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冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


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第十話 北限の土地 下 ランデスヴァルト・グレンツェ

悲劇のホテル・グレンツェへ。

母の消息は?


第十話 北限の土地 下 ランデスヴァルト・グレンツェ


 ソフィアではもちろん、記憶の中に彼の顔はない。

「どこかで会ったっけ?」

「僕ってそんなに印象薄いかなあ。キルヒェガルテンに行くバスに乗っていたよ。しかも通路を挟んで隣! 君はヴィプリンガー少尉と運転手に、しょっちゅううるさいって怒られて」

「あ~...。そういや、いたような...」

 太陽神話を聞くためにハンナの家に向かった時だ。ソフィアを出て初めての目的地だった。それ以来、一度も故郷に帰っていない。

 彼は肩をすくめて右手を差し出した。

「エイミール・モリス曹長。エイミールでいいよ。よろしく」

 その手をぱんと叩く。

「知ってる顔ならどうして撃った?」

「木の陰で誰だか分からなかったんだよ。まさかこんな所に...。何をしているんだい?」

「散歩だよ」

「こんな山の中? 最寄りの町からどれだけ遠出をしたんだか...」

「俺の勝手だろうが」

「危害を加えるつもりはなかった。当たらなかっただろう?」

「じゃあ声をかけるとか」

「もちろん、そのつもりだったよ? そしたらいきなり爆発だもんな...。難儀な仕事だよ」

 口ではそう言いつつも、エイミールの顔は怒ってはいない。人の警戒を解くような笑顔を浮かべている。

「君が太陽候補の一人だというのはヴィプリンガー少尉から聞いてたけど、今の」

 彼の視線が壊れた銃に落ちる。

「冥界の太陽に間違いないんだね?」

「うん」

 トンネルを通じて受け取れる力は強大だった。

(小虎とルーカは、これを使っているんだろうな。グリュースゴットで勝てないはずだ)

 凄まじい力を一気に解放できる。ピドーも、これで死者の霊を使わずとも戦えるようになった。

(便利になったけど...あんまり嬉しくないや)

 使い方を熟知していないから負けたというよりも、冥界の力そのものが役に立たなかった感じだからだ。

「それよりもシュペートの事は知っているのか? どうしてここにいる?」

 表情は硬いままだ。封鎖が解かれているから、とランデスヴァルトに来たのだ。それなのに銃を携えた兵が警戒している。

 エイミールは人差し指を立てた。ちょいちょい、と呼ぶ格好をする。

「僕は元から北(ノルデン)州軍所属。護衛から駐屯地に戻っただけなんだ。とにかく一緒に来てくれないかい? 銃が壊れてしまったし、こんな場所でゆっくり話はできないよ」

「ああ...まあ...」

 ティーガの二人はもちろん、神殿に残った二人も心配だった。エイミールがどれだけ把握しているのか分からない。しかもジーノチカは西南軍少将の兄である。エイミールから遠ざけたかった。

「近くに拠点があるんだ。そこまで来てもらえるかな」

「うん」

 一度谷を下り、また上る。大きな岩の隙間に押し込まれるように小屋が建っていた。薄い木の板を張り合わせた簡素な造りだ。窓は無く、草や木の枝でカモフラージュされていた。

 岩陰にバギーがある。ピドーが覗き込んでいるうちに、エイミールが監視小屋に入った。ピドーに背を向けて銃を片づけているようだ。

 ピドーも続いた。火の気がなくてひんやりしていた。

 壁は向きだしの木のままだ。大きな桶が蛇口の下に据えてある。流し代わりだろう。登山用の調理用バーナーと金属の皿が無造作に床に直置きだ。青い寝袋が幾つか部屋の隅で丸まっている。膝ほどの高さのチェストも木製だ。壁にランデスヴァルト近辺の地図が貼ってある。殆ど山ばかりだ。標高線が幾重にも接近している。リュックを下ろした。

 無線機が鳴った。はっとエイミールが振り向く。しかし、ピドーの方が近い。ソフィアへの攻撃がフラッシュバックする。連絡を受けられずに、水没したサンハチから避難が間に合わなかった。被害者がでてしまった。つい体が動いた。受信のスイッチを押す。

「はいよ」

 雑音がひどい。数秒の無言の後、ざらざらした声が返ってきた。

「定時の番号は?」

「エイミールなら忙しいみたいだ。俺が聞くけど」

 あわててエイミールが走り寄る。小型のピストルを腰のホルスターに押し込む。受信機をピドーから奪った。

「は、はいっ! こちら監視小屋、本日の回線は...。異常な...い、いえっ。はい、はいっ!」

 頬が赤い。やたら額をこする。ちらっとピドーを見た。

「実は...実はその...あのピドー・エフェレットがここに居ります。はい、本人です...」

 何を話しているのか。以降は相槌と事務的な返事を繰り返すだけだった。

 通信が終わった。エイミールは肩を落として深々とため息をついた。

「はー...。無線機が扱えるのか...」

「なめんなよ。ソフィアはずっと戒厳令地帯だ。俺だって迫撃砲くらいまでは撃てる」

「うるさいだけのボクじゃないんだね」

 一転、元通りの人懐こい笑顔になる。

「水だけは出るんだよ。コーヒーならすぐに飲めるよ。ああ、その辺に座って」

 手早くデカンタとフィルターを用意する。バーナーに火を点けた。すぐに香ばしい香りが漂う。

「軍のコーヒーだけど...。ま、無いよりマシ。どうぞ。ミルクはない。砂糖は?」

「いらね」

 ピドーはカップを両手で包んだ。金属製だ。すぐに手が熱くなる。

「何も入ってないよ」

 エイミールは苦笑し、カップを口に運んだ。

「僕は遅摘み酒の護衛の一人だったんだ」

「ソフィアにいたっけ?」

「ううん。キルヒェガルテンからだよ。ずっとじゃなくて、何回か交代したけどね。ほら、殿下は夜に出発しただろう? 迎えに行った車は僕の運転だったよ」

「へえ。で、それがどうしてここに居るんだよ? 南じゃシュペートに護衛はいなかったようだけどなあ」

 ケッセン駅で小虎が引き留めてくれた。ホテルに護衛はついて来なかったし、彼は一人で行動していたようだ。

 また肩をすくめてカップを床に置いた。ようやくピドーもコーヒーを口にした。薫りが薄い。

「仕事だからね。...まあ、ジェールで少尉が出し抜かれちゃってさ。殿下は一人でケッセンへ」

「えー! あの黒カマキリが!」

「カマキリ!」

 エイミールはコーヒーを噴き出した。

「そのあだ名、ぴったりだね。殿下を僕らが追いかけたけど結局は逃げられちゃった。ケッセン駅で爆発と火事があっただろう? 言い訳になるけどさ、あの騒ぎではぐれたんだよ」

