬態だ! 捨てろ!」

 信頼してたのに、人間の子供に対してあんまりな言い方だ。

「叔父さんのろくでなし! この子、こんなにかわいいじゃないか」

「……なあ、裕也……」

 叔父はいくら言っても無理だと気付いて、説得の仕方を変えた。

「お前、赤ん坊の面倒看たことないだろ? しかも衰弱していて、翅の生えてる子、どう世話したらいいのか俺にも分からないよ。どんな病気にかかるかも分からないし、点滴だけでも受けさせてもらった方が賢いだろ?」

 裕也は肩にかけられていた手を振り払った。

「じゃあ叔父さんは、この子がこのまま麻酔受けて解剖されるの、放置するってのか? あの先生、まともじゃなかった。点滴を優先するべきなのに、たらい回しにして……。この子は僕の子だ、僕の子なんだ!」

「こら! 意固地になるな、裕也! くそっ こんな虫……!」

 叔父が赤ん坊をとりあげた。すると空中で、ふえぇ……と、か細い泣き声が聞こえた。この時、初めて赤ん坊が口を開いたことに、二人は気が付いた。親戚らしく、同じことを考えた。

 今まで泣く元気も無かったのか。何歳何ヶ月なんだろう。親はどこに……。

 裕也が叔父から赤ん坊をもぎとり、昔歌ってもらった子守唄を歌うと、すーっと寝入ってくれた。叔父は頭をかきかき、仕方ないな……と言った。

「生き物の世話は大変だからな……子供は思ってるよりもずーっと。憎さ半分、愛情半分だ。俺も一緒に看るよ。お前、ずっと家族が欲しかったもんな。責任……果たせよ」

 叔父の真剣な眼差しを受けて、裕也はそろそろと頷いた。

「うん……ほんとに僕の弟か妹になったらいいのに。ようしえんぐみ、したいな」


 赤ん坊は翅だけでなく、二人を驚かせた。いったい何なのだろう、この子は。まるで『竹取物語』のように、時間とともに大きくなって、翌日には裕也たちの言葉を話すようになった。最初の心配をよそに、すくすくと元気になって、その夜には抱っこを嫌がるようになった。タジキスタンにいる七日のうちに、七歳くらいの見た目になった。トイレ、お食事、服の着方、時間の守り方など、教える手間が必要だったのは初めだけで、その子はあっという間に発達した。

 常識外れでも、裕也はメロメロだった。虫、虫と毛嫌いしてたのに、叔父もサングラスをはずしてかわいがりだした。

 ぼんやり光る翠緑の翅で、くるくる飛び回って、「ゆうにい、ひでにい」と呼んでくれる。鱗粉が目に入って痛いけど、したったらずでかわいい。生意気を言ってもかわいい。

 三人でからかい合いながら、タジキスタン名物の天然温泉に入った。初めて入るお湯に、その子はとても喜んだ。クラゲを作ってあげると、きゃっきゃとはしゃいだ。撮影クルー皆で一緒に、日本の童謡を歌った。

 中古の日本車は煙をよく吹いたけれど、タジキスタンの男たちは工具と水をふりまいて、どんな険しい山道も走りきった。乗っている間は、がくがくとスリル満点でキャーキャーいって、故障を直す待ち時間には、新しい家族と鬼ごっこして回った。

 紛争冷めやまないアフガニスタンがすぐそこにあるのに、パミール高原は美しかった。

 付け加えると、子供の性別はぱっと見、よく分からなかった。翅があることと関係しているのだろうか。だから裕也は、どっちだかよく分からない名前で呼ぶことにした。あの湖にちなんで、カラクル。もうちょっとかわいい名前がいいと叔父に言われて、丸一日悩んだ。けれど、何色にも変化する湖だそうだから、この子の瞳の色にぴったりだと思ってそう決めた。

 とりあえず病気もなく、カラクルは元気いっぱいに育った。そろそろ学校に行かせてあげるべきなのだろうけれど、裕也にはお金がないので、帰国後、両親を説得しなくてはならなかった。

 またもう一つ不安があった。成長がぐんをぬいて早いこの子が、果たして学校で馴染めるのか?

 カラクルは、周りの人間に翅がないことを不思議に思ったのか、だんだんパタつくのを遠慮しだした。元来カラクルの声はとても小さかった。無理に発声しているようだった。カラクルは返事の代わりに、よくリーリーと翅を鳴らした。そのほうが楽なようなので、裕也たちには翅言葉……と名付けた。それでいいよと言ってあげた。

 もしかすると、リーリー奏でるのがカラクル本来の会話の仕方なのかもしれない。タジキスタンにはきっと、妖精の一族がいるんだ。いつかもとの場所へ返してあげた方が良いのかもしれない。きっとカラクルの親が心配している……。


 ある日、カラクルが走って突進してきた。顔面に飛びつかれたので、裕也は「うごご」と草地にへたりこんだ。撮影が中断されてしまうくらいの騒ぎだった。

 カラクルはそれを意にかいさず、髪を自分のと見比べたり、裕也の手を揉んで観察したりした。どうしたんだろ?

「ゆうにいも、ひでにいも、ほかのひとも。みんな、かみと、はだのいろが、こいーね。

 どおしてぼくだけ、しろいのかな? はねもへんなの。こんなの、ないほうがいい。

 みんな、へんなめでみるもん。みんなと、おんなじになりたいな……」

 市場の取材の間、カラクルは同い年くらいの子供を見つけて、飛んで遊びに行っていた。そのときに辛いことがあったのか、カラクルが悲しそうな声音で言った。表情一つ動かさない小さな声。でも四六時中一緒に過ごすと、感情の変化が分かる。裕也と叔父の他には、残念ながら、カラクルが何を思っているのか分かりづらいようだ。

「僕はカラクルの翅と色、大好きだよ。なんか言われたって気にしなくていいよ。そんなやつ、にいちゃんがやっつけてやる!」

 カラクルは急いで裕也の袖をちょんちょん引っ張った。力いっぱいなのだろうけど、シワを作るくらいしかできない。

「ゆうにい、たたいちゃダメ。ぼく、がまんする」

 がまんなんて、しなくていいのに。

 裕也はカラクルを抱っこして、やわらかい髪をすいてあげた。

「そうだな……よしよし、辛かったな。次行く町は、きっと仲良しな友達ができるよ」


 日中・日露協同取材の番組は、まだシルクロードの草原の道をゆく。山を下り、そして登る。やがてカザフスタンの大ステップへ入った。スキタイ、クマン、ブルガール、ハザール、フン族の活躍した騎馬遊牧民の道だ。

 草原には、石でてきた人形が点在していた。ユーモラスなので、裕也とカラクルは、撮影クルーの顔にそっくりな石を見つけ合いっこした。そのうち飽きたのか、カラクルの気配が消えた。

 どうしたのか裕也が探して回ると、丘の上でカラクルが背中に腕を伸ばして、うーんっと翅を引っ張っていた。それから時々頭のてっぺんの何もない空をひっかいた。奇行にしか見えない。

「わーまた! なっ、何してるんだ? 痛いだろ!?」

 カラクルは翅を無理に掴んだまま、苦しそうに言った。

「こんなの! もーないほうがいーいーっ」

 裕也はカラクルの手をとり、真正面を向かせた。病院の前で、叔父が裕也にしたように。

「そんなことないよ! カラクルしか生えてない翅、綺麗じゃないか。飛べるなんて凄いじゃないか。地球上の人間みんな羨ましがるぞ! 君の映画が作られるかもしれないぞ!」

 カラクルは泣きべそをかいて、裕也にしがみついた。クルーに何か言われたのか? そっか、地元の人たちに道行く先々で指差されるのが嫌なんだ。

 そりゃ僕は有名人になりたいけど、カラクルにとっては、生まれてからずっと珍しがられて、馴染めないなら嫌だよな。

 馴染めない……つんと裕也の心が傷んだ。そうだ、僕も日本に馴染めなかったんだ。今こうしてカラクルと遊べるのも、叔父さんが手引してくれているからだ。ただの飯炊き要員にしかなれない僕らなんて、お荷物なんだ……。

 そう考えると途方もなく悲しくなって、裕也はカラクルを抱きしめた。地球上で、独りぼっちな気がした。どこへ行っても、何をしても、居所が見つけ出せない。

「なんか嫌なこと言われたって、にいちゃんは絶対、カラクルの味方だからな」

 カラクルの翅がリーリーと答えた。

 頭の先に何かあるのかな? 確かに叔父やクルーの皆は、視線がカラクルの背丈よりちょっと上の何もないところを彷徨うことがある。嫌なものを見る表情で。裕也には見えない何か……。


 その日の晩、裕也は不思議な夢を見た。バンの中で、クルー皆と眠っていたはずなのに、意識ではなぜか和室にいた。暗いガラス戸を、外からばだばた、何かの打ち付ける音がした。

 雨が降っているのかな……? 隣にはカラクルが寝ているはずだ。きっとかわいい顔で……。

 しかし、ぐーんと手足を伸ばしているのか、裕也は背中を押されていた。

 早く、目を覚まさないと……。

 布団から転がり出て、ふすまにぶつかった。起き上がったかと思うと、まだ布団の上を転がっているだけだった。何度も布団を転がり、ふすまにぶつかる。起き上がったつもりになる。

 うう、早く、早く目を覚まさないといけないのに……。どうして起きることができない。なんで起きないといけないんだろ……? 眠ってても良いんじゃないか……? むしろこのまま目が覚めないといい。ああ、だめだ、大事なものを……中央アジアに残して帰ってきてしまった……なんだっけ?

 不意に枕元に気配を感じた。素足の歩く音。

 グ・グ・グと音がなりそうなくらいに力を入れて見上げると、長身で、金の髪を長く垂らした不思議な人間(?)がいた。

 あっ翅がある。カラクルと同じ、トンボのような翠緑の翅……。とうとう出てきた! カラクルの親なのか? 

 顔は髪に隠れて見えなかった。その胡乱うろんな存在は、裕也を見下ろして口を開いた。

「お前の言葉に翻訳しよう。私はあの湖で拾われた赤ん坊だ。身体の時間をさかのぼらせる直前に、記録した幻を今、見せている」

 意味が分からない。なんだって? カラクル? うそだろー!?

 裕也はもごもごとしか言えなかった。

「挨拶代わりに押し問答をしよう。おや? 話せないのか?」

 そのひとは布団に片膝をついて、のぞきこんできた。髪がこぼれて、こそばゆかった。人間らしくない虹色の瞳がちらちら見えた。

「まずは自己紹介だ。私たちはクラという種族だ。クラは光でできている。ふふ、ありえないという顔をしているな? 人間の脳も電気信号の集まりだろう」

 そうだけど、そうなんだけど、初っ端から頭がついていかない。哲学……いや理科の話?

「私たちは光という意識生命体だ。この惑星より遥か彼方、宇宙のどこかで光が集まり、意識を持った。そして地球へやってきた。お前たちの言葉を借りれば、異星人。電気が人間の意識を作ったのなら、光に意識が発生してもおかしくない。そうだろう?」

 うーん、光の生物……眉唾ものの雑誌でなら、そんな話が載っていた気がする。

 それにしても、おかしいなぁ。カラクルはまだちっちゃい子供だってば。こんなに僕より年上で、筋肉もあるわけない。ちえっ。高校野球とプロ野球の差だもん。

「すねるな。分からないままで良い。聞け、裕也。クラ、それは光の意識生命体のうち、類人猿に取り込まれたものだけ指す言葉。翅が目立つため、種族として分けられた。お前の叔父は"巨大な昆虫"と呼んだが、我々は同じホモサピエンス」

 裕也は頭を動かせなかった。じーっと見られてる。なんで理科か歴史の話をされながら見つめ合わなきゃいけないんだ。眉間にシワを作って無理やりまぶたを閉じた。びっしり閉じた。もう開かない。どうしよう……。

 んん? だいぶ遅れて理解してきた。カラクルが異星人? なんてこった。地球外生命体だなんて。あんなにかわいいのにー。

 えっ? だけど、ホモサピエンス? 

