第十二話 前 過去と交錯 東州ベルヒゲタル
舞台は東州へ。
『楽園創生の委員』の本拠地には秘密があった…
第十二話 前 過去と交錯 東州ベルヒゲタル
色とりどりの花が揺れる。盛りはそろそろ終わりそうだ。結実した丸い実がほっそりと伸びた茎のてっぺんで揺れている。花の残したガクはまるで冠だ。緑の小人が群れ集う夢の舞踏会のような光景だ。
(…これは悪夢よ。そして復讐の糧)
その女性は、この花を見る度に思う。
芥子坊主の本当の悪夢はここから始まる。表面には傷がつけられて、どの実も茶色の涙を滴せる。ねっとりした乳液状だ。これを集めて乾燥させるとアヘンになる。強い麻酔・鎮静作があるモルヒネを含む。医薬用ともなるが、陶酔感を得られる麻薬だ。強い依存性があり、中毒者は最悪の場合には命を落とす。ベルヒゲタルの谷間はオピウムで埋め尽くされている。
(もっと育つがいいわ)
雲をまとった連山の頂は鋭く、初夏なのに雪をかぶったままだ。空は澄んだ青で高原の色だった。たった一本の電線が風にそよぐ。小さな鉄塔が南方向へ一列になって並んでいる。
集落は畑のそばにあった。傾斜地にへばりつくような簡素な丸太小屋ばかりだ。煙突から煙がたなびいている。中央のくぼんだ道が細く縦横に走る。真新しい街灯が広場を囲む。舗装は殆どない。せいぜい砂利が敷いてあるだけだ。細い電柱はまだ木の匂いがしそうなほど新しい。
中心部の広場も坂の途中だ。ここは煉瓦敷きだ。輝くばかりに白い蛇口から水がほとばしる。水受けは二つあった。一つは大人の腹ほどの高さで丸みを帯びたデザインだ。もう片方は地面に近く四角い。そこへ犬が駆けて来た。鼻を突っ込み、水の匂いを嗅いだ。日差しは強い。しかし吹き抜ける 風はひんやりしていた。
広場に数人が集まっている。いずれもマントを深くかぶったままだ。犬を追いかけて来た老人に一斉に頭を下げる。彼は横を向いた。
「犬も好きに水が飲めるってわけだ。あんたらのおかげでね」
大げさに肩を竦める。
「金も稼げるさ。だから犬だけじゃない。人間も好きな時に酒が飲めるようになった。もっとも飲むしかないからね。感謝はしているさ、もちろん。だがね…言いたい事も一杯あるんだよ。電話も入れるなら早くしてくれ。この間の話は分かっているだろうな?」
昼間だが人気はない。老人は首を振った。犬が顔を上げる。尻尾を振って彼に駆け寄った。抱き上げると、元来た坂をゆらゆらと下りて行く。
「できた時は喜んだくせに。コンクリートや漆喰だってタダじゃない。この山道を運ぶのに幾ら私たちが払ったのか、聞かせてやりたい」
呟いた女性がフードを後ろに下げた。茶色の巻き毛が露わになる。深い皺の刻まれた顔をさらに歪めた。
傍らの青年が静かになだめる。
「環境が変われば、いろいろと思うところもあるでしょう」
銀色の瞳が女性を優しくとらえる。彼はワシリー・リョードフ。内戦前夜の収容所から脱走できた一人だ。
彼は肩に小銃を背負っている。この奥まった地に侵攻しようと企む勢力はいない。表向きの理由は、熊など人を襲う大型獣を追い払う為だ。だが作物の警備も兼ねて、委員会の意向で射撃など軍事訓練も受けているのだ。
静かな声が続く。
「若者は外へ出て行ってしまったし、豊かになったとはいえ、生産品があれですから」
「それがどうしたの!」
声が尖る。
「売れるから作る。それだけよ。外の連中がどうなろうと知った事じゃない。骨の髄までボロボロになればいい」
叩きつけるように言うとそっぽを向いた。他の者は無言だ。
ワシリーはそっとため息をついた。
「もちろん、この状態が良いとは思っていないですよ。ここの人たちの為にも。あなたもそう思っているのでしょう、ロッタ?」
「別に。勝手に決めないで。ここの人がどうしたって? みんな勝手だわ」
ロッタ・エフェレットはいつでも怒っている。
「幾らでも出荷してやるわ。で? あの男は何が言いたいの?」
「少し前に電話の件で|『家』に来ました。早く入れてほしいそうですが、この周辺」
と、ワシリーは広場をぐるりと示した。
「交換機を置くのは反対だそうです」
「じゃあどこに置けっていうの?」
