第十一話 騒乱 下 南州アルニム・ルートガー
小虎が伝えた北事変の真実とは。
母の生存の可能性、マリアが抱いた疑惑…。
それぞれの想いが交差する。
第十一話 騒乱 下 南州アルニム・ルートガー
まずピドーが尋ねた。
「記憶が戻ったのか?」
「…うん」
「まじ? 全部? お前の名前は?」
かすかに首を振る。
「…分から…ない…」
「全部じゃないのか。じゃあどこまで戻ったんだ?」
つかつかとジャックが近寄った。両脇の下に腕を差し込む。体を固くするのを構わず、ひょいっと抱き上げる。
「まずはちゃんと座りなさい。そうじゃないと、マリアもいつまでも床の上だ。冷えるだろう」
ソファに横たえた。上着をかけ直してクッションと体の下に差し入れる。だが小虎はすぐに体を起こした。
マリアがその場を離れた。冷蔵庫を見ている。鍋を出して牛乳を温めた。
「ピドー、あんたもミルク飲む?」
「あるならコーヒー!」
「粉は戸棚の中よ」
ピドーはすぐに立ち上がった。小虎以外の分を用意する。一度手を止めた。ふん、と鼻を鳴らして姉を振り返った。
「何よ」
「別に」
湯気の立つカップを受け取り、ルプレヒトは複雑な表情だ。動作のがさつなピドーが家事をこなすのが意外らしい。ジャックに言う。
「わりと家庭的というか…。よく動くお子様たちですね」
「俺のしつけがいいからだ」
ジャックはしれっと言い切る。小虎の正面に座ろうとしたルプレヒトの肩に手を置き、少し斜めに移動させる。小虎は何か話したがっている。まともに向かい合うと、威圧感を覚えて言葉が出ない可能性もあるからだ。自分はマリアと並んでダイニングの椅子だ。ピドーはカウチの横に寄り掛かっている。彼が床に座ってもジャックは黙認だった。
小虎はカップに口を付けなかった。テーブルに置く。両手で包んだ。温かい。白い表面が揺れている。中央から外側に向かって液体の環が進み続ける。目を閉じても人の放つ光を感じる。十年前と同じだ。いつも家族の光がそばにあった。
「ヴィプ…ヴィプリンガー…ヴィプリンガーに…」
呪文のように繰り返す。
「兄だな? やはり彼が北事変を…」
彼もカップを置いた。かん、と高い音を立てる。
ピドーが小虎に声をかけた。
「とにかく飲めよ。冷めたらマズイ」
のろのろとピドーを見る。床に座っている彼と目線はほぼ一緒だ。ほら、と促される。反射的に口をつけた。少し苦みを感じたが、温かさが喉を落ちていく。それだけで体が温まる。少し落ち着いた。
まだ下を向いたまま、ぼそっと呟く。
「違う…」
「どういう事だ? ランデスヴァルトで会ったのではないか?」
声が大きくなる。すかさずピドーが言った。
「顔! 顔! すっかり肉食昆虫になってるぞ」
「まぜっかえすな。君の態度の悪さは本当に野良犬並みだな。親の顔が見たい!」
ピドーは黙って父親を指さした。彼は腕組みをして大きく頷いた。
「やたら尻尾を振らない。良い野良犬に育った」
娘はすっと目を逸らして聞こえないふりだ。キースリングが横を向いて咳払いした。
このやり取りを無視している。小虎にはどうでもいいらしい。ゆっくりとカップを空け、唐突に続きを始める。
「…壊した。家。神殿」
「北事変の前か? 後か? どこを壊した?」
どうしてもルプレヒトの声は尖ってしまう。ピドーが身を起こした。カウチの肘かけに腰を下ろす。まるで番犬のように黒い服の男を睨んだ。それから小虎に声をかける。
「言いづらいだろうけどさ。順番に頼むわ。最初に何があった? その日…北事変…」
やはり言葉に詰まる。目の前で家族が、一族が殺されていく。現場を訪れた後だからこそ、事件の酷さが分かる。記憶を失くしてしまうほど。
「ゆっくり…話せる事だけでいいよ」
「…その日。朝。兵隊、来た…」
また腰を浮かせたルプレヒトを制する。ジャックが尋ねる。
「最初の日だね。何色の制服か覚えているかい?」
「…黒っぽい」
「紺かな?」
西州軍は濃紺、南州が紺、カーキ色の制服は北州だ。小虎ははっきり答えなかった。記憶が戻ったとはいえ、黒か紺か通常の時でさえ判断がつきにくい色だろう。しかも十年前だ。
「緑っぽくはないんだね?」
「…」
とまどう小虎をみかねてピドーが口をはさむ。
「制服の色なんかどうでも良いだろう?」
ルプレヒトが眉をはねあげる。
「重要だ。どの軍が真の実行者か分かるんだぞ」
「あ…そっか。そうだ!」
ピドーが跳ねあがった。階段を駆け下りる。
ジャックが話を戻す。
「一日目だね。黒っぽい奴らが集落を焼いた?」
首を振る。
「……撃った」
「指揮官がヴィプリンガー大佐だった? 当時は中佐だが」
また首を振る。
「違う」
小虎は俯いた。固く目を閉じる。しばらくじっとしていた。眉間に深い皺が寄る。自身を抱きしめるように両肩をさすった。
「…次の日。…ヴィプリンガー、ルーカ…来た」
当日の話は飛んでしまった。一気に一晩が過ぎた後になる。おそらく小虎にはまだ言葉にできない事柄なのだ。ジャックが辛抱強く尋ねる。
「前の日だが、話せないかな? 皆は一か所に集められたって事かい?」
「…うん…」
「それで銃で…。どこで?」
「…家…」
神殿だ。小虎にとっての住居だ。
ピドーが戻った。布を両手に抱えている。
「見ろよ。一日目がこっちで」
と黒を小虎の前に示す。
「で、二日めがこれ?」