 混乱してきた……人間なのか異星人なのか、どっちなんだ。

 それにしても、よくしゃべるなぁ。ほんもののカラクルは無口だぞ。

 このひと、いつまで僕のこと見下ろしてるんだ。髪がこそばゆいんだけど……。

「なるほど、会話しにくそうだな……口は引き結ばれ、目は抗い閉じる。思考を読もうにも余計なことばかり。難儀だな。とにかく私は誠に、カラクルの過去の姿だよ。繰り返すが、肉体の時を戻したのだ」

 数十秒遅れて、痺れた頭が言葉の意味を認識した。

 ええっ 若返るなんて、そんなことできるのか? 漫画でしか見たことない……。確かだとしても、どうして? マフィアに薬でも飲まされた?

 雨の打ち付ける音が大きくなった。相手の反応もまた遅れて見えた。

「なぜかだと? 他人の手ではなく自ら望んでだよ、裕也。私がそれに挑んだ理由は、過去を懐かしんだからに他ならない。失われた幼年期、あらゆるものが輝きと喜びに満ちていた日々の記憶……。一万年を経て絶え果てた……。この世にクラはもう私一人しかいない。みな虚ろな心を嘆き、積もり積もった悲しみで心を砕き、死を迎えた。

 私が終わる寸前に見た、人間の少年よ。今、新たな私は幸せだろうか? 永遠に続くと良いが……。他のクラのごとく、虚無に閉ざされることのないようにできないだろうか」

 カラクル……カラクル……。そんなになって欲しくない。悲しそうな声の大人になって欲しくない。あんた、なんて辛そうなんだ。辛いと免疫力が弱って、病気にかかるんだぞ。死んじゃうんじゃないか。

 立ち上がる気配がした。離れてゆく。ウンニョリした間をおいて、ふうっと呼吸がしやすくなった。大人のカラクルの方を見やると、憤然と腕を組んでいた。なにやら怒らせたらしい。

「私を憐れむのか! たかが人間の小僧が、図に乗るな。安心しろ。クラは首を落とされるか、翅をもがれるか、心を砕くことでしか死ぬことはない。致命的な病も寿命もない」

 そのひとは曇りガラスにもたれて、はりついた雨の雫を眺めた。

「……カラクル……良い名前を付けたな。あの子はお前の元ならまだ大丈夫だろう……。お前ぐらいしかいなかったんだがな。

 いいか我が光をかぶった人間よ。私はなんのために生きるのか、答えがほしい。心はなぜ存在するのだろうか。虚ろになってもかすかな感情と思考はある。なぜ感情と思考を持ち、苦しまなければならないのだろうか。ホモサピエンスに産まれたからなのか……」

 金縛りが解けたためか、裕也はようやく声を振り絞ることができた。独り言をいう相手へ、 大雨に負けないほど強く、届くように。

「どうしたらいい? どうしたら僕が死んでも、あなたや、カラクルは幸せでいられる? 僕なんか、トラックに突っ込まれていつでも死ねばいいんだ。

 でも、寿命がないっていう、カラクルは? 永遠に幸せでいるなんて無理難題過ぎるだろ。子供時代はいつか必ず終わるんだ……。自分で考えて、どう生きるかが肝心なんだ……。

 僕は年長者として何か教えなきゃいけない。大事な人がいなくなったあとの過ごし方を……。そんなの僕にだって分からないのに!」

 これは会話じゃない。お互いに独り言をいっている。

 雨が激しくなるとともに、記憶が蘇ってきた。こんな夜は、葬式のざわめきと線香の匂いを思い出した。和室に人だかりができているように感じた。お経……白い箱。白い花。冷たい空調。タイムマシーンで戻ったかのよう。伯母さんが叫び声を上げて箱に駆け寄る。垂れ幕が風でなびく。人が影のように並び、香を上げてゆく。子供は二階にいなさい。二階へ……。

 懐かしい少年の姿の叔父が、裕也の手を引いた。連れて行かれながら振り返った。

「お父さん……なんで癌で死んだの? お母さん……なんで心筋梗塞で死んだの? 僕はまだ保育園だったのに……。あれから、人はいつか自分も含めて死ぬものなんだと実感して、切なくなった。死神みたいな不安がつきまとうんだ。他の子はそんなものを感じていないのに……。

 ちっちゃいカラクルが……僕にいて欲しいって言ってくれるから、死なずに済んでいるんだ。教える義務があるっていうのか? 自分が忘れた、幸せになる方法を? 知らない無垢な時代を? どうやって!」

 人の波が揺れて、にじんで、闇に溶けた。湿った部屋に、たんたんとした声が響いた。

「日本の葬儀は暗鬱としているな。この部屋はお前の鏡。妙なものを見せてくれるな。まったく。

 裕也、答えは子供時代にあるのではないぞ。我らが苦悩、心をもたらしたものにこそ原因がある。原因を知れば、幸せになる答えが見つかる」

 裕也は憑かれたように言葉を繰り返した。

「心……? そもそも心は一体、どこから生まれて、どうしてあるんだ……?」

 難しい疑問なのに、あっけからんと返事があった。

「それは生物が生存競争を繰り返し、環境へ適応した……。すなわち進化の上で必要だったに過ぎない」

 聞いてちょっと涙が引いた。はあ……なんだそれ……分かってたんだ。それに、血も涙もない。心が進化の結果だと知ったからって、幸せになれるのか。からかわれているんだろうか。ひどいや。

 裕也は首を反り返してうなった。

「じゃあ教えてくれ。なんで心が必要だったんだ? どうして後悔や、悲しみが、進化の上で必要だったんだ。こんなの……無い方が良い。あれっ? こりゃカラクルの台詞だな。

 ああ、もう! ひとを困らせて一体何がしたいんだよー」

 勝手に畳を蹴って立ち上がって、大人のカラクルと向かいあった。息がぜえぜえした。葬式はすっかり消えていた。がらんとした仏壇だけのある部屋。声を張り上げてみても、相手の口元はうっすら歪むだけだった。

「裕也、初めて私と深く語らう人間よ。今異星人とコンタクトしているのだ。もっと喜んだらどうだ」

 あざ笑う調子に段々腹が立ってきた。なんも嬉しくないぞ、こんな状況。

 大人のカラクルは、仏壇のぼんぼりが映えてますます幻想的になっていた。

 裕也はまだ麻痺の残る身体を動かして、おそるおそる近寄った。

 よく通る低い声が和室中に響いた。

「心とは一万年間、生物を見てきた限りではこう言える。自然環境と社会生活に適応して残された。悲しみは分かち合うために。後悔は見直すために。はては、おのれの遺伝子を受け継ぐために有利に働いた。お前はどう思う?」

 聞かれて裕也は、額に手を当ててうなだれた。寝てた方がマシだったかな。この押し問答は、なぜ、なぜ、なぜ。そればっかりだ。参ったな。回転する……回転する……ぐらぐら。身体も頭も痺れている。

「分からないよ……あんた、初対面なのに失礼だなぁ。知恵熱が出そう……夢なのに。

 なんで……遺伝子を残すことが生物の命題になったんだろう。人も、動物も、ウイルスも、クラでさえ。いや……クラは違うのか? 異星人だもんな」

 大人のカラクルの目が虹色に光った。この質問を待っていたようだった。

「クラも同じ。方法が違うだけ。隕石に付着した遺伝子を取り入れる。さあほら、ごらん?」

 闇の中に薄ぼんやりと立っていたそのひとは、片手を裕也へ差し出した。そして線香花火のような、パチパチと弾ける火の玉を作りだした。ぽっと畳の上に落ちた。火は激しい炎となって燃えだした。

「うわーまずいって!」

 安心しろと止められなければ、裕也はもみ消そうと足で踏んづけていただろう。

 炎は高く燃えて、天井をなめるかというその時、不意に消えた。見えない消化器の粉がザッとふりかかったかのようだった。

 裕也は火事にうろたえて尻もちをついた。

 いってえ。ちょっとは支えてくれよ。魔法……? なんのこっちゃ訳が分からない。

「この火へ、人間の髪の毛を少しと、隕石のかけらを加えれば、三つが融合してクラが誕生する。不思議だろう。我々は脆弱なので、誕生のためには人間と隕石という外部の素材を使わなければならない」

 裕也は腰をさすりながら考えた。隕石? 絶え間なく降り注いでいるっていったって、必ずしも生命の誕生に使えるものなんだろうか。

「ふふ、もっともな疑問だ、裕也。しかし知っているだろうか? 四億年前からある一定の遺伝子が付着している。どこかで惑星が滅んだのかもしれない。やがて尽きるだろう。

 これはクラの中でも、数千年生きたものしか知らされない秘密。誕生を意のままに操作する技。気に食わない容姿と、脳の構造に欠陥を持つものが産まれるなら、胎児のまま殺してしまえ」

 大人のカラクルは、先程までの落ち着いた姿とはうってかわって、髪を振り乱して熱情を口にした。

「ばかな! 祭祀とは料理人だった。信じ込まされていた! 流れ星の多い夜、自然の輝きが凝縮して発生するのだと。神話があった。偉大な神が麦から編んで作るのだと」

 急になんだ? このひと。騒がないでよ、みんな起きちゃう。僕なんか悪いこと言ったのかな。

 相手は怨みがましく目を上げた。

「……想像してみよ。コウノトリが赤ん坊を連れてくるなどという戯言を、大人になっても聞かされることを。子孫にもそう教えよと強いられることを」

 確かにサンタクロースを中学になってまで信じてると、変人扱いだもんな。叔父さんには悪いけど、小学四年で躍起になって「サンタはいないに決まってる!」って騒いだの覚えてる。特に嫌なことをされたわけでもないのにな。

 あと、性教育が進んでないと、勝手に興味持つものだから困るよな。うへえ、人前でこんなこと考えるのやだな。

「……サンタクロースと性教育か。確かに当たっている……。お前の身近な話題で話すことは、なかなか難しい。私も嘘が嫌いだ。あろうことか、他人の手で産まれてきたのだと教えられた時、憎いと感じたよ。人間に置き換えればデザイナーベイビーだ」

 あれっ? 僕の考えてることって、だだもれなのか? うわぁもっと早く気付くんだった。最悪……デリカシーないな……。

 真っ赤になった裕也を無視して、大人のカラクルは言葉を続けた。

「私は教わって以来、もうクラを作りはするまいと決めた。残ったクラたちのために神話と秘密は守った。私を産んだ最高齢の、七万歳のクラが死して、ざまあみろと思ってしまった。そして……私の怨みは行き場をなくした。

 こんな、ばかばかしい誕生の仕方を、真実だと認めざるをえないのか。この悔しさはどこから湧いてくる。誕生は神秘ではなく人為でしかなかった。素材はただの髪の毛と石ころだった。真実は、涙を否定するのか。私の生きた年月を否定するのか。散っていったクラたちの命を否定するのか。こんなことわりを作った神こそが! 腹立たしくなった……」

 しばらく沈黙が続いた。

 そうか、ずっと誰かに聞いて欲しかったのか……。やっと思いの丈をぶつけることができたようだった。

 裕也は俯いて、見上げて、声をかけようとしてやめた。

 何を期待されているのだろう。幸せに……なる方法? なんて励ませばいいんだろう……。共感したい。でもよく分からない。僕らにとったら他人と他人がくっついて、子供できるのは当たり前だけど、そんなに悔しいことなのかな……。デザイナーベイビーか……だったらちょっと、こんな顔で産んだ親を怨むかも。親はどうして……生き物はどうして、増えたがるんだろう。