 ルプレヒトも遅れてケッセン入りしたそうだ。手分けをして遅摘み酒の行方を捜した。だが敵地の上、探す相手が相手だけに表立っては動けない。ルプレヒトのみ残った。他の者は撤収だ。そのうちにエフェレット親子と合流してからはピドーも知っている通りだ。

「それで僕はここに配属」

「ずいぶん遠くに飛ばされたんだな」

 ピドーのちょっとした感想にも笑顔のままだ。

「職場がどこでも仕事だから。ここでティーガ族の動向を伺っているよ」

「えっ。じゃあ...」

 あわてて口をつぐんだ。

「いいんだよ。お婆さんと、幼い子供の事は知っている。裏の山道から来訪者が時々来ているのもね。彼らは監視に気がついていないようだけど」

 リギーは知っているのだが、ここは知らんふりだ。

「ふうん。でもどうして監視?」

「貴重な生き残りだからね。保護っていうか...。万が一、本当にテロを起こされても止められるようにだよ」

「万が一...? 本当(・・)に?」

「そう」

 ピドーは考え込んだ。父の話によると、クロイツベルクで頻発したテロの真犯人は不明だが、ティーガ族ではないだろう。

 グレンツェ事件の後、この地域を封鎖したのは北軍だ。それなのに北事変は起きた。誰がティーガ族を襲ったのか? 

「少し戸惑ってる...。それで黒カマキリはどうした?」

「ヴィプリンガー...さん...。それなら」

 エイミールは頷いた。

「グレンツェにいるよ。会うかい? あちらも君に色々と尋ねたい事があると思うよ?」

 まだ少し迷った。やはり心配なのはジーノチカだ。戻ればエイミールがついて来るかもしれない。また、いなくなったピドーを探してうろうろしている可能性がある。さっきピドーは爆発を起こしてしまった。場所はほぼ分かるだろう。叫びながら探している姿さえ想像できてしまう。来訪者が西南軍関係者だと知られたくなかった。

「...分かった。行くよ」

 とりあえず軍人をこの場から離したい。それなら自分が行くしかなかった。下ろしたばかりのリュックをまた背負う。

 バギーは二人乗りだ。運転席の後ろに小さなサブシートがある。

「本当は夜間とか、雨降りにしか使わないんだけどね。すぐ行かなくちゃだから」

 シートにまたがる。細くて小さい。不安定だ。エイミールがヘルメットを渡してくれた。彼は防塵ゴーグルも付けている。

「え、男の背中に掴まって行くの? サイアク」

「お互い様でしょ。仕事だから、仕事!」

 ヘルメットと防塵眼鏡を装着し、いざ出発である。細い林道が作られている。岩や木々で巧みにカモフラージュされていて、集落からは決して見えないようになっていた。

 さらに進む。すると山腹に細い道がある。バギーがすれ違うのもやっとの幅だろう。左右に茂みが迫る。下手に手足を伸ばしたら引っかかりそうだ。エンジン音が唸りを上げる。怒鳴るように尋ねた。

「こんなの、いつ作ったんだ?」

「さあね! でも便利だよ!」

 無ければ山道を丸一日日がかりだ。道は左右にうねり、上下を繰り返す。ところによっては、断崖がすぐ横だ。

 全身に響く音と同じ光景に、二人の口は重くなる。

 すっかり飽き飽きした頃、トンネルに入った。行く手が白い。光はみるみる近づく。ピドーの手に力が入った。

 やがてランデスヴァルトと同じ植生の山に出た。高い山は背後に退いた。太陽は真上にある。熱と光がまともに降り注ぐ。思わず目をつぶった。

 砂利の敷かれた小さな広場だ。周囲を林に囲まれている。同じバギーが二台置いてあった。

 エイミールは運転席を下り、体を伸ばす。

「グレンツェに入った。でも、もう少しかかるよ」

「まじかよ」

 座ったままで両手足を伸ばした。

「まあ明るい所を通るならいいか」

 再び車上だ。木々をくぐり、細い道を下る。こちらは砂利で舗装してあった。林を抜ける。ひらけた場所に出た。なだらかな土地に家屋が点在している。林が点在していた。丘陵地を開拓した村のようだ。昼時のせいなのか、歩いている者は殆どいない。

 左右に畑だ。電柱が延々と続く。

「サトウダイコンだ。甘くて砂糖が作れる」

「へえ? よく知っているね」

「ソフィアでも栽培してた」

 そこはどうなっているのか。

 町が近づいて来た。グレンツェだ。

「この辺が中心地だよ」

 小さな広場に出た。煉瓦敷きだ。周囲をぐるりと石造りの建物が囲む。低い建物が多い。せいぜい三階建てだ。

 中央に水飲み場がある。四角い木のマスに水が落ちている。膝ほどの高さだ。、犬や馬など動物用だ。 

「ちょっと、ちょっと!」

 ピドーは目の前のヘルメットを叩いた。バギーが停まる。

「どうしたの? お腹でも減った?」 

「いいや。あのさ」

 少し言いよどむ。きょろきょろと周囲を見渡した。鉄製の看板が下がる店もある。

「十年前、事件のあったホテルってまだある?」

 口にしてから心臓がどん、と鳴る。母の最期の場所だ。つないだ手の温かさやおんぶされた感触など、忘れがたく体に残っている。笑顔の感じも忘れてはいない。しかし顔はあいまいだ。ピドーが覚えているロッタは、ソフィアの家にあった写真でしかない。

「あるけど...」

 そこ、と指をさす。ピドーはバギーを下りた。建物に近づく。広場の一角がそうだった。少しピンクがかった灰色に塗られた壁に緑色で『ホテル・グレンツェ』と書いてあった。ドアはガラス製だ。黒い鏡となってピドーを映す。戸惑いを浮かべて頼りなげな表情だ。ピドーはぐいっと頬をこすった。きっとドアを睨む。金色のノブを掴んだ。陽を浴びて生暖かい。