今度はカーキに近いくすんだ緑だ。小虎は少し迷ったが頷いた。
「これ」
一日目に訪れて銃撃したのが西州軍。二日目が北州軍だ。それぞれ違う小隊がランデスヴァルトに現れている。ルプレヒトの肩から少し力が抜けた。
ピドーは布を脇においた。小虎の言葉を待つ。
銃撃後の記憶は未だ戻ってはいない。ずっと気絶していたのか、目覚めていたのかさえ定かではない。
小虎はようやく口を開いた。ぼつぼつと途切れるのを主にジャックが誘導する。
「……次の…。朝…」
東の空が白くなった。顔に太陽が当たる。意識が戻った。ずっしりとした重みが動きの自由を奪う。体中がきしんで悲鳴を上げる。ようやく這い出した。夜明けの光が神殿の底まで届き、白い光が全てを照らす。遺体が折り重なっている。充満する血の匂い。
服が肌にはりついていた。血が固まり、動く度にばりばり音を立てる。腕も顔も赤茶色に染まっていた。痛みに加えて痺れもひどかった。乾燥してかゆい。いつも周囲に漂う一族の光は全て消えていた。
茫然としているしかなかった。動く者はいない。頭上を風が通り過ぎるだけ。涙も出なかった。胸の中に渦巻いている黒い物が何か、知り得ようもない。
太陽が動く。真上から照らし始めた。見知らぬ光が近づいている。しかもたくさんだ。
ざわざわざわ。
人の声がする。煙が空を走っていた。太陽を遮っている。焦げ臭い。
「ここだ!」
誰かが叫ぶ。手足に力が入らない。何とか這った。神殿の奥に逃れる。柱の陰に身を潜めた。そこまで動くのが精いっぱいだ。まもなく軍人たちが崖の上に現れた。制服の色は昨日と違う。カーキ色だ。
「何て事だ! 生存者を探せ!」
一番初めに駆け下りて来たのは小さな人影だった。黒い服に黒いベール。踊るような足取りで神殿に降り立つ。腰に手を当てて辺りを見渡した。
「このあたりだと思うんだけどなあ。『北の黒』がつながったんだよ」
甲高く響く。幼い声だ。
続いて軍人たちが下りた。黒い髪の男がいる。
「まずは生存者を探そう」
「ふぅん? みんな死んでるんじゃない?」
折り重なる遺体は既に青黒い。ルーカは全く動じなかった。一番近くに横たわる腕を平然と蹴った。
「やめろ」
「何で? 生きてるかどうか確かめろって言ったのはそっちだろう、ヴィプリンガー中佐」
「死者への敬意はないのか?」
「うるさいなぁ。死んでたら痛くもなんともないじゃないか。そうだ、一人ひとり調べるのって面倒だよね。火をつけよう」
軍人たちが静まり返った。ヴィプリンガーが答える。
「生存者を探してからだ」
「そのために燃やしてみるんだよ。集落でもやったじゃない? 熱かったら自分で飛び出して来るだろう? 誰も出て来なかったけど、威勢よく燃えて面白かったよ。ガソリン余っているよね? 持って来て」
動く者はいない。
「ダメだ。生存者をあぶりだす為に放火だなんて貴様は…」
「一番手っ取り早いのにな」
ルーカの声に苛立ちが混ざった。
「一番偉いの誰さ? 僕の命令を聞けって『あの人』が書いた紙を見せただろう。どうなんだい、ヴィプリンガー!」
一番小さな者が最も威圧感を漂わせる。
突然、突風が吹き抜けた。男たちは背中を丸め、顔を覆う。ただ一人、ルーカだけが平然と立つ。服は全く乱れなかった。
同時に小虎の中の暗いトンネルがざわめいた。ルーカと同じ所でつながっているのを感じる。同族ではない。それなのに同じ種類の者なのだ。
「早く! この連中を放っておくつもり? 死んでいるのならどうにかしなくちゃならないし、生きていれば出て来るだろうし、一石二鳥じゃないか! 持っておいで!」
兵は顔を見合わせるばかり。
「一人ずつ並べろ。死者に敬意を払うのだ。もしも生存者がいれば手当を」
「並べればいいのか!」
また突風が吹き荒れた。遺体が浮いた。服が翻る。血が飛び散った。ばらばらと不自然な恰好で地に落ちた。悲鳴が上がった。兵士らの顔は真っ青だった。
ヴィプリンガーはじっと倒れた人々を眺めていた。
「生存の兆候がある者は…」
うめき声の一つさえ聞こえない。
「約三千人か…広場を埋め尽くしている。残念だが…」
彼は背後の部下たちを振り返った。かすかに、本当に少しだけ頷く。はじかれたように兵が動いた。タンクが運ばれる。ぴしゃ、ぴしゃとガソリンが跳ねる。つんとした臭いがこもった。すぐに火がつけられる。
「貴様の言うような生存者のあぶり出しではない。埋葬の前段階だ」
兵たちは胸に手を当て、頭を垂れた。一気に埋葬するできる地面がないのだ。感染病が発生する可能性もある。まずは荼毘に伏すのだが、大きな木材もない。火を放つのは、やむを得ない行為だった。
「何でもいいさ」
ルーカはしゃがんだ。膝に肘をつく。
「『北の黒』ったらどこにいるのかなあ。奴だけは息をしているはず」
遺体の髪が燃える。空気が脂を含んで重くなる。強い臭いが谷に籠った。
小虎の体がわなわな震えた。口に手を持っていく。唇に震えが伝わった。心の中の穴が不意に大きくなる。灼熱の塊が体を走った。黒く輝くドームが全身を包んで沸き起こった。
空中を火花がかけた。閃光がルーカの頭上で弾ける。
「ぅわ」
ルーカはのけぞった。ベールからのぞく唇の口角が、裂けるほどに吊り上る。
「見つけた…そこにいた…。『北の黒』、絶望の虎!」