 裕也があぐらをかいて迷っている間、歌が聞こえてきた。それは高く、低く、男でも女でもない不思議な……。さやさやと竹の葉のこすれるような、湧水の流れ出るような、心地のいい音だった。大人のカラクルが唐突に、歌を歌い始めていた。先程の燃えるような調子とはうって変わって、陶酔に満ちた瞳だった。杖を振るい、鈴を鳴らす。ぼんぼりの光が裕也まで包んだ。

 歌にあわせて、ふすまへ影絵芝居が映し出された。東南アジアみたいな繊細なデザイン。それらは回って向きを変えたり、かくかく動いたりした。裕也は宙を見回してみたが、影を作る本体はどこにもなかった。鈴もまた東南アジア風の、金属をコロン・コロン叩く音。小刻みに弾む何かへと変わった。

 あっこの楽器、知ってる。ガムランだ。叔父さんがよく見てた、バイクと超能力の活躍するアニメ映画に出てきていた。


 宇宙が始まりの時……ムラが生まれた。

 そのムラが固まり熱を持ち、ビッグバンとなった。

 つまりこの宇宙は、始まった時から偏りがあった。

 もともと物質と反物質があった。

 お互いに吸着しあい、光というエネルギーになって消えるもの。

 しかし反物質が僅かに少なかったために、物質だけの宇宙になった。

 お前も私も地球も全て、残り物。

 始まりから偏りのある世界に、物質は安定しない。

 食うか食われるか、残るか消えるか。

 生存競争が起こるのは必然だ。

 結果、遺伝子を残すことが命題になった。

 これは宇宙の法則だ。

 クラは寂しい……虚しい……と思うから仲間を産む。

 しばらく心は愛に歓喜する。

 そして、結局法則に抗えなかったことを知り、打ちのめされる。

 愛も、行動も、そうするように定められたものだから。

 心は無用の長物だ……。

 繰り返すくらいなら、凍りつかせた方がいい。


 最後に見えた影絵は、翅を持つひとびとが集い低くうなだている様子だった。舞い遊ぶ子供たちを放っておいて。ぼんぼりの光は縮小し、影絵もそれっきり、すうっと消えた。


 びっくりだ……元気がないように見えたのに。なんて不可思議な幻覚を見せるんだろう。これがクラの力……。シルクロードの旅でも、息を吸うように歌ったり、踊ったりする民族を見てきたけれど、このひとも一緒か。クラって日本人と価値観が違うんだな。今の気持ちを歌にしているんだ。ひどく悲痛な印象……。

「じゃあ、僕は? 僕という存在は、何? 別に結婚しようなんて思ってない。本能なんか理性で何とかなる。カラクルは? 叔父さんは? あなただって。みんな別々の個人だ!」 

 音楽がやんだ。ぼんぼりだけの明かりの中、残念そうに首を振る動作が見えた。

「生物は無意識で皆繋がっている。夢を……共有しただろう」

 まさか! と裕也は拳をふりおろした。信じられない。あんまり強く叩いたので、部屋の柱がミシッときしんだ。手も痛くなった。夢なのに。

「ぜ、全体夢なんか嘘だ、でまかせだ! 個々人の脳みそが繋がってたまるか! あんたは自分の存在が否定されてるってさんざん嘆きながらおかしいよ。無意識でつながってるなんて、恥ずかしいじゃんか! あと僕の考え、いい加減よむのやめろよ!」

 大人のカラクルは、鈴のついた大きな杖をゆっくりと下ろした。裕也はとっさに叩かれるのかと身構えたが、シャン、シャンと厳かな音が鳴るだけだった。声音が笑っていた。

「今、君に語りかけている私は幻。カラクルの意識の奥深くに記録を残した。あの子を通して君に拾わせている」

 こんな夢を見ているのは、カラクルがくっついてるから……? 

 ふと重大な疑問が湧いた。杖をどかして相手の顔を確かめた。

「クラも見たのか? あなたも? 世界の終わりを……」

 簡素な答えが待っていた。

「見なかった。あれは人間だけの体験。お前たちは超能力や予知夢を信じがちだが、頭蓋骨に閉ざされた肉塊でしかない脳が、外部に影響を及ぼすなど、本気で信じているのか」

 何かがおかしい。何かが歪んでいる。ごまかされた? そんな気がした。とりあえず布団をたたもう。動けば考えがまとまるっていうよな。

 裕也は杖を避けるように背中を向けた。この杖、いやだ。ひどくドキドキする。布団を三つ折りにしながら横目で見やった。

「じゃあ、あなたは? カラクルは……何? 肉体を若返らせたじゃないか。全体夢は? この生々しい夢も、一体何? 超能力じゃなくて他になんだってんだ」

 大人のカラクルは、杖を大事そうに両手で持った。反動でシャンと鈴の鳴る音がした。

「それは全て光を歪めただけのこと。時間を引き伸ばし、縮ませる実験をした。宇宙の時間は、地球上の時計とは違う。大きな物理法則がある。我々は光でできている。ただの物理の実験。無事成功したんだよ。

 "私"はいったん死ぬが、肉体だけは生きている。裕也、翅の麻薬を受けた者。もう時間切れだ。"私"をよろしく頼む」

 まるで大きな湖の底にいるようだ。

 あれっ身体の自由が全然きかない。歌とともに、部屋が真っ暗になる。何か光っている。沈んでゆく。あれは、カラクルの記録されたカセットテープ……。記録……過去の幻影……。

 夢の会話は、ぽとりと黒い染みを裕也の奥深くに落とした。


 大人のカラクルは本当に"いた"のかな?


 こんなSFを読んだことがある。

 ある男が光線を浴びた。それは脳の時間をずらすものだった。周りの人からすると、男は三十秒……一分……三時間……三日と遅れて行動するようになる。本人にとっては、周りの人がなぜ困惑しているのか分からない。三日前存在した像に向かって話しかける。手を握ろうとする。友人たちは三日後の男の反応を予想して、手の位置を変えたり、虚空に向かって抱きしめたりするけど、失敗する。だから、カセットテープを使って男と会話を試みる。

 大人のカラクルと、僕との関係はまさにそんな感じだった。会話が成立しているようで、なんかずれてて、できていなかった。

 そうだ、僕は常々不思議だった。時間ってなんだろう。存在ってなんだろう。人はいつ死ぬんだろう。なぜ……死ぬんだろう。秒針のカチ・コチという速さは、誰が決めたのだろうって。

 道のりと速さと時間、「みはじ」の法則があるのなら、道のりが分からなければ、時間も速さも求められないじゃないか。時計なら何センチか分かるけど、僕らは何をもって年月をはかり、歳を取るのだろうか……。

 そうか、歳を取るのもテロメアが決めることで、染色体の端っこにあるそれが、削れきることで死ぬ。テロメアが僕らの時間?

 死なない生き物もいるな。例えば……アメーバとか、クラゲとか、細菌とか。自分のコピーをどんどん増やすから死なない。個体は死ぬな……。あ、疫病が流行ったら全滅しちゃうか。環境の変化でも絶滅だ。とにかく、生きることは有限だ。クラもそう。寿命がないらしいけど、もうカラクル一人しかいないっていうじゃないか。

 それに、確かに月は地球から離れてゆくし、ハワイは日本へ近づいている。ずっと将来、星の位置が変わり、天の川銀河は別の銀河と衝突する。それこそが時間のある証明にならないか?

 いや……それさえ、なんだというのか。宇宙にとっては、なんのことはない。ただの現象に過ぎない。プチプチくんを、一つプチッと潰すようなことだ。知覚されなければ、起こらなかったことと同じ。僕がタジキスタンで湖に小石を投げたって、日本の一億人は知らずに全く問題なく過ごすだろう。

 時間……時間……存在しない? 道のりも、速さも? 法則が消える。それなら、僕も、宇宙も、存在しない? 意味を求めることは不毛? 分からなくなってきた……。

 僕や叔父さんやカラクルの一生なんて、長い目で見れば、またたきする程度なのかもしれない。そんなの、悲しい……。主観を挟むなんて、良くないかな。でも、その悲しまなくてすむ方法を、あのひとは求めていたんじゃないだろうか。

 時間は伸び縮みするって前にも聞いたことある。相対性理論だ。この宇宙の道のり、早さ、時間……それらを決めているのは……ビッグバン。


 裕也は虚空を見上げて、ときめいた。

 その……外はどうなっている? 

 進化し続ければ、心の煩悶も、本能も……。子供を慈しむことも、死さえも、脱ぎ捨てる日が来るのだろうか。


「人間よ、私は今、幸せだろうか?」


 目を覚ますと、まだ夢を見ているのかとクラクラした。しばらく天井を見つめて、焦点が合わさってきた。思考が徐々に現実へ戻ってきた。車にテレビクルーたち。そして子供のカラクルが、裕也の足に絡みついて眠っていた。起き上がろうとすると、ぎゅっと抱きしめられた。動けない……。満天の星空が車窓から見えた。

 嘘みたいな夢だった……夢で良かった。あれが真実だなんて、にわかには信じられない。

 カラクルが目を覚ました。

「ゆうにい……へんなゆめみた。こわかった」

 そう言ってポロポロ涙を流して、えづき始めた。

「僕も見た……多分おんなじ夢だよ」

 カラクルは裕也の服で涙をふきふきした。そして翅言葉ではない普通の言葉で、今の辛さを訴えた。

「へんなへやで、ゆうにいがおきて、とおくにいくゆめ。おいてかれるの、さびしい……」

 裕也はそっとカラクルを抱き寄せて、子守唄を歌ってあげた。ほら安心、安心。一緒にいるよ。にいちゃんはずっと一緒にいるよ。かわいいカラクルを、誰も置いていくもんか。

 これは……この感情は、鱗粉で思わされているだけなのかな。他の人にとったら、カラクルは妖精じゃなくて違う生き物に見えるのかな……麻薬……。考えても悩みが尽きないや。人間の赤ん坊だって、あえてかわいい顔をして産まれてくるんだ。親から愛されるために。進化の上で身につけた性質だから、それは赤ん坊のせいじゃない。育児放棄する親もいる。これは……僕が決めたことだ。

 満月がまだ高く昇り始めた頃だった。


 次の日の夜も、裕也は奇妙な夢を見た。今タジキスタンにいるはずなのに、日本でテストを受けていた。

 げえっ 絵を描かなくちゃいけないのか。僕は絵が下手なんだ。描くべき課題は決まっていて、シールで色分けされている。赤、茶、青、黒、緑、よし、描けた。あれっ? 皆まだ描いている……。先生が机までコツコツとやって来た。

「八朔、お前、三十分遅れてきたくせに、まだ五つしか描けてないのか? あと二十問あるぞ?」

 そんな……あっ! 問題が増えてる。シールの色が何色も増えている。ちらちらして目が痛い。課題は……課題は……分からない。周りの同級生を盗み見ると、もうほとんど解けている。あと試験時間は十分しかない。

 ええ!? 追試にしてくれないかな。

 ベルがなる直前に、先生が再び近づいてきて、本の束をどさっと目の前に置いた。

「宿題にしてやろう」

 僕だけこんな、いやだ。かっこ悪い。みんな笑ってる……笑ってる……。

 なぜか不意に、裕也は暗い洞窟にいた。洞窟を抜けて、宝石をとってくるというテストが始まった。みんなチームを組んでどんどん穴蔵へ入ってゆく。裕也はカラクルと一緒に奥へ進むことになった。

 カラクル、手を繋いでいようね。大きなネズミが襲ってくる。逃げなくちゃ。崖になってる、ほら、おいで。

 あっ、カラクルが翅を上手く動かせなくて、はらはらと落ちてゆく……助けなくちゃ!