「ピドー君!」

 背後から声がする。エイミールの制止を無視だ。

 からん。カウベルが鳴る。

 ロビーは赤じゅうたんが敷かれている。よく人が歩く道筋に沿ってすりきれていた。丸い天井は二階まで吹き抜けだ。幾つも花を重ねたようなデザインのシャンデリアが下がる。壁紙はかわいらしい花柄だが、かなり黄ばんで元の色がよく分からない。下の方がめくれていたりもする。あまり広くはなかった。布張りのソファが幾つかあるだけだ。観葉植物の葉にはほこりが積って白い。カウンターの男性がちらりと見上げた。興味なさそうにまた手元に目を落とす。しかし、続いて入って来たのは軍服だ。口元だけの笑顔であいさつをする。

「こんにちは。軍人さんが何の御用で?」

「いやちょっと...わけありなんですよ。仕事で...」

 その合間にも、ピドーは客室に向かって歩き始めていた。

 エイミールが追い付いた。

「どうしたんだよ?」

 ピドーの顔は青ざめていた。手が冷たい。無意識に両手をこすり合わせる。動悸が早くなったようだ。息苦しい。

 一階の廊下を見渡す。老婆が壁から壁を通り抜けて消えた。客室は廊下を挟んだ六室だけらしい。

 勝手に二階へ上がる。廊下の両側にドア。人も亡霊もいない。愛想のない廊下だけだ。

 そしてさらに上への階段には、従業員以外立ち入り禁止の札が置いてある。それを無視して通り抜けた。四つある扉は全て閉まっている。倉庫とプレートがかかっていた。

「ちょっと! 勝手に行かないで」

 後ろからエイミールが肩を叩く。

 ピドーの喉から鋭い息が漏れた。一つのドアから足が飛び出している。軍靴だ。

「...ここだ...!」

 グレンツェ事件では軍人が犠牲になった。

 二階と三階の踊り場に従業員が集まっていた。不安げな表情で見上げている。ロビーにいた男が怒鳴るように言った。

「そこはただの倉庫ですよ! 何をいまさら調べるんですか?」

 声音には非難がこもっているようだ。エイミールが振り返り、肩をすくめてみせた。 

 チャンネルを合わせる。亡霊の輪郭がくっきり浮かんだ。すると、それがゆっくり起き上がる。顔は血で染まり、髪がべっとりと頬に張り付いていた。若い軍人だった。ピドーと目が合う。彼の口が動いた。

 爆発。

 壁が崩れた。

 悲鳴が上がる。

 淀んだ空気が壁の向こうから流れてきた。湿気とカビとほこりの入り混じった臭いだ。口元を抑えて覗き込む。

 がれきを踏んで中に入った。

「ピドー君! もういいだろう? 上に怒られちゃうよ...」

 エイミールの言葉は耳に入らなかった。

 立ち上がった亡霊に尋ねる。

「あんたがフライホルトか?」

 彼は黙って立っているだけだ。やはり亡霊と言葉を交わすことはできない。

 ドアを突き抜けて白い手が床を掴む。白茶けた絨毯に爪をかけて身を乗り出した。髪の長い女性だ。髪は銀色。ピドーの足元で顔を上げた。髪が蛇のように床を這っている。髪の色でティーガ族だと分かる。長い上着は茶色く染まっていた。

 傍らにぼんやりと座っている女性もいる。髪は短い。年齢はよく分からない。なるべく顔を見ないようにしているからだ。もう爆発を起こしたくはない。彼女もまたティーガ族だ。

 ピドーは廊下の中央に立って廊下を見渡した。亡霊は彼に引かれて集まるはずだ。冥界の入り口を持っているのだから。

 しばらく待った。だが現れたのは三人だけだ。

(母ちゃんが...いない...?)

 女性が這いだした方のドアに手をかける。先ほどの爆発で鍵は壊れたようだ。壁紙や絨毯ははがされ、漆喰の壁があらわになっている。銃弾の跡が生々しい。床のシミは血の跡だろうか。濃い茶色だ。

 ソファやテーブルは部屋の隅に押し付けられ、ひと塊の山だった。カーテンは閉まり、わずかな隙間から白い光が差し込んでいた。

 向かいの部屋も同じようなものだった。惨劇の後を急いで片づけた後、封印しようとしたのだ。

「帰ろう」

 背後から腕を掴まれ、飛び上がった。おずおずと振り返る。ピドーに顔色は無かった。唇が震えている。やっと言葉を押し出した。

「...いない...」

「うん、そうだね」

 エイミールは笑ったような泣いたような顔になった。死霊が見える事を彼は知らない。爆発を起こせると思っているだけだ。

「お母さんは、ここにはいないんだよ」

 慰めるような静かな声だ。

「...うん...」

 どうして? なぜ?

 気持ちがざわめく。母の亡霊を見なくてすんだ安堵感はない。むしろ苛立たしい。やっと会いに来たのに母はいない。幼い頃に置いて行かれ、また会えない。

(ああ、そうか...)

 自分は怒っていたのだと。母に対して拗ねていた。どうしていなくなったのか、なぜ幼い自分に寄り添っていてくれなかったのか。

(俺ってコドモ...)

 いつまでも自分だけの宝物を抱きしめているように。

 何かがピドーの脳裏で弾けた。夕べの夢をふと思い出した時のようだった。

 宝物。例えばオリガの小石、カイのウサギ。

(ウサギ...俺も持ってた...)

 手作りだった。布を縫い合わせただけだったが、大好きでいつも握っていたものだ。へそには赤い糸でバツ印。母が刺繍したきょうだいのイニシャル。Pと読める文字の跡。もう一つはマリアのMのはずだ。オリガのベッドから出て来たぬいぐるみと、とても似ている。

 父の思い出話によると、母に渡したようだ。それを覚えていない。

(まさか...どういう事なんだ...?)