激しい風が敷石を巻き上げた。小虎の前で砕ける。崩れた壁越しに二人は向かい合った。同じ黒い洞穴を感じる。ルーカは無邪気な笑い声を立てた。両手を差し出す。
「おいでよ。あんたも僕と同じ化け物だ」
小虎は動けなかった。背後に気配を感じる。誰かがいる。
振り返ってはいけない。見てはいけない。
しかし呼んでいる。何度も、何度も。
痛む肩を無理やり回した。首を傾ける。背後を見た。
石の床にうずくまる黒い塊。髪のない頭が揺れる。服の無い肌が動く。目のない眼窩が見ている。枯れ枝のような腕がゆっくり差し出された。首だけ振り返った不自然な体勢のままで動けない。腹の底が熱くなる。
輝く闇の半球が現れた。
ルーカが体を丸めた。彼女を中心に光が球を描く。エネルギーの塊がぶつかり合う。衝撃波が神殿の谷底を覆った。ガソリンの炎が渦を巻く。壁が唸って崩れ落ちた。男たちの悲鳴、怒号、激しく火を噴く遺体…。
「…壊した…『北の黒』が…」
小虎はまた目を閉じた。肩をしっかり押えた。
炎は兵士たちにも向かった。その中からヴィプリンガーが駆け寄って来た。彼の髪は一部が焦げた。こめかみから頬にかけて皮膚が赤黒い。彼は小虎を抱き起こした。
「生きているのか! 気をしっかり持つんだ。大丈夫だ、君は助かる!」
その声を聞きながら意識が消えていった。
「あと…分からない…」
この後の記憶はまだ朦朧としている。ヴィプリンガーの腕で運ばれたようだ。目の前でルーカが何か言っているのが唯一の映像だ。口元は笑っていた。酷く嫌なにおいと、何かが爆ぜる音。
混沌とした意識は西州の地下でようやく晴れてきた。牢獄に隣人がいた。その時には惨劇の記憶がすっかり抜け落ちていた。今も自分の名前は全く思い出せない。家族の顔すらも。
しばらく誰も口を開かなかった。
ルプレヒトが息を吐いた。
「辛い話をさせて済まなかった。おかげで知る事ができた…。兄は潔白だ。ありがとう」
右手を差し出す。小虎は不思議なものでも眺めるような目つきだ。ピドーに促され、おずおずと手を伸ばす。ちょっと指先が触れただけでさっと引っ込めた。少し前までは触られるのを極端に怯えていたのに、自ら手を差し出したのだ。
ピドーの手が小虎の髪をさっと撫でた。
「すげえ進歩だ! 黒カマキリ、喜べ。触ってもらえたぞ」
「茶化すな。君は全く…」
ルプレヒトは右手をそっと包んだ。まるで大事な物でも持っているかのような手つきだった。
北事変でティーガ族を襲ったのはヴィルヘルムの小隊だとは噂を超えた話だ。もはや真実として語られているのだ。しかし、兄の口から真相を聞けなかった。実行者は機密事項とされているようだ。大量虐殺の犯人が兄ではなかった。ティーガ族が無残な最期を迎えたのには違いないのだが、胸のつかえが少しだけ下りた。言葉を濁していた顔の火傷についても納得できた。
実際にランデスヴァルトを見てきたピドーにも、分かった事とそうでない事がはっきりしてきた。最奥部に損傷が少ないのは、爆風が前方のルーカに向かったからだ。そこでヴィルヘルムを初めとして兵士らは傷を負った。
それで手当や撤収が先だ。また遺体の埋葬もある。がれきに埋もれた神殿奥を探索する余裕はなかっただろう。それで、後に訪れたサッシャが持ち出せた。
ピドーは『部屋』に入った。少しだけ冥界のトンネルにピントを合わせる。小虎の背後がくっきりした。黒焦げの人物だ。今も彼に寄り添う。話をしているかのように何度も首を動かす。むき出しの歯は煤で汚れ、かくかく揺れる。見えるようになってからずいぶん経つ。初めは怖いし、気持ち悪かった。しかしかつて生きていた人間であり、今も現世に残る想いの塊であると、今は理解していた。小虎の祖父なのかと思うと、寧ろ親しみを感じるほどだった。
亡霊は死んだ時の状態で現れる。亡くなったタイミングがいつなのか。ヴィプリンガーによる火葬なのか、小虎の爆風によるものか。しかし彼は銃撃では亡くなっていない。まだ息があったのだろう。だから『北の黒』復活が可能だった。
「小虎。爺さんは今もお前と一緒にいる。今まで言わなかったんだけどさ…。ずっと見えていたんだ。黒焦げで背の高い人が、ずっとお前のそばにいるんだ」
マリアが素っ頓狂な声を出した。
「黒焦げの人? 私、見たかも!」
「いつ? 姉貴、そんな話は初耳だぞ」
「怪我をした時だもん。私、たぶん一度死んでいたと思う。真っ黒な穴の中に落ちたもの。手が私を捕まえて引っ張ったの。最初はピドーだと思った。でも違った」
見慣れた弟の手。そこに黒焦げの肌が重なる。透けた映像どうしを組み合わせたようだった。
「あ…俺、死霊使いだから憑依されたのかも。あっちに乗り移る気がないとできない。だから今は無理そうだ」
「ふうん。でもたぶんその人よ」
マリアは一人で頷いた。
「小虎のお爺ちゃんが助けてくれたのね…。小虎、よく頑張ったわよね。まだたったの七歳よ。お爺ちゃんがそばにいてくれたからかな」
小虎はふと違和感を覚えた。
(あの時、何歳だった? 覚えていない…)
年齢を教えてくれたのはジャックだ。目が合うと穏やかな微笑みを返してくる。咄嗟に目を逸らした。
(何で…? もしかしたらお爺様と話した…かもしれない…。まさか…でも…)
病院で目覚めた時の夢。当時の自分が知っていた内容とは思えない。幼い彼には理解もできなかっただろう。何より声は近くて明確だった。
(この人、何で僕の年を知っている?)