 裕也は飛び込みの姿勢をとって、穴へまっしぐらに落ちた。

 他のみんなは宝石をとったあと、祠の外で噂をしていた。二人いつまでも出てこない、捜索した方がいいのではないか。でも、巨大な一つ目の怪物が山の向こうから現れた。皆戦い始めた。武器は弓、剣、あとは逃げる。王国を助けるために、草原をかけてゆく……!

 ところ変わって裕也はというと、穴の底に川があって、溺れそうになっていた。

 泳げない、泳げない。なんでだ? 僕は水泳部だ。泳げるはずだ。ほら、泳げた。自由に進める。息が苦しくない。水も鼻や口から入ってこない。不思議だ……。

 やがて光が見えてきた。

 ああ、出口だ!

 吐き出された場所は、断崖絶壁に囲まれた海岸だった。

 カラクルがいる! 無事でよかった! 綺麗な翠緑の翅、でも背が高い……。あれは、カラクルの前世っていうべきなのか……?

「裕也、見よ。ここに一対の人間の男女がいる」

 人間? 人間だって? 

 海岸の岩影から出てきた人影は、けむくじゃらの、ガリバー旅行記に出てくる悪いサルのようだった。

「この人間だけが生き残る」

 裕也はやりきれない思いに駆られた。

 ひどい、こんな猿人だけ残すなんて。どうして……? 例の、ノストラダムスの恐怖の大王が空から降ってくるからか? カラクル、どうして君はそんなに冷たい声をしているんだ。

 返事がくる前に、世界が反転した。浜辺から、真っ白な箱の世界へ。裕也とカラクルは柱の上に立っていた。二人くっついて、それでも足幅ほどしかない柱だった。高さは途方もなく、地面は白く霞んで見えなかった。

 他にも柱が無数に立ち並んでいて、それぞれ一対の雌雄らしき動物がいた。まるでノアの方舟だ。遥か遠くに白い壁があると思ったら、巨大な女の人だった。タコみたいに、太くて悪そうな人。その魔女は下品に笑いながら、小さな生き物たちを見下ろした。

「この世界は滅亡する! お前たちは選ばれた! 宇宙の神が、愚かな生物だけを絶滅させる! 類人猿には温情をかけて、ホモサピエンスを除き残すことにした!」

 魔女が杖を降ると、白い空間に穴が空いて、世界の未来が見えた。人間のいなくなった地球だった。温暖化はそれに適応する生き物だけを残した。大陸の形はまったく様変わりして、一つの塊になった。裕也の目には、それが竜のように映った。中央は乾燥して熱風が吹き荒れる、巨大な砂漠だった。北と南は地軸の角度が変わって、極寒と酷暑の極端さ。

 そこに生きているのは、大きく進化したイカとクラゲだった。海から地上に進出して、哺乳類を食らっていた。きみのわるい光景だった。人類の遺跡は風化し、砂に埋もれていた。

 類人猿はまた二足歩行を始めて、大移動を繰り返そうとするが、過酷な環境に適応できなかった。隕石の衝突で、ついに哺乳類は絶滅した。

 知能を持ったアリが全世界を覆った。今、旧時代の発掘を進めている。信じられないほど大きな骨について、なにやら議論している。

「これは、我々のような節足動物ではない。イカのような軟体動物でもない。まるで伝説の中のキョウリュウだ。しかしどうやら社会性で、文明を持っていたようだ。傲慢にも、おのれの形を神として崇拝していたらしい。

 おや? この動物は文字まで使用していたのか。しかし、冥王星の外までは行けなかったようだ。我々と思考体型が異なるので悩ましいが、原始のロマンだ。興味深い。きっとこの動物が地球をあっためて、我々に住みやすい環境を作ってくれたのだ。もっと掘り進んでみよう、カンテラを忘れるな。ほら、ここにも文字があるぞ! 今後の解読が期待される!」

 裕也は反発せずにいられなかった。同胞を無下にされているからか、怒りがのどにせまった。人間というアイデンティティがたぎることを強く感じた。未来を見せる魔女に向けて、震えながら叫んだ。

「お前はなんて身勝手なんだ! お前は神じゃない! 神っていうのは、人間が勝手に作った概念に過ぎないって叔父さんが言ってた!

 お前は何者なんだ? この未来の世界だって、お前が作ったとでも言うのか。もし自由に操作できるなら、生物を勝手に滅亡させて、それで何がしたいんだ?」

 魔女は裕也をホコリ同然に見下ろした。

「人類はこの星を汚しすぎた! 温情をかけた猿でさえ、また火を使用し始めた。滅んでしかるべきだ!」

 ちょっと待てよ、と裕也は魔女の言葉の続きを遮った。

「このアリは? ほら、僕らに感謝しているぞ。地球を温めて、住みやすい世界を作ってくれたって。しかも、アリも火を使っているぞ! 知能を持てば、生物は同じ道を辿るんじゃないのか? 使えるものは何でも使うんじゃないのか? それを罪だというのは、誰が決めた価値観だ。人間が勝手に自責しているだけじゃないのか? お前の正体は人間の脳が見せる限界だ!

 それに、いずれ太陽に全て飲み込まれちまうんだ……」

「あれは宇宙の摂理だ」

 大人のカラクルが口を挟んだ。ばかな、君までそんな不条理を説くのか。

「目前のあれについて、エウレシウスと我々クラは呼ぶ。宇宙を築いた神。原初、法則を定めたもの。素粒子でしかない、何か」

 なぜ大人のカラクルが名前まで知っているのか、裕也は戸惑いを隠せなかった。

「エウレ……シウス……。初めて聞いた、そんな名前……」

 カラクルはまどろんだ瞳で魔女を指差した。そして前回の夢と同じように、うっすらとした笑みを作った。

「裕也、あれは君の脳が分かりやすく認知した像だ。私は真実を告げようと思い、君の夢に介入している。この夢は、誠に人類の未来だ。そして今、君は宇宙の真理を罵倒している」

 裕也はがくがく膝が震えた。言葉がつっかえるのも抑えることができなかった。

「あ、あいつ? あれが世界を作った……? だ、だからなんだっていうんだ。あいつが操作しているつもりだって、僕らは僕らの意思で生きているんだ。イカやクラゲだって、あいつの存在を気にもかけてはいまい。知りもしないんだ。そうだ、自由意志があるんだ! 

 おい、エウレシウスとやら、生き物を馬鹿にすんな!」

 ワッハッハッハと巨大な壁のような神は大口を開けて笑い、白い世界をガラガラと崩れさせた。

「自由意志だと!? そんなものが存在すると本気で信じているのか!」

 魔女の大きな声がブラックホールを生み、白い世界ごとドオンと吸収された。そして、裕也とカラクルは未来の大陸へと投げ出された。

 ああ、地球が、濃密な何か呼吸ままならない大気で包まれている。焼かれ、海は蒸発し、磁場も消える。膨張した太陽に飲み込まれてゆく。生物は終わる。二度と蘇ることはない。

 いや……と大人のカラクルは呟いた。

「生物は地球だけではない。地球のことを『奇跡の星』と呼ぶのも井の中の蛙だ」

 また大人のカラクルは歌い始めた。なんて古そうな、独特な旋律……。


 我々クラは、オールトの雲の外からやってきた。

 隕石が我々を生んだ。

 そして、地球の生物も同じく、原初は隕石に付着した遺伝子だった。

 何度も衝突を繰り返し、生物は構築された。

 地球という視野を捨てて、宇宙全体を見なければ、

 生物というものを理解できない


 灼熱の太陽に飲み込まれてゆく地球を見ながら、裕也は尋ねた。なぜだか声がまだ、わなないていた。

「カラクル、どうしてそこまで知っているんだ? 僕に何をさせようというんだ?」

 地球の終わりを見ても、大人のカラクルの表情はさえざえとしていた。子供のカラクルと全く違う。何を考えているのか分からない。

「私は最後のクラだ。君に出会えたのも運命だ。私は光を歪ませ、先に君を知っていた。そして今も、カラクルの意識の深層から語りかけている。夢でしか君と会えない。夢の深層は全てを繋ぐ。生物の構成物質は元を辿ればみな同じ、無機物だから」

 根本的な謎が脳裏に浮かんだ。そもそもなぜ、無機物が生命になったのだろうか。

 それは声にならず、胸にもやもやとして残った。

「宇宙とも、繋がれる? 僕らの精神は君が言ってた、脳っていう肉なのに? 宇宙の果ての、見も知らない生物とも、たかが肉が交信できるってのか? 都合のいいSFじゃあるまいし」

 相手は薄くではなく、にまーっと笑った。

「もっともだ。裕也、肉と自我を捨てよ。塵となり、宇宙と同化せよ。そうすればおのずと繋がる。宇宙は常に開かれている。人間は知能と五感で防いでいるだけ」

 それは人間だけの問題なのかな。裕也は力なく尋ねた。

「なぜ、僕らは宇宙の声を防いでいる?」

 またそっけない答えが返ってきた。

「自我を確立するために」

 自由意志が本当にあると信じているのか……あの魔女が言ったことを思いだした。

 そこで裕也は自分がひとの服を掴んでいたことに気が付いて、ぱっと放した。いつもの手に馴染んだ感触。洗ったり、ほつれを縫い合わせたりしたのと同じ服だった。

「あなたは? クラはどうして自我を持ちながら他人の夢に侵入できるんだ? なんで、解明されてない物事を堂々と言い張れるんだ」

 大人のカラクルは、どこか寂しそうに裕也を見た。長い髪で目の色は見えないが、憂いを帯びているようだった。

「我々クラは光だ。光はもともと自我がない。石ころに"私"という自我がないように。

 それなのに我々クラは存在する。人間もまた、光だ。

 そう、裕也。変な顔をしてはいけない。言ったろう。脳は電気信号の集まりで、あらゆる感覚は幻想でしかない。五感も、"私"という意識も錯覚だ。自我というものは、ただの生存戦略だ。それを持つことで、社会生活を上手く送ることのできた個体が生き残り、今に至ったに過ぎない。

 自死する生物はホモサピエンスくらいだろう。"私"という個の意識を持てば苦しむだろう。"私"を持ちすぎた心、耐え難い悲しみ、忘れようのない痛み。だから、地上の肉より宇宙の光が主体であるクラは、早々に肉を捨てる。つまり死ぬ。光子となって宇宙に帰る。無意識のうちに。これはみな、一万年間で死んでいったクラたちが教えてくれた。長命なものほど凡庸で虚ろだ……」

 どういうことか、もっと尋ねようとする裕也を杖で止めて、大人のカラクルは続けた。

「それに、私は全体夢を見なかった。なぜなら、私が人間へ見せたものだからだ。

 今更と言いたそうだな。これまで黙っていたのは君の反応が面白いからだよ、裕也。かまわないだろう、所詮下らない夢なのだから。

 私は何度も同じ光景を見続けてきた。将来、歴史を揺るがす事件が起こり続けるだろう。一万年生きた私にとって、人間の歴史など飽きずに同じことを繰り返す程度のものだが。あれは、君も見たろう。地球規模の未来の予見だった。

 私は、おのれの命が尽きつつあることを感じていた。だから、せめて一万年間、生を共にした人間へ、未来を知らせたいと思った。最後の私の感情だった。そして、はっきりとした感情を持ちながら、見届けたいとも思った。幼子に戻り、湖で君と出会った。君がいることを知っていた。君は献身的に私を保護してくれることも、予見していた。クラの翅は地球上の生物に、ドラッグのような効果を発揮するから。