 肩にエイミールの手が触れた。そっとピドーを押す。

「行こう」

「...うん」

 まるで肩を抱かれているようだ。しかし振り払う理由も気力もない。茫然としたまま階段を下りる。従業員達は口をつぐんだ。じっと二人を見つめている。その間をすり抜けた。

 フロントの男がついてきた。

「どうしてくれるんだ? 壁を破っちまって! 信じられるか? 建物の中で爆弾なんか使いやがった」

 客商売をしているのを忘れている言葉使いだ。

 エイミールが答える。

「すみませんねえ。軍の責任で直せるかどうか、上に聞いてみますけども。何せ仕事ですから」

「こっちだって仕事だよ!」

「ごもっともです。後ほど連絡しますから」

 外に出た。太陽のまばゆさにくらくらする。地面も白っぽく輝く。下からも照らされているようだ。

「気は済んだ?」

「...うん」

「じゃあ、ほら」

 エイミールがサブシートを平手で叩いた。

「もうすぐだよ」

 言葉通り、軍の施設はまもなくだった。広場を離れて民家の無い方へ進む。

 門は真鍮製だ。蔦が絡み合う透かし模様は凝った造りだ。内側に小さな監視用の小屋がある。エイミールはバギーにまたがったまま敬礼をした。

 守衛の当番がいた。エイミールに敬礼を返す。

「そちらは?」

「例のお客さんです」

「ふうん」

 彼はじろじろピドーを眺めた。檻に入っている珍獣でも眺めるような目つきだ。

 すぐに門が開いた。

「村の地主の邸宅だったんだ。借り上げているんだよ」

 舗装された道が大きくカーブして林の中を通る。ところどころに重火器や戦車が置いてあるのが軍の施設らしい。

 やがて白い邸宅が姿を見せた。

 玄関前に停める。アーチ型のドアの前にも兵士が立っていた。

 内部へ入った。天井は高い。壁には漆喰の彫刻が施されている。

 狭い部屋に通された。

「すぐに会えるよ」

「うん」

 低いテーブルを挟んでソファが一組と、壁際に背の低いチェストがあるだけだ。時計がかちかちと時間を刻む。カーテンは絨毯を思わせるような重厚な緑色だった。腰を下ろしたピドーの背後にエイミールが立っている。やがてドアがノックされた。重い木の扉が開く。現れたのは伴を後ろに従えている軍人だ。エイミールの緊張が背後からも伝わった。

「ヴィプリンガーさんだよ」

 黒い髪に黒い瞳。黒曜石のようなきらめきがピドーをとらえる。胸板は厚く肩幅が広い。額から頬にかけて火傷の後があった。相手を圧倒する雰囲気を醸し出す。襟章は大佐を示していた。

「ようこそ、ピドー・エフェレット君。お初にお目にかかる。ロッタ・エフェレットさんの子息か」

 ピドーはばねのついた人形のように立ち上がった。

「...ヴィプリンガー...さん?」

「その通り。北(ノルデン)州軍大佐ヴィルヘルム・ヴィプリンガー。この周辺一帯の責任者だ。私の後ろにいるのはイェルン・ツィシラー中佐」

 背は低いががっちりした体形だ。短く刈った髪には白髪が混ざっている。ピドーに敬礼する。ピドーも軽く頭を下げた。そしてもう一度大佐をまじまじと見る。

「ああ! 声が似てる」

 手の平を拳で叩く。振り返ると、エイミールは直立不動の姿勢だ。その腹へ軽くひじ打ちを入れる。

「おい! ヴィプリンガーがいるなんて言うから、てっきり黒カマキリかと思ったら! 兄弟? えーと」

 もっぱらカマキリ呼ばわりしていたので名前がすぐ出てこない。

「ジーノチカがプって言ってたな...。ぷ? ルプレヒトだ!」

 ヴィルヘルムが正面に腰を下ろした。

「それなら弟だ。しばらく同道していたようだな、エフェレット君。座りたまえ」

「ピドーでいいよ。そっか。同じ軍にいるんなら情報は筒抜けだよな」

 ソファに落ちるように座った。ヴィルヘルムが尋ねる。

「君らはどうやってランデスヴァルトに入った? ここを通らなかったな? となると水路か、東側から山越えか?」

「ご存じじゃないのか?」

 カーク商会の名前は出せない。

 ヴィルヘルムは眉さえ動かさない。

「用心深いな。君が冥界の太陽『東の赤』か」

「太陽神話を知っているのか?」

「多少は。君らの破壊能力も理解している。だがグリュースゴットではしくじったようだな」

 ピドーは下を向いた。上目使いで黒い目を睨み返す。多勢に無勢、武器も十分になかった。ルプレヒト以外は民間人だ。北(ノルデン)州軍人は岩山の下で待機だった。しかしどんな事情があってもシュペトレーゼが相手方に拘束されたのは事実だ。自分の力は役に立たなかった。

「...そう...だけど...。シュペート...ハンス・ヨアヒム殿下はどうなった?」

「正式な発表は何もない。殿下が西南軍側に渡ったというのは本当なのか?」

 そもそも王太子はあちら側にもいる事になっている。お互いに自分たちが保護していると主張しあっていたのだ。

「うん」

「君の姉と、ティーガ族の子供も拘束されたのだな」

「...うん」

 ピドーは顔を上げた。

「グレンツェにティーガ族の戸籍とか住民票って残ってないかな? 掴まっている奴、記憶喪失になっていて名前が分からないんだ」

「残念だな。住民の管理は彼ら自身で行っていた。集落は北事変で全焼だ。書類の類も殆ど残っていない」

「ダメか...」

 小虎の情報はここでも得られない。

「その子供は何歳だ? もしやランデスヴァルト出身か」

「うん。俺より年上らしいんだ。北事変の生き残りだよ」

 わずかにヴィルヘルムの唇が開いた。眉がこころもち歪む。声がかすかに上ずった。

「生き残りなら『北の黒』のはずだ。写真を持っているか?」 

「ないよ」

 かすかに現れた感情はすぐに消えた。しかしピドーがかみつくには十分な隙だった。音を立ててテーブルに手をつく。身を乗り出した。

「何でティーガ族を襲ったんだ? 会っているだろう。アイツはあんたを覚えている」

 ヴィプリンガーの名前を聞いた時、小虎のおびえ方は尋常ではなかった。

「記憶がないのでは?」

「ところどころ思い出してんだよ。あんたも思い出せよ! 自分がティーガ族に何をしたのか! グレンツェ事件の後、誰も入れないようにして何をした? どうして母ちゃんを返してくれなかったんだ!」

 エイミールが手を伸ばす。肩に手をかけた。

「落ち着こうよ」

 大佐は微動だにしない。もっと言ってやろうかと口を開いたが、ピドーは止まった。すとんと腰を落とす。大佐の目から冷たさが消えていた。代わりにむしろ温かさが漂う。それもすぐに消えたものの、ピドーはうろたえてしまった。固いと思って殴りかかった壁が実はクッションだったような気分だ。

「温かい飲み物でも用意させよう」

「要らない」

 いたわられている。そう感じる度に、自分は子供に過ぎないのだと感じてしまう。ピドーはそっぽを向いた。手をもじもじと組み直す。もう一度見上げた時、大佐は元の冷たい壁に戻っていた。