「う~ん…まあ…とにかくここに設営するしかないでしょう。ある程度は面積が必要だし、平らな場所はここだけですから」
「反対ばっかり! いっそあいつの頭の上にも建ててやれば?」
中継所がまもなく完成する。そうすれば電話が使用可能だ。
ベルヒゲタルに電気が通ったのは数年前だ。ワシリーやロッタが来てからになる。資材も経済力も無かったからだ。貧しさゆえに故郷を離れる者も多い。
そこへ西からティーガの若者たちが逃れてきた。
彼らは野生の大麻を栽培して増やし、オピウムからアヘンを精製した。それを売って得た金がインフラ整備の原資だ。
計画と推進をしたのは『楽園創生の委員会』である。
今も若者たちは充分に戻っていない。住人は老人や子供たちが中心だ。それで昼間とはいえ人の気配が少ない。谷の日常生活を担っているのは主に彼らではあるものの、ここに在住する銀の髪の人々が経済を支えるようになった。
水飲み場が出来たのも最近だ。
問題を解決し、インフラを整えた。環境は変わる。保守的な考えの住人にはあまり歓迎されていない雰囲気もあった。それでも出稼ぎに出ている者からは電話回線の希望があった。それで一部の反発を押し切って電話回線の引き込みを決めたのだ。
ワシリーはフードをかぶり直した。銀色の髪をていねいに押し込み、目元まで隠す。
「電話があると便利ですよね。ああ、そういえばサッシャが戻りましたよ。リギーも一緒でした」
「え? じゃあオリガは? 一緒なの?」
「ええ。知りませんでしたか」
「悪かったわね!」
露骨に顔をしかめる。彼女はぐいっと顎を突き上げた。挨拶もせずに背中を向けた。かつかつと足音が遠ざかる。
ティーガ族の一人が肩を竦めた。
「火炎放射器を背負っているようだ」
「うん」
肩をいからせ、怒りのオーラを発散させながら歩いている。ワシリーは消えていく後姿を眺めた。
広場から坂を下る。砂利を蹴散らし、細い一本道を進む。わずかな平たい場所に『家』がある。ベルヒゲタルではもっとも大きな建物だろう。尖った屋根を持つ三階建てだ。この辺りには珍しく石積みのしっかりした造りだ。
ドアを開けると、まず小さな部屋がある。マントルピースがあるだけだ。そこを抜けると広間になる。壁には地図が三枚かかっている。ベルヒゲタル、東州、グリングラフト全土だ。それ以外には飾りさえない。壁際にシンプルな木の椅子が並んでいる。オリガが座って足をぶらぶらさせていた。隣にリギーが座る。硬い表情だ。
窓は小さい。木の板が内側から貼られている。今は斜めに開いているが、外から内側を覗けないようになっていた。
室内に戻ってから、初めて一行はフードを外した。銀色の髪と瞳が露わになる。蝋のように白い頬は少し赤らんでいた。ずっと目深にかぶっているのはやはり暑いだろう。各自背負った武器を下ろし、マントを壁のフックにかける。ティーガの服ではない。ごく普通のシャツにズボンだ。色や柄は様々だが全体的に地味だった。年齢はほぼ全員がワシリーと同世代だ。ティーガの言葉で会話を始める。
オリガが椅子から飛び降りた。
「お帰りさない、ワシリー、ロッタ・ママ!」
転げるようにロッタにしがみついた。
「久しぶりね。元気だった?」
ロッタはその場にしゃがんだ。少女と同じ目線になり、髪をなでる。険しい表情が少し和らいだ。しかし、振り返ってリギーを捉えた目つきは鋭い。
「どうしたの?」
「ああ…ちょっと…」
リギーは言いよどむ。
「どうしたの!」
叩きつけられるような声に少し首を縮める。
「ちょっとしたもめ事があったんだ。兵隊が来ちまって…。とりあえず逃げて来たんだよ。またしばらくここに居させてもらおうかと思って」
「サッシャは?」
ワシリーが答えた。
「二階。フィニーニと話している」
オリガの頭を撫でながらロッタは立ち上がった。リギーが急いで彼女の前に立つ。
「ちょっと、ちょっと。久しぶりなんだ。オリガの相手をしてやったらどうだい?」
オリガがロッタの腕を両手で包むように握った。あどけない笑顔で見上げている。
「私ね、ちゃんと良い子にしてたよ。ロバが揺れたけど泣かないでじっとしてた」