 そう……私の予見はその通りになる。今、エウレシウスが見せた未来も、この夢も、君の理解の範囲で表現されているが、みな真実だ。

 裕也、共にゆこう。エウレシウスの真意をとらえよう。この不条理な宇宙を覆してみせよう……君がまた、深い眠りにつく日を待っている……」


 裕也は鮮明な記憶を持って、目を覚ました。汗だくだった。

 隣には幼いカラクルが、抱きついて眠っていた。あの悲しげな人物と同一だなんてとても思えない、あどけない寝顔だった。

 子供って天使みたい。カラクルは特にほんのり光ってるし。叔父をちらっと見やった。大人の寝顔は青ざめてて、苦悶してるみたいだよな。なんでかなぁ。

 裕也がタオルで汗を拭いていると、カラクルがピリリと身をよじった。起こしたかな? よしよし。背中をさすってやると、気持ち良さそうに寝息をたてるのが聞こえた。胸があったかくなるのを実感しながら、思った。

 裕也とカラクルを含む撮影クルーは今週で行程を終える。シベリア鉄道の一部を撮り、モスクワの空港に乗り、日本へ帰国する。長いシルクロードの旅が終わろうとしている。

 裕也はカラクルの手をぎゅっと握った。

 どんな縁があったとしても、予見されていたとしても、自分はこの子を幸福にしたい。日本へ戻ってもきっと、何か方法があるはずだ。あの曇った瞳になってほしくない。

 たとえ言いなりになっていたって、翅に操作されていたって、かまうもんか。あのひとの言葉から伝わってくる悲しい気持ちは、子供のカラクルの気持ちは、人間と何一つ変わらないじゃないか。



 一行はロシア南部のアストラハンへ到着した。そして、ハザールやジョチ・ウルスの遺構はないか、ガイドに尋ねることになった。なんでも灰燼に帰したようで、町はすっかりロシア模様だった。それでも、地元の人はカスピ海を「ハザールの海」と呼んでいた。

 裕也はカラクルと魚市場を巡った。ここはチョウザメが有名らしくて、キャビアが大量に積んであった。あんまりおいしくない……と二人で苦笑いした。

 叔父はそんな裕也たちを微笑ましく、少し不安そうに眺めていた。いつも子供とくっついて、観光して回るようになった従兄弟の将来を考えていた。

 カラクルがコサック帽子をモフモフしてるすきに、手招きして呼び寄せた。

「裕也、もうすぐ帰国だけど、その子をどうするつもりなんだ。今はつかの間の旅だから良いけれど、日本へ戻ると驚かれるぞ。両親は受け入れてくれるとは思う。でも、ご近所さんはどうかな。ずっと同じ場所に暮らすっていうのは、交流するってことなんだ。

 カラクルが大人になってからのことも考えなきゃな。いつまでも、お前にべったりじゃないんだぞ。反抗期が来る」

 裕也は始終俯いていた。

「叔父さんは……カラクルのことをよく知らないから……。この子、本当は大人だったんだ。それが小さくなって、僕を助けにしたがってるんだ」

 叔父は目を丸くした。夢見がちな子だとは思っていたが、ここまでとは。

「まさか! 漫画みたいだな」

 裕也はやっと叔父の目を見た。

「本当なんだ、夢でこの子は大人なんだ。

 それで……ノストラダムスの予言みたいに人類が終わって、地球も終わるのを見せられた。これは夢じゃない、本物の予知だって大人のカラクルは言った」

 叔父は途端に青ざめた。

「お前……何か、あてられたのか? まともな言葉じゃないぞ。客観的に自分の状態が分かっているのか? この子のせいか」

 指差されてカラクルがビクッとした。コサック帽子を売り場に戻して、手をもじもじさせた。

 裕也は必死で弁護した。

「カラクルは何も悪くない! 悪いのは、神……なんだ。この世界を操作してるエレ……なんとかってやつなんだ」

 裕也は自分でもおかしなことを言っている気がしてならなかった。叔父は思った通り、裕也の話を信じなかった。

「何を漫画みたいなことを。神なんかいない。裕也、この子のせいなんだな。やっぱり……何か人を惑わすような鱗粉がある。おかしいと思ってたんだ! サングラスをかけて過ごしてると、全然違う羽虫に見えるんだからな。どこか孤児院へ引き取ってもらおう。せめて人間らしくな。今すぐ探そう」

 バンへ戻ろうと背を向けた叔父へ裕也は食い下がった。

「そんな、やめてよ叔父さん! カラクルを置いて行かせないでよ! かわいそうだ、こんなに信頼してくれているのに」

 叔父は背を向けたまま言いはなった。

「お前は夢と現実の区別がつかなくなった、ただの愚か者だ。若気の至りだと、後で気がついて俺に感謝するさ」

 叔父はクルーの元へ行って、すぐに孤児院を尋ねだした。

「叔父さん! やめて、お願い!」

 駆けてきた裕也に、もう一度言い聞かせなければと叔父は思った。裕也の両肩を掴んで、揺すりながら強い語気で説得した。

「あの子はお前にとって障害になる。帰国したら仕事につくんだぞ? 十七歳で八歳の妖怪持ちか? そんな目で見るなよ、裕也。俺も、お前のためになると思って言ってるんだ。親も、俺も、いつかお前より先に死ぬんだ。その時お前は、たった一人でお金を稼いで、生活して、この子を食わせなきゃならない……。育ち盛りまっしぐらのこの子を。

 いくら可愛くたって、お前は毎日、仕事をしながら飯を作れるのか。キャリアがない上に化け物……いや扶養家族のいるお前を、採用する会社がいくらあると思う? 借金までして、首を吊ることになるんじゃないか? カラクルを残して。それだけが心配だ」

 裕也は返す言葉がなかった。

「夢のみすぎだ……裕也。この子の人生を、お前はまだ背負いきれないよ」

 確かに、裕也は自分の将来を思うと気が重かった。数年前までは、水泳のプロ選手になるんだと息巻いていた。もっと昔は、飛行機の運転手になるんだと、夢いっぱいに語っていた。それがどうして今、こんなに辛い気分になるのだろう。年月の経つこと、歳をとることが、いつから恐ろしいと思うようになったのだろう。

 スーツを着て、一所懸命に就職活動をしたって、誰にも必要とされず、水泳も中途半端でプロになれず、高校も挫折して中退した。それから、取材クルーの大人の世界が薄暗く見えた。ほこりだらけの現実社会を見てしまった。もっと努力していれば、他の人たちみたいに青春を謳歌できたんだろうか。自分の人生はお先真っ暗だと思った。

 カラクルを拾った時、裕也は心の輝きを取り戻した気持ちになった。今思えば、現実逃避だったのかもしれない。それでも、カラクルがいてくれることで、裕也は地に足がついた気持ちになった。守るべきものがいる喜びを得た。責任感を持ち、使命感を持ち、自信が湧いた。

 他の人だって、主婦とか、猛烈仕事人間とか、画家とかいるじゃないか。何か一つのことに打ち込むという点では、自分とその人々とは何も違わない。ただ、世の中お金を稼いでいさえすればいいんだ。自分がお金持ちであれば、叔父にここまで心配をかけずに済んだんだ。宝くじでも当たればいいのにな。

 何よりも……夢の中でカラクルの言ったことが嘘か本当か知りたかった。

 奇妙な全体夢……何か、答えを歌っていたはずなんだ。自分の理解が追いついていない。

 深層の夢で、生物はみんな繋がっている。宇宙の外とも……自我を捨てれば繋がる。本当に?

 "人間の脳がそんなに有能だと思う?"

 初めのカラクルの言葉だ。矛盾している。どっちが正解なんだ。こんな夢は、ただの現実逃避なのか。意識が遠のいてきた……歌が聞こえる気がした。


 クラにはそれができる。

 大人になると、みんな、個を捨てて同一になる。

 裕也、君は私が導くことで、深層へ辿り着くことができた。


 ああ、僕は、僕自身という自我を捨ててしまえるなら、どんなに楽だろう。

 裕也はいつの間にか川辺に来て、そこで眠ってしまった。気付けば自分を上から見下ろしていた。

 幽体離脱しちまったようだ! 確かに、僕はおかしいのかもしれない。カラクルに出会ってから……いや、出会わなければあの日、僕は湖に身を投げていたはずなんだ……。元から死ぬつもりだったのに、なんの未練があるだろう。

 川辺にカラクルがテクテクとやって来て、つっぷしている裕也に手を添えて、リーリーと泣いた。それは歌を歌っているかのようだった。

「裕也……行こう、この宇宙の外へ」

 大人のカラクルが、幽体になった裕也の元へ歩み寄った。手にはあの鈴なりの実のついた、紫色の杖を持っていた。それはシャンと神秘的な音をたてた。

「宇宙の外には何がある……?」

 大人のカラクルは静かに答えた。

「エウレシウスを作り出した根本がある」

 しんみりと自分を眺めながら、呟いた。

「どうやって外へ行く?」

 無下もない返事があった。

「死に答えがある」

 裕也は振り仰いだ。

「死んでも、生き物は塵になって消えるだけだろう?」

 何度も疑問だったことを、やっと伝えられた気がした。

 そうだ、肉でしかない。肉でしかないじゃないか。

「消えるのは意識だけだ。脳は物体だから、死ねば原子となる。果ては素粒子まで分解され、再び物体を構成する。星のように。海が蒸発して雨となり、地中に蓄えられ、川となってまた海へ注ぎ込むように。繰り返される」

 裕也は納得できなかった。

「意識とか自我とかがなければ、冒険したところでなんになるってんだ。宇宙の外なんて、物理学で推測することしかできないんじゃないか? それこそ、知的生命体の喜びだろ」

 一体どうして、思念体だけ宇宙へ飛ぶのか理解できなかった。

「我々クラは光を操る。その形質を持って生まれる。光を歪ませよう。そうすれば、遥か彼方、意識を失う前に百三十八億年前の光まで辿り着くことができる。ビッグバンが起こっている原初の時へ。さらにその先に答えがある」

 へえ……クラだから、できるのかな……それじゃあ、僕は。

「聞いてもいいか。なぜ……君は僕を連れて行こうとしている? 君一人でも行けるだろうに」

 カラクルは長い話をした。裕也は闇の中、膝を抱えて聴いた。一万年の長い月日、起こった出来事の数々。死んでいったクラたち。死んでいった人間たち。

 もう一度心を揺さぶりたいと、かれは単身アメリカ大陸へ渡った。思い切ったことをしたものだと自身で笑った。先住民族と交流して、共に第七騎兵隊と戦った。南北戦争と世界大戦を見てきた。しかし、どんな惨状を体験しても、かれの心は冷えたままだった。ユーラシア大陸へ戻ると、クラはかれ独りだけになっていた。他の者たちは、みな戦争で心を病み、光になって消えてしまったようだった。それを教えたのは、光を記憶する花だった。幻灯花とクラたちは呼んでいた。

 同胞の死を悔やみ、かれはできることを探し求めた。クラが辿り着ける限りの真理を、共に生きた人間へ伝えよう。その技の一つが、人類全員が見た世界滅亡の夢だった。それは功を奏さず、人類はスキャンダルとしか捉えなかった。だから、直接セッションすることにした。

 かれの選んだ人間は、最も近くにいて、気が良くて、早く死にたいと思っているもの……それが裕也だった。深層心理へアクセスしやすい、感受性豊かな若者。環境汚染、大量絶滅、戦争、自滅……予見したことをどうしても伝えたかった。そして、可能なら、世界の真理を探りたい。寂しい、と最後に呟いた。

「行こう、裕也。私も人間を連れてゆくことはおろか、宇宙の彼方へゆくことも初めてだ。その世界は、焼かれるか、無に帰すか。いずれにしても、臨死体験と似ている」

 冷酷な誘いに拳を握りしめた。いつ死んでもいいとは思っていたけれど、他人に死ねと言われると腹がたつ。

「待って、精神が身体を離れるなんて、やっぱりどうしても非現実的だよ。君が最初、言っていたじゃないか。所詮、脳は肉の域を出ない器官だって。だから魂なんて、錯覚で存在しない」

 しばらく沈黙があって、大人のカラクルが答えた。

「この宇宙そのものが、錯覚だとしたら」

「えっ?」

 カラクルは杖を鳴らして、裕也の周りをまわり、歌った。また最初見た夢と同じように、鈴の音は金属を転がす音へと変わった。頭をりんりん翻弄するガムラン音楽が空間中に響いた。


 現実と呼ぶ物質世界は全て、五感が知覚しているに過ぎない。

 明らからしい、脳の中の幽霊だ。

 知覚しなければ、存在しないのと同じ。

 知覚して初めて、物質は存在する。

 反対に、目視した途端消え失せる物質もある。

 存在とは理解しづらい。

 では、真実はどこにある?