ぼーっとしているように見えたらしい。ピドーが目の前で手の平を振った。
「平気? 起きてるか? お前さ、実は死霊が見えたりして?」
自分の考えを見透かされたようで小虎はちょっとぎょっとする。
「…どうして…」
「グリュースゴットの神殿ですごく怯えていたじゃないか? 何か見えたり、聞こえたりしなかったか?」
「見えた…」
海から差し出された無数の手。ピドーに引かれて集まる死霊。
「普段は全然見えないのか?」
「…うん」
「何でかな? 体の調子とか天気とかあるのかもな」
マリアが小さく両手を上げた。
「天気? 何を言っちゃってんの。もういいわ! おバカは放っておきましょう。小虎、眠くない?」
「うん…」
祖父の件は気になるようだ。しばらく小虎は考え込んでいたが、ぼそぼそとその後を話し始めた。
ロッホネスの遺跡では地下の牢に入れられた。気力もなく、ひどく疲れてだるかった。小虎はずっと『部屋』にいた。いつも黒い穴を通して世界を眺めているようだった。
時々ルーカが来る。嘲りの言葉を投げかけるだけだ。
…銀のネズミめ、いい加減に起きたらどうだい。名無しの絶望…
しかし、彼女と同じ場所にいるのは分かっていた。同じ種類の人間だと。
「違うだろ」
ピドーはきっぱりと言い切った。
「同じ場所に引き込まれただけだ。あいつは楽しんでいる。俺たちはそうじゃない」
小虎は視線を落としたままだ。
「隣も…。同じ、言った」
「他にも捕まっている奴がいたんだな? ティーガ族か?」
「ううん。マックス、髪」
小虎の視線の先はキースリングだ。彼の髪は金色。
場が凍りついた。当時の国王マクシミリアンの愛称はマックス。幼馴染のユリウスも彼をそう呼んでいた。北事変の前に行方不明になっている。ティーガ族に誘拐されたとも言われていたのだ。それがロッホネスの遺跡に居たのか。ジャックが努めて穏やかに聞いた。
「マクシミリアンといったかい? 目の色は?」
またキースリングを見る。同じ色だと言いたいようだ。
「青いんだね。どんな人だった? 若い?」
「大人」
精神的な状態が極端に不安定な時期だった。小虎の記憶は、彼についても曖昧なままだ。
「どこに居るか分かるか?」
「…分からない」
光を誰だか区別できるのは、顔を覚えるのと同じ感覚らしい。だからはっきり覚えていないと探す事さえ無理だ。そもそも地下の囚人マックスがマクシミリアンと同一人物なのかも不明だった。
「…可能性は高いと思うんだが…。だったら誰が、何の為に…」
誰も何も言えなかった。
「太陽神話について聞いてもいいか?」
ピドーが尋ねた。
ジーノチカが『リョードフが伝えた物とは文様が違う』と言っていた。
「それにロッホネスにある太陽の石はでかいって。ランデスヴァルトにあったとは考えにくいんだ」
一つずつがソファほどだとしても、四つあればそれなりの大きさだ。ランデスヴァルトの神殿はそれほどのスペースがない。しかも既にティーガ族が衰退してからの設営だ。対して外の三か所はそれなりの大きさがある。
ラドクリフ出身のルプレヒトが答えた。
「ラドクリフ城から運んだのだろう。基盤はティーガ族が造った城だ。詳しくはないが、シュペトレーゼもそう言っていた」
「お前は歴史研究所のセンセイじゃなかったっけ? 詳しくないなんてよく言えるよな。とにかく残っていないって事か。…いや…」
現存する冥界の太陽神殿遺跡は、どこも奥まった場所だ。
「黒カマキリ、城の地下はどうなってる?」
「見たことはない。そもそもあそこはシェレンス公の居城だ。そうそう入れるものか。だから人を虫の名で呼ぶな!」
「こっちを犬呼ばわりするからおあいこだろうが。やっぱりシュペートを連れ戻すしかないのか。無理やりにでも」
「私はそのつもりだ、この野良犬!」
組んだ手に顎を乗せる。また考える顔つきだ。
「もちろん軍人としての失態を取り戻す気もある。しかしシュペトレーゼ・シュルツ氏として、もう一度会いたい」
さらにシュペトレーゼが西州へ戻ったとしても、問題が全て解決するのは難しいだろう。長く離れていたのだ。身分を尊重はされても、発言権は与えられるだろうか。また十年前に発表された写真は彼ではない。身柄がどのように扱われるのかさえ未知数だ。
「私は連れ戻す。協力してくれるか?」
「しょーがねえな」
ゲルシュニアウプで買った全国の地図帳を出した。
「いいか?」
小虎の顔をのぞく。彼は膝とおでこがくっつきそうな格好だった。頬が赤い。瞼が重そうだ。だるそうに頷く。
「まずジーノチカはどこだ?」
こころなしか赤みを帯びた指がまっすぐ北に向かい、グレンツェで止まった。なんだか全身が赤っぽい。息も少し荒くなっているようだ。
「ランデスヴァルトじゃないんだ。また騒動を起こしてなきゃいいけど。で、シュペートは?」
南州を抜け、西州へ入ってすぐの海沿いで指が動き続ける。ヴィプリンガーが首を傾げる。
「移動中か?」
「だろうなあ」
収容中の場所は大破だ。一刻も早く堅牢な場所へ収容したいだろう。
小虎の体がぐらついた。息を吐く。目をつぶって額を拭った。頬が真っ赤だ。白いだけに際立つ。一度後ろに寄り掛かった。すぐに前に起きようとして、横に倒れた。クッションに沈む。唇が少し開いていた。暑いのか、上着を乱暴に押しのけた。
「熱でも…」
言いかけたルプレヒトだが、ピドーの目つきに口をつぐむ。
「姉貴、どれだけブランデー入れたんだよ! すげー匂いだったぞ」
「あら相変わらず鋭い鼻ね。なら分るでしょう。モクテル用ノンアルコールシロップ!」
台所の外にいたジャックとヴィプリンガーは、コーヒーの薫りで気が付かなかった。マリアはホットミルクを作るのに、砂糖に加えてさらにブランデーの香りがするノンアルコールのカクテル用シロップを注いだ。小虎はそのまま飲み干したのだ。