ランデスヴァルトからベルヒゲタルへ人目を避けて行くには、山脈の北側を通って険しい道を越えなくてはならない。オリガはサッシャの連れて行ったロバに乗せられたようだ。それなら一日で到着できる。経路は厳しいが、距離が近いのだ。
「そう。良い子ね」
「うん。でね、すごい事があってね…」
「オリガ!」
悲鳴のようにリギーが遮る。
「やたらにしゃべっちゃダメって言っただろう」
「…はあい…」
叱られた彼女はしょんぼりと肩を落とす。それでもしっかり腕を握ったままだ。ロッタは優しい笑顔をオリガに向けた。
「夜にゆっくり聞くわ。ロッタ・ママはこれから大事なお話してくるからね」
「はあい」
素直な返事に、焦った調子の声がかぶさる。
「ロッタ! 待って、あたしも話がある」
「何」
「あ、ああ、ほら。オリガの今後について」
リギーの瞳が左右に動く。話しながら何を言おうか考えているようだ。
「夜って言ったわよね。どいて」
声が低くなった。オリガがはっと手を離す。なおもリギーは立ちふさがっている。ロッタは腕を突き出した。リギーの肩を突く。よろめいた彼女を更に押した。オリガが今度はリギーに取りすがった。守るように抱きしめ、振り返った。
「ロッタ・ママ…やめて」
「夜に話しましょうと言ったわ、リギー。子供の前で怒らせないで!」
「わ、分かっているよ、ロッタ。だからちょっと話を」
「何度も言わせるな」
声がさらに凄みを帯びた。室内は静まり返った。ロッタは広間を横切る。ドアノブを引きちぎるような勢いでつかんだ。閉めるのは足だ。狭い木の階段を踏み鳴らす。
二階は廊下を挟み、幾つかの部屋に別れていた。一番奥の部屋を何度か殴りつけた。
ドアを開けたのはフィニーニだった。サングラスはかけていない。
「ロッタだと思った」
彼は彼女を部屋に入れてドアを閉めた。
窓を背にして大きな机がある。木製の本棚にはファイルがぎっしりだ。幾つか広間にあるのと同じ椅子がばらばらに置いてある。やはり飾り気はない。サッシャが机に腰を掛けていた。腕組みをして軽く頷く。
ロッタは仏頂面のまま、男に膝を折る。
「ごきげんよう、委員長」
「その挨拶は本当にそろそろやめてくれ。貴族ってわけじゃない」
フィニーニは苦笑した。椅子に座って膝に肘をつく。
「電話線を引く計画は進んでいるのか?」
「ええ! まもなく出来るわ」
吐き捨てるように言ってから、ロッタは少しうつむいた。
「ここの生活は変わったわ。少し急すぎたんじゃないの? 一部には反発がある」
「今までが遅れ過ぎだ。他の地域と同じになるだけだ。皆はとまどっているだけだ。作業を進めろ。金ならあるだろう」
「荷物のおかげでね」
声が強くなる。
「まだまだ搾り取るつもりなんでしょう? 幾らでも準備してやるわ」
フィニーニは肩を竦めた。
「よく分かっているな。その通り。それでさっき聞いたんだが…。ハンス・ヨアヒムが西州へ連れ戻されたそうだ」
「それがどうしたのよ?」
挑戦的な調子だ。誰が言わずとも北州は切り札を失い、内戦に大きな影響が出るだろう。サッシャが頭を掻いた。ロッタはそちらをじろりと睨む。
「それよりランデスヴァルトで何かあったの? どうして二人を連れて来たのよ?」
「集落を見張っていた北州軍ともめ事があったみたいだ。二人に何かあったら…と思って連れ戻した」
「爆弾でも投げてやれば良かったのよ」
サッシャはしげしげと、憎まれ口を叩く彼女を眺めた。
「何よ!」
「ロッタ、苗字はエフェレットだったね?」
「だったら何?」
サッシャは顎に手を当てた。少し考えたが、また彼女を失礼にならない程度ながらもじろじろ見る。
「何だっていうの!」
「ちょっと確認させてくれ。北州に親戚はいるのかい?」
「いないわよ! はっきり言って。そうじゃないと椅子を投げるわ」
「いやいや、やめてくれ」
両手を軽く万歳の形で挙げた。それから苦笑を引っ込めて腕を組んだ。まだ迷った表情で口を開く。
「ランデスヴァルトに来た奴らがいるんだよ。一人が君に似ているような…。男の子で名前がピドー・エフェレット。心当たりはあるかい?」
ジーノチカについては彼の身分を考えてか、はっきりとは言わない。