 私の真理を探る実験を、非現実的なことだと誰も断定できない。


 意味の分からない歌だった。

「とりあえず錯覚でしか、僕らは生きることができないんだ……。三次元の世界にいるから。他の次元を知らない……。多次元へ行ったら、それこそ想像もつかない。果たして僕という心も、形も保っていられるのか? 重力で押しつぶされやしないか?」


 宇宙の外は多次元だとも言う。

 かつて、宇宙が始まった時も多次元だった。

 そしてワームホールで別の宇宙と繋がっている。

 このもどかしい風船どもの外を私は知りたい。

 一万年という長い時と、生きた全ての者たちを、私は愛し、憎んでいる。

 定めを作ったエウレシウスを許すまじと思っている。

 可能であれば、外から奴をくびり殺すのだ。


「あなたは、生命を悔やんでいるのか。カラクル、悲しいよ……。否定したら、全部終わりじゃないか」

 抑揚のない声が、真っ暗な空間に響いた。

「君だけは、信頼に足ると見た」

 裕也は額に手を当ててため息をついた。やっぱり熱でもあるようだ。

「少し時間を下さい……。まだ、ちょっと頭が追いつかなくて……」

 ぼんやりと光る翠緑の翅が、少しずつ遠ざかってゆく。

「裕也、いつでも待っている……。ただし、2001年の九月まで」

 金属の音楽が余韻を残して消えた。



 不意に揺り動かされて裕也は目が覚めた。叔父が、必死で声をかけていた。気が付くと病院のベッドにいた。呼吸がとまっていたらしい。

「お……おじさん………カラ……クルは……?」

 やっと声を出すことができた。

「お前……第一声がそれかよ……。良かった。今、外の椅子で眠ってる。お前、死にかけたんだぞ、分かるか」

 裕也はヴォルガ川の端っこで倒れていたらしい。カラクルが叔父さんたちに知らせてくれた。

「皮肉だな……俺はあの子を捨てようとしたのに」

 倒れた原因は脳腫瘍だった。良性で、まだ小さくて、摘出するだけで助かったのだそうだ。

 裕也は叔父へ、今まで見た夢の話をした。カラクルは心配そうに、裕也の手を握って、くいいるように見つめていた。

「カラクル、君は僕の夢の中では、大人なんだよ。いつも、謎めいた歌を聞かせてくれる。不思議な、でもとても充実した時間をくれるんだ」

 叔父は黙って聞いていた。でも、不安そうにしていた。

「俺は、裕也がいつか夢に捕まって、死んでしまうんじゃないか心配だ……」

 カラクルがリーリーと返事をした。叔父と同じ気持ちなのだろう。でも、心覚えがあるようだった。

「ゆうにいと、おんなじゆめみたよ。

 ちょっとだけ、おぼえてるよ。うそじゃないよ。

 でも……ゆうにい、しらないひとと、いっしょにいっちゃメ。

 ひでにいが、すごくつらそうだもん。

 ぼくも、やだ……。あのひと、ゆうにいに、しんでほしいってゆってるもん」

 憔悴した裕也は、無理にでも笑ってみせた。カラクルの前で痛ましい姿を晒したことに罪悪感が湧いた。

「うん、分かってるよカラクル。君を置いて死ぬもんか」

 ホッとしたのか、カラクルは飲み物を買いに行った。

「あの子は自覚なしか……。お前の中の大人のカラクルは哲学者で、ニヒリストなんだな。いっそ、NASAに託すべきかもな」

 テレビの中にしかない用語が不意に現実のものになって、裕也は呆然とした。

「NASA……?」

 つてでもあるのだろうか? テレビ局だから?

「裕也、お前には荷が重すぎる問題だ」

 研究所へ行くとしても、遠い世界が身近になっても、裕也は自分の芯がブレないのを感じた。

「僕は、決心したんだ。あの子に愛情を教えたい……。お願い、引き離さないで」

 叔父はしばらく裕也を見つめて、五分くらい押し黙った。それから、参ったというように腕組みを外した。

「……分かった。甥っ子が死にかけたんだ。とことん信じてやって、付き合ってやる。カラクルのことも、俺なりに大事にしてやる。鳥肌くらいは許してくれよ。

 そうだ、再来年の夏にアメリカへ行くんだ。お前たちも来たらいい。いや、行こう。もう、誰のことも悲しませるなよ、まったく」

 裕也は初めて、叔父の心中へ思い至った。自分には、叔父の目を正面から見ない癖があったことに、たった今気が付いた。

「ありがとう……ごめんなさい。叔父さんがいるのに、いつも顔を背けて、知らないふりをしてた。馬鹿だね……。

 大人のカラクルにも、同じようなあったかさを教えてあげたいんだ……。寂しいって言ったから……。叔父さん……?」

 叔父は寝台に背中を向けて、額に手をあてた。鼻をすする音がした。耐えているようでも肩が震えていた。

 裕也の両親は、本当の両親ではない。叔父の父母だった。親戚ではあるけど、どこかよそよそしかった。実の両親は、幼い頃に相次いで死去した。裕也はまだ死を理解できなかった。ただ、誰が自分を引き取るのか、口論を聞いた覚えがあった。

 十五も歳の離れた叔父が、まるで今の裕也とカラクルのように励ましてくれて、庇ってくれた。叔父にとっても裕也が一番歳の近い、いたいけな親戚だった。

 裕也は胸が詰まった。自分は、叔父の好意にあまりにも甘えていたのだと。入院費も手術代も、叔父が出してくれた。保険をかけていたけど、馬鹿にならない数字のはずだ。自分はカラクルのことばかり考えていた。でも、叔父の気持ちも考えなくてはいけなかった。

 どうして、この現実を無視できるだろう。錯覚だと思ってしまったら、それこそ死ぬことと同じで、虚しいじゃないか。人は人の中でしか生きることができないんだ。クラもきっとそうだ。この世にたった独りだと思っているから、自殺行為に及ぶんじゃないか。宇宙の外へ行ったところで、何を得ることができるってんだ。



 裕也の回復は早く、すぐに抜糸した。撮影クルーだけは航空券のために、予定通り帰国した。

 リハビリを終えて、秋になる頃、裕也たちはようやく日本へ戻ることができた。

 カラクルは飛行機も、島国も初めてで目を白黒させていた。まず妖精の登場で、空港の係の人、次に両親をびっくりさせた。説得に時間はかかったが、安いアパートを借りて二人で暮らすなら、養子縁組の手続きをしてもいいと言ってくれた。

 裕也は両手放しで喜んだ。

 やったぜ! これで日本でもカラクルと一緒にいられるんだーっ。

 2001年の夏に、アメリカへ行くことを目標にして、裕也は叔父の仕事を手伝うことにした。

 身体はずいぶんと楽になって、もう不可思議な夢を見なくなった。カラクルもついて回った。見た目はちょっと大きくなって、十二歳くらいになった。ついに小学へ行けなかった。これはもう仕方ないんだと割り切ることにして、一緒にテレビ業界を勉強した。

 だんだん、カラクルは夢に出てきていた大人のカラクルに近づいていった。髪が伸びて、ちょうど長い耳と、気持ちだけ翅を隠したので、どうしても結びたがらなかった。身長も伸びて、声がやや低くなった。

「だって、カメラのまえのひとより、めだっちゃダメでしょ?」

 カラクルは虹色の瞳を和ませて、翅をリーリーと震わせた。この音色だけは変わらない。それは笑っているのだと、身近な人には分かる動作だった。金髪と服装で十分目立っているんだけどな。

 アストラハンで倒れて以来、裕也はもうおかしな夢を見なかった。カラクルはというと、狭い日本に慣れないのか、時々ぼうっとするようになった。そういう場合、話しかけても返事をしない。ふっと意識が戻ったかのように、「なにかいった?」と尋ねた。

「もしかして、変な夢を見てる?」

 カラクルは、大好物のほうれん草のおひたしを、ちゃんと持てない箸でつかんだまま、返事を濁した。

「うーん……みてないよ」

 嘘が下手なので、裕也はすぐにピンときた。

「大人のカラクルが出てくるんだろ?」

 カラクルは目をぱちくりさせた。

「なんでしってるの?」

 裕也はふざけて、カラクルの髪をくしゃくしゃした。

「分かりやすいんだよ、顔にすぐ出る」

 カラクルはリーリーと抗議した。とっくみ合って、笑い合っていると、大家さんから苦情がきてしまった。



 やがて、めでたくミレニアムイヤー! 2000年を迎えた。ノストラダムスの大予言は大外れ。コンピュータ大荒れ予測もずっこけだった。

 年越しは両親と叔父の家で、賑やかに過ごした。叔父とその友達が「2000」の形をしたメガネをかけてサプライズパーティーを催してくれた。カラクルが笑い転げて、飛び回って仕方なかった。

 中央アジアでの取材で撮影した写真を、やっと現像して見せてもらえた。

 あれ? カラクルはどこ? 僕の側でよく一緒にピースしてるの、人間ぽいけど……。頭には長い触覚が生えていて、髪じゃなくてたてがみ。目はまつげに縁取られた虹色の複眼だ。頬に緑の模様があって、口は固そうなくちばし。顎が異様に小さい……。昆虫らしく膨らんだ胸と背中。腰はきゅっと細くて、全身金のうぶげが生えてる。まるでチョウトンボ人間じゃないか。手も……またへんてこだ。緑色のしましま模様がある。人間と同じ数の指。いちの腕、にの腕もあるな。ただ足は、犬猫みたいにまがって見える。すごく変な感じ。別の生き物っぽい。

 リーリーとそばで翅が鳴って、カラクルが写真を肩越しにのぞいた。

「これぼく? ゆうにい? よくとれてるね!」

 なんのことはない、いつもの白い肌、金色の髪をしたカラクルだ。裕也はなんだよと肩を揺すって笑った。もう一度写真に目を落とすと、その巨大昆虫は人間の子供に翅が生えただけの存在、カラクルになっていた。


 夏を迎えるまでには、あっという間に世界滅亡なんて、人々から忘れ去られてしまった。騒ぐだけ騒いだだけに、テレビ局もバツが悪かったのだろう。予言も、全体夢も、2000年問題も、もう取り上げられることはなくなった。むしろ、報道倫理が取り沙汰されるようになった。取材内容も変わった。今度はまじめに、シドニーオリンピックと民族紛争について調べる仕事だった。

 近頃不穏な話題が多い。それがあんなことになるとは、叔父も裕也も、誰も思っていなかった。



 2001年もまた無事迎えることができた。皆健康で、世界も破滅せず、日本は平和だった。カラクルはいよいよ裕也と身長が近くなって、同年代の友達と呼ぶ方が似合うほど大きく育った。もう抱っこはできないけれど、人懐っこくて、お兄ちゃんっ子なところは変わらなかった。

 気になるのは、時々大人のカラクルが混ざったような言葉を口にするところだった。どうやら頻繁に交信しているらしい。自分を人間ではない、クラという種族だと認識していて、困ったことがあると「ぼくはクラだもん!」と窓から飛び立ってしまうようになった。裕也が晩御飯を作って、食べずに待っていると、夜遅くに「ごめんなさい」と帰ってくるのが常だった。