「だって棚にあったんだもん。今の小虎には薬になると思ったの」
「なるかよ!」
「寝てくれたじゃない!」
モクテル用シロップの効能は怪しい。だが記憶の復活で混乱していた小虎には、温かいミルクとやや多めの糖分が程よく鎮静剤になったようだ。
ジャックが立ちあがった。ひょいっと小虎を抱き上げる。手足がぐんにゃりと垂れた。
「しょうがないな。とりあえず寝かせてくる」
残った三人は無言だった。ピドーが黙ってカップを下げて洗う。水が跳ねた。
窓ガラスがゆれ、がたがた鳴った。口笛のような音を立てて風が過ぎる。
戻って来たジャックが呟いた。
「風が強いな」
窓のそばに行く。少しだけカーテンを開いた。見下ろす。
「マリア」
「なに?」
「ちょっと小虎を見てやってくれ」
「ええ」
いささか唐突だったが、気にはなっていたようだ。彼女はすぐに階段を上がって行った。
「ピドー、台所に行け」
「はぁ?」
父は唇に指を当てた。キースリングとルプレヒトも目配せしあう。二人はホルスターに手を伸ばしていた。親指を立てて、ジャックのいる窓を示す。
「ちょっと何だよ。三人だけで…」
「しっ」
ジャックが息子にヘッドロックをかけた。身を屈めて耳に口を寄せる。
「外に誰かいる」
「へ?」
ピドーには感じられない気配だった。父の腕から逃れ、首をさする。
「さすが軍人さんたち」
「俺は元、だけどな。ピドー、ここにいろ」
「行くよ。俺が必要になるかも」
四人は静かに一階の店舗へ降りた。
キースリングが静かに扉に耳をつけた。ごく細めに開く。ルプレヒトに合図をして、するりと外に出た。
ルプレヒトが窓の横に立つ。身を乗り出したのはピドーだ。
「じゃあ行くか」
「お前の力は切り札だ。見えないところにいろ。そもそも居場所がルーカにばれるんだろう?」
「まだるっこしい! さっさと勝負つけよう」
「おいっ」
止めようとするジャックをかいくぐる。ピドーはカーテンをめくり上げるなり窓を全開だ。
「誰か居るのか、こらぁ!」
冥界の力が爆発した。圧縮された空気が破裂する。
「うわぁ!」
「こら!」
外の声は二人だった。部屋からの灯りで見えるのは倒れた二人。ピドーが覗き込む。
「やったか?」
一人は先に出たキースリングだ。
「私ごと吹き飛ばすつもりか!」
乱れた髪のまま、もう一人の襟首を掴んで引き起こす。
窓枠にうつ伏せに押し付けた。片手で首根っこを押さえ、もう片手で腕をねじり上げている。相変わらず素早い動きだ。
「や、やめて…」
情けない声を出していたのは小柄な青年だった。髪は茶色で黒っぽいシャツとジーンズというラフな服装だ。エイミール・モリスは痛みで顔を歪めている。
「は、放してもらえませんか…」
「お前か!」
ピドーも声を立てた。
「あ、こいつ。エイミー…」
すかさずジャックが息子の口を塞いだ。部屋の中へ引き戻す。ほぼ同時に素早く窓を閉めた。
ルプレヒトがドアを開けた。
キースリングとエイミールが入って来る。
ピドーは父親に叱られていた。
「ここは北州じゃない。誰が聞いているか分からないだろう? 大きな声で誰かだなんて言うのがどういう事が分かるか?」
エイミールがもごもごと割って入った。
「あ、あまり彼を怒らないでくれませんか? こそこそしていた僕が悪いのであって…。まあ仕事なのでしょうがないですが…」
「仕事? モリス曹長、なぜここに居る? 北方警備のはずだ」
まだキースリングは彼を捕えたままだ。ジャックが服を探る。ポケットから財布を見つけた。中には身分証があった。
「エイミール・モリス。北州の曹長に間違いないんだね?」
「はいっ」
ピドーが口を挟んだ。
「南の境界までのはずだろう?」
キースリングがやっと手を放す。エイミールは息を吐いた。服を整えて敬礼をする。
「ヴィプリンガー中尉、自分はエフェレットきょうだい及び氏名不詳のティーガ族少年を護衛しております。ヴィルヘルム・ヴィプリンガー大佐の命によるものです」
ルプレヒトは眉をひそめていた。
「潜入活動中なのに本物の身分証持参か。北方警備は西か南の物を用意しなかったのか? 兄上とした事が手抜かりだったな」
「あ、いえ…」
エイミールがまた敬礼をした。
「申し訳ありません。自分の手抜かりです。自分の役割は州境を突破するまでピドー・エフェレット氏の護衛につく事でした。ここには北州へ戻る途中で寄ったのみです」
キースリングの声が低い。
「方向が逆だ。そもそも君はすぐに北州へ戻るはずだったな。命令違反、越権行為か?」
顔がくしゃくしゃと歪む。
「そ、そんなぁ…。ちょっと寄り道しただけで…。ピドー君が無事なのか気になってしまいまして。何しろランデスヴァルトから一緒だったんですよ? ヴィプリンガー大佐にはご内密に…」
「余計な心配だ。私たちが付いている。シュタイン少尉は?」
「…予定通りに行動されております…」
「ここを誰に聞いた?」
「はあ…その…シュタイン少尉が南に出張と言う事で…。協力者のお宅は限られていますので…誰から聞いたとかではなく…」
しどろもどろの言い訳が続いた。
キースリングの眉間には皺が寄っている。少し頬が赤い。犬でも追い払うように片手を振った。
「すぐに報告する。後は大佐次第だ。さっさと戻れ」
「は、はいっ!」
エイミールは転がるように部屋を出た。
「勝手な真似を」
ルプレヒトは渋い顔だった。
「シュタインは少尉でしたね。部下を制御できないとは」
キースリングはむっとした表情を隠さなかった。
「我々の部署の事だ。君は休んで体力を温存しておけ」
それからまた外へ出て行った。夜の警護を続けるようだ。残りの三人は、また二階へ上がった。
残されたルプレヒトはうろうろと歩いている。所属が違うとはいえ、命令をされるのが何となく落ち着かないようだ。
(いつ軍に戻れるのだ、私は!)