しかしロッタを驚かせるには充分だった。目が丸くなる。
「ピドー? ピドー…」
何度も繰り返す。どんどん声が小さくなった。
「年は聞かなかった。十六、七かな。クロイツベルク出身だそうだ。エフェレット工房の孫で、父親はシパクトリの北の白鬼」
どすん、と床が揺れた。ロッタがその場に崩れた。まっすぐ落ちるように膝の力が抜けたらしい。ぽかんと口を開けた。ゴドー・ピシェッツリーフ・ダーヴィド・ドッジソン・エフェレット。愛しい息子のフルネームだ。幼いマリアがきちんと発音できずに愛称がピドーになった。この国では、そうそうある呼び名ではない。
かすれた声が尋ねる。
「他の家族は? 連れって? どうして来たの?」
矢継ぎ早の質問だ。サッシャは首をひねった。
「姉がいるって。弟と一緒に西南軍に拘留中らしい」
「お、弟…? 三人きょうだい…?」
「そうらしい」
敢えて義弟がティーガ族だとは避けた。それでもロッタの肩から力が抜けた。背中を丸める。顔を両手で覆った。しばらく動かない。
「ロッタ? 大丈夫か?」
サッシャの声にのろのろと腕を下ろした。膝に乗せた拳が震える。
「その子は…どうしたの…」
囁くような声だ。
「北軍の斥候に掴まった。一緒に行ってしまったよ」
「じゃあグレンツェへ? それともラドクリフ?」
「さあ…」
ロッタの様子にサッシャは大きく頷いた。
「君の子供なんだね?」
ロッタは口をぱくぱくさせるだけだ。言葉は荒い息になってしまう。
フィニーニも複雑な表情を浮かべた。
「彼女の家族は内戦後すぐに亡くなったのでは?」
ロッタの口から小さな呻きが漏れている。
「弟なんて知らないし…死んだと…死んだって…みんな…」
サッシャが顔をしかめた。
「誰が言ったんだ? 確かめたわけじゃないだろう?」
「そう…だけど…。探したのよ! もうずっと…。見つからなくて…。連れは…誰?…」
「ピドーとは別にしょっぴかれたよ。まあ大丈夫だろうけど」
エイミール相手にピドーが起こした爆発は、サッシャがいた神殿跡からも見えた。急いで岩の割れ目へ戻り、リギーとオリガを連れ出した。途中でジーノチカを置き去りだ。彼はうるさく地理に疎い。はぐれたら付いては来られない。だから格好の囮となってくれたのだった。彼の身分なら捕虜となってもさしあたって命の保証はされるだろう。
ロッタがやおら胸元に手を突っ込んだ。首から下げている布の袋を引っ張り出した。白い紙に包まれた写真を取り出す。立ち上がろうとしたが、二、三歩でまた座り込んだ。震える手でサッシャに示す。顔が真っ赤だ。言葉もうまく出てこない。
「これ…。この子…この…」
腕組みをしたまま覗き込む。セピアに褪せた家族写真だ。芝生の上でエフェレット一家が笑っている。熊のようなジャック、しゃがんでいるロッタ、父と手を繋いでおすまし顔のマリア、ロッタのスカートにしがみつくピドー。
サッシャは写真のロッタを眺めた。弾けるような笑顔だ。片手で髪を押さえ、もう片方で息子を抱き寄せる。肩には娘の小さな手。三人を守るように後ろに立つ父親。どこにでもいそうな仲の良い親子の肖像だ。
「う~ん…多分。彼が来た」
母親によく似た丸い瞳、茶色の巻き毛は幼い面影そのままだ。
写真が床に落ちた。ロッタの顔がみるみる青ざめる。全身がわなないた。色を失った唇が動く。何か話そうとしているのだが、言葉にならない。
不意に跳ね起きた。まるではじかれたようだ。スカートを翻し、部屋を走り出た。ドアも閉めない。どすどす、と階下へ走る。転んだのか、何度か重い音がした。
サッシャが扉を閉める。振り返るとフィニーニが写真を拾っていた。見入っている。
「生きていたのか。内戦は罪だな」
彼は写真を机に置いた。また椅子に戻る。腕を頭の後ろで組むと、天井を仰いだ。
「もう十年になるのに内戦が終わらない。でもハンス・ヨアヒムのおかげで状況が変わりそうだな」
「…ええ」
フィニーニは体を戻した。肩を竦めて笑顔を見せる。
「もちろん遠慮なく西を喰うよ。故郷の為だ。クロイツベルク出身の君としてはどうだ?」
サッシャは視線を落とした。