「誰が北事変の犯人なんだ? 大佐じゃないだろう?」

「なぜそう思う?」

 グレンツェを封鎖したのは彼だ。軍以外の人間は立ち入りできなかったはず。それでも目の前の彼には、惨劇の張本人の闇を感じなかった。

「...何となく。それでお袋だけど...どこに埋葬されている?」

 大佐は黙っている。

「もしかして...。本当にもしかして、だけど。生きていたり...とか」

「そう望むのは理解できる」

「そりゃ生きていて欲しいよ。でもそれだけじゃないんだ。さっきホテル・グレンツェに寄ったんだけど、お袋はいなかった。俺はその場で亡くなった人が見える」

「そうか...」

 顎に手を当てて、大佐は少し考え込んだ。

「モリス」

「はっ、はい」

「彼の能力を見たことは?」

 エイミールが返事をする前に、テーブルの上で火花が弾けた。軍服の三人がはっと固まる。

「どこでも出来るぞ。もっとやってやろうか?」

 大佐はそっと顔を撫でた。

「いや。冥界の太陽の力なら十分知っている」

「それ、まさか北事変の時の火傷か?」

 この質問には返事をしなかった。

「ロッタ・エフェレットさんに関しては、少なくともグレンツェでは死亡していない」

 ピドーは大きく息を吸い込む。それから強く吐いた。ソファに首までもたれかかった。天井を見上げる。格子模様だ。それぞれのマスに鮮やかな赤の花が咲く。それらがぐるぐる回っているようだ。

「生きているのなら...今どこに居る?」

「分からない。我々も事情を聴きたい」

 母が生存している可能性がある。

(生きている、生きて...)

 同じ言葉が頭の中を駆ける。喜びよりも戸惑いの方が大きい。大佐の声がどこか遠い。

「...ホテルの遺体はグリンクラフト人の男性が一人、ティーガ族の女性が二人だ。生き残ったのは男性一名。アナスタシアに随行した運転手だ。彼の証言によって、彼女らがアナスタシア・リョードフ嬢とロッタ・エフェレットさんであると確認された。なお同じ日の宿泊客二名が所在確認できなかった」

 アナスタシアの生死は確定できない。遺体は明らかにティーガ族だからだ。しかしロッタはグリンクラフト人だ。

 ピドーの霊視と一致する。のろのろと体を起こした。

「母ちゃんの髪は茶色だけど...」

「この地の誰も、両名の顔を知らない。そう言われたら信じるしかない」

 背後の兵に軽く指で合図をする。彼がさっとファイルを差し出した。そこから数枚の写真を抜く。ピドーに正面になるようにテーブルに並べた。どちらも横たわる女性だ。白黒だがどちらも血にまみれているのがはっきり分かる。一瞬息を飲んだピドーだが、手に取った。目を閉じた顔でもホテルにいた二人だと分かった。写真を押しやる。

「アナスタシアを知らない。でもどっちもお袋じゃない」

「そうだろうな」 

 彼は分かっていたのだ。ピドーの心が騒ぐ。

「どうしてさっさと火葬になんかした? 証拠が残らないじゃないか!」

「指示が来た。ただちに荼毘にふすようにと」

「何で! 命令が来れば何の疑問もなく従うのか?」

「それが軍人だ」

「遺品は? トランクがあるはずだ」

「後で見せよう」

 ピドーは立ち上がった。腕を組み、いらいらと左右に歩く。

「返せよ!」

「見せるだけだ」

「それも指示か? 命令があれば罪のないティーガの人たちも襲うのか?」

「その件についてはコメントしない」

「誰がやったか知っているのか? あんたの上司はシェレンス公か...。運転手ってノイコムって奴だろう? どこにいる?」

「知らないな。少なくともシェレンス公爵とは君は直接話をできないだろう」

 ラドクリフの城壁の中だ。一介の調香師見習いがおいそれと会える相手ではない。

「いや...」

 ピドーの目がきらりと光る。

「シュペートを目の前に連れ戻せば会うだろう?」

「西南軍全てを相手にするつもりだとでも? そもそもどこに居るのかさえ把握できていないぞ」

「小虎なら...あいつが居ればできる」

 いわば人間レーダーである。また西南軍と全面的にやりあう気はない。ただ一人の人間を連れ出すだけだ。ルーカがいなければ勝算はあるかもしれない。

「...まず迎えに行かなくちゃだな」

「生き残りの子供か? 居所は分かるのか?」

「ゲルシュニアウプの医療刑務所だ」

「確実なのか?」

「さあな。最後にいたのがそこなんだ」

「無謀だな。私が君の家族なら止める」

 ピドーはにこっと笑った。

「ありがとう! 心配してくれてんの」

 所詮、子供なのだ。労りも心配もありがたくいただく。しかし子供であるがゆえ無謀とも思える行動にも出られる。

「いなかったら...。そこの奴を締め上げてどこにいるか聞くさ」

 大佐は少しだけ肩をすくめた。

「部下を付けよう」

「要らない。あ、でも一度ランデスヴァルトへ連れて行ってくれたら...」

 ジーノチカを置いて来てしまった。

「その必要はない」

「へ? あ、あの、モリス曹長だって戻らなくちゃならないし」

 言いよどむ。ジーノチカの立場を考えてしまう。

「見張りを空にするはずが無いだろう」

「あ...そう」

 派手に爆発を起こしたのだ。何かがあったと察知したら、ジーノチカとサッシャはその場を離れるだろう。

(黙って出かけた方がいいな)

 大佐が立ち上がった。

「では出発の準備を」

 ピドーが声をかける。

「どうして斜面に遺体を放り込んだりした? やったのは誰だ?」

「私だ」

 彼はあっさり認めた。

「埋葬する場所がない。表土が薄いのだ」

 すぐに岩盤に突き当たる。林を切り拓いたところで埋葬できるほど土をかぶせられない。現場を見て来たピドーにも、それは分かった。

「さらに遺体から病原菌が蔓延する危険もあった。一刻も早く埋葬しなくてはならない。まず火葬にしてから枝葉をかぶせた。土の代わりだ」

 確かに骨の上には大きな岩などはなかった。小さな石は斜面から転がり落ちたものかもしれない。

「...まさか...やっぱり大佐が犯人なのか?」

 ピドーの声は小さくなった。何が真実なのかが分からない。大佐が本当に北事変の実行者なのか?