もっとも彼の身分は、現在ラドクリフ歴史研究所の助手だ。まだ出向中の扱いである。もはや護衛の任は無い。それなのに軍に戻されないのは、任務の失敗によるものだろうか。シュペトレーゼの奪回が至上命令とされているものの、追加の応援はない。たった一人だ。軍のくびきはない。個人の裁量で動けという事だろう。
(任されているのか…。それとも切り捨てられたのか…)
不意にピドーが言った。
「トイレに行きたいのか?」
「いや…」
小刻みに歩いていたようだ。足を停める。
「そうかぁ? 絶対に行きたいよな? 行けよ」
「そんなにトイレに行かせたいのか!」
「うん…。ちょっとその…話が」
ちらっと父親を見る。
「…マリアにも」
「家族だけで話がしたいというわけか。それなら人の尿意に頼らず、はっきりとそう言え!」
数歩行きかけて振り向く。しげしげとピドーを眺めた。自分だけでは奪還は無理だ。彼と小虎の能力があれば或るいは可能かもしれない。しかし二人は民間人だ。ジャックと行動をともにして、それなりの親近感も湧いた。マリアは怪我が治りきっていない。これ以上エフェレット家を巻き込むのに躊躇がある。
「俺の顔に何か付いてる?」
ピドーは自分の鼻を指して、にかっと笑った。
「またシュペトレーゼを取り返しに行こうぜ。小虎が二日酔いじゃなかったらな」
ルプレヒトは少しだけ笑った。
「心配ない。ノンアルコールなのだろう? 飲ませた張本人を呼んでくればいいんだな」
「おう」
ジャックは頭を抱えている。
「ソフィアに帰らないのか…」
ルプレヒトと入れ違いにマリアが下りて来た。エイミールの件は手を振って説明を拒む。
「ピドーのでかい声のおかげですっかり聞こえていたわよ。爆発まで起こして! ルーカにばれるんじゃないの?」
「ちょっとだけなら大丈夫だ。俺と奴は小虎ほど鋭くない。もし来やがったら小虎を叩き起こす。二対一だぞ。今度こそ勝てる」
「はいはい。それでまたあの大騒ぎを繰り返すってわけね。話って何?」
カウチに座り、クッションによりかかる。さっきの小虎と同じ位置だ。肘かけに腰を下ろした弟を見上げた。
「俺ってさ、ウサギのぬいぐるみを持っていたよな?」
「はあ? 何? 今は非常時よね? それでウサギ? ぬいぐるみ?」
ピドーは思わず首を縮めた。苛立つ姉の剣幕は何歳になっても恐ろしい。しかもこの後に話さなくてはならない内容にも心臓が早く打つほど緊張している。
「大事なんだよ。片手で握れるくらいでタオル地の…」
声の調子は真剣だ。マリアは弟の表情を睨みつけていたが、ふっと目を逸らして小さくため息をついた。
「ピンクのウサギね。いたわよ。もともとお祖母ちゃんが私の為に作ってくれたの。私も好きだったのよ。でもチビのあんたが欲しいって大泣きしたから、しょうがなく上げたのよ! そしたらずっと握っていて、寝る時も離さないじゃない? おへそにバッテンの刺繍が付いてたのに、取れちゃった。すぐに母さんが付け直してくれたわ…。その頃には、もうお祖母ちゃんはいなかったから。MとPの刺繍もあったかな?」
「それ…俺は母ちゃんに渡したんだよな? よく覚えていないんだ」
「渡していたわよ。ほら、北に行った時。『この子と寝るとさみしくないよ』って。母さんは写真と一緒に持って行ったじゃない」
ピドーはずるずると床に滑り落ちた。髪をかき混ぜる。オリガが持ち出したウサギ。おぼろげな記憶と一致する姿。MとP。マリアとピドーのイニシャルだ。『特別なのよ』。何故?
「マジかよ…」
「ええ。カイのウサギを妙に気に入っていたから、てっきり懐かしいんだなと微笑ましく思ってたわよ。で? それがどうしたの?」
ただの思い出話なら許さないわよ…と姉の目が言っている。大きな吐息と一緒に言葉を押し出した。
「そのウサギがあったんだ…」
父と姉はきょとんとした。話の繋がりが今一つ分かっていない。
「どういう事?」
「分かんねえ」
「あんたに分からないのに私たちに分かるはずがないでしょ?」
不意にマリアの声が優しくなった。
「もう休んだら? 明日の事はまた考えたらいいわ。ピドーもミルク飲む?」
今にも立ち上がりそうだ。
「じゃあモクテル」
「ホットミルクにしておきなさい」
ジャックが笑った。
「マリア、口調が母さんみたいだな」
ピドーの肩が跳ねた。腰を浮かせる。視線が泳いだ。また床に腰を落とす。立てた膝に肘を乗せて首を垂れた。
目を閉じて叫ぶように声を出した。
「母ちゃん、生きているかもしれないんだ!」
すぐには二人とも返事をしなかった。呆気にとられているようだ。マリアは首を振った。歪んだ笑顔だ。
「何で…そんなはずないでしょう? あなた死んだ人が見えるって言ってたじゃない。それを見たんでしょう」
姉の手は温かい。声もまるで駄々をこねる子を諭すようだ。ピドーは首を振った。
「ウサギを見た。あれは俺のだ…。ランデスヴァルトへ行った時だ」
ますオリガ宅での出来事だ。さらにホテル・グレンツェ、軍で見た鞄の中身について話した。
二人はしばらく黙っていた。ジャックが口を開く。
「ロッタの…その、幽霊はいなかったんだな?」
「いなかった」
「じゃあ可能性があるのか…! ウサギを持ってホテルから逃げられたのかもしれない」
ジャックの頬が紅潮する。
「そうか…そうか。ロッタが…」
手を何度も組み替える。立ち上がり、うろうろし始めた。グレンツェ事件は 悲惨な出来事だった。真相も分かっていない。残された家族として、初めて光明が見えた気分だ。
マリアがクッションを叩いた。
「そんなはずない!」
強い口調だ。語気の荒さにジャックの動きが止まった。ピドーもはっと姉を見上げる。マリアは口のへの字に曲げていた。穴が開きそうなほど床を睨んでいる。
「生きているはず、ない!」
おずおずとピドーが言う。
「でも…だってホテルには…」
「他で亡くなったかもしれないでしょ! 財布が無いのだって、盗まれたのかもしれない。手作りのぬいぐるみなんて、似たり寄ったりよ」
「写真も無かった。絶対に持って行ったと思う」
「ちゃんと保管されてなかったのよ」
「姉貴!」
ピドーはカウチを叩いた。
「母ちゃんが生きているかもしれないのに、嬉しくないのか?」
「だから、そんなはずがない!」
クッションがピドーの顔に命中した。
「もし生きているのなら、どうして帰らないのよ? 電話の一本もないのよ?」