「…ティーガ族が世話になっていますからねえ…。彼らの処遇がどうなるかが心配ですが」
リギーとオリガの世話をしていたのは同胞への想いだ。サッシャはティーガとグリンクラフトのステップファミリーで育った。どちらの民族にも愛着はある。
「彼らも俺達の同胞だ。何も案じるな」
「そりゃどうも」
階下から物音がする。重い物を投げつけているようだ。叫び声もする。足音が近づいた。あわただしいノックと同時に扉が開いた。頬を赤く染めた若者だ。ベルヒゲタルの住人で、ここに住んでいるセリノだ。手足が細く、背もあまり高くない。二十代半ばだが、丸い頬に少年らしさがまだ残っている。
「委員長、ちょっと来て下さい! 大変な事に」
「またか。こっちが椅子を振り回したい気分だ。放っておけ」
「でも」
「いつもの事だろう」
不安そうなセリノに笑いかける。
ワシリーも上がって来た。
「早く来てもらえますか? ちょっとお願いします」
「無理だ。俺には止められない」
フィニーニは苦笑いをして手を振った。
言葉は聞き取れないものの、喚き散らす声が響いている。
サッシャは腕を組み直した。
「山猫か虎か、おそらく彼女の祖先は猛獣系だな」
ワシリーが首を振った。
「そんな…」
「いや悪い。馬鹿にするつもりはないよ」
ティーガの神話によると、彼らの祖先は虎だ。ベルヒゲタルの住民も、祖先は東州にもともと住んでいた民族とティーガ族が融合したと言われている。
「君たちは? ティーガ族を僕の国が滅ぼそうとした。それなのにどうして協力を?」
「ランデスヴァルトに戻っても何もありません。何も」
仕事はおろか家さえ破壊された。耕すほどの土地はなく、交通は不便だ。そして常に北州の監視下にある。
「ここにいるしかないのです」
リギーとオリガが生活できるのは、ここからサッシャが日用品を運ぶからだ。ベルヒゲタルの協力が無ければあの地で暮らせない。
「…それに」
きらめく瞳がサッシャを見つめた。
「ティーガとグリンクラフト、どちらも文化も継ぐあなたは僕の希望でもあります」
少々の沈黙の後、サッシャは呟いた。
「俺にはそっちの趣味はないぞ」
「僕もです。そんな冗談はやめて下さい」
ワシリーは苦笑した。
「亡くなった母はいつも言っていました。私たちは滅びるのではない、同化するだけだと」
ティーガ族は同族同士でしか形質を次世代に残せない。太陽復活の儀式が失敗したせいなのかどうかは不明だ。だがこの特徴がある限り一族と呼べる存在は衰退するばかりだ。
ティーガ族はいわば源流を失った水流だ。あるだけの水が流れきってしまえば消えてしまう。だが水は枯れても地形が残る。かつての川岸に立って源流を思う事もできるだろう。例え川の名前を失おうとも大きな自然の流れにいるのだ。
「あなたは血族ではありません。しかし、僕らの文化を持って別の川へ流れ込んだ一滴なのです。もう滅ぶしかない僕らの希望です」
民族は違っても、家族の縁が続く。
「母は偏見や因習を憎む人でした。それで『忌むべきもの』とも交流していたのです。早くに亡くなったのも彼らのせいだと言われましたが…」
だから彼らとは会うな、遠ざけろと言う者もいた。ワシリーの気持ちが不安定にならなかったといえば嘘になる。だが母は病死だった。原因を他者になすりつけるのは、悲しみを癒せるだろうか? またそのような行為こそ母を悲しませる。ワシリーもまた『忌むべきもの』と関わりを絶たなかった。自然とティーガ神話についても詳しくなっていく。彼らがかつては神官と呼ばれて尊敬されていた事や、特殊な能力についても知った。
「父も同じ考えでした。まず彼らを知ろうと、母の死後も神殿にはよく二人で行ったものですが…。アナスタシアと再婚してから考えが変わったようです。義母は先鋭的な思想の人でした」
神話に詳しい者を宮殿に派遣してほしい。グレンツェの村役場を通じて連絡があった。本来なら『忌むべきもの』が行くべきだったろう。なぜ彼らではなくリョードフ夫妻が赴いたのかもはや経緯を誰も知らない。
(義母は、父を本当に愛していたのだろうか? グリンクラフトへの復讐の為に、父の知識を利用したのではないか?)