「南との境までは送らせよう。後は君次第だ。すぐに出られるか?」

 答えは期待できないようだ。

「...うん」

 とたんに腹の虫が大きく鳴った。朝食抜きの上に、もう昼を過ぎている。エイミールが吹き出す。ピドーが睨むとあわてて咳払いでごまかした。

「昼食くらいはごちそうしよう。モリス、彼を食堂へ。町へ出ろ」

「はっ」

 彼の敬礼を受けて部屋を出た。足取りは大股で速い。後ろから追いかけるツィシラーは半ば駆け足だった。

「大佐、良いのですか? あんな子供をたった一人で南(ズューデン)州へ送り込むおつもりですか?」

「そうだ。冥界の太陽の力はお前も知っているな。手ぶらで帰る事はあっても命のやり取りまではいかないだろう。断られたが、見張りを付ける。それに」

 大佐は目を細めた。

「いい度胸をしている。さもなれば若さゆえの無謀だな」

「は?」

「あの子は射殺体の写真を見ても動じなかった。それどころか腹が減っただと。『東の赤』か...。あれを背負ったのなら、今まで何を体験したのか...」

 彼の視線がふと遠くをさまよった。

「十年前の亡霊と対峙する時が来たのだな」

 そしてぐいっと顎を引いた。

「忙しくなるぞ」

 かつかつと軍靴の音が響く。

 町に連れ出されたピドーは不思議な気持ちだった。久しぶりに北部へ戻った。灰色がかった青空はすっかりなじんだ色だ。植生が少し違うが、よく似た景色だ。グレンツェの方が、ソフィアよりも空気が薄く感じる。高度のせいだろう。それでも東や南に比べたらずっと太陽の光は柔らかくて居心地がよい。山を越えて西へ向かえばソフィアだ。それなのに行けない。

(俺はやっぱり帰りたいのかな?)

 カイに何を伝えられるだろう。

(絶対に、絶対に決着を付けて帰るからな!)

 改めて自分にはっぱをかけた。

 小さな食堂へ連れて行かれた。木組みの内装は温かい。料理もピドーの口になじんだ北(ノルデン)州の味だった。ずっと隣にエイミールがいる。

「そこの居酒屋には名物の親父さんがいてさ...気前が良いったら...」

 席についてからもとりとめのないおしゃべりが続く。母の情報を前にして少し緊張しているピドーの耳をすり抜けていくばかりだ。

 それから再び軍の施設へ戻った。先ほどとは違う部屋に案内された。長い四角のテーブルの周囲を質素な椅子が囲んでいる。ピドーはその一つに座った。正面には暖炉があるが火はついていない。ここでもエイミールは立ったままだ。

 そのテーブルには、既にトランクが置かれていた。母の遺品だ。元は鮮やかな赤だっただろう布張りのトランクだ。すっかり褪せて灰色に近い。角が擦り切れていた。トランクを運んでくれたのは女性の軍人だった。スカートからすらりと足が伸びる。

 にっこりとエイミールに微笑みかけた。

「あらモリス曹長、ここはもういいわよ。私がピドー君とお話するから」

「顔見知りだし、一緒にいてあげたいんですが。いいよね、ピドー君?」

「うん、まあいいけど」

 不安が無いと言えばウソだ。エイミールの人懐っこい笑顔に、少しほっとする所もある。

「それなら、さあどうぞ」

 彼女は微笑んだ。顔の周りでカールした髪が揺れている。目も顔の形も丸い。童顔だがマリアよりも年上のようだ。

「ああ...うん」

 なかなか手を伸ばせない。本当に母の鞄なのか記憶がない。

「もう、遠慮なんかしなくていいの!」

 彼女は平手でピドーの背中を叩いた。

「お母様の大事な思い出でしょ? 開けてみて。ね? ね?」

 両手を胸の前で組んだ。小首を傾げてピドーの顔を覗き込む。瞳に星が入っていそうな感じだ。

「怖いのかな? だって、いわば十年ぶりのお母様との出会いよね? 戸惑うわよね、そうよね、分かるわ!」

「...どうも...。えーと」

「シュタイン少尉よ。ヨランデ・シュタイン」

「...シュタイン少尉...。俺が一人で見てもいい?」

「だめっ。ごめんねピドー君! 大事な証拠物件って扱いなの、渡してあげたいわ。でもダメなの。ここで見て。お願いっ」

 ピドーは肘をつき、頭を抱えた。

「少尉ってことは...。士官学校出てるよな...」

「もちろんよ。卒業しているわよ! ねえ、私が可愛く見えるって事? うれしいっ」

 能天気な雰囲気のおかげで、ピドーはかなり脱力した。緊張が少し和らいだ。大きく息を吐く。トランクの留め金に手をかけた。くすんだ金色だ。一気にはねあげる。蓋が少し浮いた。ざらりとした感触だ。ゆっくり開いた。蓋のゴムベルトには地図とペンが挟まっている。

 もう片方には衣類がきちんとたたまれていた。白いブラウスには茶色のシミが浮いていた。山歩きに備えたのかスラックスもある。厚手の生地だ。肌着類は小さな袋に入っていた。他には予備の歯ブラシ、タオルなど。