グレンツェ事件の後、エフェレット親子がクロイツベルクを脱出するまでしばらく猶予があった。
「怪我をしていたとか、誰かに掴まっていたとか…何か事情が…」
「分からないじゃないの。生きている証拠にはならない」
声は低く震えている。マリアの頭から湯気が出そうだ。
「私たちより仕事を選んでグレンツェに行ったのよ。その上まるっきり連絡が無いなんて。家族より大事なものなんてあるの? 生きているとしたら有りえない。もうこの世にいるはずがない!」
冷気が床から這いあがる。ピドーはまた肘かけに腰をかけた。きょうだいはお互いにそっぽを向いている。
三つの寝袋を抱えたルプレヒトが下りて来た。静かになったからだろう。しかしぎこちない空気に戸惑った顔だ。彼もまた何も言わない。どさりと荷物を床に置いた。
「ありがとう」
ジャックは少しほっとしたようだ。行き詰った家族の中に第三者が入ると雰囲気が変わる。
「ちょっと電話をかけてくるよ」
「どうぞ」
電話は室内にある。軍の伝手で借りた家だが、万が一盗聴されている可能性もある。だから敢えて公衆電話を使うのだ。
マリアがはっと息を飲む。身を乗り出した。
「どこへ?」
「ソフィアだよ」
「誰と話すの?」
「師団の誰かが出ると思うよ。何か伝える事があるかい?」
「やめて!」
マリアの頭に浮かんでいるのは、ジーノチカの言葉だった。
…誰かに教えたのか?…
あまりの剣幕にジャックは戸惑っている。
「どうしたんだ?」
「だって…。だって、師団にスパイがいたり…とか思わない?」
「いいや。昨日の夜も電話したよ。現に無事にお前たちと合流できたじゃないか?」
逮捕状の出ているジャックはずっとここで待機だ。丸腰に近い。もし西南軍のスパイに情報が筒抜けなら、昼間のうちに兵が来ていただろう。
「泳がせているだけかもしれない」
ピドーが拳を手の平に打ち付けた。
「姉貴こそさっさと寝ろよ。おかしい」
「考えてみなさいよ。おかしいのはどっち? キルヒェガルテンでもアディートでもあの騒ぎよ。ケッセンでも! 西南軍やルーカが来るじゃない! まるで私たちがどこに居るのか分かっているみたいに!」
グリュースゴットの海岸でもそうだった。
ピドーの顔にも緊張が走った。
「俺たちがどこに行くか知っていたのって…まさか…イーブじゃないか」
同居人のイーブ・ルパートだ。彼にはこまめに連絡を入れていた。師団へ電話した際も替わってまで話をしていたのだ。
「違うよ」
ジャックの声はいつものように穏やかだ。
「マリア、誰に何を言われたのか知らないが、イーブが身内を裏切るような真似をするもんか。何の根拠もないのに滅多な事を言うんじゃない。ここにだって襲撃は来ていないだろう」
「何でそんなに信じられるの?」
「十年も一緒に暮らしたんだ。気性は分かっているよ。それに彼はボリスの息子だ」
慇懃無礼で真面目、几帳面。ジャックはボリスへの信頼を通じてイーブを信じる。
マリアは首を振った。
「それこそ何の根拠にもなってない。電話しないで!」
「分かった。…分かった」
ジャックは両手を広げてみせた。今にも牙をむき出しそうな娘にちょっと困ったような笑顔を見せる。
「お前がそこまで心配するのなら、今夜は電話しないよ」
「…ええ…」
まだ表情は硬い。けれども少しだけほっとした顔になった。ジャックに促されて立ち上がった。
「上で寝なさい。何かあったらすぐに起こすから。キースリング少佐も外にいるから安心だ。小虎を頼んだよ」
「もちろんよ」
マリアと同時にピドーも立ち上がった。無言で部屋を出ようとする。
「どこへ行く?」
「ちょっと外!」
「おい」
振り向きもしない。音を立ててドアを閉めた。荒い足音が階段を下る。
「やれやれ」
ジャックはため息をついた。
ルプレヒトが寝袋を広げている。
「お疲れではないですか?」
「いや。ただ…ちょっと」
ジャックは椅子にこしかけた。背中を丸めてこめかみに手を当てる。
「…かなり…。混乱しているよ。色々とね。君こそ大丈夫か?」
「ええ。まあ、少しはほっとしましたよ。兄が北事変の実行者ではなさそうです。ご子息のおかげですね。感謝しなくては」
「野良犬にね?」
ジャックは笑った。テーブルに肘をかける。ちょっとむっとした表情のルプレヒトを穏やかに見やった。
「本人には聞かなかったのかい?」
「兄とは年が離れていましてね。さほど気安い仲ではありません」
「でも兄上だ。心配していたんだね」
「そんな事はありません」
まるで息子を見守るような視線だ。ルプレヒトは目を逸らす。
「他にきょうだいは?」
「妹がいますが…。私の家族構成にずいぶんとご興味がおありのようですが、これ以上はお答えする必要はありません」
ジャックはへこたれなかった。
「妹さんか。君に似たなら美人さんだろうね」
「お休みなさい」
冷たく言い捨てた。ルプレヒトはさっさと寝袋にもぐりこむ。それでも言葉が追いかけてきた。
「…マリアは性格が似ているな。ピドーは顔がそっくりだ。ロッタは美人というよりは可愛いタイプだな、うん。気が強いんだ。でも一途で面倒見がよくて…。だから両親を置いてノーザンベルには行けないって…そしたら俺が残るしかないだろう…」
だんだん低くなる声は独り言のようだった。
静かになる。ルプレヒトがそっと窺うと、額に手を当てて深くうなだれていた。深い倦怠や困惑が全身から漂う。仕事も家も失って妻の消息も不明だ。逃れて落ち着いた住処も破壊され、友人家族が被害にあった。自由に行動する子供たちも心配だろう。ジャックも内戦によって深い傷を負ったのだ。
気配に気づいて顔を上げた。するといつのもように穏やかな笑顔を浮かべる。
「ん? どうした?」
「まだ起きていても構いませんが、灯りを落としてもらえませんか?」
それだけ言って反対側を向いた。何を言ったらいいのか、彼には思いつかなかった。風が強い。ピドーはなかなか戻らなかった。
がれきと化したアルニム簡易裁判所。警察車両や救急車が続々と到着する。駐在中の兵士たちは意識を取り戻していた。ルーカの姿はもはやない。遊び相手は去った。それならもう用はないのだ。シュペトレーゼの居場所を教えていなかったのは幸いだった。もし知っていたら、彼は無事ではなかっただろう。
ヒューゴは呆然と佇む。土埃とうめき声ばかりが響く。彼にとってはほぼ初めての実戦だった。グリュースゴットでやりあったのはルーカとピドーだ。
(敗けたのか…。一体、何が起きたんだ?)