冥界の太陽が復活できないまま十年が経過した今、そう思う。一つだけでも通路がつながればそれでいい。グリンクラフトは儀式失敗の報いを受けるだろう。そして破滅の道をたどるのだ。
机の上にある写真をセリノと一緒に覗き込んだ。
「ロッタの家族ですか」
「そうだ」
若い、とセリノが呟いた。年齢のせいばかりではない。彼が知っているロッタは常に怒り、悲しんでいる。笑顔でさえ陰がある。
ワシリーはジャックを見ていた。
(ロッタのご主人だったのか?)
大きな体格の彼は、名前をなんと言ったか。覚えていない。十年前に一度会ったきりだ。淡い色の髪が太陽に透けて銀色だった事だけ鮮明な記憶だ。
(顔を覚えていないな)
少し言葉を交わしたのは事実だ。だが初対面だし連絡先さえ知らない。それなのにワシリーは彼について虚偽の供述をした。強制されたとはいえ、後に彼の一家を窮地に陥れてしまったのではないか。
留置所で写真を見せられた。
…彼と何を話していたか…
世間話だと何度も言ったが納得してもらえなかった。
…テロの打ち合わせではないのか…
執拗な尋問に負けたのだ。さらに彼の数代前にティーガ族がいる事も話してしまった。
すぐに長い供述調書にサインさせられた。内容は全く知らない。
逃亡できたのは、そのテロのおかげだ。雨が降る暗い朝だった。警備が手薄になった隙だ。白い煙が留置場に満ちた。誰かが叫ぶ。
『逃げろ!』
鍵を開けてくれたのは覆面をした男たちだ。そのうちの一人がサッシャだとは後で分かった。タオルを渡されて口を押えた。警備員が倒れている。その廊下を走った。
それでも留置所の壁を越えられたのは全員ではない。警備のサイレンが鳴り響いた。内部で銃声が響く。
残った者は処刑されたようだ。ろくな裁判も無かっただろう。
(ああ、『赤い虎戦線』だった)
勝手に名付けられたテロ組織の名称だ。忘れたくとも記憶から消えてくれない。
唇を噛む。
(この国を救う価値は本当にあるのだろうか?)
写真の中で二人の子供は笑顔だ。しかしグリンクラフト人のせいで、たくさんの笑顔がランデスヴァルトからも消えた。
「ワシリー? ワシリー」
フィニーニに何度か呼ばれていたらしい。
「あ、すみません。何でしょう?」
「マイン橋爆破の犯人はまだ見つかってないんだって? 心当たりは?」
「さあ。僕らは谷から出ませんから。噂なども聞いていません」
勝手に犯行声明が出された。委員会として正式に否定はしたものの、真犯人は不明だ。見つからない限り彼らの仕業ではないと証明するのは難しい。
叫び声が途切れて静かになっていた。
「こっちの爆発も終わったようだな」
屋外では風で枝が揺れてざわめく。ワシリーは窓を塞ぐ板をはがしたい衝動にかられた。逃れ、隠れながらの生活だ。
…まるで僕らが『忌むべきもの』になってしまったようだ…
目を開けた。天井がぐるぐる回っているようだ。ロッタは自室のベッドに寝かせられていた。まだ時間はそんなに経っていないのだろう。やはり窓には木の覆い付きだ。隙間から数本の光が床に落ちている。ベッドが二つ、簡易ベッドが一つ。洋服ダンスが二つ。一つは小ぶりで子供用だ。それで部屋は一杯だった。
リネン類も無地のベージュ色だ。暖かい色合いではあるが、殺風景な部屋だ。サイドボードには水のピッチャーとコップがある。サッシャは壁に寄り掛かって腕組みをしていた。
「…ロッタ・ママ…」
オリガが枕元にいる。床に膝をつき、ロッタを覗き込んでいた。
「…大丈夫…」
そういいながら目を逸らした。
「リギーは?」
「下にいる」
「そう…。ごめんね、一人になりたいの」
小さな手が肩に触れようとする。寝返りを打って拒んだ。
「…ごめん…まだ、めまいが…」
言い訳だ。今はティーガ族の瞳や髪に触れたくない。また叫んでしまいそうだ。
サッシャがベッドのそばに来た。オリガの肩に手を置く。
「オリガ。ロッタは具合が悪いんだ。ちょっと下に行っておいで」