 思ったほどの感慨はない。記憶がなく、まるで初めて見る物ばかりだからだ。

 何かを探索したのだろう。底板がはがされている。何もない。

「これで全部?」

「ええ。そのままよ。何度か検分したみたいね。位置とかたたみ方は変わっているわね」

「ふうん...。見つかったままか...」

 ピドーは腕を組んだ。

「おかしくね? 財布とか鍵がない」

 旅行に出るなら、必ず持って出るだろう。母にとって初めての土地にも関わらず地図もそのままだ。

「あとは...あ、化粧品もない」

「そうねえ。化粧水とかだったら、洗面所に出したっきりっていうのも有りだと思うわよ。そっちは確認できていないわ」

「そっか...」

 最低限の身の周りの品だけを持ち、やはり母はホテルから脱出したのだろうか。家族の写真もなかった。

「もういいよ」

 自ら蓋を閉めた。生身の母を感じられなかった。

「ね、元気出して!」

 またヨランデが背中を叩く。

 廊下に人影が見えた。窓越しにガラスを叩く。ツィシラーだった。ヨランデに何か手で合図を送る。彼女は軍人の顔で頷く。

 彼はすぐに立ち去った。

 ピドーを見た時には、すっかり無邪気な笑顔だ。

「すぐに州境へ移動するわよ! 準備はいい?」

 南(ズューデン)州の近くではあまり戦闘が行われていない。しかし緊張状態の地域でもある。

 エイミールが言った。

「誰が随行するのでしょうか? できれば自分がついて行ってあげたいのですが」

「あら? そうなの? ツィシラー中佐に確認してみるわね。ちょっと待ってて。モリス曹長、ここはもういいわ。監視小屋を離れるまでの報告書を上げて」

「はい、夕方の定例報告には間に合わせます。今はピドー君のそばにいてあげますよ」

「了解」

 ヨランデがトランクを持ち上げた。母の思い出は希薄だった。それが、また軍の鉄のカーテンの向こうに消える。

 部屋を出た彼女は笑顔をひっこめた。軍靴を鳴らしてヴィルヘルムの執務室へ向かう。

「失礼します」

 部屋にはツィシラーも控えていた。

 トランクを持ったままでヨランデが敬礼をする。

「トランクの検分は終わりました。特筆すべき発見や感想はありません」

 ヴィルヘルムが答えた。

「そうだろう。アナスタシアの所有と思われるトランクからも、何も無かった」

 部下はまだ何か言いたそうだ。ヴィルヘルムは顎で続きを促す。ヨランデは左右に目を配ってから声を潜めた。

「先ほど交代の者より、ランデスヴァルト監視小屋から報告が上がりました。お聞きになりましたか?」

「ああ。草がなぎ倒された跡と、銃と思われる金属部品を小屋内で発見。一丁の予備拳銃が所在不明。そうだな?」

「はい。装備品のリボルバーがばらばらに分解されてしまったような壊れ方をした模様です。シリンダーには五発が残っていました」

 回転式けん銃なら、弾倉には六発の弾が充填できる。つまり一発は発射されたという事だ。

「何が発生したのか聞きたかったのですが、ピドー君単独での事情聴取がまだです」

 ツィシラーが尋ねた。

「今もモリスは一緒にいるのか?」

「はい」

「予備は誰が持ち出したか?」

「モリス曹長と思われます。通常の装備ではない銃を携行しているのを目視で確認しました。夕方までには報告書が上がるはずです」

 彼女は、エイミールに微笑みかけた時にわずかな時間で全身の状態を確認したのだ。

「定時報告に返事をしたのはピドー君だったな?」

「はい」

 このやりとりを、ヴィルヘルムは目を細めて聞いていた。肘を机について顎を乗せた。

「...このままでいい。モリスを州の境界までピドー君に同行させろ。そしてすぐにグレンツェへ戻せ」

「はい、閣下」

 それから一時間もしないうちに、ピドーは軍用車両の後部座席に乗っていた。運転はエイミール、助手席には初対面の兵士が乗っていた。まずは南下だ。それから西(ヴェステン)州の警備が薄い場所を探して潜入する予定だった。

 


 ランデスヴァルトから届いたのは、定時連絡だけではなかった。ピドーには知らされないまま、ひっそりと軍施設の一室に運ばれた。

 ヴィルヘルムは執務室を出る。ツィシラーを従えて廊下を進む。既に西の空が赤くなり始めていた。

「ピドー君はもう出発したんだな?」

「はい。一時間ほど前かと思われます。昼食は町へ連れ出しましたから『荷物』との接触はありません」

「よし。尋問は済んでいるな?」

「いえ、それが」

 初めてツィシラーは口ごもった。

「その、言葉が通じないというか...何を言っているのかさっぱり...。キースリングが音を上げまして...」

「只者ではないとの噂だ。父親は人格者と評判だったのだが」

 廊下を曲がる。緑の葉を伸ばす木々が植えられた中庭を臨む。枝葉を透かして、赤い光が落ちてガラスに映った顔を染める。大佐は一瞬目を伏せた。

「因縁だな。ロッタ・エフェレットの息子が訪ねて来るとは。父親から色々と聞いてはいるのだろうか」

「そのようですね」

 アナスタシア・リョードフが王の子供を宿している。先に噂が流れてきていた。それにしては随行員が少ない。侍女、護衛、運転手がそれぞれ一人ずつ。護衛を追加しようという申し出も断られた。それでもホテルには警護を配備しておいた。既にキャリアを積んだツィシラーも、その一人だった。

 だが明け方に惨劇は起きた。運転手は軽傷で済んだ。それでもすっかり怯えてしまい、まともな証言ができない状態だった。しかし、亡くなったのはアナスタシア・リョードフとロッタ・エフェレットであり、犯人は隣の部屋に宿泊していたティーガ族だと言い張った。他にロッタを目撃した者は茶色の髪だったと記憶していた。だが記憶は曖昧なものだ。ましてや殺されたのが王の子供かもしれない。重大な責任を負いたくない者の口は重くなる。

「同じ階にティーガの女性が三人宿泊。クロイツベルク人女性が一人。うち二人が死亡。そうだったな」

 遺体はどちらも銀髪だった。

「はい。亡くなった護衛は訓練を受けた軍人です。簡単に殺せるとは思えません。侵入者は確認できていません。やはり所在不明の二人が何等かの事情を知っているのでしょう」

 隙をついて侵入したか、内部に居た者の犯行だろう。現場の発見で混乱しているうちにホテルを脱出したか。確かめる術はない。

 女性の遺体は二人。事件の後に他の二人の姿は無かった。

「ロッタ・エフェレットがどのような役割を果たしたのでしょう? 家族と連絡を取っていないようですね。本当に生きているのでしょうか?」

「我々も知りたいものだ」

 直ちに火葬せよ。

 その日のうちにシェレンス公直々の命令が伝えられた。遺族への遺体確認もないままだ。せめて人の移動がないように一帯を封鎖したのだが、既に犯人は脱出したようだ。

 大佐は窓辺を離れた。廊下に二人分の軍靴が鳴る。

「それにあの子供の消息を教えてくれたな。無事だったか」

「同一人物でしょうか」

「おそらく。年齢も合う。ピドー君と同じくらいだろう」

 熱傷を負った皮膚は強張っている。十年の時を経ても硬く、触れても感触があまり無かった。

 ツィシラーが言う。

「北事変の主犯が大佐だと一部では誤解されているようですね。ルプレヒト殿にも」

 最後の言葉を無視だ。

「主犯という言い方はない。彼も命令に従っただけだろう。軍人なのだから。なぜなのかは分からん」

 現状を打開できる可能性は、ピドーの力だ。

「ピドー君に任せて大丈夫ですか?」

「場所が南(ズューデン)州になるのがネックだが...。一人で殿下を連れ戻せるとは思っていない。まずはあの子供を連れ帰ってくれたら充分だ」

 廊下の奥から声が響いている。

「だから言っておろうが! 僕は行きたい所へ行きたい時に行くのだ! これでは行けないであろう!」

 ツィシラーが眉をひそめた。

「ずっとあのような調子でして、さっぱり話が進みません」

 さきほどピドーがいた部屋だ。背筋を伸ばし、大きく足を開いて座っているのはジーノチカ・L・ヒンメルだった。ソファの真ん中で堂々と腕組みをして、立っている兵士を睨みあげている様子は、まるで彼の方が上司であるかのようだ。