 裕也は十九歳なのに親心を持ったというのか、カラクルのことが気になって、ついついほうれん草の鍋を煮すぎてしまう。プライベートの欲しい年齢だから、なるべくそっと見守ろうと決めているものの。

 心配でたまらずカラクルがどこへ行っているのか、こっそり後をつけて行ってみた。カラクルの翅は速いので、自転車でないと追いつけなかった。その日は古本屋さんで漫画を立ち読みしていた。また別の日は、海浜公園へ行って海を眺めていた。ほっとして、もう後をつけ回すのはよそうと思った。

 カラクルからも、裕也の知らない近況を教えてくれるようになった。最近友達ができたらしい。海浜公園でよく会う高校生だという。本の交換をしているのだそうだ。

 晩御飯のとき、その友達が好きかと聞くと、カラクルは「うん!」と即答した。裕也はとても安堵した。夢に出てきていた大人のカラクルが、深い絶望に呑まれていたためだった。

「友達は大事にしろよ。で、どんな本読んでるんだ?」

 カラクルはすぐに席を立って、体を縦にして自室へ行った。翅をたたむことができないので、いつも狭い扉や通路に苦労している。でも、もう自分で翅をむしろうとはしない。

 しばらく自室をごそごそして、自慢げに二冊の本を持ってきた。鞄は去年、カザフスタンでねだられて買った、カラクルお気に入りの刺繍のものだった。

「これは、かんじがすくなくて、よみやすいほん。えっと……『もりはいきている』。

 ロシアでかってもらった、えほんと、こーかんしてる。

 もういっこは、むずかしいのをかんたんにした『ゆびわものがたり』だよ。これも、ロシアのえほんと……ゆうにい、どうしたの?」

 裕也はうっかり、漢字を教えていなかったことに気が付いた。テレビ局の手伝いは力仕事か、美術の制作だけだった。

 こんなに知りたがっているんだ。それも妖精のことばかり。

「いや、大丈夫。明日、町の本屋さんへ行こうな。漢字ドリルってあるんだぞ。ほかにも好きな本買ってあげる。カラクルはおもいっきり空を飛んで、僕は自転車で山を降りよう!」

 カラクルは喜んで、狭い部屋の天井まで飛び上がった。

「やったー!」

 くるくる鱗粉を舞わせた。

「ゆうにいは、だれかいないの? ともだち」

 痛いところをつかれた裕也は口をモゴモゴさせた。

「小学校時代からの同級生は、まだ実家近くに住んでるけど、もう一緒に遊んだりしないな……」

 カラクルは無邪気に尋ねた。

「さびしくないの?」

 裕也は仕方がないので正直に答えた。

「寂しいなぁ。でもまあ、お互いに仕事もあるし」

 おもむろに、カラクルが小突いた。

「レンアイできたらいいのにね!」

 裕也は顔を真っ赤にして、怒りすぎない感覚で怒り、話題を終わらせに向かった。

「何言ってんだよ! そんなの、必要ないよっ。こないだ振られたの知ってんだろ!

 ほらっお鍋食べないと、にいちゃんが食っちゃうぞ」

「はーい」

 カラクルは肉を好まないので、すっかり二人の食卓はベジタリアンだった。裕也にとっては物足りないが、周りの大人たちの健康状態を見ていると、酒も肉もやめておこうと思った。

 ちなみに裕也の恋愛事情は、こんな具合だった。アナウンサーと付き合いはしてみたものの、カラクルと離れることを条件に出されたので、思わず裕也の方から別れて下さいと切り出した。

「妖精さんと私どっちが大事なの?」と聞かれて、迷わずカラクルと答えたので、グーで顔面をパンチされた。「あんな虫人間の方がいいなんて、ばかたれ!」と吐き捨てられ、裕也はよろけてみっともなくパイプ椅子の列へ倒れ込んでしまった。

 はあ、アナウンサーさんって強いんだよな。レンアイなんかより今の方がずっと楽しいや。


 その晩遅く、カラクルが押入れをまた引っ掻き回していた。何か思い出したのだろう。裕也は寝ぼけ眼で「どうしたんだい?」と声をかけた。

「ゆうにい、おこしちゃった? ごめんなさい……。これ、ぼくがちいさいころ、すきだったのだよね。たいりくにいたころの」

 両手に持っていたのは、ユーモラスな石人のぬいぐるみだった。

「どれどれ、ふふ、懐かしいな。覚えてる? あのとき、二人で仲間のそっくりさんを見つけ合いっこした。な~んていっても、おととしの話なんだけど」

 カラクルはぬいぐるみを抱きしめて、ちょっと切なそうな声音で言った。

「ぼく、へんだよね。うまれてたった、にねんでおおきくなるなんて。せけんしらずすぎってよくいわれる」

 裕也は寂しそうな横顔を見つめた。

「友達にか?」

 リーリーと翅言葉が返ってきた。

「そんなの、友達やめちまえ! カラクルが変わってようと、変わっていまいと、僕の大事なカラクルなんだから! 叔父さんもそう思ってるよ」

 カラクルは元気がなさそうにうつむいて、すすり泣いた。いつもの明るいカラクルの仕草ではなかったので、裕也は不安に駆られた。

「夢の中のひとからは、なんて言われてるんだ」

 これは、友達関係だけだろうか? きっと、夢で何か変なことを聞いたに違いない。

「……だれもしんようしすぎちゃいけないって。にんげんとクラはちがうんだって。

 それから、ぼ、ぼく……ことし、しんじゃうんだって。こわいよ……ねむりたくないよ」

 前世のカラクルはそんな予見をしたのか!? しかも教えるなんて、あまりにも残酷だ。そんな、今年だって……!? まだたった二年しか、カラクルと過ごしていないのに! 

 裕也は思わずカラクルを抱きしめた。昔、カラクルがほんの小さな頃、歌ってあげた子守唄を口ずさんだ。それから、自分に言い聞かせるように話した。

「生き物はみんないつか死ぬんだ。早いか遅いかだけの問題なんだ。みんなすぐに追いつくよ。僕がどれだけ赤ちゃんの頃から、カラクルを大事に思ってきたか。

 死ねばみんな会えるんだ。大丈夫だ。そうさ、寿命を教えられたということは、今を大切にしろってことなんだ。だから、毎日楽しいことを考えて暮らそうじゃないか。悲しい体験より、楽しい体験をどんどん増やそうよ。たとえ、どんな見た目だってカラクルはカラクルだ。ずっと一緒に過ごしてきた、家族だ」

 そうだ、そうだ。そうに違いない。

 リーリーと耳元で鈴虫のような声が響いた。

「早くNASAへ行く日を決めてもらおう……。向こうは宇宙の専門家だから、少しでも、死の予見が外れるかもしれない」

 カラクルが実験体にされないことを願いつつ、翌朝すぐに裕也は叔父へ連絡をとった。


 2001年七月、とうとうアメリカへゆくことになった。三ヶ月間の長期滞在だった。カラクルのことは内密にして、体面は就任したばかりのブッシュ大統領についての世論調査だった。他には自然番組の取材で、アメリカ各地を廻ることだった。ソノラ砂漠、グランドキャニオン、イエローストーン、モニュメントバレーなど絶景を駆けめぐる。またシルクロード同様の大世帯だ。そして最後にマンハッタンのシンボル、ワールドトレードセンタービルをヘリで空撮するはずだった。

 裕也は初めてのアメリカで、胸が躍るのを止められなかった。

「信じられるか!? カラクル見てよ、日付変更線を超えたぞ! うわぁ生まれて初めてだ。時間を逆行してる!」

 カラクルが窓側にある裕也の席に乗り出した。

「ひづけへんこうせんってなに? なんでおひさまが、ずっとしずまないの?」

 叔父も一緒になって、よくわからないまま飛行機でワイワイした。

「あのな、日付変更線っていうのは、どっかの誰かさんが、世の中便利にしようと思って決めた、てきとーな線だ」

 裕也たちはキャビンアテンダントさんから、さりげなく静かにと注意されてしまった。

 フィッシュもビーフも食べることができないので、お絵かき帳をもらった。カラクルの絵は天然の面白さがあった。最初こそ愉快な絵を描いていた。けれど、ふと裕也は思いついて神妙な気持ちになった。

「NASAの人に伝えやすいように、夢を絵に描いたらどうかな。ほら、手伝うからさ」

 カラクルは突然ポロポロ涙をこぼして辛がった。それでも色鉛筆をにぎりしめた。

 周りの座席の人が、情緒不安定な裕也たちを見ていた。

 カラクルが描いた大人のカラクルは、裕也の見た姿と同じだった。夢は無意識で繋がっている……。他にもいくつか、裕也が去年見たのと似たイメージを描いた。そして、最後に高いビルが煙を吐いて窓から落ちる妖精の絵。信じられなかったことが、真に迫った。

「このビルは……どこのか言っていなかった?」

 カラクルは首を横に振った。


 裕也とカラクルは叔父に付き添ってもらい、真っ先にカリフォルニア州へ向かった。目的地はNASAの研究所だ。

 カラクルは荒涼とした景色と、突然山や森のある様子が、中央アジアを思い起こすようで、「なつかしい」と何度も呟いた。ただ都会には慣れなくて、「はやく、きれいなおそらをとびたーい!」と街を離れたがった。これは日本にいても同じで、裕也たちは星のきれいな山村に暮らしていた。そんなわけで、撮影クルーとは別行動で、国立公園の近くに宿をとった。

 NASAへアポイントをとって、訪問初日。裕也はドキドキした。夢の体験を、果たして信じてもらえるだろうか? あの全体夢について、実行者がいるなんて証拠がない。夢で見ただけだ。立派な論文も無いのに来たりして、良かったのだろうか?

 広大な敷地を案内されて、色んな研究者たちに引き合わされた。裕也はカタコトの英語で話そうとするが、みんなカラクルの存在に驚いて、写真撮影に夢中だった。カラクルは恥ずかしそうに俯いていた。

 反応は予想していたけど、見世物じゃないのに。「もう止めてください」と裕也が止めるまで騒動は続き、今度はレントゲン撮影大会が始まりそうだった。誰もカラクルの気持ちを考えない、言葉を聞こうとしない。なんて場所だ!