「うん。でもちょっと待って。ロッタ・ママ。これ」
かさり、と写真がシーツに落ちた。オリガが持って来たのだ。さらにロッタの頬に柔らかい物が触れた。古びた小さなウサギだった。ロッタの母の手作りだ。もとはふっくらした形で可愛らしいピンクだった。もともとはマリアの為に選んだ色だ。すっかり灰色にくすみ、中の綿はやせ細ってしまったが、胴の部分だけはしっかりしている。アナスタシアの死後まもない頃、リギーが補修した。
…大事な物でしょう? 私が直してあげる。せめてこれくらいはやらせてちょうだい…
あの優しさは何だったのか。
「これを抱っこしていると、さみしくないわよ。ロッタ・ママの大事なウサギでしょう? ねえPとMって書いてあるのよね? ピドーの物だったの? オリガは会ったよ。Mはだあれ?」
どん、と心臓が鳴った。ロッタは反射的にウサギを突き返す。枕に突っ伏した。幼い子供たちを思い出すのが辛い。自分は母としてふさわしいのか? 手はすっかり汚れてしまった。でもオリガへ八つ当たりするのは違う。ロッタは顔を上げなかった。
「…お願いだから…。一人にして」
サッシャが再びオリガの肩を静かにさすった。彼女は頷く。サッシャの手を取った。二人は廊下に出た。オリガは切れ長の目をしっかり見開いてサッシャを見上げた。ウサギを差し出す。
「これをピドーに渡して。私ね、会ったの。一緒にご飯を食べて、おしゃべりしながら寝たの。とても楽しかった」
サッシャは彼女の目線になるようにしゃがんだ。
「いつになるか分からないよ。それにとても大事にしていただろう?」
「うん。オリガの大事だったの。でもね」
彼女はそっとウサギを撫でた。
「私ね、本当はランデスヴァルトが好きじゃなかったの。だって他の人達が怖いんだもの。特にね、ウサギを探している女の子が時々来るのよ。それがとても怖かった。その子は血まみれなのよ」
ベルヒゲタルからオリガを連れ出したのはリギーだ。本来『家』は男性のみで構成される。だからオリガをいつまでも置いてはおけない。ロッタは委員会の仕事の為に、主な活動地を東州へ移した。かといってティーガ族のオリガを連れてはいけない。経済的に苦しい谷の生活で、誰が事情のある子供を見てくれるだろうか。『家』では充分な養育を受けるのは難しい。リギーの意向もあって、二人はランデスヴァルトに戻ったのだ。
オリガはひそやかな声で続ける。
「ピドーが来た時に、その子がすごくきれいになって現れたの。可愛いぬいぐるみを抱っこして、ママと一緒だった。とても嬉しそう。どこかに行くみたいで、最後の挨拶だったの」
視線がうろうろとさまよった。
「いいな…ママと手を繋いで…。ロッタ・ママを好きよ。でもね、オリガの本当のママじゃないって…分かっている…」
少し目を伏せる。
「いつも小さな布袋を提げているでしょう? 見せてくれないの。でも時々、あれを握って泣いていたの。だからロッタ・ママがお風呂に入った時に、こっそり開けちゃった。それで…分かった…。もっともっと大事な子供がいるって…オリガはちゃんと分かってるから…それ、ピドーなんでしょう?」
彼女はぬいぐるみを押し付けるように渡した。
「ピドーはこれをじーっと見てた。でもオリガの大事なんだねって返してくれた。ピドーのだったのかな。だから返さなくちゃ」
両手で目をこすった。それから背中を向ける。
「もし…もしもオリガが持っていてもいいってピドーが言ったら…それを持って会いに来てって伝えてね」
小さな足音が消えた。残されたサッシャは、しばらく佇む。逃げ出した父の故郷、帰れない母の故郷。両方を利用しようとする委員会。自分の行く道は混沌としたままだ。どうすればいいのか、未だ答えは出ていない。ウサギをしげしげと見つめた。
パオロが階段を上がって来た。
「副委員長! 委員会宛に親書が届きました。…北州軍から」