魂を抜かれるなど彼は知らない。
よろよろと立ち上がる。知らぬ間に打ち付けたようだ。あちこちが痛む。苦々しさが腹の底からこみ上げた。王太子を奪還したのだ。それで彼は階級にふさわしい称賛を受けるはずだった。それが崩れる。
土くれを踏む足音が近づく。額から血を垂らすフランツだ。
「統括! ご無事ですか」
「見て分かるだろう」
肩をすくめて見せた。
「フランツ、『荷物』の所在を確認しろ。あれは重要だ」
西南軍にとってより重要性が高いのは彼だ。ヒューゴはその場に座りこんだ。頭を抱える。
敬礼をしたフランツは彼に背を向けた。トビアスもよろめきながらやって来た。腰をさすり、足を引きずっている。フランツは声をかけた。
「トビアス、大丈夫か?」
「はい、背中と腰を打ちましたですが歩けますです。マイヤー少尉はお怪我をされて…頭じゃないですか! 流血がひどいです! すぐに手当てを…」
「大丈夫だ。…それにしても…何だ…気絶したみたいで…」
「…私もでございます。とてもリアルな夢を見ていたようです」
二人は顔を見合わせた。どういう事なのか理解できない。トビアスが、フランツ越しに座るヒューゴに目をやった。
「統括閣下は…」
ヒューゴは顔を伏せたまま怒鳴った。
「何をしている⁈ 命令は聞こえたな!」
「はいです!」
トビアスは反射的に返事をした。飛び上がって顔をしかめる。
「あいたたた…」
ぽん、とフランツが彼の肩を叩いた。
「俺はティーガの子と『荷物』の確認に行く。お前はできるようなら怪我人の救護に当たってくれ。無理はするな。救援も来たからな」
救急隊員が続々と訪れる。彼はその場を離れた。ざくざくと足元が鳴る。壁やガラスの破片だ。大量の書類も飛散した。フランツはぎゅっと拳を握った。
(…あれが冥界の太陽の力…)
グリュースゴットに続いて圧倒的な力を見せつけられた。ルーカがこちら側にいるからと油断があったのではないか。
フランツから見ても色々と作戦が甘すぎた。
これほどの破壊力を持つピドーを、解放すべきではなかった。さっさと西州軍に引き渡せば良かったのだ。そうすれば何が起ころうとも管理はあちらの責任だ。ケッセンの小隊は無関係だった。
(何が『泳がせる』だか。見張りや尾行相手に、この力をくらったかもしれない)
行方を見失うのは、ほぼ確実だっただろう。
テロリストの名前としてシュペトレーゼの名前を出したのも失敗だった。ハンス・ヨアヒムは二度とこの名前を使えない。西州で王太子として公表しないのなら、この偽名で通す事も可能だった。その機会を潰して処刑としてしまったのだ。
また小虎とシュペトレーゼの収監場所は別にすべきだった。一元管理の為とはいえ、監視の手間を省いたと断じられても仕方がない。
さらに、幸い死傷者は出なかったものの負傷者が多数だ。小隊は成す術もなく壊滅状態にされた。もはや隊としては機能しない。ヒューゴは少将でありながらも、ただの地方の統括管理官だ。新たな兵の追加は、バロー伯爵に頼んで待つしかない。シュペトレーゼを西南軍とバロー伯爵に託して、ケッセンに帰るのみだ。ヒューゴの出番は終わりだ。
全てを自らの手の平に乗せたつもりだったが、小さすぎてこぼれてしまった。そういう事なのだろう。
(もう殿下も奪還されたんじゃないのか)
その予想は裏切られた。
『荷物』は地下で立ちすくんでいた。フランツの驚きをよそに、彼は鍵の束を拾った。鉄格子の隙間からフランツに渡す。
「お怪我はいかがですか? 他にも怪我人が出たのでしょうか? あまりひどくないといいのですが」
騙された相手なのに、恨む気配は微塵もない。なぜ鍵が牢の中なのか。どうして侵入者は彼を連れ出さなかったのか。フランツは考えるのがもう面倒だった。
「殿下はいかがですか?」
「僕は大丈夫ですから、早く手当てを受けて下さい」
「ありがとう、ございます」
上司からかけられなかった労りの言葉を、閉じ込めた相手から受ける。何とも言えない気分だ。
王太子はまだここにいる。その事実だけがヒューゴの立場を救う。
(首の皮が繋がったな、コネ少将)
フランツは大きく息を吐く。二人の頭上では、サイレンや救急隊員の声が響き渡っていた。
ティーガの子供は所在不明だった。遺体も発見されなかった事から、侵入者へ奪還されたと判断された。
入院加療の必要な者を残して、ヒューゴの一行はケッセンへ戻った。そしてヒューゴの命により、フランツが東州ジェールへ赴いた。
ツヅク! 次回第十二話 上 過去と交錯 東州ベルヒゲタル・北州クロイツベルク
神殿から逃れたサッシャが行き着いた先は? ホテル・グレンツェの惨劇は今もなお影を落とす。
お読みいただきありがとうございます。
小虎の記憶が一部だけ戻りました。
記憶とは、楽しいよりも辛いくて嫌な方が残りやすいそうです。が…。
忘れていたかったかもね…。
ブランデー入りのホットミルクが 鎮静につながるの? う~ん。
日本にも 風邪の時に たまご酒を飲ませる事が 過去にはあったようですし。
ちょっと小虎に飲ませてみました。
異世界とはいえ 未成年なのでノンアルでね。