「あっ、大佐!」 

 相手をしていた将校が振り返る。グリンクラフト人には少ない金髪で青い瞳だ。ヨランデとほぼ同じ年代だ。階級章は少佐だった。きっちり敬礼をしたものの、げんなりした様子が漂う。

「ご苦労だった、キースリング」

「あの...自分は尋問を続けた方がよろしいでしょうか?」

「構わん。ご苦労」

 ほっとした様子を隠さない。キースリングはそそくさと部屋の隅に退いた。

 ジーノチカが叫ぶ。

「そうだ、行け! 君では役に立たない。お偉いさんが出て来たのなら結構だ。そちらと話す。君は去れ」

 露骨に顔をしかめた。キースリングはそそくさと大佐の後ろに下がった。ツィシラーと顔を見合わせ、お互いに肩をすくめる。

 ヴィルヘルムが正面に座った。

「責任者のヴィルヘルム・ヴィプリンガー。大佐だ」

「僕はジーノチカ・レオポルト・ヒンメルだ。医者であり、占い師でもある。拘束される謂れは全くない。ないから解放するように」

「必要がなくなれば、すぐにでも」

 まともにジーノチカを見つめた。

「身分証明書を拝見したところ、ヒンメル少将の兄上なのだな」

「否定はしない。コネとはいえ少将だからな。彼がその器であるかどうかは僕の一存では決めかねる。僕は医者で占い師だ。聞こえたか? 父とは当然の如く親子の関係だが、軍とは無関係だ。父が鬼籍に入ったのは十年以上前だぞ。軍とは無関係! 関係ない。僕を必要としている場所へ赴かねばならない。いちいち言わなくても分かると思うが、医者の手を必要としているのはここか? 違うだろう? 僕は優れた医者で占い師なのだ、導き、手助けをしなければならない。さっさと荷物を返すように」

「しばらく滞在していただく」

 長々と語られる言葉には反応しない。ヴィルヘルムは冷たく言い放つ。

「身元が確かならご自分の立場もよくお分かりだろう」

「軍の都合など知らん。ヒューゴはよく出来た男だ。僕の弟だからな。だからこそ機密情報など医者にもらすか! 医者は守秘義務がある。僕は患者の情報など一切他人に口外などしない。その僕の弟だぞ! 医者かつ占い師に何の情報を伝えるというのだ。そんなもの、僕だって聞いても全く無用だ。無用と分かっていてやったりはしない。無駄だ!」

「貴殿から情報を引き出せるとは思っていなし、するつもりもない。滞在していただく事に意味がある。説明しなければならないほど愚かとも思えないが?」

「僕を愚かというか? 愚かではない! なぜなら」

 最後まで聞こうともしない。ヴィルヘルムは立ち上がった。

「キースリング、彼をご案内しろ」

 それから、まだ色々と言い続けているジーノチカを見下ろした。

「多少のご不便をかけるが、なにぶん田舎なものでご容赦いただきたい」

 ジーノチカの目が細くなった。

「僕の連れをわざと逃がしたな?」

 出て行きかけていたヴィルヘルムは振り返った。

「ほう。全く鈍いというわけでもないのだな。だが貴殿には関わりのないことだ」

「なに、関係なくはない! お前は確かに黒カマキリの兄だな。本当にそっくりだ! カマキリというよりは蜘蛛だな。黒後家蜘蛛だ!」

 話が横に逸れてきた。キースリングが懸命になだめている。

「まあまあ、とにかく移動してくださいよ...」

 声を断ち切るように扉を閉める。ツィシラーは先を行くヴィルヘルムの斜め後ろについた。

「人質としての価値はどうでしょうか? 軍人の家族ですが民間人です。切られる可能性もあるでしょう」

「だがバロー伯爵の甥でもある。身びいきで有名な御仁だ。ここに居るのを伝えておけ。下手に手出しはしてこないだろうし、何かの交渉材料に使えるかもしれん」

 ジーノチカを拘束したのは、ピドーには伝えていない。それもあって、一刻も早く彼をこの地から離したかった。

「逃げた男の身元は?」

「確認中です」

「頼むぞ。...ティーガを支援している者が分かればいいのだが...。追わせたな?」

「はい。東の山中へ向かいました。今まではランデスヴァルト入りのルートが確定していなかったのですが、おそらく判明するでしょう。どこから来ているのかも」

「よし。引き続き探索しろ」

 オリガとリギーの監視役は、エイミールの他にもいたのだ。ピドーの引き離しは不可抗力だったし、誰かを拘束するなどとは予定ではなかった。しかし爆発が起きてしまった。監視役の兵士には冥界の太陽のせいだとは分からない。ついにテロが起きたかと、神殿の二人の拘束に向かったのだった。一時、二人とも拘束した。しかし大佐の指示によりサッシャを逃がす形で解放し、後を追わせた。

 サッシャは用心深かった。いつも夜に移動して、森の中のルートが分からなかったのだ。

 リギー、オリガ両名ともサッシャと行動したようだ。ささやかな小屋は無人になった。

 東の稜線から闇が迫る。西の赤を押しやり、空を黒く染めていった。夕暮れの風が中庭の木々を揺らす。ヴィルヘルムはまたそっと顔を撫でた。

 

 ツヅク! 次回 第11話 上 南(ズューデン)州 アルニム・ルートガー

       小虎とマリアの奪還なるか? ピドー、活発なのはいいけど、ほどほどにね。

お読みいただきありがとうございます。


母ロッタの情報が少しだけ ピドーに伝わりました。

そして 相変わらずのジーノチカ。


登場人物・軍人編 少し整理しますね。

北州軍

将軍 シェレンス公爵

大佐 ヴィルヘルム・ヴィプリンガー。ルプレヒトの兄。

中佐 イェルン・ツィシラー

少佐 ピーター・キースリング

中尉 ルプレヒト・ヴィプリンガー(出向中)

少尉 ヨランデ・シュタイン

曹長 エイミール・モリス


西南軍(主に南州軍)

将軍 テオバルト・ツヴァイク

少将 ヒューゴ・ヒンメル。ジーノチカ・Lの兄。

少尉 フランツ・マイヤー

曹長 トビアス・ミレン。ヒューゴの付き人的な位地

不詳 キーラ・カッツェ

不詳 コンラート・フライホルト。グレンツェで死亡。当時曹長。


どの州軍にも、もちろん他にも兵がいます。。。


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