「何だって。ここに直接? 後で確認するよ」
北州軍と取引はあるものの、物流はケッセンを通している。
ウサギをポケットに入れて部屋に戻る。
「ロッタ、子供たちが生きている」
サッシャの声に肩が震えた。そちらを見ずに答える。
「…そんな…ひどい…」
もう一つのベッドに腰掛けた。
「良かったじゃないか。父親はソフィアにいるそうだ。行くといい。フィニーニは何とかごまかすよ」
「だめ、行けない! 私がひどい人なのよ」
ロッタはきつく目を閉じた。
「…私は…私は何て事を…。ジャックにも子供たちにも顔向けできない…」
「何を? もう充分だ。君は良くやってくれた」
「それが良くない!」
ふりしぽった声はかすれている。
「…真っ黒な心になってしまった…。それに、あれ…あの…ひどい事を…あんな真似を…」
「君のせいじゃない。セリノを助けたんだ」
「違う!」
殆ど悲鳴だった。飛び起きた。瞳を大きく見開く。しかしすぐに目を落とし、背中を丸めた。
「…助けてもらったのは私…。今の私なんか…会えない…」
「ロッタ」
「…一人にして…。お願いだから…。それに弟がいるって。ジャックは再婚したのよ。今更…」
「あんまり思いつめないで、ロッタ。俺たちには君が必要だった。でも、もう自分の事を考えてもいいだろう」
彼女は再びベッドに沈んだ。サッシャは静かにドアを閉める。
(ハンス・ヨアヒムが戻ったか)
フィニーニはどう動くだろうか。彼は東の利益しか考えていないようだ。北と西は間違いなく停戦へ動くだろう。武器の流通量が減る。今まで通りの儲けは期待できない。国の状況が安定すれば阿片の売買にも影響する。取締の強化があるかもしれない。
(そして北州からお招きだと?)
自らもどう動くべきか。事態は大きく変わろうとしている。
残されたロッタは枕に顔をうずめる。毛布を頭からかぶった。何も光景を目に入れたくない。息苦しいほどなのに少しだけ落ち着く。呼吸がむしろ楽になった。過呼吸を起こしていたようだ。
階下に走り降りた時、リギーの胸ぐらをつかみ叫んだ。自分では抑えきれない衝動が体を突き動かしていた。
…知っていたの? どういう事? 殺されたって言ったじゃない…
みんな呆気にとられている。リギーが何か言っている。でも、だって、だけど。ロッタが知りたい答えが出ない。そのうちに頭がぼうっとしてきた。息ができない。吸っても吸っても苦しい。暗くなっていく視界の端に目も口も見開いて茫然としているオリガがいた。少し吊り上った細い目。薄い唇。母親に良く似ている。
(アナスタシア…あなたは? 何をしようとしていたの?)
暗闇で呼ぶ低い声。肩を揺すった細い指。
意識が十年前の悪夢へ飛ぶ。
ツヅク! 次回 第十二話 上 過去と交錯 東州ベルヒゲタル
ホテル・グレンツェからの逃亡。オリガの出生。抗いようもなく運命に巻き込まれるロッタ。
お読みいただきありがとうございます。
お話は いったんピドー達から離れます。
サッシャが戻ったのは『楽園創生の委員』発祥の地、東州ベルヒゲタル。
☆ここから本編のネタバレあります☆
この話がこんなに長くなったのは も~ひたすら
ロッタ・エフェレットが生きていたからです!!
もともとグレンツェで アナスタシアとともに命を落としていたはずでした。
第三話キルヒェガルテンを書いていた時でした。
赤ちゃんを逃がす手段をつい入れました。だってねえ~可哀そう!
そしたら ロッタの死も 理不尽じゃないの? と…。
好意で同行してあげた挙句、死んでしまうなんて~! と。
それで生きている事にしました。
そう、もともとオリガもいなかったのです。
長編の書き方が良く分かっていませんでした…。
(今もよく分からんけど)
それでえっっらい方向転換となり…うわわわわ。
10話程度から、倍近い長さとなっちまいましたの…。
お付き合いいただいている方々には もう感謝感謝! です!