 そしてやっと、最も専門家らしきおじいさんのラボを紹介された。優しそうな表情をした人で、カラクルが身を縦にして扉をくぐると、目をぱちぱちさせた。でも、すぐに笑ってお茶を勧めてくれた。

「君はクラだね」

 裕也たちは揃って驚いた。叔父が真っ先に問いかけた。

「カラクルが最後のクラじゃなかったんですか?」

 おじいさんは、感慨深げにカラクルを見つめて自己紹介した。

「私はスヴャトスラーフ・ヴェチェスラーヴォヴィチ。息子もクラについて、考古学の分野で研究しているよ」

 カラクルが意気込んで、覚えたばかりの英語で話した。

「あなたは、どうして? クラをみたことがあるのですか? ぼくのほかに?」

 こくりと相手は頷いた。安楽椅子に腰掛けて、窓辺の日差しに手をぬくめながら語り始めた。


 あれは、嘉手納沖でのことだった。

 今日は日本人の若者が来ると聞いて、ぜひ会いたいと思った。

 私はロシア系の名前ではあるが、ソ連になる直前にアメリカへ亡命した家系だ。

 軍へ志願し、戦艦の乗組員となった私は、沖縄の美しい海で、恐ろしい戦争を仕掛けた。

 ある日、零戦が我々の船に突っ込んできた。戦艦に届く前に撃ち落とされたが、浮き上がった遺体はまだ若く、君たちのような十代の少年だった。日本はなぜそれほどまでに追い詰められてしまったのか。憎しみを忘れて、我々は神に祈った。

 沖縄は地獄だった。美しすぎる海の傍ら、アメリカ人も、日本人も、双方大勢が亡くなった。

 崖から海へ転落した一般市民たちの中に、生存者はいないか探す任務にあたった。不毛だった。我々はテープやカメラで戦況を撮影していたが、あれ以上に、とても見るに耐えない有様だったんだ。沖縄戦が激しくなってゆく中、自決した人々……。満ち潮になって、遺体が消え失せた。我々は安心した。

 そこへ、光る何かが舞い降りた。西洋人の大人ほどの光で、不思議なことに、海の上でとどまっていた。

 私たちは小舟をこいで、仄かに光る何かに近付いた。こんな時にUFOかと。しかしそれは、よく目を凝らすと人だった。美しい女性のように見えた。白金の髪を細かに編み込み、古代ギリシアの衣服をまとい、波を見つめていた。むき出しの背中には、イングランドの妖精のような青色の翅が生えていた。私たちはそれまで目にしてきた惨状の中で、はるかに美しい、そしてどこか悲しげな横顔に取り憑かれた。おのおのが、忘れてしまった平和という生活を思いだした……。

 そのひとは、赤い血の涙を流し、ひときわ大きく光った。そして……焼け焦げた衣服と、ボロボロと崩れてゆく骨を遺して、死んでしまった。私たちは、急いで波にたゆたう骨と服を拾い集めた。誰もが夢のような、しかし現実である、不可思議な光景を忘れられなかった。

 報告しても誰も信じない。だから、戦争が終わったあと、その人が何者であったのか調べようとした。同胞は皆、早くに亡くなったが……。似た骨格がオリエントと中央アジアで散見されることが分かった。最新の研究では、DNAの分析、ヒトゲノム解明が進み、古代の文献も洗い直された。そして何者なのか……やっと判然としてきた。

 さあ、私の話はここで終わりだ。君の話を聞かせて欲しい。

 ようやくまた会うことのできた、クラのひと。


 叔父さんの同時通訳を聞いて、裕也とカラクルは、この人は信じても良いと思った。飛行機から描き記してきた夢の記録を、身振り手振り交えながら、教授へ伝えた。教授は最初こそ不思議そうに、しかし次第に「なるほど」と相槌をうってくれた。

「ありがとう、カラクル、ユウヤ、ヒデキ。全体夢の謎が解けた。科学的な実証がなければ論文にすることはできないが、ここにきみの描いてくれた絵がある。私が公的文書として記録して、後世へ残そう。

 ところでカラクル、今年死ぬと予見されたそうだが、ユウヤの聞いた、九月というのは関係がありそうだね」

 裕也はすっかり忘れていた。今年の九月までにと、確かに大人のカラクルは条件を出していた。

 どうして今まで忘れていられたのだろう。

 叔父が呆然とした裕也にかわって、質問した。

「今年の九月、何が起こるか分かりますか? 隕石とか……大災害の予測はありますか?」

 教授は軽く答えた。

「災禍は何も」

 NASAの研究所で、それ以上のことを知ることはできなかった。

 大人のカラクルは全てを知っているのだろうか? 裕也はカラクルへ、コンタクトできないか尋ねてみたが、アメリカへ来てから不思議な夢を見ないと返答された。

 月日は虚しく過ぎて、九月になった。裕也は不安でならなかった。もちろんカラクルは何倍も。

 星や自然を撮影する班に合流して、雄大な地球の威力を体感した。裕也はやっと、就職活動から抱え続けた不安が、いやもっと小さい頃から持っていた何かが、涙に変わってこぼれ落ちた。

 世界はこんなにも美しいんだ。なんか、気取ってるみたいだけど、美しいって言葉しか浮かばないや。夢で見た未来も、アリやイカの立場で見れば美しいんだろうな。ただあるだけでいい、それのなんて素晴らしいことだろう。カラクルもうっとりと数万年の堆積と、何十億年も変わらない太陽を眺めていた。

「カラクル、アメリカへ来てよかったね」

 それが裕也の精一杯の言葉だった。もっと言いたいことは沢山あるはずだが、何を言っても嘘くさくなる気がした。

「ゆうにい、ぼくは前にも見た。こんな夕焼け……。先住の人たちと寄り添い、お互いに忘れないでいようって、戦の前に話をした。ぼくに、だんだん、一万年の記憶が蘇って、浸透してくる。とても悲しいことだね……。一万年も、ずっと虚しく争いを見てきた。

 でも、一瞬一瞬を大事に過ごしたゆうにいとの二年間は、何よりも濃密だった。生きるってそういうことだったんだ。今年死ぬから分かった。元のぼくが、光を歪ませたから実感できたんだね」

 裕也はカラクルが離れてゆく気がして、思わず手を取った。

「カラクル、まだ生きてるよ。気を確かに持って。明日も、明後日もあるよ。何も起きないって教授が言ってたじゃないか。人類滅亡は遥か何万年も先のことだ。君は死なない!」

 カラクルは虹色の瞳を輝かせて、裕也を見つめた。

「ゆうにい、ありがと」

 叔父は複雑そうに二人を眺めていた。


 次の週、マンハッタンへ行き、最後の取材となった。叔父の班はヘリに乗り、ワールドトレードセンターの外観を、裕也とカラクルの班は中から街全体を撮影する予定だった。

 しかし九月十一日、事件が起こった。

 朝八時半、裕也たちは撮影機材を上の階へ運んでいた。その隣のビル、北棟の遥か百階付近へ、航空機がなんの前触れもなく激突したのだ。誰もかれもが振動と爆炎に恐々とした。あの超高層ビルを、飛行機が切り裂いた。

 なんて光景だ。地獄にいるのか。

 裕也は撮影機材を放り捨てて、硬直した一番大切なひとの手を引っ張った。

「カラクル、カラクル! おいで、側にいなきゃ危ない!」

 無線から連絡が聞こえた。

「大丈夫か、大丈夫か!? あれは大統領の発言からすると、パイロットの偶然が招いた事故だそうだ。みんな、今何階にいる? そうか、七十八階へ行け! エレベーターに乗るんだ、避難できる!」

 行こうと肩を抱き抱き、全員が叔父の声に従った。十五分後、今度は南棟に飛行機が、ちょうど七十八階目がけて迫ってきた。裕也とカラクルはスカイロビーの窓際にいたので、戦慄がはしった。衝撃で吹き飛ばされ、焼かれ、ガラスや瓦礫とともにのたうち回された。

 どのくらい気を失っていただろう。あまりの暑さ……煙が苦しい……。

 どういうわけか、裕也の身体は支えるものをなくしていた。全てが逆さに見えた。

 南棟が粉々になる……跡形もなく崩れてゆく。北棟もジェンガのように破壊される。 

 緩慢な動きだった。


「ピィーーッ」というカラクルの叫びが耳をつんざいた。正気が戻ってきた。急に周囲の速度があがった。

 落ちる!

 カラクルが必死に裕也を捕まえ、空中で引っ張りあげようとした。しかし爆炎と破片が翅を傷つけていた。二人はヨロヨロと下降して、ハドソン川へざぶんと落ちた。一瞬だけ、裕也の目にヘリが見えた気がした。叔父さんは無事だろうか。

 裕也は川にたたきつけられたことで、身体のちぎれる思いがした。それでも水中でカラクルを抱き寄せた。

 血の味がする……どっちかが酷く怪我してる。二人ともか? せめてカラクルは助けたい。だめだ、届かない……息が続かない……もう無理だ……。これは夢じゃない。苦しい……。

 カラクルの背中を見ると、翅が剥がれて血を流していた。片方は、すんでのところでくっつき、もう片方は完全にちぎれて水面に浮いていた。これが、予見されていた死か……。

 死ぬほうが生きるより楽かもしれない。もう苦しくない。痛みもない。ゆっくり沈む……。意識が遠のき、視野が暗くなった。その片隅で、カラクルが大きく光った。これが教授の言っていた、死ぬ間際の光だろうか。

「裕也、裕也」

 そうだ、僕の名前は裕也だ。

「行こう」

 聞き覚えのある声が、裕也の頭の中で響いた。

 そして原初の水が、生命の歴史を見せた。進化の過程が見えた。地球の誕生も。さらに光が一点に収束した。全てを飲み込み、全てを元に戻した。これがビッグバン……の逆再生?

 裕也はもう自分という意識を忘れて、人間であることを失って、スノーボールを見つめる存在になってゆく気がした。ついに闇が訪れ、無になった。それが宇宙の始まりだった。

「百三十八億光年先の光を辿れば、宇宙の記憶を見ることができる。私の予見は当たったろう。行こう、さらに外へ。なぜこの宇宙はあるのかを問いに。さあ早く。"私"が"私"であることを忘れる前に。次第に何かに同化してしまう。今こそ、外の次元へ染み出そう」

 途中自己を忘れてしまわないか? 問えるだろうか? そもそも、脳の電気信号こそが自己を作ったんじゃないのか?

 裕也は死を迎える寸前に、気が付いた。脳内麻薬が招くひらめきだった。星が超新星爆発するときのような感覚だった。

 今まで大人のカラクルが問いかけてきた答えが、今やっと理解できた。

 脳はシナプスの明滅だ。常に複雑な感情が芽生える。「ああしたい」「こうしたい」「痛い」「心地良い」まるで会議だ。人格が分裂しているかのよう。脳の中で、優先度の高い意見だけが選択され、意識の表層にのぼってくる。怪我をしても痛みがなくて気付かない、興奮した兵士がそうだ。"私"という個の意識は、確固としているようで違う。分裂した人格たちのレースを一番乗りでゴールしたものだけ"私"として認識しているだけなんだ。

 "私"という錯覚もまた、進化の過程で必要だから残っただけなのかな。クラも同じだろうか。

 カラクルの光は、擬似的にこうした脳の活動を引き継ぐ……?

 はたして僕らが死ぬことに、出会ったことに、選択の余地は。考えてきたこと、感じてきたこと、歩んできたことに、他の可能性は無かったのだろうか?

「エウレシウスとは何か、知りたい」

 大人のカラクルは、歌を歌った。


 星の巡り……はるかな教え。

 我々は、我々という脳がある限り、脳の外へ出ることはできない。

 外には何があるのか、真実の世界の姿を知りたいと思わないか。

 我々の社会の小ささと、儚さと、大切にすべきものを再発見するだろう。

 我々は肉を捨ててゆく。

 もう帰ることはできない。

 伝えることもできない。

 だが、宇宙に同化することで、同じ無機物になることで、

 真理を知ることができるだろう。

 死とは真理。

 悲しいものだ。

 せめて道連れを、裕也。

 私はお前とともに本当に死のう。


 秀樹は救助隊と行動をともにし、見込みのない生存者を探した。

 事件から三日目の夕方、ハドソン川の浜に身内らしき人が打ち上げられていると聞いた。焼け焦げた古代ギリシア風の衣服と、骨と、それを抱いた恐らく少年。翠緑の翅の残骸が、かすかにまだ光っていた。少年の顔は微笑んでいるように見えた。

「裕也……お前は、カラクルと一緒に遠くへ行ったんだな。長い覚めることのない夢へ。

 裕也……俺は何もできなかった……。現実に引き戻そうとして、かえって巻き込んでしまった」

 夕陽がマンハッタンを赤々と照らしていた。

 天上の星の一つが涙を流し、最後のクラの死を見届けて消えた。

 二百万年後、この世界に人間が絶滅した。

 そして二億年後、かつて宇宙へ送られた電波の返信が届いた。


 おめでとう、おめでとう。生命を得た地球。

 さようなら、さようなら、私に最も近付いたもの。

 歌を歌ってあげよう。



次回は大人のカラクル(これまで登場した祭祀長)の幼い頃の物語です。

古代のアフリカにさかのぼります。

どうぞよろしくお願いいたします!

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